解けぬ悪魔と召喚主

005.召喚の初心

遠慮がちになでなでと頭に触れる手に驚いて顔をあげると、意外な人物がいた。

座ったウィーネよりまだ低い身長に、長すぎる前髪で顔の見えない人物が、小さな手を伸ばしてウィーネの頭を撫でていた。「魔法世界の文化と歴史学」の教員、ディディ・ユリスだ。

「ゆ、ユリスせんせ……」

「な、なななな泣くの、おわ、終わりましたか、ましたか」

「え?」

「いっぱ、いっぱ、い、泣くのは、よよよよいこと、です、でです。でも、泣いた、あああああとは、眼、冷やす冷やし冷やすの、ないと」

極端にどもりがちな喋り方が特徴のディディは、どうやら泣いていたウィーネを慰めようとしているらしい。顔を上げたウィーネのおでこの辺りに手をかざす。思わず目を閉じると、冷んやりした空気が瞼を心地よく冷やした。

ディディは水属性と風属性を持っている。しばらくの間、冷んやりしたディディの手を受け取っていると、段々と心が落ち着いてくる。その落ち着きに呼応するように、ディディの手がそっと離れた。

「泣く、ななな泣くの、おわ、おわ、終わりましたか、したか?」

「……はい、すみません」

ウィーネがこくんと頷くと、ディディの前髪から僅かに覗く瞳と唇が、にこーっと微笑んだ。いつもはほとんど見えないが、意外と愛らしい顔をしている。

「あの、ありがとうございます」

眼の腫れぼったさはなく、喉のヒリヒリもいつの間にか収まっていた。ウィーネがお礼を言うと、ディディはふるふるんと頭を振る。

「ウィーネさん、わた、私の生徒、だだだ大事です、だいじ」

いいながら、よいしょとディディがウィーネの隣に座ろうとベンチを登っていると、ぬっと一際大きな影が出来て、ディディの服をつまんで小さな身体をひょいと持ち上げた。

「あらま! ディディにウィーネちゃん! こんなところで、ざっつ☆女子会!? んもっ、意地悪! センセも混ぜてよう」

「リウ、リウィス、もちもちもちあげるの、よろしくない、ないでです。あと、とのが、殿方が入ると女子会ちがう、です」

ジタバタと足をバタつかせているディディを、ちょこんとウィーネの隣に下ろし、さらにその横にどっかりと座ったのは、今日も派手なメイクと奇抜な衣装のリウィス・ドルシスだった。声が野太い。

突然の登場に、ウィーネがきょとんと眼を丸くする。

「ドルシス先生」

リウィスはどこから取り出したのか、フローズンミルクティーの入ったカップをウィーネに渡し、ディディにはバニラシェイクを渡した。自分はトマトジュースだ。

「はぁい! どしたの? オベンキョで何か分からないところが見つかっちゃった? あ、それ飲んでいいわよ」

「いえ、そういうわけでは……あ、あの、でも」

「いいから! せっかく3つあるし、センセのお・ご・りっ。やだん! なら、もっと別の悩み?」

「え?」

リウィスがディディを挟んで首を傾げる。いつものように口調はふざけているが、大味な顔の瞳は意外と真面目でウィーネは思わず口を閉ざした。

「うふふん。センセが当てて見せようかしらっ」

ベンチに3人並んで座っている。屋根があるとはいえ夏のきつい陽射しがもたらす気温は容赦ないが、ディディがいるからか周辺の空気はからりと爽やかで涼しい。ウィーネが不思議そうに隣の教員2人を見つめると、リウィスがにんまりと笑った。ディディはバニラシェイクで手を冷やしながら、風にそよそよと揺れる草花をぽけーっと見ている。

「ズバリ、ドキドキ☆夏恋大作戦ってとこね!」

片手の人差し指でズキュンなポーズを作って、リウィスが片目をつぶった。時が止まったようにウィーネがリウィスのポーズを見ている間で、ディディがずずーとバニラシェイクを啜る音が響き渡る。

いつもならリウィスのテンションの高さもスルーするウィーネだったが、唐突に顔を真っ赤にして頭を振った。

「ち、違う、いや、違います!」

「うそー」

「だってあんなの恋じゃな……なんでもないです」

真っ赤な顔から一転、しょぼんと肩を落としてフローズンミルクティーのストローを口に含んだ。

リウィスから突然突きつけられた言葉はウィーネを動揺させるに容易い。今までずっと閉じてきた箱の蓋が、ぽんと開いてしまったような感覚に慌てる。

それを誤魔化すようにシャリシャリと冷たいミルクティーを吸い上げる。冷たさが喉を通って胸の奥も冷んやりと冷やしてくれるようだった。

それ以上は何も言えずに、ストローをがじがじと噛んでいると、バニラシェイクを吸い上げる感触を楽しんでいたらしいディディが、ぷはーっとストローから口を離した。

「うまくゆかぬのは、人に寄ってその有り様が異なるのに、それが確かに存在することを知っているからだ」

急に饒舌な口調でディディが言った。意味が分からなくて、ウィーネが顔を向けると再び、ずぞぞぞとバニラシェイクを吸っている。「いまの」とウィーネが意味を問う前に、あは! とリウィスが声をあげて笑った。

「ディディったら物知りさん! でも意味わかんないわね、難しすぎて!」

「あい、とか、こい、とかむず、難しいといういみ、です。あいとかこいとか、ゆ、ゆい(言い)ますけど、も、人によって、ぜんぶ、ちがいます。どういうのか、ちがいます、でも、みんな『あい』って言葉と意味、知ってる、ます」

「なるほどねえ?」

「あれらは、あれら、……わかりやすい、かたちでは見えないです、です。ひとによって違うし、期待したかたちで、こないし、しかも、しか、しかも、深く隠れようと、するです。ます」

「うふふっ。私から見たら分かりやすいのにぃ」

「ほんにん、分からないとき、あるです。自分の内臓、めったなこと、でっ、覗けないない」

「内臓って」

聞いていたウィーネが、思わず吹き出す。確かに自分の内臓はよく見えない。だが、確かにディディの言ってる意味は分かる気がした。ただし、腑に落ちないのは、別段ウィーネは、愛とか恋とか、そんなことに悩んでいるわけではないということだ。断じて違う。違うったら違う。

「や、他人も見えないじゃん」

悶々としていると、隣でリウィスが真顔で突っ込んでいた。が、ウィーネがぶつぶつと頭を振っている様子を見て、優しい顔になってウィーネの頭を撫でる。

「やだもう、若いっていいわあ、若いって! どしたの? 意地悪されて泣いちゃった?」

「……」

意地悪、という可愛い単語で済まない気もするがウィーネは黙り込むことでその質問を肯定した。冷たいミルクティーのシャリシャリを啜り上げながら思い浮かぶのは、悔しい事にアシュマのことばかりだ。

思わずぽつりとこぼす。

「なんで意地悪ばっかりされるのか分かりません」

「あら」

「あと! 恋とか愛とかそんなんじゃ、絶対にないです」

「あらら、絶対ですって!」

「だって、最初は、あんなだったんだから。恋とかそんなはずないです」

「最初?」

最初ねえ……と、リウィスは顎を撫でながら再び真面目な顔で宙を眺めた。しかしすぐに真面目な表情を納めて、むふんと瞳を細めてから、赤い液体をちゅっと吸う。ほんのりトマトの香りがした。

「さいしょ?」

ディディもまた復唱する。「さいしょ、ささいしょ」と相変わらずどもりながら首を捻っている。リウィスは「そうねえ」と少しだけ考え込み、やがてとってもいいことを思いついた、という表情で、ぽむ! と手を打った。

「最初が分からないんだったら、やるべきことがあるわよ」

「えっ」

「ウィーネちゃんったら、おべんきょの基本なのにぃ」

リウィスがディディを挟んでウィーネの頬をつーんと突いた。スキンヘッドに彫りの深い顔で、ウィーネの頬を突いた人差し指をピンと立てたまま、仕草と言葉とは全く逆の悪い笑みを浮かべる。

「分からないところまで戻る、これ。これが一番効果的っ☆」

「どういう意味ですか?」

「いろんなことはそれまでの積み重ねから出来てるでしょ。だから、分かるところまで戻ってみるのよ、ささ、やってみましょ。思い出してみて、いっちばーん、さいしょ!」

最初?

言われてウィーネは最初を思い出す。そうして顔をしかめた。一体あの「最初」がどうだというのだろうか。最初なんてひどかった。呼ぼうと思っていた魔は来なかったし、夏休みの課題もクリアできなかった。……無理矢理されて痛かったし。しかも初めてだったのに。

そんな「最初」からやり直すことに、何の意味があるというのだろう。

ウィーネは頭を振った。

「だって最初が……」

「最初が?」

「一番悪かったから……」

それを聞いてリウィスは「あら!」と大袈裟に驚いてみせ、そうして楽しそうにパチパチと拍手した。一体何が楽しいのだろう、自分はちっとも楽しくない。品行方正なウィーネにしては珍しく反抗的に思ってむっとしたが、そんな表情を気にする様子も無くリウィスは続ける。

「あらあ、じゃあ後はよくなるだけじゃない、あんしーん。一番悪いって思ってるってことは、少なくとも今の方が『いい』って思ってることでしょっ。ほーらね、おさらいしたら、すぐに分かった!」

そう言ってリウィスが笑う。ウィーネはそのことに初めて気づいたように目を丸くした。

あのときよりも、今の方がいい?

「そんなことっ」

「ない?」

問われて、ウィーネは俯く。そんなことはありませんと、強気で言うことはウィーネには出来なかった。アシュマの態度もウィーネの気持ちも最初とはずいぶん異なっている、それは知っている。アシュマの甘やかしは日に日にひどくなり、ウィーネはそれを抗えない。胸の奥にうずうずと疼く気持ちは少なくともアシュマに出会った頃は無かったはずだ。

しかし、それに向き合う事はとても出来ない。ウィーネはきっと傷つくだろうし、アシュマはそれをなんとも思わないはずだ。

「こたえ、答えだすの、は、ウィーネ・シエナさん、です、です」

「まあそうね。どっちにしても初心を思い出すのはいいことだと思うわあ、ねっ、復習! 復習大事よ☆」

何と返答していいか分からずウィーネが顔を曇らせると、魔術学校の鐘が鳴った。それを合図に「さてと」とリウィスが立ち上がる。ディディもひょいとベンチから飛び降りた。

「じゃあ、がんばってねっ、ウィーネちゃん」

「ががががんば、がんばです、がんば」

大男のリウィスと小さなディディがひらひらと手を振った。ベンチに座ったままのウィーネはきょとんと2人を見ていたが、慌てて立ち上がって「ありがとうございます」とぺこりとお辞儀する。正直何に対してお礼を言ったのか、自分にもよく分からなかったが、顔を上げた時にはすでに2人は中庭を出て行くところだった。

その背を見送りながら再び座り込み、伏し目がちな黒い瞳でウィーネは考える。

「アシュマとの、最初、かぁ」

しばらくの間、フローズンミルクティーを手にしたままじっとしていたが、やがて何かを思いついたようにベンチから下りた。カップの中身の残りを喉に流し込みながら、ウィーネは再び図書室の方へと向かう。

****

せっかく召喚用の韻文を考えてきたのにウィーネが来られないというのは残念で、アニウスは勉強をする気になれずに図書室にも行かず、食堂で勉強する予定だった本を広げてうなだれていた。

そしてそれ以上にアニウスの心を騒がせていたのが、あの時に見たウィーネの表情だ。確かに泣いていた様子だったが、それを気遣うよりも先に、その艶っぽさに目を奪われてしまった。潤んだ瞳、震える睫毛、白い二の腕、そして首筋に残っていた赤い痕はアニウスには刺激の強いものだった。それがアシュマとの何かしらあった後なのかと思うと、様々な意味で心臓がうるさく鳴り響く。

そして同時に悔しくもあった。

アシュマール・アグリアはウィーネの恋人だ。アニウスにもそれは分かっている。アニウスだけではない。そもそも恋人であろうがなかろうが、2人がいつも一緒にいるのは周知の事実なのだ。

「あれ、お前ひとり?」

勉強道具の上に突っ伏していた後輩に声をかけたのは、ネルウァだった。アニウスが顔を上げると、アイスコーヒーをすすりながら許可してもいないのに同じテーブルの椅子を引いている。

「どーしたどーした、3回振られました、みたいな顔して。しんきくせーな」

にやりと笑ったネルウァの顔も今は憎らしく、アニウスはぷうと頬を膨らませてよそを向いた。男であるにも関わらず、くるくる巻き毛の金髪アニウスの拗ねた顔は愛らしい。……が、もちろんネルウァはそんな趣味は無い。

「いっつもこの時間はウィーネといるだろ? 今日はなんだ、ウィーネはアグリアと一緒か?」

「一緒ではない」

そして声がもう一人加わる。中低音の声にアニウスが顔を強張らせた。たった今、アニウスが敵視していたアシュマール・アグリアがそこにいたからだ。

アシュマはいつものように全く表情の読めない顔で、一冊の本を持って座っている2人を見下ろしている。やはりというべきか、ウィーネはそこにはいない。

「よう、アグリア。今日はウィーネは1人でお勉強か?」

「さあ。図書室からは出て行ったから知らないな」

「へえ、珍しいな」

「何がだ」

「お前がウィーネを知らねえ、なんていうのが」

ネルウァにしてみれば、なんのことはないいつもの会話だった。しかし、そのときはアシュマは珍しいものでも見るような顔でネルウァに視線を向ける。

「珍しいのか?」

言葉が返ってきたことに驚いたのか、だらだらと椅子に体重を預けていたネルウァが身体を起こした。

「なんだ、喧嘩か?」

こういう時のネルウァの勘は鋭い。そして何やら面白そうな匂いを嗅ぎ付けたような表情で、それでいながら慎重にアシュマを伺っている。

当のアシュマは、不思議なものを見るような表情で首を傾げた。

「なぜ、そう思う」

「べっつに。勘」

やはり勘らしい。

アニウスは口を出さずに2人の先輩の会話をちらちらと見守りながら、教科書に視線を落としている。しばし沈黙が下りたが、ネルウァが何かを言おうとする前にアシュマが口を開いた。

「不機嫌だったようだな」

「誰が?」

「ウィーネが」

「はあん。女が機嫌損ねるなんて、よくあることだな」

「……そうか」

ふむ……と唸りながらアシュマが腕を組んだ。図書室の方向にふ……と向けた視線は、どことなく憂いを帯びていて、ただでさえ妖艶な顔がさらに妖しい横顔になっている。

「ま、機嫌損ねりゃ、取りゃいい。好きな菓子でも買っといてやるとか、いつもの倍褒めるとか」

「しかし菓子などをやると、最近は太ると言って顔をしかめる」

「とかいいながら食べるだろ?」

「ああ」

「女ってのは、そういうところがあんだよなー」

アシュマは至極真面目な顔をしてネルウァの話を聞いていた。端正な造作の立ち姿は相変わらず他の女子生徒の眼を惹くのか、何人かが視線を送っている。

そんな周囲の視線も気にすることの無い様子にアシュマに向かって、ネルウァは続ける。

「あとは褒める。褒めるは基本だぜ? かわいいとか、声がいいとか、一緒にいると楽しいとかよ。そういうのを合間合間に挟んでやるんだよ。あ、ちゃんと本気で言ってやれよ? 女はそういうところやたら勘がいいからな。心がこもってないと、不機嫌倍増だ」

「それはいつも言っている」

憮然とした顔でアシュマが返すと、ネルウァが驚いた顔をした。

「いつも言ってるのかよ!」

アシュマは頷く。

「魔力がいいと」

ぶふーっとネルウァがコーヒーを吹く。どう考えても恋人に囁く褒め言葉ではなかったからだ。ネルウァの反応を見て、アシュマが顔を顰める。ネルウァがしまったという表情をした。

「何がおかしい」

「ふお、何でもねえ! 何でもねえよ、そうか魔力かよ!」

アシュマが不機嫌になったようで一気に空気が冷える。ネルウァは口を閉ざし、それ以上のアドバイスは諦めたようだ。しかし。

「セヴェル」

不意にアニウスの名前が呼ばれて、ぎょっとする。アニウスははっきり言えば、アシュマール・アグリアという男が嫌いであるし、苦手だった。ユール・ログでウィーネを争ったとき、自信満々に「あれは俺のものだ」発言をされた上に「手を出すなら相応の覚悟をしろ」と言われたことは記憶に新しい。あの時は心底肝を冷やし、アシュマール・アグリアに恐怖を覚えた。

「な、なんですか……」

そのときの冷えた心地を思い出すが、勇気を出して顔を上げる。

すると思いのほか普通の表情をしたアシュマと眼があった。アシュマが一冊の本をアニウスの目の前に放る。

「ウィーネがお前に読ませると言っていた」

「え?」

「お前に渡そうとしていたものだ」

それだけ言うと、くるりと背を向ける。

何を言われたのか分からず、放り投げられた本を見下ろす。それは召喚用の上級本だった。これをウィーネがアニウスとの勉強に使おうとしていたのはいいとして、なぜそれをアシュマがアニウスに渡すのか。

アニウスはウィーネが泣いていたことを思い出した。

きっと泣かせたのはアシュマだ。首筋に付いた赤い痕、恋人、涙……いったいアシュマはウィーネに何をしたのだろう。

ウィーネはなぜこんな怖い男のそばにいるのだろうと常々思っていた。もしかして脅されてそばに居るとか、無理矢理とか、そんなことを疑ってもいた。しかし物陰でアシュマの腕の中で眼を閉じていたウィーネを見ると、本当に心を許しているように見えて諦めるしかなかったのだ。

アニウスにしてみれば、アシュマール・アグリアはそれだけウィーネのそばに堂々と侍ることの出来る男である。あのウィーネを独占出来るという特権を忘れて泣かせるなど、許せることではなかった。そのくせ、いい人ぶってウィーネの代わりに本を運ぶなど、行動の意味が全く分からない。

腹立たしかった。

どうしてウィーネはこんな男のそばにいるのだ。

「待ってください、アグリア先輩」

ガタ……と席を立って、アニウスは振り返ったアシュマに視線を向けた。相変わらず風貌も雰囲気も何もかも怖いが、ネルウァの言った通りこちらに危害を加えることはなさそうだ。

「どうして、……どうして、ウィーネ先輩を泣かせたんですか」

「……」

何か言い返すかと思ったアシュマは、何も言わずに視線で続きを促した。アニウスはごくりと唾を飲み込んで、誘われるように言葉を続ける。

「アグリア先輩は、ウィーネ先輩の恋人なんでしょう?」

「そうだ」

「なら、どうして優しくしてあげないんですか」

すう……とアシュマの瞳が鋭くきつくなった。思わず後ずさりしそうになるのをぐっと堪えて、今度はアニウスがアシュマの言葉を待つ。それほど長い時間を待たず、アシュマは口を開いた。

「恋人だから、か?」

「え?」

興を引いたようにアシュマが一歩、二歩、去りかけたテーブルに戻ってくる。視界の端でネルウァが「あちゃー」という表情をしたのが見えたが、アニウスには自分の発言がアシュマに対してどういう影響を与えたのか皆目見当がつかない。

「恋人であれば、優しくしろ……と。そういうことか?」

言われた言葉の意味が分からず、アニウスは思わず頷く。間違っていない、と思いたい。アニウスの中で「恋人」というのは、決して相手を泣かせたり相手のいやがることをしたりせず、優しく宝物のようにそっと扱うことだったし、ましてや首筋の見えるところに赤い痕をつけるようなことではなかった。

「恋人であれば、優しくするのは当たり前でしょう?」

「なるほど、優しくか」

「ウィーネ先輩はしっかりしてるように見えても女の子なんですから」

「……そうだな」

アシュマはしばし何かを考えていたようだが、案外と素直にアニウスの言葉に頷く。そうして次の瞬間、見ているこちらがぞっとするような顔で嗤った。

「ならば、そうすることにしよう」

まるで悪魔が舌舐めずりをするように見える顔で頷いた。

予想外の表情にアニウスが眼を丸くし、ネルウァが「あーあ」と、アシュマとはまた別種の悪い笑みを浮かべる。それを見て、とても「アグリア先輩分かってくれてよかった」などとは思えず、自分は何かを間違ってしまったのだろうかと奇妙に焦る。

そのとき、急にアシュマが真顔になり周囲に視線を滑らせた。

すぐさま身を翻し、食堂を出て行く。アニウスやネルウァが声をかける間も無かった。

直後、学校全体に異変が起きた。