ウィーネは図書室に戻り、地下書庫への入室許可を取っていた。稀少本や表に出していない本などが大量に保管されている場所だ。本来は予約をしておいて、司書の人に持ってきてもらうのだが、放課後であれば入室許可を得て、自分で取りにいくことも出来る。
管理人に地下書庫の扉を開けてもらう。一度開けた扉は中の人間が出てくるまでは開かれている手筈だ。勝手に閉ざされないように扉を開けたままにして、地下に降りていく。
目的の本はすぐに見つかった。
『闇・螺旋・安寧』という本だ。この書籍に載っている「月光と夕明かり」という詩を使って、ウィーネはかつてアシュマを呼び出した。正確に言うと、アシュマが勝手にやってきたのだが。
初心に戻れ……と言われて、なんとなく思いついたのがこの詩のことだったのである。
この詩をもう一度見たところで、アシュマのことが解決されるかどうかは分からない。そもそも何がどうなるのが望みなのか、それすらウィーネには分からないのだから、答えなど見つかるはずもないのだ。
それでも、もう一度復習することはそう悪くないことのように思えた。もしかしたらアシュマが詩を気に入って、おとなしくなるかもしれないし。
ウィーネは目的の本を取って胸に抱えると、出口へと歩を進めた。
……が。
ふっ……と、地下書庫の明かりが消えて真っ暗になる。
「え……」
扉が閉められた証拠だ。
「うそ」
地下書庫内では灯火を始めとするあらゆる魔法が禁止されている。壁は灯火の魔法ではなく、外界の明かりを取り込んで灯す仕組みになっており、扉を閉めると真っ暗になるのだ。このため、地下書庫を利用する場合は中に人がいる間、扉を開けたままにしておく。
つまり、扉を閉めてしまうと明かりが届かずに真っ暗になってしまうということだ。
しかも扉を閉めて密閉すると、特殊な結界が張られ外側からの魔法も受け付けない。こちらの魔力も外に出ないため、探索や移動の魔法は不可能だ。その結界は代々の校長が施しているとされており、非常に強力かつ綿密なはずだった。
端的に言うと、完全に閉じ込められたのである。
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地下書庫内は本当に真っ暗だった。眼が慣れても周囲は全く見えず、焦りと恐怖が相まって、どちらが扉の方向だったかも思い出せない。片方の手は本を抱えて、もう片方の手は書棚に触れながら、よろよろとおぼつかない足取りでウィーネは歩き始めた。
「なんで、どういうことよ」
書庫の扉は確かに開放し、開けた扉は壁にしっかりと留めて処置したはずだ。誰かが地下書庫に入っていることはそれで知れている。それなのに扉が閉まるとは、開けた扉への処置が足りなかったのだろうか。
「う、う、動かない方がいいのかな」
正式な入室手続きは行ったから、生徒が中にいるということはいずれ分かるはずだ。退室手続きが滞っていれば、変に思って誰かが助けに来てくれる。
そのはずだ。
だが、そうは思っても地下書庫の暗闇とそこに1人という不安は少女には重く、かといって闇の中手探りで歩くのも恐ろしく、ウィーネはへなへなとその場にしゃがみ込んだ。
もしかして、ずっと誰も気づかなかったらどうしよう。
そんな不安が胸を占める。
「アシュマ……」
ぽつりとこぼれ落ちた名前は、ウィーネの使い魔の名前だ。今、彼の悪魔の名を呼べばそれは届くのだろうか。いや届かないはずだ。地下書庫では魔法は使用できず、魔力を帯びた呪語は発動されない。
それに、外から中の魔力は感知できず、受け付けることも出来ない。これは探索の術も効かないということを意味する。この魔法は絶対で、いくらアシュマでもこの魔法が掛かったままではウィーネを見つけることは出来ないはずだ。
アシュマはウィーネがいなくなったことに気づくだろうか。
気付かないかもしれない。
「だって、嫌いって言ったし」
嫌いって言ったから、もう助けに来てくれないだろうか。だって普通は、嫌いなんて言われていい気分にはならない。自分を嫌いな人間なんて、わざわざ助けようなんて思わないだろう。
不意にディディに言われた言葉を思い出す。
愛とか恋とか、皆意味は知っているのに人によって有り様が違う。
あの悪魔は「我に恋をしろ」とささやき、ウィーネを恋人だという。だけど、肝心のアシュマの気持ちがウィーネには分からない。それが果たしてどのような有り様で存在するのかどうかも知らない。
そう、ウィーネは知りたいのだ。
構われているだけなのか、大事にされているのか。
召喚主だからなのか、ウィーネだからなのか。
えさを与えているだけなのか、やさしさなのか。
どうでもいいのか、そうではないのか。
アシュマはいつも「そんなことはどうでもいい」という。アシュマにとっては、ウィーネのことも恋人かどうかもどうでもいい。そのくせ、執拗にウィーネを追い掛け回す。2人が召喚主と使い魔という関係だからと、それだけの理由で。
だが、ウィーネには魔術の契約とか使役と糧とか、そんな理由で身体を許す事も、気持ちを許す事も出来やしない。
だから、絶対にアシュマに気持ちを許してはいけないのだ。
「アシュマなんて嫌い……」
それなのに、あんな風にアシュマの手を振り払って来たのに、いざというときは浮かぶのはやっぱりあの悪魔の顔だった。どうしても頼ってしまう自分が嫌になる。こんなだからアシュマはウィーネの弱いところにつけ込んで、好き勝手するのかもしれない。
とりとめもないもやもやを抱えたまま、暗闇の中、ウィーネはうずくまった。目を閉じても開けても変わらぬ闇は怖い。アシュマの闇色の身体は、ちっとも怖くないのに。
じわりと溢れた涙が瞳を覆う。
「アシュマぁ……」
……再びウィーネがつぶやいた、途端。
「……ひゃっ!」
ものすごい魔力の圧を感じた。そして今まで暗闇だった地下室が突然明るくなり、一瞬目の前が真っ白になる。何が起こったのか、ウィーネが理解できずにいると、座り込んでいた小さな身体を太い腕が抱き上げた。
「ウィーネ」
「あ、アシュマ?」
人のものでない低い音がウィーネの名前を呼ぶ。ウィーネの身体を一気に高いところまで持ち上げて抱き寄せ、熱い吐息が瞼を塞ぐ。
「つかまれ」
もっとも捕まらなくてもアシュマはウィーネを落としはしないだろう。ウィーネが捕まる余地などないほど、ぎゅうと抱き締めて視界を塞ぐと、次の瞬間には地下書庫の空間から消え去った。
****
その魔法の重圧を感じ取った時、リウィス・ドルシスとディディ・ユリスはリウィスの研究室にいた。学校内でアシュマール・アグリアとウィーネ・シエナに関する秘密の存在を知っている者は少ないが、その数少ない教員がこの2人なのである。
「やっぱりどう見ても、普通の女子生徒にしか見えないわよねえ。確かに闇属性一色の魔力は珍しいけどぉ、世界中探しても全くいないってほどではないし」
「ふつ、ふつ、普通の恋するおとめ。乙女にみえま、す。みえます」
「あらやだ! 恋する乙女ですって、ディディからそんな言葉が聞け……」
リウィスが言いかけた時、ガクン……! と思わず膝を折りかける凄まじい魔力と闇の圧力が2人に係る。まさか2人の生徒の噂をしていたからかと思ったが、重圧はすぐに消えた。そして……。
「魔力が!?」
「い、い、いれいず?」
魔法がいっせいに消去されたのだ。リウィスの部屋に張ってあった盗聴防止の結界が、すべて魔力を失い効力が消える。
「何これ、なんなの」
「あー」
しかし、それはディディがぽかんと天井を仰ぎ見るほんのわずかの時間で元に戻った。盗聴防止の結界には再び魔力が充填され始める。
長年魔法学校に勤めている2人の教員ですら、何が起こったのか咄嗟には判断できずに顔を見合わせる。
「今の、まさか」
「すご、す、すごい魔法です、です」
「魔法というよりも、あれは……」
あれは魔法などではなかった。得体の知れない魔力をそのままぶつけられたような、そんな強引な力技だ。術式や呪文の形跡も一切感知していない。おそらく、学校を覆う魔力をすべて掻き消す膨大な魔力を直接ぶつけたのだろう。
『リゥイス、ディディ、そこにいますか』
言葉を失っていると、リウィスの研究室に置いてある連絡用の水晶が光る。校長直結のこの魔法道具は、信頼されている教員のみが持たされているものだ。
「先生、今のは……」
『ふうむ。何のためにこんな所行を行ったのかは不明ですが、噂の生徒の仕業のようですねえ』
水晶からはのんびりとした老人の声が聞こえる。おっとりとした風情で、少しも慌てた様子ではなく、そのことが逆に2人の教員を落ち着かせた。
「範囲、はんいは」
『私が感知したところによれば、学校全体ですね。ですが、既に全ての魔法装置が正常に動作しています。しかも痕跡が全くありません。いやあ、これは驚きました』
あれほどの術を学校に展開し、しかも痕跡を全く残していない。
「壊れたものや、魔力を失って使い物にならなくなったものは無いのでしょうか」
『効果は学校の施設のみで、雑貨や持ち物に掛けた魔法には影響していないようですよ』
「つまり、範囲魔法ではない……と?」
『さて、例えば校舎や家屋が範囲なのかもしれませんね』
いやはや……と言いながら、やがて校長との通信が切れた。リウィスもまた己の思考に戻る。校舎、家屋。……だからリウィスの部屋に掛けた結界が一瞬消えたのかと、頭を巡らせる。あれは研究室の壁と床、天井に陣を設置している。あの間、壁に付けていた魔法の灯火も消えたのだ。
得体の知れない魔力が落ち着いたところでリウィスが珍しく、はあ……とため息を吐いた。
「あれが、もしアグリア君の……いや、闇の界上位二位の悪魔の仕業だとしたら」
「わか、わからないです、ちから」
「そうね……全然、規模感がつかめないわあ」
「でも、でも、なんの、ために」
リウィスは首を振った。一体なんのためにそれを行ったのかは不明だ。ウィーネの身に何か危険が及んだのか、そもそも上位二位の魔の生物の心根など人間などに計り知れるはずが無い。
苦笑する。
人間には「上位二位の悪魔」がどれほどの魔力を持つ存在なのか分からない。そのような位階の相手に向き合ったことがないからである。卑小な人間には目の前の壁がどれほど大きくてもたいした意味を為さないが、それと同義だ。だからこそ、過小評価していた。もしあの魔力を暴力に使われたら、おそらくこの周辺はひとたまりもないだろう。そして、その魔力を「使うな」と抑え込むこともおそらく出来ないはずだ。いや、出来るとすればウィーネ・シエナだけか。
「ウィーネちゃん、あんなのとよく付き合っていられるわね……」
「こちょ、こーちょもすごいです。こーちょ。怖くない。ないないです」
ぴょんぴょんと飛び上がるディディに、リウィスは頷く。そうしてようやく笑う余裕を取り戻した。生きている間にあのような存在を垣間みることが出来るなど、なんと貴重なことだろう。人間と、人間ではない存在と、魔力と、六界の可能性。魔法使いが何年生きて何年研究しても辿り着くことのない可能性に、あの2人の生徒はいとも簡単に辿り着こうとしているのである。
****
本性をあらわにしたアシュマに抱きかかえられて、連れて来られたのはやはりというべきか、女子寮のウィーネの自室だった。寝台の横に降り立った悪魔は、ウィーネを乗せたまま寝台の上に座り込む。
「あ、あの……」
「ウィーネ」
「は、い」
アシュマの声がどことなく怒っていた。別にアシュマが怒ったってウィーネは気にならないはずなのに、やはりアシュマが不機嫌だとウィーネも不安になってしまう。何故だか身体を小さくして、もじもじと返事をした。
「なぜあんなところを1人でふらふらとしていたのだ」
「あんなところって」
「地下書庫だ。大量の魔法が掛かっていて危ない場所だ。1人で行くな。迷子になる」
「迷子って、子供じゃないんだから。それに危ない場所じゃないわよ!」
「しかし、現に閉じ込められただろう」
地下書庫は正当な手続きさえ踏めば、誰でも使用できる場所だ。危ない場所でもなんでもなく、今までだってウィーネは何度か利用してきた。どうして怒られたのか分からず、ついムキになってしまったが、助けてもらった負い目ですぐに声がしぼむ。
「どうして扉が閉まったかは……分からないけど、いっつも使ってるもの……」
「ならば今度使うときは我を連れて行け。1人では行くな」
「どうして!」
「どうしてもだ」
ふん……と不機嫌そうに鼻を鳴らして、アシュマはウィーネの身体を自分の膝の上に乗せた。ゆっくりと髪を梳きながら、漆黒の身体にウィーネを引き寄せ、唇を近づけて来る。その唇が触れ合う瞬間、ハッとした表情でウィーネが腕を突っぱねた。
「あ、あ、あの!」
「なんだ。お前はいつもそうやって我の手を止める」
「だって変なことしようとする、から……あの! どうやって地下書庫に来たの? 扉が閉まっていたら、私の場所も分からないし、転移の魔法も効かないでしょう?」
「ああ。建物にかかっている魔法を全部一時消去した」
「えっ」
こともなげに言い放ったアシュマの言葉に、ウィーネは瞳を丸くする。どうやらあの時感じた魔力の圧力は、アシュマの力だったらしい。
食堂でアニウスやネルウァと話をしていたアシュマは、ウィーネの魔力が唐突に途切れたのを感じ取った。すぐに探したが魔力が弾かれたため、建物全体の魔法をすべて消去したのだという。
「以前と異なり、お前の魔力が消えたわけではなかったから、どこかに隠されたのかと思ったのだ。それなら、隠す障壁をすべて取り去ってしまえばいい」
校舎に張られていた結果は全て相殺されて消え、ウィーネの居場所は一瞬で分かった。すぐさま移動してウィーネを抱き、部屋に戻って来る。そうしてから、魔力の消去を解いたのだ。
「そんな、こと、出来るの」
「当たり前だ。この界の魔法の理で、我が理解出来ぬことなど無い」
どこか得意気に言ってアシュマは機嫌よくウィーネの髪に再び指を入れた。横髪を黒い指先に絡めて遊びながら、もう片方の手を腰に回す。
ぐるる……とアシュマの喉が鳴った。背のコウモリ羽が表に回ってウィーネの細い身体を囲もうとしている。身をよじろうとしたが、アシュマの手がウィーネの腕をつかんで引き寄せ、どすんと胸板にぶつかる。
それも突っぱねようとするが、アシュマの腕の中でもぞもぞと動いただけだ。その動きを瞳を細めて眺めながら、アシュマの手が不埒にウィーネの服の中に入ろうとする。
「やめて! ねえ、アシュマ、アシュマったら!」
「ウィーネ、少し黙っていろ」
「ん」
アシュマは焦れたようにウィーネを無理矢理持ち上げて、ちゅ……と啄むように、唇でウィーネに触れた。唇の動きが耳元をかすめた時、熱い吐息が耳の中をくすぐってウィーネの力が抜けてしまう。力の解けた身体を満足そうに抱えて、その手がだんだんと大胆になってきた。
「ん、あ……ちょっ、と待ってよ、触らないでよ、そんな、だって、私、嫌いって」
言ったのに。
そう言いかけると、アシュマが手を止めてまじまじとウィーネを見た。
「ウィーネ。お前は我のことが嫌いか」
「えっ」
「嫌いか、ウィーネ」
言いながら、大きな手でゆっくりとウィーネの頬をさする。どこか懇願するような声にも聞こえて、ウィーネはあの時ほど激しく「嫌い」だという気にはなれなかった。
アシュマの手を頬に感じながら、唇を尖らせて俯く。
「嫌い、……って言ったら、どうする?」
「別に、どうもしない」
あっさりと返って来た答えにウィーネが顔を上げる。額に掛かっている前髪をそっとすくいながら、アシュマは真顔で言った。
「お前が我を嫌っているかどうかなど関係ない」
「……」
当たり前のように言う言葉に、ウィーネの瞳が曇る。
「お前が我を嫌おうとも、お前は我の召喚主だ。この理は変わらぬ」
やっぱり……。
召喚主と使い魔だからなのだ。だから関係ないのだ。いつもの言葉は、まるで「お前個人には興味が無い」と言われたようにも思えて、再びウィーネの胸のちくちくが復活した。
「それに我は嫌いではない」
「……え?」
言いながら、アシュマはウィーネの身体を自分の胸の上にうつぶせにさせた。うなじの噛み痕を見えるように髪をかき分け、そこに唇を落とす。
「噛んだのは悪かった」
「ええっ?」
謝った? アシュマが、上位二位の悪魔が、ウィーネに謝罪の言葉を口にした? そのことに驚いていると、ぺろりとうなじを舐められた。
「もう強くは噛まない。約束する、優しくしてやろう」
「な、何言って、あっ」
アシュマはウィーネのスカートの中に、ゆっくりと手を差し入れた。
細い身体を大事に大事にひっくり返して寝台に沈め、額ずくようにその身体に覆い被さる。
ぺろりと首筋を大きく舐め、その仕草と言葉とは全く逆の、ぞっとするような低い声が笑みを含んでこう言った。
「優しくしてやろう、ウィーネ」