解けぬ悪魔と召喚主

002.悪魔の恋人

「ウィーネ……?」

「……」

何度目かの欲望を吐き出した時、アシュマはようやくウィーネの反応が薄いことに気が付いた。朱の瞳を不機嫌にしかめたが、手の甲でウィーネの頬をそっと拭う動きは繊細だ。

またやってしまったか、……と、黒い異形は自分の腕の中でぐったりと気を失っている少女から身体を離す。自然、つながっていた部分が引き抜かれ、ねちゃりと音がして情交の名残が少女の足の間から流れ出た。黒い鋼の肌に這う血色の文様は、先程まではどくどくと脈打ち悪魔の興奮を表していたが、徐々におさまっていた。

少女の身体に体重を掛けぬように腕に抱えて身体を起こし、いつものように自分の胸板に乗せる。常ならば抵抗を見せるか身を寄せるかどちらかの少女は、今日は行為の最中に気を失ってしまった。それも少女が気を失うまで異形が攻め立てたに他ならない。

ウィーネ・シエナの使い魔、闇の界上位二位の悪魔アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアスは、最近、ウィーネをこんな風にさせてしまうことが多い。悪魔らしからぬことに、これでも気をつけているのだ。だが何かの拍子に箍が外れる。

最近は学校でのウィーネは勉強の邪魔をしないようにと口うるさい。図書室に逃げ込まれると厄介で、騒ぐな触るなと喚く。常のように糧を要求すれば、真っ赤な顔で「夜してるじゃない、いっつも!」と言われて、その赤く染まった頬を見ていると何故か心がざわつき、ついついその「いつもの」倍を貪ってしまう。

だからというわけではなく、自分でもよく分からなかったが、ウィーネが図書室に逃げた時は大人しくしてやっていたのだ。

ウィーネは悪魔アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアスの召喚主であり、人間アシュマール・アグリアの恋人だ。別段アシュマはウィーネが恋人であろうがなかろうがどちらでもよかったが、ウィーネが他の男子生徒に声を掛けられるとどうしても気分が悪いために「恋人だ」と公言している。このように公言しておけばウィーネが他の男子生徒から声を掛けられることも、妙な視線を向けられることもないという。……つまり「男避け」になる、と言われたからだ。

それに生徒の中でも「恋人」と称される男女の組を見ていると、校内で手をつないだり腰を抱いたり、木陰で身体を密着させたりしている。ということは、アシュマがウィーネとそうしたことを行っても咎められる事はないということだ。もちろん、今までだって咎められた事はないが。

しかし、その「恋人」とやらを口にしてからウィーネの様子がおかしい。

アシュマがウィーネに感じる魔力で最も好きな、慕わしいふわふわとした感情が意図的に隠されているのだ。……いや隠されているのとも少し異なる。ただ、近付いたり遠ざかったりと奇妙な揺らぎを見せる。

その中に欲しいものがありそうで、アシュマはそれを吸い尽くす。そうしているうちに、物足りなくなって何もかもを奪いたくなるのだ。欲望に忠実な悪魔はこれでも節制している方だった。

今日は、ウィーネの図書室での表情に心が動いた。

常のようにウィーネとアニウス・セヴェルが勉強していたのを見かけた時だ。最近ウィーネはアニウス・セヴェルとやらと仲良く勉強している様子だったが、ウィーネの勉強が終わる頃に迎えに行くという行動も、少しばかり悔しそうな顔をしてアニウスが身を退く様子を見るのも悪くは無かった。

だが今日は違った。

ウィーネはアニウスを見て、楽しげに笑っていたのだ。

そもそも恋人同士……という輩どもを見ていると、人間の女というのは何故か楽しげに笑っているものだ。あのネルウァ・セルギアにも今は女がいるが、その女ですらそうした様子を見せていた。しかしウィーネはあまり笑わない。もちろん、拗ねた表情や困惑した表情もそれなりに楽しい。しかし笑んだ時に香るやわやわとした魔力と、何よりもそのウィーネの表情……潤んで弧を描く唇や瞬く睫毛などを見ていると、欲望のどこかが満ちて、代わりに何処かが飢えるのだ。アシュマはその心地を味わいたいのだが、何故か滅多に見られない。

そうしたアシュマにとっては貴重ともいえるウィーネの表情を、アニウスにはたやすく見せていたのだ。

意味不明だ。

あの少女はこの悪魔の恋人であるはずなのに。

そのように思うと、ぎらぎらとした欲望と、砂を噛んで飲み込んだようなざらついた感覚が込み上げる。

悪魔は片腕で上掛に包まれたウィーネの身体を抱いたまま、窓の外を眺める。夜の帳が下り、空にあるのは細い月だ。人間共が見れば情緒深い下弦の月も、悪魔から見れば単なる満ち欠けの一部に過ぎず何の感慨も浮かばない。

それよりも、なぜあの男子生徒ごときにウィーネは笑顔を向けて、この悪魔には向けないのか。それも理解出来ないが、それで苛立つ己の感情も理解できない。ウィーネはウィーネ・シエナという存在と魔力であればそれでよく、どのような感情を向けられても全て極上の味わいだったはずなのに。

悪魔が苛立ち始め、グルル……と喉を鳴らす。時折、血色の文様に光彩が走るのは、不可解な感情を抑えきれないからだ。

「ウィーネ・シエナ……」

視線を黒い髪の少女に戻すと、その閉じた瞼のそばに唇を寄せてみる。ちゅ……と音たてて離し、壊れ物に触れるような手つきで前髪を払い、頬を撫でて、首筋を摩る。上掛けごと抱き直して腰を撫で回し、胸の膨らみに触れる。

ふにふにと柔らかなそれは、最初よりは少しばかり大きく柔らかくなっているような気がする。最近は、やれ小さいだのやれ寄せるだのとうるさい。しかし、おかげでアルバースの日に買い揃えてやった下着をウィーネは身に着けるようになった。何でもウィーネの要望を叶えるものが多いらしい。指摘すると顔を赤くして俯きながら「寄せて上げるって言うから……」と意味のよく分からないことを言う。横腹周りが柔らかいと褒めれば拗ね、二の腕を揉むと怒る。じたばたと暴れる割には、すぐにむくれて大人しくなる様子は、そういえば「恋人」とやらになってからだったか。

この「恋人」という関係性が、ウィーネにどういう影響を与えているのかは分からないが、ウィーネの変化は確実にアシュマにも影響を与えていた。しかしそれもまた、不確定なものだ。

「アシュ……」

撫で回している手を、眠っているはずのウィーネが掴んだ。

ぴくりと、アシュマの手が止まる。

何事かと思ってウィーネを見ていると、ぎゅぅ……とその腕を引っ張って頬擦りをし始めた。うふー……とウィーネの唇が笑みの形に綻ぶ。

その表情を見て、ますます不機嫌そうにアシュマの眉間の皺が深くなった。

ウィーネは眠っているときだけは、よく笑う。

****

今はちょうど授業時間で、図書室に人は少ない。特に第15読書室は図書室の端にある場所柄、普段でも人が来ない。学校の図書室には地上書庫、地下書庫のように、蔵書のみを大量に置いてある部屋の他に、書棚と共に勉強スペースを作っている部屋も多くある。第15読書室も、そのような部屋の1つだ。

ウィーネとアシュマらの時間割は、ちょうど魔法生物生態学で授業を免除されている。その時間を利用して、レポートの作成をしにきたのだ。

ウィーネはすぐに終わって、召喚用の本を眺めていた。アシュマはいつレポートを書いているのか知れないが、ウィーネにちょっかいを出すことなく、何か分厚い本を読んでいる。

興味を持ったら負けだと分かっているが、何を読んでいるのかは気になる。ちらちらと横目で見ていたが、我慢しきれずに聞いてしまった。

「アシュマ、何読んでるの?」

ウィーネの問いにアシュマが顔を上げ、すぐ側で本を覗き込んでいるウィーネの髪に指を巻き付けた。

パタンと本を閉じて、ウィーネに表紙を見せてくれる。

ウィーネにすらタイトルの読めない、魔法文字で書かれている。何かの原書らしい。

タイトルも読めない難解な本をアシュマが読んでいるのに驚き、「よめない」と正直に告白すると、アシュマは頷いた。

「闇の界の者が戯れに記述した本だ。以前、連れて行ってやったろう。そのときに持って帰った」

「闇の界の人が書いたの!?」

がばっとウィーネが本に張り付き、まじまじと見つめ始めた。

ウィーネはアシュマに頼んで一度だけ闇の界に連れて行ってもらったことがある。その時はもちろんアシュマ以外の闇の生物にも邂逅し、とても興味深い経験だった。残念なことに、こちらの世界では普通の人間が生きて六界に渡ることは理論上不可能とされているので、それを誰かに自慢することは出来ないが。

一体どんなことが書いてあるのかと聞いてみたがアシュマは教えてくれず、ウィーネはむっとした。

「ケチ」

「ケチか」

アシュマはくっと笑って手を伸ばし、ウィーネの腰に回した。「ひゃ」と妙な声を上げたウィーネを膝の上に引っ張り上げる。夏服はウィーネの白い二の腕を剥き出しにしていて、ふかふかとしたそこに触れるのは心地が良い。

熱心にそれを揉んでいると、ウィーネが「止めて」と生意気な口答えをした。

しかたなく今度は耳に唇を寄せて、軽く歯を立てる。ぴくんと抵抗の止まった身体にほくそ笑むと、湿った声を流し込んでやった。

「ケチだな、お前は」

「何言ってるのよ!」

ちゅっと音を立て、なお、はむはむとそこを噛んでいると、気を取り直したウィーネが慌ててアシュマの膝の上から降りた。何やら不機嫌そうに周囲をぐるりと囲んでいる書棚の方に駆けて行く。

少し汗ばんだ肌は、香りも味わいも心地よい。

逃がしてしまった獲物を狙うように、アシュマが立ち上がった。

見ればウィーネは高いところにある本を取ろうとしている様だ。二度三度うんうんと手を伸ばしているが、届いていない。諦めて、今度は台を持ってこようとしている。自分の使い魔がそこにいるのだから頼めばすぐに取ってやるのに、この召喚主はおかしなところで意地っ張りだ。

ウィーネが取ろうとしている本はすぐに分かった。踏み台をよいしょとひっぱっているウィーネの腰をひょいと抱えて引っ張り寄せ、アシュマが書棚へ手を向けた。

人間のアシュマール・アグリアは、ウィーネより背は高いが、驚くほどの長身というわけではない。もちろん手を伸ばしただけでは届かなかったが、魔力で本の背表紙を引き寄せてすぐに手元に収まった。ウィーネを後ろから緩く抱き寄せたまま、アシュマは本を差し出してやった。

「これだろう」

「あ、うん……」

おずおずとウィーネがそれを受け取る。そっと本を持ったウィーネが、背後のアシュマを振り向いた。

「あの」

「ん?」

「ありがと」

いつもならば、「自分で取ろうと思っていたのに」とか「頼んでない」などと言いそうなものだったが、今日はやけに素直だ。後ろから見ていると、ほのかに口元が綻んでいる。それほど読みたかったのかと、アシュマが本のタイトルを見ると、召喚用の術式の応用本だった。

しかし、その本は応用とはいえウィーネが読むには易しい本のはずだ。

「まだこんなものを読むのか」

そう言ってアシュマが本のタイトルを指でなぞると、ウィーネが「違うわ」と頭を振った。ひょいとアシュマの腕から逃れて、小さく笑う。

「私が読むんじゃないの。セヴェル君にね、教えてあげようと思って。私のオススメの召喚術の学習本」

そう言って、「覚えがいいの、セヴェル君」と、くすくす笑った。

ウィーネが笑んだのを見て、アシュマの瞳がすう……と刃物のように鋭利になった。

まただ。

また不可解な感情が込み上げ、アシュマは、グルル……と獣じみた唸り声を上げた。

「ウィーネ……」

「アシュマ?」

機嫌のよい顔のまま、ウィーネがアシュマを見上げた。しかしその低い気配に表情が凍り付く。

ウィーネからセヴェルの名前が出てくるだけで不愉快になるなど重症だ。しかも今回は、ウィーネの初恋とかいう男に対して抱いた嫉妬と異なり、ウィーネ自身に苛立つ。

ウィーネは他の何者でもなく、アシュマの召喚主であり、アシュマを呼び出す者であるべきだ。それなのに何故この唇はアシュマ以外の名を呼んで笑うのか。

「我の名しか喋れぬようにしてやろうか」

アシュマの口から出た物騒な言葉に、ウィーネが目を見開く。何を言われたのか分からなくてぽかんとしていると、噛み付くように、唇を奪われた。