ゴトゴトと馬車に揺られながら、ルクレツィアはカーテンの隙間からちらりと外を覗いた。学園都市ロムルスには何度か出向いたことがある。いつもは学園都市に行くともなれば、あの先生に会ってあの本を閲覧して、あの講演を聞いてあの研究所に行って……と心が浮き立ったものだが、今はどうしてもそんな気持ちにはなれない。もちろん原因はジャンティーレをあのまま残してきてしまったことで、ルクレツィアの口からジャンティーレに今回の件をきちんと話すことが出来なかったからだ。
もちろん行かないという選択肢もあったが、一度取り決めた仕事の約束を違える訳にはいかない。
「ジャンティーレ様、よくお休みになれたかしら……」
ぽつん……とそんなことを考えてしまい、ため息を吐く。少し外の空気に触れてみようかしらと窓に手を掛けた時、ゴトンと大きな音がして馬車の速度が落ちたようだ。
「?」
耳を澄ませてみると、御者とは別の声が聞こえてくる。一体何事だろうと手を掛けた窓を少し開いた。
「……ルクレツィア殿の……フェルミ家の馬車とお見受けする!」
「ジャンティーレ様!?」
聞き覚えのある声の主に驚いて、ルクレツィアは慌てて窓を開ける。「停めて!」と御者へと叫ぶと、直ちに馬車は停まった。そうしてほぼ同時に馬が駆ける蹄の音も停まる。
「俺は、ジャンティーレ・マッツェリア。ルクレツィア・フェルミ殿の婚約者だ!」
そう言った。
「こ、婚約者……?」
ルクレツィアがその言葉に目を丸くして、馬車の扉を開けるタイミングが少し遅くなった。ジャンティーレが先に動き、御者の制止を聞かずに馬車の扉を開ける。
さぁ……と、冬の冷たい空気が流れ込み、ルクレツィアの蜂蜜色の髪を揺らした。
目の前には黒い髪の貴公子が、朝陽を背に負ってまっすぐにこちらに手を伸ばしている。
「ルチア!」
ルクレツィアは思わずその手に自分の手を置いた。
くっと引っ張られて、次の瞬間にはジャンティーレの胸板に小さな身体が飛び込む。強い腕が背中に周り、ジャンティーレが身体を折ってルクレツィアを閉じ込めた。
「ジャンティーレ、さま?」
「ルチア、ルクレツィア、間に合ってよかった」
「え?」
「行かないで……どうか行かないでくれ、ルクレツィア!!」
ジャンティーレの喉から絞り出されたその声は、何故か泣きそうな響きを帯びていた。何度も何度もルクレツィアの身体を抱き直し、確かめるように蜂蜜色の髪に頬を摺り寄せる。
「ジャンティーレ様?」
「あ、あのような行動に出て、ルクレツィアを傷付けたことは分かっています。しかし……このようなことを言うのはおこがましい、許しを請うなど、それこそ許されないと、分かっています、でもどうしても……どうしても貴方と話が、したくて……」
「あ、の」
ごそごそとルクレツィアが身動ぎをしたが、ジャンティーレの腕は強く絡みつく一方だ。そして、ルクレツィアの反論を許さずに、つかえながらも必死に声を上げる。
「に、げないで、話を聞いてください。俺……私、は、ルクレツィア、貴女を愛しているんだ。……こんな事を言うと気味悪がられるかもしれないが、ずっと、文通をしていた時からどんな女性なのだろうと、楽しみにしていた。貴女でなければ、見合いの話も受けなかったし、首都に帰ってくるのもこんなに楽しみではなかった!」
「ジャンティーレさま……」
「俺は、貴女よりも年下で頼りない男かもしれないが、貴女に相応しい男になるならどんな事でも出来る、その自信はある。だから、だから……う、ううっく……!」
「あの、ジャンティーレさま」
最後は涙混じりの声になり、ルクレツィアの頭からジャンティーレの鼻が遠ざかる。ずぞっ……と盛大に鼻を啜る音が響き、さらに涙声に拍車が掛かった。
「だから、いか、行かないでくれ、ルク、ルチア! せめて、少しだけ考え直してくれない……っか。あ、あ、貴女にとって教員の話は素晴らしい話、なの、かもしれない! 俺との、俺との……俺との結婚よりもずっと魅力的……うぅ、なのだろう。けど! だけど!」
「ジャン!」
凛、とした、ジャンティーレの好きな芯の強いルクレツィアの声に我に返った。ルクレツィアがジャンティーレの腕の中から見上げると、涙と鼻水で顔を真っ赤にした黒の貴公子がこちらを見詰めている。ルクレツィアは優しく笑ってハンカチを取り出し、そっとジャンティーレの頬に押し当てた。
「す、すみません、俺……」
ふるふるとルクレツィアは首を振った。何もかもを決めたようなその静かな表情に、ジャンティーレは自分の敗北を悟る。でも離せなかった。ルクレツィアを抱くこの腕は、どうしても離せなかった。せめて、ルクレツィアが自分に言葉をくれるまで。
「ルチア……」
「私、ジャンティーレ様は私のことを、女性として見てくれていないのだろうと、そう思っておりましたの」
「そんな!」
「一応お見合いをした女だから、伯爵家の娘だから、形式だけのお付き合いをしてくださっているのだと思っておりましたわ」
「違う、それは!」
「ええ。ですから、昨日の夜のことは……私、嬉しかったのです」
「嬉しいなんて……え? 嬉しい?」
ルクレツィアが優しく笑っている。その何もかもを包み込むような笑顔を、ジャンティーレは信じられないものを見るような眼差しで見詰めた。ルクレツィアが何を言っているのか、とても素晴らしいことを言ったような気がするのに、俄かには理解できない。
「ですから、私も勇気を持って貴方に気持ちを伝えようと思っておりました」
「な、らば何故! 教員としてロムルスに行かれるのです! 気持ちが、お、お、同じならば、その……」
ぴた、と、ジャンティーレの唇にルクレツィアの人差し指が触れた。驚いて沈黙したジャンティーレの言葉の先は、ルクレツィアが引き取る。
「ジャンティーレ様、私がロムルスに出向く期間は一週間です」
「え?」
「弟には手紙と言葉を伝えていたのですが……執事の方にお手紙を言付ければよかった」
「手紙? いや、エヴァンには会いましたが、そんなことは一言も……」
「まあ! あの子ったら、申し訳ございません」
ルクレツィアがオロオロと困った顔をしたので、ジャンティーレは懸命に首を振る。同時に、心の中であの野郎……と毒ついておく。エヴァンジェリスタは知っていたのだ。知っていて、わざと伝えなかったに違いない。
だが、エヴァンジェリスタを責めるのは後回しだ。そもそもエヴァンジェリスタにけしかけられるような形で、ルクレツィアに追いついたのだから、悔しいが礼を言わねばならないだろう。
「それなら、教師の話、というのは……」
「教師のお話はお断りしたのですが、どうしてもいくつかの講義を行って欲しいと言われておりまして」
「こ、断った?」
「はい。お断り致しました。でなければお見合いの話など受けませんでしたわ」
ロムルスにある歴史文学研究所……という施設の教員に、という話はジャンティーレとの見合いが決まる少し前に舞い込んだ話だった。最初はもちろん引き受けるつもりだった。長年ルクレツィアが研究しているこの国の歴史とそれにまつわる文化史と文学史について、研究しながら教鞭を取ることが出来る、という話は魅力的だった。だが、同時にルクレツィアは貴族の子女でもある。国の風潮からしても、貴族同士の結婚が義務というわけではないけれど、幸福な事情があるのであればそれに越したことは無い。
……つまり、ルクレツィアは見合いの相手がジャンティーレだと知って、教員の話を断ったのだ。
だが、どうしてもこれからロムルスで専門教育課程をこなしていく若い女子達に話を聞かせて欲しい……と熱心に頼み込まれた。ルクレツィアはいくつかの論文や資料をロムルスに提出しており、姿形も愛らしく、それでいて幼げなところが無い振る舞いが、密かに勉学を目指す女子達の憧れになっていて、こうした話も多い。教員の話を断った手前、大幅に妥協したこの話まで無下に断ることも出来ず、一週間程度の滞在ならば……と同意した。
これについてはジャンティーレにも話すつもりではあったのだが、ちょうど話が浮上したときにジャンティーレが忙しくなり会えなくなってしまった。また、2人はいまだ正式な婚約者という扱いにはなっておらず、その関係は公に認められてはいない。
そして複雑な女心もあった。ルクレツィアはジャンティーレに女性扱いされていないのではないかと疑っていたのだ。
見合いをしたとはいえ、女性として見られていない、婚約者でもないのなら、ただの男女の知り合い……もしくは、友人の姉、という立場でしかない。そのような者が仕事で一週間首都を離れるからといって、彼に相談するべきなのだろうか。
……するべきだったのだろう。直接話さなかったのは、ルクレツィアらしくない失態だった。そうして話が正式決定した時には、既に日が差し迫っていたのだ。早くからしっかりと伝えておけば、ジャンティーレは誤解することなど無かっただろうに。
だが、もう伝えられる時間はすぎてしまった。だから、ルクレツィアは一度この1週間でしっかりと頭を冷やし、気持ちを落ち着かせてから、改めてジャンティーレに気持ちを伝えようと思っていた。あの夜のことがあるまでは2人の仲を見直すことを、……しかし、あの夜を迎えた今となっては、ジャンティーレを慕う自分の気持ちを、心から伝えようと決めたのだ。
「でも、変な意地など張らず、もっと早くにジャンティーレ様にお伝えするべきでした。こんなところまで、本当に申し訳ありません……」
ジャンティーレに全ての話と気持ちを伝えて、ルクレツィアは心から謝罪した。しかし、そんな愛おしい謝罪を聞いて、ジャンティーレは首を振る。
「ルクレツィア、それは、違う。その……貴方にそんな思いをさせてしまった自分にも、原因があるのだから。だけど、もっと、その、大事なっ、聞きたいことが……」
「ジャンティーレ様?」
ジャンティーレは身体を離すと、ルクレツィアをエスコートして馬車から降ろした。涙と鼻水はいつのまにか止まっていて、ルクレツィアの手を取っているというのに、緊張ではない鼓動で……胸が高鳴る。
ジャンティーレはルクレツィアの前に膝を付き、革手袋を取ると胸に片手をあてた。
「ルクレツィア・フェルミ殿……どうか、私と……ジャンティーレ・マッツェリアと結婚していただけますか。生涯貴女のそばで貴女を守ることを、誓わせて欲しい」
そうして、ルクレツィアの前に、手を差し出す。
呆然とその姿を見つめていたルクレツィアは、頬を寒さではなく薔薇色に染めてジャンティーレの手に自分の手を置いた。今までで一番美しい顔で笑って、頷く。
「はい! ジャンティーレ・マッツェリア様。……よろこんで!」
「ルチア!」
「きゃ!」
みるみるうちにジャンティーレの顔も笑顔に染まって、あまりの嬉しさにルクレツィアをぐううっと抱き寄せた。そのまま立ち上がると、ルクレツィアの身体が浮いてしまう。
「ルチア、ルチア……よかった、ほんとうに、よ、よかっ、グスッ」
鼻をすする音が聞こえて、続いてブルブルと頭を振っている振動がした。ジャンティーレには信じられなかった。いや、信じていたけれど、それが現実になるとその喜びが予想以上で信じられなかった。その思いが極まって、ジャンティーレの目に堪えきれない涙があふれそうになる。
「ジャンティーレさま」
「ルチア、ジャン、と呼んでくれ!」
「ジャン、あの、あの、おろして……」
ルクレツィアの言葉を聞いているのかいないのか、「うん、うん」とニヤつきながら、ルクレツィアを抱えて小躍りする姿はとても黒の貴公子には見えないが、幸福なオーラだけは周囲の者達にも伝わった。
そう。周囲の者達にも。
ヘエックショーイ!
明らかに2人以外のものであるくしゃみの音で、ジャンティーレは我に返った。ルクレツィアの身体をそっと地面に下ろして振り向くと、口を両手で塞いだ御者が2人、顔を真っ赤にして頭を何度も下げている。
「す、す、すみません、すみません、すみません、邪魔をするつもりは……!うわああああああ」
「ひいい、すみませんすみません! バカ! お前バカ!」
2人連れて来ていた1人の御者が、くしゃみをしたもう1人を抱えるように馬車の裏手へと回っていく。
ジャンティーレとルクレツィアは顔を見合わせて、ぼ!と音がするかと思うほど赤くした。
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かくして、マッツェリア家の嫡男とフェルミ家の令嬢の見合いから始まる恋の顛末は、馬車で首都を離れるルクレツィアを追い掛け、ジャンティーレが捕まえる……という情熱的な物語になって、尾ひれまでついて王宮に広まった。あの黒の貴公子が膝をついてルクレツィアに愛を請うシーンを聞かされたものは、2人に横恋慕する気も失せたという。
噂の中には、「黒の貴公子が泣いて鼻水を垂らしながらルクレツィアに求婚していた」というものもあったが、「まさかあの黒の貴公子が」と一笑に付された。ただ、ジャンティーレはルクレツィアと居るときは、常の冷徹な黒豹ではなく優しくて繊細な青年に見え、ルクレツィアもまた、ジャンティーレと共に居るときは、幼げで稚い少女のような女性ではなく、しっかりとした芯の強い淑女に見えたのだそうだ。
いずれにしろ、黒の貴公子ジャンティーレと金の淑女ルクレツィアの仲睦まじさは首都レムスにて長く語り継がれた。その物語の中には必ず、マッツェリア領のリモンチェッロの味わいが記されていた……というのも興味深い話である。マッツェリア領のリモンチェッロは「恋の妙薬」とか「口づけの美酒」などと呼ばれ、深い仲の男女が飲むとさらに仲睦まじくなると言われるようになった。それはともかく、2人の夫婦仲は、多くの紳士淑女達の憧れの的となり、多くの恋愛物語のモデルになった、ということである。