獅子は宵闇の月にその鬣を休める

010.零れた水

いつもの夜。いつもの月の宮。アルハザードの腕の中にあるのは、リューンの、いつもの困ったような表情だ。

「また来たんですか?」

……彼女はいつもと同じように問いかける。答えは決まっていたはずだった、「来て何が悪い」と。

だが、その日は違った。

「……俺が来るのが嫌か」

とうとう、アルハザードは聞いてしまったのだ。手に入らないもどかしさと、胸が締まるような苛立ちを持て余して。

その問いかけに、リューンがいつもとは異なる、ハッとした……戸惑ったような表情を浮かべて言葉を詰まらせた。いつもなら必ず何かを打ち返してくる余裕が、このとき彼女には無かったらしい。アルハザードはそれを肯定と受け取った。そして、何かを言いかけたリューンの唇を強引に奪った。

彼女は確かに何かを言いかけた。

だが、その言葉の先を聞くことはなく、その日は無理やりといってもいいほど彼女を激しく貫いた。

****

「いやいや、ユーリル様が後宮に入られて幾ばくも経っておらぬのに、皇帝陛下の寵をすっかりお受けになって、まったく喜ばしい限りですな」

「そんなことはございません。わたくしなどに勿体の無いお話でございます」

あーもー、なんなんだこの絵に描いたようなエロハゲ狸は……。うっざいな。うっざい。エロ・ハゲ・狸と来たら、悪役小物フラグ立ちまくりじゃねーか。いえいえ、普段であれば頭髪が薄いのはあまり気にしない! 気にしない!……のだが、これはダメだ。人を見た目で判断しているわけでは断じて、ない。ただ、好色そうな目つきはダメだ、いただけない。一気に小物度が上がる。

気を緩めると不機嫌な顔を露にしてしまいそうで、政治家秘書時代に身に付けた得意技・秘書スマイルをMAXレベルで行使しながら、リューンは目の前のエロハゲ狸に対応していた。傍らにはラズリと護衛騎士のギルバート、後方にはアルマ、入り口には護衛がもう1名控えている。そして目の前にいるのはハゲ狸。

ラーグ子爵。帝国貴族である。

ここ数日、昼にこのような貴族からの面会希望が増えていた。ほとんどの面会については断っていたが、この男は皇帝陛下がどうのこうのと言って、面会をねじ込んできたのである。

彼は確か司祭の地位を持っていたはず。帝国の神事に対してある程度の発言力を持っている人間だろう。

彼は、リューンが慎ましいのを言いことに、穏やかな表情のその奥に好色そうな気配を誤魔化して、へらへらと笑っていた。聖職者が笑えば好色が隠せるとでも思ったかバカめ。信者ならだませるかもしれないが、並み居る政治家の、女を見るいやらしい目付きや視線を何度となく受けてきたリューンは、当然ラーグが発するそれに気付いていた。

帝国の神殿教会。皇帝自身の手も伸びていないらしい。事実上の長であるバルバロッサ第一枢機卿が人格者である、ということも相俟ってノーチェックというわけだ。各要人達がどういったパワーバランスなのかは、リューン自身はもちろん把握し切れていなかった。要するに、目の前のラーグは、リューンにとっては聞いたことの無いただのハゲたエロいおっさんでしかなかったのだ。しかも話が長いしくどい。はっきりいって、飽きてきた。その飽きた話の最後に投下されたのが、「皇帝陛下の寵」であった。

「しかし、ここ数日皇帝陛下はお忙しいようですな」

「皇帝陛下は帝国を支える大切なお方。常にお忙しい御身でいらっしゃいますでしょう」

このハゲ……じゃない、ラーグは恐らく、この3日間アルハザードが月の宮に出向いていないことを言っているのだろう。

リューンは、すう……と目を細くした。だが、それも一瞬。寂しげに目を伏せた。その表情はあくまで慎ましやかで、僅かに不安そうな色が滲んでいる。無論、演技だ。

リューンが後宮に入ってから10日間、毎日のように通っては毎日のように朝帰りしていたアルハザードは、この3日間急に月の宮を訪ねるのを止めた。原因に心当たりはある。

彼とリューンは、「また来たんですか」「来て何が悪い」「なぜ来たんですか」「来るのに理由がいるのか」というやり取りを繰り返し、政や国の話をしたり聞いたりしながら、なし崩しに夜伽に入り、何度か抱き合うという日々を繰り返していた。そして、アルハザードは朝寝ているリューンの身体を愛しげに触れて部屋を出て行くのである。

……が、4日前に彼の問いが「……俺が来るのが嫌か」という台詞に変わって、咄嗟にリューンは何も言えなかった。アルハザードはその表情を苦い顔で見下ろし、その日はいつになく荒々しく雑にリューンの身体を抱いたあと、朝黙って部屋を出て行ったのだ。それで、リューンは明らかに安堵した。やっと飽きてくれた。やっと、呆れてくれた……と。

アルハザードの与える快楽は、あまりにも優しくて、まるで愛されているように感じるのがリューンには苦痛だった。自分は彼を悦ばせることが何一つ出来ず、彼に応えることが何一つ出来ず、そのつもりもないのに、彼が与えるばかりの悦楽に罪悪感を感じていたのだ。

そして彼は来なくなって、3日目になる。正直に言うと寂しくはない。これはもともとリューンが望んでいたことだ。もう次はないだろう、そう思って感じるのは、水を並々と注いでゆらゆらしていたグラスがとうとう倒れて、中身が床に散らばってしまったような、あの奇妙な安心感と、諦めだった。自分から接触する権利は後宮の女であるリューンには与えられていないし、与えられても行使することは無い。自分から何かを望むことのなかった龍もリューンにも、その諦観にも似た感情は慣れたものだった。

「もし、何かご心配なことがあるなら、このラーグにお申し付けくだされ。必ずやお力になれるでしょう」

それをラーグが指摘してくる、というのはさて、恐らく何かしら意図があるのだろう。目の前にいる男からはろくな雰囲気を感じない。ろくでもないことをたくらんでいるか、何も考えていないかのどちらかに違いない。どうしたものか。

「まあ……」

リューンは、伏せていた黒い瞳を上げてラーグをちらりと見上げ、そしてもう一度寂しげに伏せる。ラーグはその瞳を見て一瞬怯んだように目を見張り、身を乗り出して熱く語り始めた。

「リューン様は、修道院に上がろうと髪まで切られたことがおありとか。……私めは不肖ながら司祭の地位におりまする。リューン様の信仰の手助けになるようなことがあれば、是非打ち明けてくだされ……!」

「ラーグ殿!」

修道院と髪の話題を出したことをラズリが窘め、ギルバートが小さく鎧音を立てる。その声と音に、ハッと我に返ったラーグが非難がましく声を震わせた。

「……な、私はリューン様の身を心配しておるのだ!」

「ラズリ」

リューンはラズリに向かって小さく頷いた。その唇には慈愛めいた微笑みすら浮かべて。……ラズリは一礼して、控える。彼は心中穏やかではない。別の意味で。

「ラーグ様……。ラズリの言葉はわたくしのためを思っての言葉なのです。……どうかお許しくださいませ」

「……う、うむ。リューン様はご自分の家令にすら気遣う、優しい方でいらっしゃる。教会の教義も貴女のような方には必ずやお力添え下さるでしょう」

ほほう。随分教会とやらを推すじゃねーか。なるほど、修道院ねえ。修道院の話も髪の話も公には伏せられていたはずだが、それを話題に出してくるとはいい度胸だ。リューンはラズリの方をちらりと見る。ラズリがかなり冷え込んだ厳しい目でこちらを見返していた。うわあ怖い。すみません調子に乗りました。

リューンは両手で胸をそっと押さえて、ラーグの顔を覗き込むように首を傾げた。もし何か目的があるなら今後食いつくだろうし、何もないならそれでいい。

「なんて心強い。ラーグ様は教会の要職にお就きになられているお方。……お優しいのですね……?」

ラーグがその雰囲気に押される様に、目を開く。あー、気分悪い。それとてめえさっきから気安く名前呼ぶんじゃねーぞこのクソハゲ野郎。……と言いそうになるのをぐっと堪えて、寂しげに笑ってみせ、ラズリに向かって頷いた。それが合図だ。

「ラーグ殿。リューン様は次のご用件が控えられておりますので、そろそろ」

「リューン様」

「今日はありがとうございました。楽しいお時間をいただいて、感謝しておりますわ」

名残惜しそうなラーグに一礼してリューンは席を立った。ギルバートがリューンの手を取って、応接室への奥へと立ち去り、いまだリューンに後ろ髪を引かれた様子のラーグを、ラズリともう1名の護衛がやんわりと月の宮から追い立てた。

****

「リューン様」

「はい」

「私が何を言いたいか分かっておりますか」

「はい」

「あのように何を考えているか分からない輩を煽るのは止めてください」

「あの程度。別に煽っているつもりはないですが」

「リューン様」

「最終目的は知らないけど、少なくとも、あれはセクハラな感情をいだいている、というのは分かったわ」

「セクハラ?」

「性的嫌がらせ」

「……」

絶句するラズリを尻目にリューンは思案を巡らせた。もとよりラーグの面会を許可したのは、最終的にはリューンだ。面識のある人以外の面接は断っていたが、ラーグが皇帝の名を使ったのが癪に障った。……もとい、気になった。ぱっと見、皇帝が気にかけそうな輩でもない。ましてや皇帝が「リューンに会ってもよい」と言いそうにない人物でもある。

「ラズリ」

「はい」

「あのハゲ、アルハザードの名前を出したでしょ」

「皇帝陛下がリューン様のことを気にかけておいででしたので、とかなんとか仰っていましたね」

「となると、ハゲが私に会う前に陛下に会っていた、ということになるかしら」

「……業務の報告にお会いになる、ということはあるかもしれませんが」

「朝の会議に出席はしてるのかしら」

「閣議への参加は枢機卿で、ラーグ子爵には参加の権利はございません」

「教会関係者は第一枢機卿が出てる?」

「ええ。ですが現在は第2位の枢機卿が参加されております。バルバロッサ卿は現在雨王の神殿にて、神殿騎士の視察を行っておりますので」

「あー、はいはい」

帝国の騎士は、騎士の叙勲を受ける前に雨王の神殿というところで一定期間の訓練を行う。一部は神事を守る神殿騎士として神に仕えることになるため、その視察を行っているということだった。

「じゃあ、たぶんハゲが陛下に会うことはまずないわね。何かあるんだったら枢機卿2が会うでしょ。だとしたら、陛下の名前をかるーい気分で出したのは独断かしらねえ」

「確認を?」

「んー、陛下に確認できれば早いけど無理っぽいしなー。ラズリからライオエルトさんにさりげなく確認してもらえるかな」

「かしこまりました。お会いになりますか?」

「その必要があるなら、ライオエルトさんの方から何か言ってくると思う。こっちからは遠慮して」

「は」

本音を言うとライオエルトに進言するのも憚られた。だが、面会したことはいずれ分かる。黙っているよりは先制して話しておいたほうがいい。それに、リューンが表立って動けない以上注意喚起はしておかなければならない。自分が自由に動けて、なおかつ、ここがホームグラウンドならばいくらでも調べ上げていくらでも自分を餌にして尻尾を捕まえてやるのだが、今出来ることは限界がありすぎる。限界が……というよりも、ほぼ何も出来ないのが現状だ。かといってあまりラズリやアルマの手を煩わせるわけにもいかない。

それにしても、皇帝陛下の信頼も厚い人格者である第一枢機卿が留守のときにリューンに接触してきたセクハラハゲ……、はっきり言って、ろくでもない。取るに足らないかどうかは、ライオエルトが判断するだろう。できれば面倒ごとは避けたい。自分に降りかかる火の粉であればどうとでもなるが、帝国……そしてアルハザードに向ける矛先に、自分が利用されるのは阻止したいところだ。

それにしても。

「私が目的なら稚拙すぎるし、アルハザードが目的にしては低俗だな」

「皇帝陛下が目的……というのは」

「あの皇帝ひとが、あんな小物を自分に近づけるわけがない。だから、私に近づくんでしょ」

「一応子爵という身分でいらっしゃいますが」

「皇帝陛下にしてみれば彼の爵位なんて関係ないでしょうね」

「リューン様」

「はいはい」

「いずれにせよ、リューン様が直々にあのように無為に餌をバラ撒くことはお止めください」

「餌になってるんだか分からないのに、餌とは言えないよ」

苦笑して肩をすくめるリューンを見やると、ラズリは大きくため息をついた。彼女がカリスト王国に居た2年で自分を餌に貴族を釣ろうとしたことは度々あった。それは常に事前に阻止してきたし、結局は自由に身動きの取れないリューンだったから、ある程度行動を制限させることも出来た。だが、今日のように予測不可能なところで飛び出されるのは困る。

リューンが皇帝陛下にコンタクトを取れれば一番早い。……が、主はそれをしないだろう。ライオエルトやシドに会うことすら、自分の名目では行わないのだ。皇帝周辺の相関図に自分を接触させないように配慮しているのだろう。

「リューン様。皇帝陛下と何かあったのですか?」

「ん? 何もないわよ。……あー、また何か噂にでもなってる?」

「いえ、別段大きな噂にはなっておりません」

「そう。ならいいのよ」

リューンはラズリにライオエルトの元に行くよう、促した。

****

「陛下。シド将軍がお見えです」

「通せ」

皇帝陛下近衛騎士ヨシュアは明らかにほっとした顔で皇帝陛下執務室に客を通した。

この3日間、皇帝陛下の機嫌の悪さは底辺だった。新しく来た月の宮の姫君にこの10日間程みっちりと通って朝帰りしていたときのフラットさと比べると、いっそ笑える。

もとより機嫌よく仕事をしているとは程遠い御仁であるし、いつも無表情と威圧感で他を威嚇している皇帝が、さらに不機嫌になると、もはや地獄から復活した魔王か冥王もかくやというほどであった。先ほどお茶を淹れに来た従卒など、皇帝陛下の垂れ流す不機嫌オーラに腰を抜かしかけていたではないか。もうこの人が夫婦喧嘩とかやめてほしい。

「バルバロッサ卿の帰還が遅れている様子です」

「ほう。わざわざお前が来たということは理由があろうな」

シドは小さな紙を皇帝に渡した。書かれてある文字に目を通し、アルハザードはその紙を握りつぶす。紙に書かれていたのは「神殿騎士の懺悔」とあった。神殿騎士の懺悔とは、神に仕える騎士がその道に背いていると己が自己反省をした際に、神に対してその告白を行い、神殿騎士の資格剥奪の是非を問う審議を行うことである。それには皇帝の意図は鑑みられず、教会と神殿騎士団に一任されている。

教会の軍事を統括しているバルバロッサ卿は真紅の騎士と呼ばれている往年の神殿騎士で、人格者として知られていた。小さいころの剣術と魔法の師匠でもあるその人には、アルハザードですら頭が上がらない。ゆえに、アルハザードは教会の動向と神殿騎士団の運営についてはバルバロッサの手腕に任せていた。

「騎士の出自を調べておけ」

「すぐにも知れましょう」

「任せる」

しばらく2人の間に流れる沈黙。先制をきったのはシドだ。

「それにしても不機嫌そうですな」

「……シド」

「はい」

「黙れ」

「図星ですか」

「……」

「日が変わるまで執務室に籠もってやるほどの急ぎの執務はなかったように思いますが?」

「何が言いたい」

シドとアルハザードのやり取りに、ヨシュアは戦慄していた。シド将軍、とうとう言うのか。アレを。アレを言うのか。

「リューン様が気になるのでしたら、月の宮にお訪ねになればよろしいでしょうに」

言った(白目)

シド将軍言ってくださった!……て、え、いや、なにこれ、なにこのブリザード。誰冷気魔法かけたの、低っ。温度低っ! うん、前言撤回。なんて事を言って下さったのですか、や、や、やめてください。ひいいいいい!

部屋の温度が一気に下がるのを感じたヨシュアは皇帝陛下の顔を直視できない。唸るような皇帝陛下の声は確実に怒っている。だが、シド将軍はそしらぬ顔でその威圧感を受け止めていた。怖い。はっきり言おう。怖い。もう一度言う。怖い。獅子王と雷将がギリギリと睨み合っている。下手な戦場よりも怖い。

恐々としていた部屋の雰囲気を一時停止させたのは、ノックの音と部屋の外に控える近衛の声だった。ヨシュアが用件を聞いて戻ってくる。

「宰相閣下とカリストの渉外執政官がお見えですが……」

ああ、宰相閣下だ。よかった助かった。この宰相は、無血宰相と恐れられている容赦ない人物だったが、シド将軍と共に、皇帝陛下の幼馴染で学友でもある。この二人の睨み合いを止められるのは宰相以外にいるだろうかいやいない。

だが、ヨシュアの希望は裏切られる。カリスト渉外執政官……要するに、今皇帝陛下の心中を騒がせているだろう姫君の家令ラズリの名前を聞いた瞬間、もうこれ以上冷えることのないだろうと思っていた皇帝陛下の声がさらに冷えたのだ。「入れ」……こっわっ!

アルハザードは執務机から立ち上がり、応接室を顎で指した。そこへ通せということだろう。ヨシュアは部屋に案内しながら、獅子王と雷将と無血宰相の三者に挟まれるラズリという執政官を哀れんだ。