アニウス・セヴェルは、自分が全然叶わないことを知っている。
ユール・ログの篝火の元で抱き合っている2人を見かけた時は衝撃だった。確かにウィーネを無理矢理踊らせようとしてしまった自分の行動は失態だったが、2人も2人だ。あんな風にうっとりと抱き合って過ごせるくらいなら、何故最初から付き合っているとか恋人同士とか言わないのだろうと、それが少々腹立たしかった。
ウィーネ・シエナとアシュマール・アグリアは交際していない。
それはいい意味でも悪い意味でも、目立っている2人の不文律だったはず。だからこそ、2人があんなに仲がよいにも関わらず、アシュマールに言い寄る女子生徒や、ウィーネに憧れる男子生徒は後を断たない。大して被害が出ていないのは、やはり2人がいつも一緒にいるからで、相当勇気のある者だけが挑戦権を与えられたのだ。
しかし、それはアルバースの日までの話だ。
年が明けてヴァレンティヌスの日を迎え、その次のアルバースの日を境に、2人が付き合い始めたという噂がたったのだ。
勇敢な女子生徒がアシュマール・アグリアに直接聞いたという話によれば噂は本当らしく、その話は瞬く間に学校中に広まった。かといって今更という感や、やっぱりねという意見もあり、一部の生徒らが勝手に涙を飲んだだけで、2人の様子はいつもと変わらない。
「変わらない……ねえ」
ずるる……と魔術学校食堂季節限定フローズンノンシュガーラテをストローで吸い上げながら、胡散臭い顔で頬杖をついているのはネルウァ・セルギアだ。アニウスは本当にウィーネとアシュマール・アグリアが付き合っているのか、ネルウァからも情報を収集していた。
「だって、2人の様子、全然変わってないじゃないですか」
それなのに、なぜ今更2人は付き合うということにしたのか。そもそも今まで付き合っていなかったのはなぜなのか。秋位からずっとウィーネの情報を収集しているアニウスには不思議でならない。
「そこまで俺が知るかよ。だけど本人に聞きゃ分かるが、否定しないぜ?」
「本人ってどっちですか?」
「ん? アグリアの方」
事も無げに言って再び飲み物を吸い上げる。
あのアシュマール・アグリアに対してそれを聞くことが出来る……というのが、まず信じられない。アニウスはユール・ログの日にアシュマールに睨まれ、「相応の覚悟をしろ」と言われた時、まさに蛇に睨まれた蛙のように反抗出来なくなった。噂には聞いていたが実際に体験するのとは全く異なる。あの迫力にネルウァはよく耐えられるものだ。そこだけは尊敬してもいい。
「アグリアに聞くのが怖いなら、ウィーネに聞いてみりゃいいんじゃね?」
「分かってますよ、でもいつもアグリア先輩と一緒にいるでしょう」
「いつもって訳じゃねーぞ? 図書室とかに行くとたまに1人の所を見掛ける」
「知ってます」
むっとした声と表情を隠す事無く、アニウスは頷いた。
****
あのユール・ログの日、アシュマールに敗北したアニウスだったが、ウィーネのことを諦めきることが出来ないでいた。
顔と名前は覚えてくれたようで、学校で見かけて挨拶をすれば挨拶を返してくれる程度には昇格した。そんな小さな積み重ねが功を奏したのか、最近では図書室で見かけると向こうから挨拶してくれることもある。
もちろん、仲良くなってどうこうという気持ちは今のところ無い。ウィーネにアシュマール・アグリアという恋人がいたとしても、アニウスにとっては初めてできた「好きな人」だ。だから、少しでもいい、友達でもいいから仲良くなりたかった。
そう思って、アニウスはウィーネとどうやったら仲良く出来るかを考えている。
「セヴェルも諦めが悪いねえ」
「どういう意味ですか?」
「アグリアの余裕っぷりを知ってんだろ? それなのにまだウィーネにちょっかい出そうとか、俺ならやらないね。古の諺にもあるじゃねーか。触らぬなんとかに祟りなし、だ」
「別に、ウィーネ先輩と付き合いたいとか、そんなんじゃないです」
「俺ならもっと分かりやすい女がいいけどなあ。ほら、なんて言ったっけ? 妹さん」
「ルフィリアですか」
「そうそう、ルフィリア。ああいう、スキだらけな子の方が好みなんだよ」
「誰もセルギア先輩の好みは聞いてません」
「そいつは悪かったね」
言いながらも、いひひと笑って全然悪びれていない。その図太さが非常に羨ましい。
ちなみにユール・ログの時にルフィリアもまたアニウスと同じように敗北しているはずだったが、今は全く別の事に目覚めている。
「もう妹さんはアグリアを追い掛けてないのか?」
「追い掛けていますよ、別の意味で」
「別の意味?」
彼女は今は、『愛を見失ったがゆえに心を閉ざしてしまった美貌の男子生徒が、1人の女子生徒によって愛に目覚める』という創作遊びにハマっているようだ。勿論モデルがいる。アシュマール・アグリアとウィーネ・シエナだ。
何でも、アシュマールがあれほどの美貌の持ち主だというのに、ウィーネ一筋な所が別の意味で密かに人気なのだという。主に、自分の恋愛よりも人の恋愛に興味のある女子達を中心にそうした妄想が流行っているのだそうだ。
かいつまんで話した内容にネルウァがうへえ……という顔をした。
「女子って分かんねえ……」
同感である。
「ウィーネ先輩も全く成績を落としていませんし、そういう所が妙に好感度高いみたいですね」
しかもあまり嫌味なところがない。どちらかというと飄々としていて、ネルウァやアシュマール・アグリア以外と特別に仲の良い生徒もいないようなのだ。
「しっかし、あんなガリ勉ちゃんのどこがいいんだか。アグリアといいセヴェルといい物好きばっかりだな」
ガリ勉と聞いてアニウスはムッとしたが、すぐに何かを考え込んだ。図書室ならいつも1人、ガリ勉……つまりウィーネは勉強熱心で、成績はいつもほぼトップだ。
そうして、顔を上げる。
「なんですか、それ? 大体セルギア先輩だってよくウィーネ先輩にちょっかい出してるじゃないですか」
それを聞いてネルウァが思い切りぶふーっと珈琲を噴出した。
「ちょ、おまっ、ヤメろそういうこと言うの。どこでアグリアが聞いているか分からな……」
「俺が、なんだ」
どぅふっ……! とネルウァが仰け反った。
ちょうど2人の後ろから当のアシュマール・アグリアが姿を現したのだ。
褐色の肌に赤い髪。パンキッシュな組み合わせであるにも関わらず軽薄な感じには全く見えず、どこか妖艶で同じ年頃の生徒とは思えない。
そんな男が無表情で2人を見下ろしている。
ネルウァが慌てて首を振った。
「別に、何でもねーぞ、ようアグリア」
「ウィーネの話をしていなかったか?」
「してねえ! 全然してねえ! あ、強いて言うなら成績がいいなー、あいつ、とかそういう話をしてたんだよ、なあ、セヴェル?」
「アニウス・セヴェルなら、さっき挨拶をして何処かに行ったぞ」
「なっ、あいつ、逃げやがったな!?」
「逃げる? 何か逃げなければならないようなことをしたのか?」
「してねえ! してねえよ、だからそんなすごい無表情でこっち見るなって怖いから!」
ネルウァは両手を挙げて無抵抗を示しながら、先に逃走したアニウスを恨んだ。
****
図書室に行くと予想通りウィーネが居た。
ウィーネはちょうど韻文術式の書籍が置いてある書棚で本を探している。先日衣替えがあったばかりで、夏服が涼し気だ。本を取ろうと手を伸ばした時に見えた二の腕が白くて、不覚にもドキドキしてしまう。
暴れる心臓の鼓動を何とか落ち着けると、アニウスはウィーネに近付いた。
「ウィーネ先輩、こんにちは」
本を取ったウィーネは、それを胸に抱いてアニウスを振り返った。少し警戒した瞳だったが、アニウスを認めると表情を緩めてくれる。
「セヴェル君、こんにちは」
ユール・ログが終わった後、冬休みが明けたばかりの頃は少しぎこちなかったが、最近では自然に挨拶してくれるようになった。
「ウィーネ先輩は、今日も韻文呪文の勉強ですか?」
「ええ。もうすぐ夏休みだから、召喚用の術式が課題になってるの」
「召喚? 先輩って召喚術式の科目も取ってたんですか」
「取ってるわよ」
「もしかして、使い魔も召喚したんですか?」
聞かれたウィーネはなぜか苦虫を噛んだようなしかめっ面をしたが、「いいえ」と首を振った。召喚の授業を取得していて、なおかつ使い魔を許可された生徒は、それが例え小さな魔であっても意気揚々と召喚するのが大半だ。それなのに「学生の時には必要じゃないから」とクールな顔をしていた。ちょっとかっこいい。
アニウスも成績は悪い方ではないが、韻文術式の授業が苦手で、その応用とも言える召喚の許可を受けるにはまだ遠いのだ。
だから、アニウスは思い切ったのだ。
「あのっ、ウィーネ先輩!」
「ん?」
「お願いが、あるんですけど……」
****
ウィーネ・シエナは、今、アニウス・セヴェルと共に図書室の端にある小さめの机で並んで勉強している。ウィーネは自分が勉強したいものを、アニウスは韻文術式の参考書を開いていた。
実は、先日アニウスから韻文術式の課題を見てくれないかとお願いされた。
ユール・ログのこともあったし少しばかり躊躇う気持ちも無いではなかったが、あの時のことを持ち出して澄ました顔で断るのも自意識過剰というものだ。それに韻文術式の科目はウィーネの得意科目で、1つ下の学年の子の宿題を見る程度ならわけもない。図書室で勉強しているとアシュマもそれほど邪魔はしに来ないので、最近はこうして放課後一緒に勉強している。
少しだけ、ユール・ログみたいなことにならないかな……と思わないでもなかった。
だがアニウスはいいのか悪いのか、ウィーネの恋人はアシュマだ……と認識していて、アシュマがウィーネを迎えに来たり、あまり時間が長くなると「僕もう帰りますね」などと言って遠慮がちに席を立つ。それに対してウィーネは否定することも出来ず、かといって積極的に肯定できるほどの気持ちも抱えておらず、いまだもやもやしたまま曖昧に返事をしてしまうのだ。
それを除けば勉強をしているしばらくの間はアシュマは邪魔してこないし、邪魔してきてもすぐにアニウスが撤退するので揉め事も起こることなく、有意義な時間を過ごすことが出来ていた。この時間はとても楽しい。
時々、アニウスが質問をしてくるのでウィーネがそれに答える。今は、アニウスが水と光に関わる韻文術式を構築している。その呪文に使う詩歌の音律をアドバイスしていた。
「ウィーネ先輩、出来ました」
「見せて」
ウィーネの得意な属性は「闇」一色だったがそれは実技だけの話であり、術式であればどういった属性のものでもウィーネは得意だった。術式の構築は自身の属性ではなく感性が問題で、もともと言語学や魔術文字、などが好きだったウィーネには楽しい科目だ。
アニウスはどうも美しい言い回しや、リズミカルな韻文という曖昧で主観的なものは得意ではなく、どちらかというと公式に則り、どの属性をどのような配分で魔方陣を組むべきか……などといった解を求める方が得意だった。つまり正しい正解のある科目が得意なのだ。
だが、そんなアニウスでも魔術学校の生徒であり、呪文によって魔力を操る魔法使いの卵である。理解力が早く教えがいのある生徒だ。
『珠玉をちりばめたる手づなは
くまもなくきらめきぬ
とある連なれる星のように……』
ウィーネがすらすらと、韻を加えた詩歌を呪い語で唱えていく。属性は光と風を含ませているから、ウィーネが唱えても魔力は感じられないが、一文字一文字、魔術も字と呪い語が混じりあう詩歌を読んでいるウィーネの唇が少し綻ぶ様子に、アニウスがほっとした様子を見せる。
「あ、でもこの次の次くらいの律に、『 なべて 青空の雲もなく晴れたる日に……』っていうのがあるでしょう? 風属性を入れるならそっちを組み合わせたほうがいいかしら」
「僕もそれ、考えたんですけど、次の行に『革』とか『馬』とか出てくるので……」
「ああ、少し地属性を含んでしまうのね」
「そうなんです」
「ちょっと女の子っぽいかなって思ったんだけど、雰囲気が合うといえば、あうか……」
「え、どういう意味ですかそれっ」
暗に「女の子っぽい」と言われてちょっとむっとしていたので、男の子に申し訳なかったかと思って、ウィーネは「ごめんごめん」と小さく笑った。ウィーネから女の子っぽい扱いされて落ち込んだが、次の瞬間笑った顔を見る事が出来て、アニウスはドキドキと胸を高鳴らせた。ウィーネはそれには気付かずに詩歌の載っている頁をめくる。
「じゃあ、こっちは? 『 さて かゆきかくゆき 一の明鏡のうちに』」
「あ、それだったら……」
先日ウィーネが教えたばかりの魔術文字を組み合わせて、アニウスが上手に韻を踏んで詩歌を唱えてみせた。その魔術文字は最近の魔術雑誌に掲載された最新の組み合わせで、教えたことをすぐにものにしてしまうアニウスにウィーネも嬉しくなる。ウィーネはもともと勉強が好きなだけあって、教えたことをすぐに吸収する様子を見るのは楽しいし微笑ましい。
先輩っぽい顔を出来るのもあって、ちょっといい気分だ。
「それ、この間雑誌に乗ってたやつでしょう?」
「そうです、ウィーネ先輩が教えてくれた」
「早速使うと、先生がびっくりするかもね」
「あは、そっちのほうが楽しみかもしれません」
キレイな韻文を作るよりは、どちらかというと悪戯な気分になって、ウィーネとアニウスはくすくすと笑いあった。
ひとしきり笑うと、アニウスが「あ」と小さく声を出して顔を上げた。その視線に釣られて後ろを向くと、褐色の肌に赤い髪の生徒が真っ直ぐにこちらにやってきているのが見える。そろそろ寮に戻る時間だからだろう。折角楽しい時間だったのにな……と少し視線を落とした。最近ウィーネはアシュマと一緒にいると、不安なような安心するような、物足りないような十分なような、そんなそわそわした気分で落ち着かないのだ。
アニウスがぺこりとアシュマに頭を下げて挨拶すると、荷物をまとめて席を立った。
「じゃあ、ウィーネ先輩。今日もありがとうございました」
「あ、ううん。またいつでも言って」
「はい!」
にっこりと無邪気な笑顔を向けるアニウスは、弟のアルカディみたいで可愛らしい。思わずにっこり笑い返すと、がばりと大きな手がウィーネの顔を覆った。
「ぬはっ!?」
「あ、アグリア先輩……」
大きな手はアシュマの手のようだ。ぺったりと顔を覆われウィーネがそれを剥ごうとむきになっているが、別に掴まれてるとかそういうわけでもないのにびくともしない。
「迎えに来た」
「ふがっ、アシュ、ちょ」
一体何が起こっているのか眼が塞がれているから分からず、おまけに口も塞がれているから上手く声も出せず、ウィーネはアシュマの手首を掴んでうんうんとそれを離そうと必死だ。その様子に……なのかどうなのか分からないが、アニウスが少しだけ気の毒そうな声で挨拶しているのが聞こえる。
「じゃ、じゃあ、アグリア先輩も、また」
「……ああ」
「ぬ、あ、アニウスくん、ま、またね……ってちょっと!」
ぱたぱたとアニウスが遠ざかった音がして、やっとウィーネの顔が解放された。何するのよ! ……と非難を口にして背後を振り向くと、随分と不機嫌な顔のアシュマが立っている。無表情は常のことだが、わずかに眉間に皺が寄っていて、いつものようにウィーネを覗き込むように視線を下げる事も無く、ただ見下ろしているのだ。
「な、なに……なんで怒ってるの?」
「別に」
などと言いながら、この様子はかなり怒っている部類だ。
視線がいたたまれなくてウィーネは眼を逸らし、机の上に広げていた参考書をしまう。
立ち上がるとアシュマが強引にウィーネの二の腕を掴み、自分の方に向かせた。抱き寄せられたような距離になって、慌てて参考書でアシュマの身体を押しやる。
「ちょっと、やめてよ、近い」
「ウィーネ……」
「な、なに?」
やはり怒っている。声がいつもよりも低いし、それに、変な魔力がウィーネに向けて流れてくる。
しかし、そろそろ周囲の視線が気になった。アシュマの腕が緩んだすきにそこから逃れ、参考書を鞄に詰める。
支度が終わったタイミングでアシュマがウィーネの手に指を絡めた。そのまま手をつないで、図書室の外へと連れていかれる。
「アシュマ、ね、どしたの?」
いつもだったら、学校の敷地内にある寮の建物に戻って、男女兼用の食堂で食事をする時間だ。だが、アシュマがだんまりを決め込んでいるので不安になって、恐る恐る聞いてみる。
アシュマが足を止め、相変わらず不機嫌な顔で見下ろす。
「……」
「アシュマ?」
「……」
「な、」
何も言わないアシュマにいよいよ怪訝そうな顔になって、ウィーネが首を傾げた。
※「珠玉をちりばめたる手づなは……」『シャロットの妖姫』(アルフレッド・テニソン 著/坪内逍遥 訳)より引用