解けぬ悪魔と召喚主

008.解けない方程式

嫌いって言ったらどうする?

どうもしない。

 

……そっか、どうもしないのか……。

あの時言われたアシュマの言葉は、ウィーネを少しだけ切なくして、そして何故か少しだけ安心させた。悪魔に気を許す事は出来ないけれど、甘えさせてくれる胸と抱き寄せてくれる腕の心地よさは知っている。それが失われなかったことに対する安堵だ。

もう嫌いなんて言わない。
でも、また嫌いって言ってしまうかも。

これ以上かまわないで。
でももう少しそばに居て。

少女は甘い矛盾を抱えたまま、意地悪な悪魔の躯を寝台にして眠る。

****

強い腕に支えられ、たくましい胸の上に乗せられて、ふかふかの上等の毛布に包まれて、この上なく心地よい場所でウィーネは目を覚ました。

あの後すぐに眠ってしまったが、何をしたのか、自分がどれほど大胆だったか、覚えていない訳ではない。またやった……と、うぐぐ……と息を詰まらせたが、うとうとと覚醒しかけた頃合いの気持ちよさに、起き上がる気にはなれなかった。

アシュマと自分の関係になぜか胸が痛む。しかしそれを自覚すればするほど、アシュマとこうして過ごすのが心地よい。時々、自分でも信じられないくらいアシュマのもたらす快楽を求めてしまい、後で思い出しては身悶えするのだ。アシュマに指摘されれば、いつも覚えていないふりをするけれど。

「ウィーネ……?」

身じろぎをすると、アシュマが誘惑するような声でささやいた。悪魔の声は人の声にはあり得ないほど低く重いのに、なぜ耳を溶かすような声に聞こえるのか理解できない。

ウィーネはぎゅっと目を瞑って寝たふりをした。

またいやらしいことをされるかと思ったが、意外な事にアシュマは、ふん……とつまらなさそうにため息を吐いただけで、ごそごそとウィーネの身体を抱き直した。長い指がウィーネの黒髪を梳いていたが、やがて頭を抱き寄せるように手を止める。耳を澄ますと規則的な息が聞こえ始めた。

もしかして寝た?

そうっと瞳を開けて恐る恐る視線を持ち上げてみると、目を閉じているアシュマの顔がちらりと見えた。

うわあ、寝てる。

実は寝ている悪魔を見るのは初めてだ。アシュマはいつもウィーネが目を覚ました時には起きていて、少し身体を動かしただけでも「ウィーネ、ウィーネ」としつこい。寝ている悪魔を見るのは貴重で、ウィーネは自分の身体を動かさないように気をつけながら、視線だけを巡らせた。

とはいっても、ぎゅっと抱き締められている状態ではそれほど視界が広がる訳ではない。せいぜい、自分が置かれているアシュマの胸板の血色の文様が見えるだけだ。

だが、ウィーネにはそれで十分だ。先程まで胸を痛くしていた気持ちを少し忘れて、よくよく観察してみる。

普段まじまじと見ることの無いアシュマの身体の文様。漆黒の鋼の身体に血の色をした文様は、時に恐ろしく脈打つ。しかし、ウィーネには、よほどのことが無い限りそれらが怖いものには映らない。むしろ、ちょっとだけ触ってみたいと思っていたくらいだ。

そろそろと指を伸ばして、文様の一部をつついてみる。ぴり……と一瞬光彩が走る。つつ……となぞると、やはりぴりぴりと光彩が走った。いつもウィーネと事に及んでいる時はどくどくと恐ろしく脈打っているのに、意外と可愛らしい静かな反応を見せ、思わずウィーネの顔がほころぶ。

……と。

「ウィーネ」

「……!」

アシュマの怒ったような低い声が聞こえて、慌ててウィーネはぎゅっと瞳を閉じた。だが大げさに身体が跳ねたのは隠しきれていない。

「ウィーネ、起きているのだろう」

「……」

「ウィーネ、寝ているのか」

「寝てる」

「起きている」

せせら笑うような意地悪な声が聞こえて、アシュマの手が大胆な動きを始めた。

「あ、や、ちょっと止めてよ、寝てるって」

「寝ていない」

「寝てる」

「触れていたのはお前だ。もっと我にれよ。我も優しく……」

「優しくしてやるって言ったら何でもいいって思わないで、あっ」

そもそもこの悪魔がウィーネの気配に気がつかないはずがない。それなのに身体の上に指を這わせて笑みを浮かべるなど、妙な遊びを思いついたものだ。色めいたその動きとウィーネの小さな笑顔は、アシュマの興奮を一気に掻き立て、先ほどまで満たされていた箇所を一気に枯渇させる。

「手を伸ばせ、ウィーネ」

言うとウィーネは、珍しく素直に手を伸ばした。受け止めて抱擁してやれば、アシュマの首にぶら下がるように身体をくっつけて来る。

ああ、そうだ。この感触。

不思議だ。先ほど抱き合ったとき、アシュマは確かにウィーネに持っていかれたと思った。いつもはアシュマが奪うのに、あの時はウィーネが奪っていったのだ。しかし、全く不愉快ではない。

むしろ、そうして飢えた場所に再びウィーネが満ちるのだと思うと、悪い気分ではなかった。

****

「それで、お前はなぜあの地下書庫に居たのだ」

「またその話?」

さんざん味わっても未だにアシュマはウィーネを離そうとせず、いささかうんざり気味にため息を吐いた。アシュマは今度は自身の腿の上に、レースをふんだんにあしらったキャミソールワンピースを着せたウィーネを座らせ、ウィーネが手にしている本を覗き込んでいる。

ウィーネは言おうかどうしようか逡巡していたが、やがて諦めたように本を開いた。

『闇・螺旋・安寧』に掲載してある「月光と夕明かり」の詩のページを開く。

文字に視線を滑らせたアシュマは、それが何なのかすぐに気がついたようだ。

「ほう」

それだけ言って、後ろからウィーネの唇に軽く指で触れた。

「これを唱えるつもりか?」

「別に、そうじゃない」

素直に「そうだ」と答える事が出来ず、ついつい愛想も無く答えてしまう。しかしそのようなウィーネのつれない態度も気にしていない様子のアシュマは、触れている肌に時折指を滑らせながら問う。

「じゃあなぜこれを?」

聞かれてウィーネは、どう答えたものかと首を傾げる。なぜと言われても自分ではよく分からない。ただ、使い魔と召喚主という関係と、アシュマがウィーネにこだわる理由が分かるかと思ったのだ。

代わりに別のことを口にした。

「アシュマは、どうしてあのとき私の召喚に応じたの?」

「言っただろう。お前の魔力は極上だ。最も好ましい」

その極上の魔力を味わい、独占するためにアシュマは召喚に応じたのだ。アシュマは己の望み通りウィーネを手に入れ、魔力を交換して契約を行った。

いつものその答えにウィーネは少しだけ俯いて、アシュマの方を見ないように努めながら、ずっとずっと気になっていた事を聞く。

「でも、でも……私じゃなくても、闇の魔力しか属性の無い人は他にもいるじゃない」

「闇の属性を持つ人間は確かにいるが、ウィーネ・シエナはお前だけだ」

「そういう意味じゃなくて、……私よりも好い魔力の人がいたらどうするの?」

本当はずっと聞きたかったことだ。実際に聞いてみると、蓋をしていた胸の痛みが蘇る。しかしアシュマは怪訝そうに瞳を細くし、まじまじとウィーネを眺めただけだった。

「なぜそんな意味の無いことを聞く」

本当に不思議に思っているという顔だった。つい聞いてしまったウィーネは自分の心の何かが暴かれそうな気がして、急いでぷるぷると顔を振る。ちょっと拗ねた顔をしてみせて、ふいと横を向いた。

「別に、ちょっと気になっただけで……」

アシュマはウィーネの拗ねた横顔を見下ろして。問いの意味が分からずゆっくりと首を捻った。闇の界の魔にとって、選別は己の欲望と感覚が絶対だ。その「絶対」が求めるのがウィーネであり、それ以外ではない。ウィーネであるから極上なのであって、それ以外の存在は決してウィーネ以上にはなり得ないのである。ウィーネの魔力を味わいたがる者は闇の界、特にアシュマの眷属には多くあるが、それはアシュマと魔の感覚が近いからだ。

さらに言えば、ウィーネの魔力は変質してきている。アシュマの魔と混ざり合い、そしてどういうわけか感情の機微が細やかで激しくなった。出会った時よりももっともっと味わい深く、精緻で甘い。

そういえば……と、ふと思い当たる。もしや、ウィーネは自分から魔力が無くなってしまうことを恐れているのだろうか。あの時は随分怖い思いをしていたようだ。

「ウィーネ、お前に魔力が無くなったとて、我が与えてやるから安心しろ」

「え?」

「お前の身体に我の魔力を注いでやる。だから心配せずともよい」

「何それ。別に心配してないし!」

今度はウィーネが意味が分からないという。しかし、アシュマには分かっている。ウィーネに求めるのは魔力だけではない。かつて魔力を失くしたウィーネを前にしても、アシュマは己の欲望が変わらぬことを知った。その理由は分からずとも、その価値観は動かない。だから、心配しなくてもよいのだ。例えウィーネの魔力が失われても、アシュマが与えればそれでいい。

しかし、そんなことは……。

「どうでもいいことだ」

アシュマは小さく笑ってウィーネを後ろから抱き寄せ、アシュマの言った言葉の意味を考えようとしているウィーネの思考を遮る。そうして、開いているページの詩を指でなぞった。魔力やら何やら、そんなものはどうでもいい。ウィーネの唇からあの時の呪文が紡がれ、己の存在を望まれる事を強く請い願う。

「ウィーネ、それよりもこの呪文で我の名を呼んでみよ」

「な、んで?」

「お前は最初つぐみの騎士を呼ぼうとしていた。そうではなく、我を請い、我を呼ぶのだ」

「だから、なんでよ」

「なんでもいい。早く」

アシュマとウィーネの間には既に契約は成立しているはずなのに、なぜそんなことを望むのかがよく分からない。それに本来召喚の術は床に魔法陣を整えなければならないではないか。

それを訴えれば、焦れたように不機嫌な顔になる。

「今更そんなものは要らぬ。お前は呪文を唱えて我の名前を呼べばいい」

「何なのそれ」

「早くしろと言っている」

有無を言わさぬ命令形にウィーネはむっとしたが、誘われるように本を持ち直した。一度、描かれている詩歌に視線を滑らせ、韻文に変換したときの響きを思い出す。

『満月は水より出で、
海はしろがねの板となりぬ。
小舟には、人々さかづきを干し……』

かつて2人が出会った時に唱えた術語フレーズをウィーネの唇が紡ぎ始める。闇の魔を表す韻文のそれは、ウィーネの発する音と魔力が絡まってしっとりと美しく空気を揺らした。

ほう……とため息を吐いて、アシュマの腕が強くなる。その腕を見れば、かすかに……だが、ドキドキと血色の文様が光彩を放っていた。

それが視界に入って、ウィーネはふと思い出した。

いつだったか、アシュマが『命じるならば、我の名を呼んでみよ』と言った時があった。そのとき何が起こったかといえば、何も起こらなかったのだ。単にアシュマが大興奮して、一層粘着質になっただけだった。しかもその日は日がな一日ウィーネを離してくれず、週末を全部使っていやらしいことをたくさんされた。

うわ、危ない。
だまされるところだった。

むむ……とウィーネが顔をしかめて黙り込んだ。それを見て、アシュマがどうした? と覗き込む。その視線を敢えて無視しながら、ウィーネはバタン! と大きな音を立てて本を閉じた。

「やめた」

「何?」

「やっぱりやーめた」

「なぜ!」

いつものアシュマからは考えられないほど、慌てた様子でウィーネの二の腕を掴む。よほどウィーネの口から自分の名を呼ばせたかったのか、無理矢理向かい合わせに身体を向かせると、真に迫った様子でウィーネに顔を近付けた。

「あと少しだろう。なぜ呼ばぬ」

「だって面白くないもの」

また大興奮に陥って、これ以上いいようにされてはたまらない。ウィーネはそっぽを向いたまま本を脇に置き、アシュマの腕から逃れようとがさごそ動いた。

しかしそれが許されるはずが無い。

「ウィーネ、待て、まだ終わっておらぬ」

「終わった終わった、おわり」

「ウィーネ、呼べというのに」

「いーやーでーす」

「なぜだ」

こんな必死なアシュマを見た事が無く、ウィーネは少しだけしてやったりという気分になって、思わずにんまりと笑ってしまう。アシュマの名……アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアス……を呼ぶ事が、一体なぜこんなにも重要なのかよく分からない。確かにあの真の名は、魔力を込めればアシュマを自身の下に遣わす呪文になる。しかしよく考えれば、そうした使い方をしたことは無かった。使う時が無かったからだ。

呼べ・呼ばないの押し問答を繰り広げながら、ウィーネは一つだけ間違えた。

名前を呼んだときにアシュマは大興奮に陥りウィーネをいいように弄んだ。では、今度は名前を呼ばれぬアシュマが焦れて焦れてウィーネをどうするのか。ましてや今、ウィーネはにんまり顔でそっぽを向いている。

「我の名を呼べと言っているのにお前はなんと我侭なのだ」

意地っ張りで生意気な召喚主を持った上位二位の悪魔は、少女の顎をつかんだ。不穏な空気にやっと気が付いたウィーネは、慌ててじたばたと暴れ始める。

アシュマは暴れるウィーネを抱えるように、大きな黒い鋼の身体全体でぎゅうと抱き締めた。悪魔の大きな体躯に比べて人間の少女の身体はあまりに細く小さく、すっぽりと闇色に包まれて見えなくなる。

「アシュマ、アシュマ、動けない」

「ああ」

腕の中でウィーネが暴れているが、その弱い力は児戯に等しくアシュマの身体はピクリとも動かなかった。ただくすぐったくて心地よく、咎めることなく好きにさせる。

悪魔はしばしの間、そうやって、何をするでもなくウィーネを腕の中で抱えてその温度を堪能した。

今、アシュマの欲しいものは確かにここにある。優しくしてやらねば壊れてしまう繊細なもの。噛み付くと泣いてしまうか弱い存在。そのくせ、上位二位の悪魔を翻弄する柔らかい肌と愛らしい声。それらは確かに、他の誰のものでもなくこの腕の中にある。

「ウィーネ、お前は我の事が嫌いか」

関係ないと言ったくせに、もう一度聞く矛盾を悪魔は知らない。

ウィーネに嫌いなどと言われたところで、アシュマの欲望が途切れるはずもないのだ。ただあの時、逃げるウィーネの手を取り損ねたとき、確かに欲しいものの一つが遠くへ行ってしまったような喪失感と焦燥感があった。悪魔が味わった初めての感覚は、気付かぬうちに悪魔の心を震えさせた。

その理由をアシュマは知らない。この心の謎を悪魔は解かない。

しかし、もうこの手を掴み損ねるなどという失敗はするまい。

「嫌いか、ウィーネ」

「今は、そんなに嫌い、じゃ、ない」

ぼそぼそと腕の中で、ウィーネが答えた。

「今は、か」

「だってあのとき噛み付いた! 痛かったんだから!」

「だから嫌いと言ったのか」

「う、……うん」

それを聞いたアシュマは、そうかと言ってウィーネのつむじに頬を擦り寄せた。「もうあんなに噛まない」……と言いながら、うなじを手で撫でさする。

その手の熱を感じながら、ウィーネはもう一度、おずおずと確認した。

「アシュマ、は、私の使い魔だよね」

それを聞いたアシュマが、一際強く……だが苦しくない力でウィーネを抱擁する。

「ああ、そうだ。お前は我の召喚主だ」

ウィーネは頷く。

本当は噛み付かれたから「嫌い」と言った訳ではなかった。自分の心が暴かれそうで、怖くて思わず言ってしまったのだ。そうして言ってしまってから、胸がズキズキと痛くなり、その痛くなった理由もまた隠す羽目に陥った。アシュマがウィーネに求めてくる召喚主と魔力の関係に傷付きながら、その関係を隠れ蓑にして自分の気持ちを閉じ込める。だって、離れるのも近付くのも怖いから。

アシュマはウィーネに使い魔と召喚主であることを求めるがゆえに欲望の在処が分からず、ウィーネはそれしか選択できないがゆえに心を痛める。恋人という関係が偽りなのか真実なのか、その境界は曖昧だ。

魔法の理ならば解けるのに、なぜ自身の心は解けないのか。あるいは、なぜ解こうとしないのか。

一方は解く気が無く、一方は解きたくない。

それでも2人はたった今、同じ場所で同じ温もりを堪能する。どちらも何も言う事無く、ただお互いを感じ取る。片方は満足げにため息を吐き、片方は切なさに目を逸らしながら。