締結のサインをお互いに認め、1部ずつをそれぞれの陣営が受け取ると会合は終わりとなった。お茶が運ばれ、場の空気が軽くなる。
はずが無い。
侍女がお茶を淹れている間中、ずっとアルハザードはリューンを見つめていた。リューンの方はというと、またも笑いがこみ上げてくる。笑いを我慢しているために血の気が引いて頭痛が痛い。だってものすごい斜めに肘掛に凭れて座ってるんだもん、こっち見ながら。しかも、それに合わせる紅茶がまたシュール。獅子王にティーカップ。筋肉質で体格のいい俺様戦士に、華奢なティーカップが小さく見える。もう誰だよ紅茶淹れろつったの。紅茶飲んだら喉に飛び込むだろう。むせ死なせる気か。
リューンはちらっと横目でアルハザードを伺ってみた。やはりこっちを見ている。ガン見だ。……目が合い、彼はゆっくりと身体を起こした。
アルハザードは群青色の物騒な瞳で、こちらをじっと見つめている。リューンは目が離せない。目を離すと殺されそうだ。ほらよく言うではないか。ボス猫と目があったら、目を逸らしたほうが負け、的な。猫?……獅子王だけに。秀逸すぎる。
アルハザードはじっとリューンを見つめながら手を伸ばした。先ほどと同じように、ローブの中だ。リューンはやはり身を引いた。……だが今度はアルハザードはそれを許さなかった。首の後ろまで手を伸ばして、身を引くのを封じる。もう片方の手も伸ばして、ローブの端に手を掛け、……「リューン様」「陛下!」……部下の咎める声が響いたが、意に介することなくアルハザードはそれを取り去った。
肩に届くか届かないかの長さに切りそろえられ、軽く梳かれた黒髪は、長くは無かったが艶やかで美しく、素直に揺れていた。本当に切ったのかとライオエルトが息を飲む。……だが、思ったよりは衝撃的な姿ではなかった。長ければ確かにそれは見事だっただろうが、短い髪はリューンの硬質な美しさを際立たせていた。
……アルハザードは、ローブを取り去った方の手の指で1つ掬い、耳に沿うように手櫛で梳いて、眉を微かに潜める。じっとその目を見ていたリューンは、獅子王の獰猛な雰囲気の中に、ほんの少しだけ、痛ましいものを見るような光が見えた気がした。気のせいかもしれないが。いやきっと気のせいだろうけれど。だからだろうか。なんとなくリューンはアルハザードの手を咎めず、そのままにしておいた。
「髪を切るほど後宮が、……俺が嫌だったか」
その声色は低く、周りの者を震え上がらせるには充分に不機嫌で冷たかった。油断すれば一気に飛び掛られそうだ。獲物に、逃げることを許さぬ低音。……だが、リューンは小さく笑ったのみだ。小さいけれど、アルハザードに対して初めて見せた、彼女の心からの笑みだった。
「いいえ。別にそういうわけではありません」
「では、なぜ、切った」
さらにアルハザードの声が低くなった。まだ後宮が嫌だと言われたほうがよかった、とでも言わんばかりに。
リューンは一瞬瞑目して、その質問に首をかしげる。正直言って、そんな質問が出てくるとは思わなかったのである。獅子王は女が髪を切った理由などという、可愛らしいことを気にする人なのだろうか。
そう思うと、リューンはちょっとだけ悪戯心が沸きあがった。本音を言ってみてもいいかな、などと。一瞬。
「んー……、切りたかったからですかね。……一回髪を短くしてみたかったんです。あこがれみたいなものです」
……今度こそ驚愕に目を見張ったアルハザードから視線を外し、驚きの表情で控えているシドを見上げて笑う。
「だからシド将軍、あのときはごめんなさい。完全に八つ当たりね」
「そういえば、シド。お前はリューンの長い黒髪を見たことがあったのだな」
アルハザードの声が低くなって、シドを睨んだ。これこそ八つ当たりである。シドはアルハザードのその視線を受けながら苦笑し、リューンを見て頷く。
「このように、八つ当たりには慣れておりますゆえ」
「そうですか」言って、くすくすとリューンは笑った。そのやり取りを見て、アルハザードはなぜか憮然とする。
リューンにしてみれば、「髪を短くしてみたかった」これは本当だ。それは龍ではなく、リューンの気持ちだった。龍は日本人だから、リューンと過ごす数年の間に、時に髪を短く切ったこともあった。それを見たリューンはよく言ったものだ。「私も髪を切ってみたい。龍はとってもよく似合ってる」「なら、リューンが切ってもきっと似合うわ」……と。
「似合いませんか?」
リューンは横髪を一房指に絡めながら言ってみる。
が……思いがけず沈黙。あれ、似合わなかったですか。
リューンの言葉に、似合うも似合わないも言わず、アルハザードは眉を潜めた。
「そんな理由で髪を切るのか」
「そんな理由かどうかは私が決めることです。それにしても、『そんな理由』で切ってはいけませんか?」
リューンは急に粛々とした雰囲気を取り払う。慎ましやかな雰囲気から一転した、妙に挑戦的な態度。ラズリとシドにはお馴染の、アルハザードとライオエルトは初めて見る、リューンという人そのものに、室内は微妙な空気に包まれた。……が、意外なことに、アルハザードから冷たい声音は消えていた。代わりに、面白そうなものを見るように、精悍な顔に笑みを刷く。
そもそも、リューンにとっては「そんな理由」ではないのだ。リューンの気持ちを叶える、それは真剣な動機だ。
「本当に、憧れだったんです。本当に、単に切ってみたかった。……ですが、修道院に入ることも叶わない。そもそも、後宮に入ってから切るわけにはいかないでしょう?」
「そうだな」
「髪を切るほど思いつめた哀れな女に『お慈悲』を? 陛下」
そう。このときを逃せば、リューンの気持ちを叶えることは出来なかったのだ。後宮に入るまでなら、髪を切るほど思いつめた女性を拾ってやった皇帝陛下の「慈悲」で済まされる。だが、後宮に入ってから……彼のものになってから髪を切れば、髪を切らせてしまったそれは彼の恥になるだろう。別にアルハザードのことなど、好きでもなんでもないが、間接的にではあれカリスト王国をベアトリーチェから救ってくれた恩人に、絶対に恥をかかせるわけにはいかないのだ。これはリューンの矜持でもあった。まあ、シド将軍には散々言いましたが。
不意に、アルハザードの瞳が細められる。獲物を捕らえた捕捉者の目だ。
……あれえ、ちょっと不味ったか。怖い怖い。目が怖い。
「『慈悲』は気に食わぬのではなかったか」
再びアルハザードの手が伸びてきて、今度は頬と首筋をなぞっていく。顔が近づき首筋に唇を寄せる。しまった。逃げ遅れた。
身を引こうとしたが、なぞっていく手が頭にまわされ固定される。いつのまにかもう片方の手がリューンの肩を掴んでいる。大きな手に、リューンの細い肩など1掴みだ。逃げられない。
首筋に唇が強く充てられたと思ったのは、一瞬。
すぐにぬるりと濡れた感触が伝わって、
チリリとした小さな傷みが、
首筋に、
はいぃ?
チリリ?
チリリじゃねーよ!
って、ちょっと待て、味見するな!跡付けるな!
リューンは自分の手を首とアルハザードの唇の間に持っていって、そのままぐーっとアルハザードを押しやり、一気にまくし立てた。
「痕をつけるな、味を見るな!……気に食わないのではなかったかって……あたりまえでしょう気に食わないですね『慈悲』とかはっきり言って意味分かりません。そもそも『慈悲』が気に食う人がいるんですか?『慈悲』って意味知ってます? 目下の相手に対する『あわれみ』ですよ、あ・わ・れ・み! かわいそうですか、私が、どこが? そもそも、私はあなたのものになるのもいやで……」
「だが、もうお前は俺のものだろう」
「いやいやいやいやまだです。……で、ちょ、何やってるんですかだから味見しないでくださいって人の話聞いてんのか!」
「ほう。俺はこの場で食べてもかまわんが?」
「ちょ、貴方達、何見てんのよ止めなさい!」
その声に我に返った3人が「陛下!」と叫ぶと、ふん……と鼻で笑いながらアルハザードはリューンから身体を離した。
リューンは自分の計画に若干狂いが生じているような気がした。まてまて、私はおもちゃだ。おもちゃでなければならない。つまらないおもちゃ。猫はおもちゃにすぐに飽きるものだ。リューンはふるふると首を振った。
つまらない鳴き声のおもちゃなど、すぐ飽きるのだ。そうなのだ。落ち着け!
もっともそう思っているのはリューンだけだった。
シドとライオエルト、そしてラズリでさえ気づいた。
アルハザードを、あれは完全に本気にさせた……と。
****
「疲れた……」
月の宮に入ったリューンは、これから自室となる部屋に置かれたソファに身を落とし、額を押さえた。
今は、侍女のアルマと室内に2人だ。アルマが淹れて魔法で冷やしてくれたアイスティーを一口口に含んで喉を潤す。
アルマは、リューンの首筋についた跡に気づいてはいたが、言及はしなかった。言及されても困るが。
「皇帝陛下はいかがでしたか」
「いかがも何も」
「味方にも厳しい方、……時に獅子の如く恐ろしいと伺っております」
「恐ろしいねえ……」
「違うのですか?」
「いやー? まあ、獅子のような、っていう評価は当たってると思うよ。顔怖いし。あの顔見たら子供とか泣くな多分」
リューンは肉食系皇帝陛下の姿や雰囲気を思い出しながら言った。彼女にとってはアルハザードが恐ろしいとか怖いとかそういう問題よりも、ただただ疲れた会見だったという印象だ。味見されたし。
跡のついた首元をさすりながら、呟く。
「とりあえず、計画の変更は無し、このまま行く」
「何の計画ですか?」
「一回でヤリ捨てされたあと、ひっそりと地味に過ごそう計画」
「ヤり捨……、リューン様……まだあきらめておりませんか……」
「あきらめないわよ。……今までの姫君は1回通われただけで、あとはひっそりと生活してるの。だから、1回で飽きてくれればそれでOKだと、そう思わない?」
そう力説するリューンを、アルマが生暖かい目で見る。痛い子を見るみたいな目は止めてくれませんかね、アルマさん。
アルマの主は皇帝陛下が後宮の姫君にそれぞれ1回しか通われていないという話を聞いて、皇帝に1回で飽きられればそれでいいと考えているようだ。
だがアルマは知っている。彼女は魅力的だ。美しいというだけではない。その雰囲気、そして情。自分の内に囲った者たちには甘く率直だが、敵には冷たく容赦が無い。身分の差を気にせずに自然に振舞う様子は、あるときは友のようであり、あるときは魅力的な理想の上司のようだ。そのくせ、女王らしいところが全く無いかといえばそうではない。ときおり周囲を驚かせるほど、高潔に振舞う。
……だからこそ、皇帝陛下がその魅力に気づかぬはずが無いのだ。彼女は知らないだろうが、既に彼女の魅力はシド一行にも伝播していた。彼女は好ましい存在として、シド一行に自然と受け入れられていたし、そのときの何名かの騎士は、リューンの護衛の騎士に自ら志願しているらしい。凡庸を完全に演じきるなどリューンには出来ない。アルマにはそれが分かる。本当に1回で終わるのだろうか。
「リューン様。……1度といえど、明日からは皇帝陛下がお通いになる夜もございます」
「んー。まあ、そうだろうね。でも大丈夫よ?」
「リューン様」
アルマは労しげに目を伏せた。彼女はリューンの身に何が起こったのか知っている。彼女が15歳のときから3年間受けた凄惨な責め苦を知っている。アルマの罪として、それを聞かせたのは龍だ。それを思って苦しんでいるのだろう。皇帝陛下が与える性行為が、どんなものなのかはっきり言って分からない。これ以上嫌な思いをさせたくないと思う気持ちもよく分かる。だが幸いなことに、その行為を受けるのはリューンじゃない、龍だ。こればかりはよかったと龍は思う。これを受けるのが、リューンじゃなく、龍でよかった。
……だが、アルマの心配は、それだけではないのだ。龍は、自分とリューンは運命が重なっていた、と言っていた。ということは、龍も15歳のときに何か辱めを受けたのではないだろうか。アルマはそれが、心配だった。
「大丈夫。つまんないおもちゃはすぐに飽きるよ、きっと」
心のうちを隠すように、適当にひらひらと呟いて、リューンはアルマに言った。
「……で、さ。物流関係の資料、ちょっと確認しときたいんだけど」
「……リューン様! 今日はもうお休みくださいませ。……それに、領政はラズリや他の者にお任せください」
「ああー、分かってる。彼らの仕事を奪うつもりはないよ。どうしてもダメっぽいときにしか口出さないし、アドバイスくれって言わないと何も言わない。でも、物流の資料は別件で確認しておきたいの」
「ダメです。とっととお風呂に入ってとっとと着替えてとっとと寝てください!」
「あのね、ア……」
「リューン様!!!」
「はい。すみませんでした」
リューンは仕方なく休む準備に入った。……疲れているのは間違いないのだし。
※頭痛が痛い。
……笑いすぎると、頭がクラクラしますよね。