解けぬ悪魔と召喚主

004.悪魔の焦燥

叫んだからだろうか。喉がヒリヒリして痛い。

ひっくひっくといまだ嗚咽を抑えきれないまま、ウィーネは図書室の廊下をとぼとぼ歩いていた。そういえば、読書室から外に声は聞こえなかったのだろうか。アシュマがなんとかしてくれていたのかもしれない。

……アシュマ。

大嫌いだと言ったのは自分なのに、言った自分の心が思いきり痛んでウィーネは吃驚した。一体何に傷ついたのかよく分からない。心の中にもやもやしているのは、嫌いだと言われても表情を変えなかったアシュマの様子と、そして……。

ウィーネはそっと足を止めて、ちらりと後ろを気にする。

ぷるぷる……と頭を振って、また廊下を歩き始めた。

アシュマは追いかけて来ない。

きっと、ウィーネのことなんてどうでもいいから追いかけて来ないのだ。恋人でもなんでもないし、使い魔と召喚主なのだからアシュマはウィーネが何処にいても分かるはずだ。だからどうでもいいんだ。恋人同士っていうのも演技だったし、それから、それから……。

何度も何度も自分に言い聞かせてきたアシュマとウィーネの在り様、こう在るはずだという関係を、頭の中で繰り返す。けれど、今日はちっとも効果が無かった。

噛み付かれたのは痛かったが、泣いたのはそれが原因ではない。アシュマのことを認めたくないのに、どうしてもどうやっても流されてしまう自分が嫌になったのだ。人間のアシュマにぎゅ……と抱き寄せられるたびに、甘く溶けるような心地になる。異形の悪魔の腕に乗せられて、髪を梳かれるたびに安心する。

信じられないくらい意地悪なのに、優しくしないで欲しかった。
血が出るくらい噛み付くくせに、どうして言い訳のように何度も何度も名前を呼ぶのだろう。

すん……と鼻をすすって、すはー……と深呼吸していると、丁度最後の授業が終わり、放課後を迎えた生徒達が図書室へとやってきていた。しまった、泣き顔をもろに見られるのは不味い。それに、あの激しい情事の後の自分を見られるのは、どことなく恥ずかしかった。慌てて、人の少ない廊下へと踵を返す。

「ウィーネ先輩!」

しかし、一番会いたくない子に声を掛けられてしまった。天真爛漫な無邪気な声と表情で、ウィーネに会えたのが嬉しくて仕方が無い様子の生徒はアニウス・セヴェルだ。けれど今はアニウスのかわいい顔も声も慰めにはならない。放っておいて欲しかった。

「……ウィーネ先輩?」

反応が遅れたことを怪訝に思ったのだろう。アニウスが心配そうにウィーネを覗きこむ。咄嗟に顔を逸らしたが、アニウスの視線はウィーネの首筋に止まった。しまった……と思い、さっと手で押さえるが遅かったようだ。アニウスは一瞬眼を丸くして、まるで恥じらう女の子のように瞳を伏せる。

「えっと、……その、大丈夫ですか? 眼が赤い、です」

「ああ、ごめん。ん、なんでもないから」

「……何でもなくない、ですよね、もしかしてアグリア先輩と何か……」

暗に、ウィーネを泣かせたのはアシュマか……と聞いているのだ。間違ってはいない。けれど、それを積極的に相談する気持ちにはなれずにぷるぷると頭を振った。

「ほんとに、なんでもないの」

「でも、ウィーネ先輩」

「今日の勉強会は無しにさせてね、また今度埋め合わせするから」

そう言って、アニウスとは目を合わせないままウィーネは早足でその場を離れた。背中に心配そうな視線を感じたが、怖くて振り向けない。視線を振り切るようにしばらく足を動かしていると、じきに図書室の中庭に出た。追いかけてくる気配は無く、中庭には誰もいない。

ようやくウィーネはほっと一息ついて、一番すみっこにあったベンチに腰掛けた。

「…… もう触らないで、大っ嫌い」

あの時言ってしまった言葉を、ぽつりとつぶやいて、再びウィーネは胸がきつく締まるように痛く感じた。いつもアシュマを嫌がっているのはウィーネなのに、いざ言葉にしてしまうと傷ついたような気持ちになってしまうのは何故なのだろう。

アシュマはウィーネのことをただの召喚主と思っている。
だから、ウィーネもアシュマのことをただの使い魔だと思うしかないのだ。

あの時もやっぱり言ったではないか。

優しくするのは、ウィーネが召喚主だからなのだと。

何度も繰り返すこの問いに、ウィーネはなんて答えて欲しいのだろう。いつまで見て見ぬ振りをすればいいのだろう。でも、もしも……もしも、アシュマがウィーネの側から居なくなってしまったら、ウィーネはどうすればいいのだろうか。

ウィーネには何一つ分からなかった。

****

いつもと変わらぬ風だったはずなのに、何故今日に限ってあれほどにウィーネが激昂したのか。噛みついたからか? 痛かっただろうが、すぐに治してやったのに。

しかし、一番分からなかったのは、ウィーネを逃がしてしまった自分だった。自分がどう行動すべきか、本能も理性も欲望も動き出してくれはしなかった。

『アシュマなんて嫌い。大っ嫌い』

そう言われた瞬間、悪魔は確かに呆然としたのだ。闇の界上位二位の力を持つ、この悪魔が。

そしてウィーネを逃してしまったと分かり、掴まなかった自身の手を見る。同時に湧き上がるのは、怒りとも焦りともつかぬ奇妙で不可解な感情だった。

ウィーネを見ていると、味わったことのない感情が己の魔力に混じる。そこには不快なものばかりではなく、心地よいものもあった。そして、常に満ちていて、常にもの足りない。欲しいものが分からない。

もしウィーネの魔力ではなくウィーネ自身が欲しいのだとしたら、アシュマには方法がある。ウィーネを喰らい切った後、また作り直せばいいのだ。そうして出来た人形に魔力を注ぎ命じれば、アシュマの名を呼ばせ、アシュマに奉仕させ、アシュマに笑いかけることすらさせられる。しかしアシュマは知っている。そんなガラクタ、望むつもりも欲するつもりもない。

ならば、欲しいというこの感情は何に向けられたものなのか。

魔力でもない、ウィーネの姿形でもない、声でもなく、笑顔でもない。しかし確かにそれらが欲しいのだ。あるいは、そのものに繋がる何か。これまでのアシュマの欲望とは、もっと単純なものだったはずだ。欲しいものを手に入れれば満たされる。欲しいものが見つからなければ満たされない。単純な原理のはずなのに、ウィーネと関わっていると不意に満たされる時があって戸惑った。その「不意」を求めて、あらゆる手をアシュマは施す。

『アシュマなんて大っ嫌い』

その言葉の意味をアシュマは知っており、それを向けられるのは不愉快かといえば、実はそうではない。アシュマはそれが嫌悪という感情であっても、おそらくウィーネから向けられるものであればそれらを貪欲に喰らうだろう。しかし、そうした欲望とは別に、もっとも欲しいもののその欠片の一片が、するりと手の平からこぼれ落ちてしまったような焦燥感があった。焦燥? 一体何に。その気になればこの国を滅ぼすことの出来る魔力を持つ悪魔が、何故これほどまでに焦るのか。

「ウィーネ・シエナ……」

アシュマの姿は人間だったが、発した声は悪魔の重低音だった。悪魔らしくもなく次の一手を打ち損ねたまま、ぼんやりと座っていたが、ふと、視界にウィーネが嬉しそうに抱えていた本が目に入る。

召喚の上級本。

アシュマがウィーネを初めて見つけた時、召喚しようとしていたものはつぐみの騎士という、12階位のうちの12位という最も些末な魔だ。そのような些末な魔しか通り得ぬ界の通り道をこじ開けたのはアシュマである。そうして契約を交わしたのもまたアシュマの意志だったが、純粋な意味では、ウィーネはアシュマを召喚してはいない。

もし、ウィーネがアシュマを本当に望み召喚すれば、それはどれほど甘美だろうか。ウィーネのあの美しい呪文の唱和に重なり、ウィーネの名の許にアシュマが呼ばれる。

もちろん2人の間に既に契約が交わされた今となっては、それはただの戯言に過ぎない。しかし同時にウィーネにアシュマ自身を求められるという、恐ろしく美味なことでもあるような気がした。

アシュマは召喚の上級本を手に取り立ち上がった。

****

図書室中庭のすみっこで、ウィーネはすんすんと鼻を啜りながら座っていた。寮の部屋に帰ればアシュマがいるのだろうか。しかし今更どのような顔をしてアシュマに会えばいいのかウィーネには分からない。

「アシュのバカ」

毒ついてみたが大した効果も無く、再びもやもやした気分が戻ってくる。

くさくさしていると、ふわりと頭に優しい手が触れた。