胸元に豊かにギャザーを寄せたブラウスに、カチリとしたジャケット。何枚もの布をアシンメトリーに重ねたスカート。腰にはコルセット風の編み上げオーバースカートを穿いている。肩に載せたフードは軽い風合いの布で出来た鎖骨辺りの短いもので、完全には被らず、短い髪を隠すように耳の上辺りで留めていた。全体の服の色は黒。布と布の間には臙脂色があしらわれている。
リューン・アデイル・ユーリル女公爵。帝国属領カリストにおける、無所領公爵(領地を持たない公爵)である。
今日より獅子王皇帝アルハザードの後宮に入り、月の宮で暮らすことを許された姫君。女性で居ながら髪を切ってしまい、だがそれでも皇帝の慈悲で宮に上がったというのは、陽王宮に出入りする一部の人間にのみ正式に通達されていることだ。
そして彼女は、昨晩アルハザードが、まだ正式に後宮入りしていないにも関わらずその宮を訪れ一晩を過ごし、どの女性とも過ごしたことのない朝を迎えた姫君でもあった。
アルハザードは後宮に3人の姫君を入れている。入宮してからまだ1年ほどだが、どの姫にも1度通ったきり出向いていないのは有名な話だ。また、どの姫と過ごしたときも朝は迎えていない。夜訪ね、夜半に宮を出ていた。さらに時折、高級娼婦を呼ぶときがあるが、その際も別室で女を抱いたあと、必ず夜中には自室に戻る。そこに今まで一切の例外は無かった。その例外を破り、アルハザードは朝までリューンの部屋で過ごし、朝……それも普段の起床よりも随分遅い時間に自室に戻って、風呂や着替えを済ませたあと執務室へ出かけて行ったのだ。この話は、もう今日中には王宮中を駆け巡るだろう。
陽王宮の護衛騎士の統括を勤めるギルバートは、無論この事実を最初に知った。アルハザードが月の宮に出向いたのは知っていたが、結局そのまま朝まで戻らなかった。どこで過ごしていたのか、などと聞くまでも無い。
「陽王宮の筆頭護衛騎士、ギルバート・キュールです。ユーリル様の月の宮における護衛についても、私に任せられることとなりました。後ろに控える6名が交代で月の宮の護衛に当たります。以後、よろしくお見知りおきください」
ガシャリと鎧の音を響かせ、ギルバートと後ろに控える6人が膝を付く。6人? この数が多いのか少ないのか、いまいち分からないな。……リューンは、7人の騎士達の姿に好奇心と、戸惑いを覚えた。というか、いきなり膝折られるのとかはっきり言って困るし。リューンがこの世界に来て2年。いまだにかしづかれることに慣れていない。
ギルバートは薄く口ひげを蓄えた穏やかそうな騎士だった。うん。まさかここに来て、お髭のよく似合う紳士が登場するとは思わなかった。髭がなければ若く見えそうなので、要するに、若く見えるところを髭で抑えているってところか。見たところ30歳くらいで、恐らくアルハザード達と同じくらいだろう。
それにしても、(多分)30歳という若さで髭か。はっきり言おう。いいね。何度も言うが、敢えて若さを抑えているところが実にいい。もう一度よく見せたまえ。
「キュール殿も6名の騎士様方も、どうか起立して顔を上げていただけますか?」
「は」
リューンは淑やかな笑みを浮かべて、お願いをするように首を傾げた。
再び鎧の音がして、7人が顔を挙げて起立する。それを見て、リューンは椅子から身を起こしてギルバートの前に歩みよると一礼した。護衛騎士全員がぎょっとして、目を丸くする。カリスト王国の元女王、現公爵、月の宮の姫君ともあろう人が、一介の騎士に一礼するなど信じられないことだ。
「リューン・アデイル・ユーリルと申します。月の宮の警護任務に当たっていただき感謝しています。……わたくし不慣れなこともあるかと思いますが、これからよろしくお願いいたしますね」
「ユ……ユーリル様!」
「はい」
「よろしくお願いしますなど……もったいないお言葉です。礼も敬語もお控えください」
「キュール殿」
「……は」
「わたくしユーリルと呼ばれなれていないので、リューンと呼んでいただけませんか?」
「は?」
「貴方方も」
リューンは、ギルバートの後ろに控える6人の騎士を見回して微笑んだ。6名のうち3名は女性の騎士だったし、残りの3名はシドとこちらに出向くときにも居たはずの、顔を見知った騎士だった。心強いとリューンは率直に思う。
……だが、リューンの余裕とは裏腹に6名の騎士は明らかに動揺した。失礼のない程度に、わずかに同僚と顔を見合わせる。そのざわついた雰囲気に、ラズリは苦笑して、助け舟を出した。
「キュール殿。リューン様は堅苦しい雰囲気や、息苦しい形式に慣れておりませぬ。それに仰られた通り、ユーリル公と成られてまだ日が浅いのです」
「……はあ……」
リューンの家令ラズリが、ギルバートに向かって頷いた。
「では……リューン様。それならば、どうぞ我らのことも名で呼んでいただけるようお願い申し上げます」
「はい。わたくしの我侭を聞いていただいてありがとう。ギルバート殿」
その笑顔で、護衛騎士達の緊張が解けて柔らかいものになる。それぞれの名乗りに頷きながら、一人ひとりに「よろしくお願いします」というリューンに全員の顔が綻んだ。
陽王宮の月の宮。後宮入り1日目にして、護衛の騎士達はリューンに陥落している。
****
「事業、ですか」
「うん。私の後宮予算に充てる分を稼げる程度に、何かできないかなって」
「それならば、皇帝陛下が個人所有している鉱山の利益が充てられることになるそうですよ」
「は?」
「今日の閣議で、そのように決められたそうです」
「そ……それって」
「少なくとも予算の心配は不要、ということでしょうね。帝国の税金も使っておりませんし」
「ははは」
そこまで掘、埋めなくてもいいから。もうほんとそっとしておいてくれませんかね。
午前中に護衛騎士の紹介を受け、午後はラズリと今後の打ち合わせをしていた。ラズリは月の宮の家令としての職も得ている。カリスト領と帝国の渉外に加えて家令としての動きというのは大変だろうから、こと、宮の運営に関しては、リューン自身にもある程度口出しさせるように言い含めておいた。あまりリューンの手を煩わせたくないラズリは渋ってはいたが。
だが、リューンは公爵といえども名ばかりで、領地を与えられているわけではない。したがって領政を執ることもない。言い方を変えると宮に居てもすることがない。ユーリル公爵としては政治に関わるつもりも無い。することがなければ無いで図書室の本を上から下まで全部読んでやろうと思っていたくらいなので、ある程度の宮の運営ならば別段苦でもないだろう。
……で、一通りの今後の方針(という程度のものでもないが)を決めて、昨日考えていた個人事業の件を相談したのだ。
「はいはーい、ラズリさん」
「なんでしょうか」
「聞かなかったことにしたいんですが」
「無理ですね」
「でしょうね」
「リューン様、昨晩は一体陛下に何をされたのですか……」
「それどういう意味、陛下が何?」
ラズリが額に手を充てて嘆息した。雨王宮……王城の執政宮へ赴き、帝国宰相ライオエルトに今後の執務の方針について相談したときである。打ち合わせを終えて雑談をしている際、月の宮での出来事が早速帝国宮廷で噂になっている、ということを聞いた。端的に言うと、「あの皇帝が女の部屋から朝帰りした」という噂である。もっとも噂ではなく真実であることを、家令のラズリはもちろん知っている。
「何それ」
「そのままの意味でございましょう」
「いやいやいやいやいやいや。何それ変なの?変なことなの?」
「変、とは」
「確かに後宮だし相手は皇帝陛下様だから、ヤったら別々の部屋で就寝っていうのも、……あー、アリといえばアリ?……って、いや、知らないし! 後宮とかこっちにないから知らないし!……帝国の文化的に、男が女の部屋で朝まで過ごすのおかしいの? ダメなの?……普通は朝まで過ごすんじゃないの? ヤるだけヤったら、はい終了ーがデフォルトなの!?」
「……リューン様、多少言葉を謹んでいただけますか。……それから、デフォルト、という意味が分かりませんが」
「ええと、すでに決まっている既定の事象という意味」
そんなことは聞いてない。
「男性の君主が女性の部屋で朝まで過ごすのは特に珍しいことではありませんよ……。ただ、皇帝陛下の女性事情については、朝は迎えない。それが通常だったようですね。……その、後宮での事情はそもそも3回しか例がありませんし、他は陛下が呼ばれた女性のことですから、分かりませんが」
「じゃあ、そんなに話題になるほどのことでもないのでは」
「よほど意外だったのでしょうな」
「ははは。意外て。いい歳した男が女の部屋から朝帰りしたくらいで意外て」
正直、そこまで考えてなかった。
「……皇帝陛下のお気持ちまでは私には分かりかねますが、現在後宮に入られている姫君は、特に皇帝陛下が望まれた姫君というわけではなく、何度も入れろ入れろと押し切られ、あまりの煩さにうんざりして迎えたというお話も聞いておりますし、特に女性に情を掛けられるような方でもなかったようですので、余計に噂になっているのでしょう」
「いや、情っていう問題でもなくてですね。人としてのなんといいますか」
はーやれやれとため息をついて、リューンは額に手を充てて眉を寄せた。
そういえば、シド将軍も陛下を紹介するときに「声を掛ける姫君は全て一瞥したのみで震え上がります」とかなんとか言ってたっけ。一瞥しただけで……って、やだ……、それって……ある意味かわいそうだな。かわいい女の子に声を掛けては怖がられて逃げられる獅子の背中を想像して、リューンはしんみりしようとしてみたが、想像力の限界を超えた。
「……で、それってかなりの話題になってるの?」
「無論、皇帝陛下の前で表立って口さがなく話すものはおりませんが、」
「そんなことしたら眼だけで2、3人殺しそうだよねえ」
「……それはともかく、リューン様の動向が注目されているのは間違いないでしょうね」
……あまり注目を浴びたくはないのだが、朝帰りくらいで噂になるとは思わなかった。迂闊である。この程度で噂になるのであれば、一体他に何に気をつけろというのだ。
「そういえば、私がいきなり月の宮に入ってるってことに、煩く言いそうなものは居る?」
「リューン様のもともとのご身分もあって、それについてはあまり問題視されてはいないようです。ただ、会う前から皇帝の寵愛を一身に受ける姫君として、騎士や侍女達の間ではもっぱら噂になっているようでした」
「やっぱり噂になるのか……」
静かに暮らさせてはくれませんか。
「まあ、とりあえず陛下がこっちに通わなくなったら噂も止むでしょ。晴れて『月の宮にいる謎の人』よ」
「謎の人……あのですね、リューン様、陛下が通わなくなるようなことを何かなさったのですか?」
「え、いや、何もしてないわよ。っていうか、通いたくなるようなことは何もしてない」
「ならばあきらめたほうがよいかと」という台詞をラズリは飲み込んだ。リューン基準の「通いたくなるようなことをしない」ことが、一体どこまでアルハザードに通用するのやら。我が主は人を見る眼はあるのに自分を見る眼が全く無い。姿形だけではなく、その纏う雰囲気と、理知的な瞳の動きが彼女の美しさの基本になっていることを知らないのだ。
彼女は男から見ても女から見ても、主君としても、友としても、魅力的な人間だ。アルマも言っていたが、その魅力に皇帝陛下が興味を持たぬはずが無い。
ラズリは、もちろん、リューンの「皇帝陛下にヤリ捨……1回通われたらあとは放置される計画」を知らないわけではなかったが、それは恐らく叶わないだろうと考えていた。だとすれば、自分は、彼女の皇帝との夜伽以外……の身辺ができるだけ静かに平穏になるように努める他無い。だが、この程度で噂になってしまうとなると、一体何をして、何をしなければ平穏静かになるのだ。
……そもそも、リューンその人が平穏静かとは縁遠い気がするが、ラズリは沈黙しておいた。