時は昨日の夜に遡る。
リューンの宮に通うのを止めた3日目、アルハザードは抑えられない劣情を処理するため、王城の端にある別邸に高級娼婦を召喚した。別段珍しいことではない。後宮へ通わないとはいえ、性欲が無いわけではないのだ。単に精を解放するためだけの、それは作業のようなものだった。
時に、自分に執着してくる女も居るにはいた。だが、大概その房術で皇帝を虜にして後宮に入ろうと夢見るものや、皇帝の身体に溺れるものだけで、そのような女は直ぐに呼ぶのを止めた。だから、最近では同じ女は呼ばないように指示している。経験が豊富で後の腐りの無いようなものを心得て選ぶようにと娼館の主人には言ってあった。
「皇帝陛下……」
別邸の一室に居た女の姿にアルハザードは舌打ちした。夜目には黒に見えるこげ茶の髪が、豊かに背中に流れる豊満な身体の女だった。いつもは金髪の女を送ってくるのに、わざわざ濃い色の髪の女を選んでくるとは、あの女主人め、見え透いたことを。
アルハザードは自分の下にリューンがやってきてから、1日も置かず彼女の宮に通い、その身体を抱いていた。1日目は怒りに任せてその身体を穿ち、2日目はその身体の甘さに酔いしれた。閨で声を出さぬだけで、彼女は自分の与える手に敏感に反応し、抱くほどに彼女の味は深く濃くなっていく。彼女を抱いた後は離れがたく、自分を挿れずとも、その温かい身体を腕に抱いて眠るのが心地よい。肩に顔を埋めれば少し短いが柔らかく美しい黒髪がアルハザードの耳を擽り、眠る顔を見るのは飽きなかった。
ただ夜伽に満たされているだけではない。伽に入る前に話す彼女の理知的な瞳も、彼の心を騒がせた。政の話、宮廷の話を聞かせるうちに、彼女の問答が自分にも時折刺激を与えることが分かった。
そして何より、今までどんな女も……下手をすれば臣下すら、自分の気配に恐れるというのに、彼女は怯えることすらなかった。自分の瞳をあれほど真っ直ぐに見返してくる女の瞳を見たことが無い。そのくせ、真面目に怒ればしゅんとして、寝台の上で何かを命じれば、戸惑ったような表情でおずおずとそれに答える。
アルハザードは明らかにリューンを求めていた。そして、何日も通ううちに彼女を求める気持ちとは別の気持ちが沸く。
1点だけ満たされない。
彼女は……リューンは、アルハザードを欲しいとは、思っていない。
思えば当然のことだ。彼女を無理やりに後宮に入れたのはアルハザード。あれほどの女が、大人しく皇帝の妃など望むはずが無い。聡い女だからこそ、なおさらだ。
彼女の過去を聞いたのは最初の夜。夜伽自体が望まぬことであるに違いない。……囚われたのは自分の方だ。獅子王として内外からも畏怖されて止まないアルハザードがその事実を認めたとき、彼は苛立った。完全には自分を受け入れないリューンに、そして分かっていたはずなのに、それを愉快に思わない自分に。
彼女は毎日聞くのだ。「また来たんですか」「なぜ来たんですか」……そして、必ず困ったような顔をして、アルハザードに抱かれる。
4日前の夜、アルハザードはとうとう聞いた。「……俺が来るのが嫌なのか」と。彼女は、戸惑った顔で言葉を詰まらせた。その瞬間、何か言おうとしたリューンの唇を強引に奪って、身体を無理やり貪った。ほとんど犯したといってもいいその行為に、リューンはやはり声を上げない。焦ったようにアルハザードの名を呼ぶ声が、あんな時でも彼の背を震わせ、言いようの無い欲望を沸かせる。荒々しく彼女を貫き、彼女の手が戸惑ったように震えてアルハザードの頬に触れる。アルハザードはその日、初めて彼女に背を向けて眠った。彼女を厳しく犯したのは自分だ。それなのに、夜半にやはり起きたリューンは彼の肩にそっと掛け布を掛け直した。
それ以降、3日間ほど月の宮には出向いていない。出向いて、また同じ事を聞かれ、再び困惑した顔をされると、自分が何をするか分からなかった。
「……陛下?」
潤んだ瞳で見上げながら、娼婦がアルハザードの身体にしなだれかかった。大きくて豊満な胸が彼の胸板に当たるのは計算された動きなのだろう。他の男であればむしゃぶりつきたくなるような女の動きに、アルハザードは冷めた思いしか浮かばない。女を目の前にすれば抱く気も起こるかと思ったがまるで逆だ。女には悪いが、面倒という以上の気持ちが沸かなかった。
それでも、彼女の腰に手を回してみる。見下ろすと、女が身体を伸ばして唇を寄せようとしていた。女は手を伸ばしてアルハザードの肩にかけ、唇にそっと触れてくる。思わずアルハザードはその手を掴んで顔を離した。……両手を掴まれた娼婦は、何か勘違いしたらしい。「ああ……陛下……」と、うっとりと甘ったるい顔を浮かべて、アルハザードの筋肉に凭れた。
アルハザードはため息をついて、彼女の手を引き寝台に連れて行く。舌打ちしそうになりながら、アルハザードは寝台の背に自分の背を預け、女を自分の身体の上に引っ張り上げた。
「ああ、陛下。……今宵、お慰めをいただきうれしゅうございますわ……」
娼婦はこれから自分に与えられる行為か、もしくは自分の行為のその先を期待して、蟲惑的な声でアルハザードの上に圧し掛かってきた。唇に自分の赤い唇を寄せる。唇が重なり合い、娼婦の唇が大げさに動く。少し口を開けてやると、待ってましたといわんばかりに遠慮なく舌が押し入ってきた。舌同士がくちゅと触れ合った瞬間、アルハザードは眉を寄せ、苛立ったように彼女の両手を掴み身体から離した。
その不機嫌な顔に、何か粗相をしたかと娼婦の顔が怯え、怯えた顔がまた苛立ちを募らせる。アルハザードは娼婦の手を押さえたまま、彼女を四つんばいにさせた。娼婦のしどけないスカートの中に、手を入れて下腹部を探る。下着を着けていないそこはまだ完全には濡れていないようだ。アルハザードは彼女の四つんばいの上に獣のように重なり、片方の手を掴んで女の秘所に女自身の手を伸ばさせた。
「濡れているか、自分の手で確認してみよ」
「あ……ああ……へい、か」
恐怖と、そして自分でさせられているという行為が娼婦を昂ぶらせているようだ。……もっとも、アルハザードは決して自分でやれとは言っていない。それでも娼婦は自ら秘所に指を埋め、やがてぐちゅぐちゅと音を立てて指を出し入れさせ始めた。
「充分に濡れたら言え」
「……ぁ……ぁ、は……ぃ、へいか……もうっ……」
ぐちゅぐちゅと自分を弄る時間はそれほど長くなかった。程なく、挿れてくれと懇願する声が聞こえて彼女の太ももに手を触れる。アルハザードは服は脱がず、下衣を少し下ろすと自分のものを取り出し軽く手を添えて屹立させた。
……目を閉じる。夜の闇に黒い髪の女を……リューンの戸惑ったような顔が不意によぎって、奇妙な後ろめたさを覚えた。だが、それを振り払うように、アルハザードは四つんばいにさせている女の秘所に後ろから自分を宛がうと、そのまま大きく彼女を突いた。
「あ……ぁぁ……っ!……へ、いか……。ぁぁぁっ……ん……」
女が嬌声を上げる度にアルハザードの心は冷めていく。だが、ほとんど処理に近い動きでアルハザードは女の腰を何度も穿った。結合部から水音が響き、その動きに合わせて女の身体が跳ねる。アルハザードは自分の手でするのと変わらぬ気分で、何度か女を小突いて自分を吐き出し、身体を離した。
「……陛下……?」
「ご苦労だった。しばらくしたら迎えを来させる。服を調えておけ」
次の行為を期待する女を冷たく見下ろしながら、アルハザードは淡々と言い放った。自身も手早く姿を調えると、振り向くことなく部屋を出る。……ここまで自分の気持ちが冷めているとは思わなかったと、後悔ばかりが募る。抱くのではなかった。
抑えられないリューンへの渇望を少しでも潤そうと呼んだはずだったのに、抱く前よりもなお渇きが募るのは何故なのか。
****
室内の帝国3将に囲まれ、ラズリはなんでこんなことになったんだろうかと遠い目でため息をついた。そもそも、ラズリはライオエルトの執務室で報告を行う際「ラーグ子爵とはどのような方なのですか?」と問いかけただけなのだ。「ラーグ子爵がいかがしましたか?」と聞き返され、思案を巡らせる。ラーグがリューンに面会を求めてそれに応じたのは、すぐに知られることだろう。だからラズリはさらりと答えた。
「リューン様の宮にラーグ子爵が面会に来られまして」
……で、そのままあれよあれよと皇帝陛下の執務室に連れてこられ、同じ説明を2度するのは手間でしょうから、とライオエルトににっこりと微笑まれたのである。つまりは、自ら皇帝陛下に直接進言せよ、ということか。なぜ。
それにしても、なんで皇帝陛下はこんなにも不機嫌なのだろう。
「……ラーグ子爵?」
「帝国神殿教会の司教ですな。孤児院や修道院に多額の寄付をしている人物として知られております」
「ああ」
「昔から福祉関係へ寄付や世話役を行い、慈悲深い司教として領地ではそこそこ支持がありますな」
「……慈悲深い?」
慈悲深い司教。リューンが聞けば、お茶を噴出しそうな単語だった。アルハザードとライオエルトの会話に思わず口を挟んでしまう。普段穏やかなラズリの口調が若干毒気のあるものであることに気づき、シドが首を傾げた。
「いかがいたしましたか?」
「……いえ」
リューンは、ハゲとかクソ狸とか言っていました、などと言えば、この3人はどう出るか。いやしかし、皇帝はラーグ子爵のことを知らなかった。恐らく、存在すら忘れていたようだ。ラーグ子爵が皇帝に直近会ったことがある、という出自は消えた。
となると、人づてに「皇帝がリューンのことを気にかけていた」と聞いたか、もしくは独断か入れ知恵、ということになる。人づての場合は恐らく教会関係者だろう。追撃するには情報が足りないか。情報を集めようとしてリューンの身に危険が及ぶのは避けたいし、リューンは渋るだろうがこの3人に進言しておくのが、もっとも主を守る方法だろう。
「……リューンはラーグ子爵に面会したのか」
「はい」
「お前が来たということは、何かあったのか」
「いえ、何もありませぬ……が」
「申してみよ」
すっと、アルハザードを纏う気配が物騒なものになる。ラズリはまだ慣れないその雰囲気に、一瞬ヒヤリとする。……が、自分の主であるリューンへの忠義心を思い出して背筋を伸ばした。
「リューン様がラーグ子爵にお会いされたのは、ラーグ子爵が陛下のお名前を出したからです」
「……ほう」
「もとより断るように指示されていたのですが、ラーグ子爵が『皇帝陛下がリューン様のことを気にかけて』と仰られ、」
「それを信じたのか」
「まさか」
即答。
「はっきりと申したわけではありませんが、『陛下の気に留めそうにもない小物が皇帝の名前を出した』のが気に食わない……との仰りようで、うっとうしい会わせろ、と」
「子爵を『うっとうしい』とは、リューン様らしい言いようですな」
「爵位は関係ないでしょう、……と仰っておりました」
「ああ、なるほど」
シド将軍が苦笑する。リューンがキレたときの台詞を思い出したのだ。シドとラズリの息の合った会話を聞いて、アルハザードは憮然とした。この人は自分の知らないリューンの話を誰かがすると、不機嫌な顔になるのだ。人はそれを独占欲と呼ぶ。
「リューン様は、『自分が目的なら稚拙すぎるし、皇帝陛下が目的にしては低俗だ』と仰られておりました。いずれにしても、目的無しで来られたわけではないでしょう。そもそも面会の理由に陛下の名前を出したことが、気に障ったご様子で」
「なぜ気に障る」
「さあ。それはリューン様にお聞きください」
じろりとアルハザードが睨むのが分かったが、知るものか、とラズリは思った。そもそもこの皇帝が、毎日通っていきなり止める、などという中途半端な行動をするから、あのようなおかしな輩が近づいてくるのではないか。
皇帝陛下は、「この国で最も安全なのは自分に護衛されることだ」……と言った。ならば、それは守ってもらわなければなるまい。ラズリは、アルハザードの威圧感を振り払うように、リューンを見習ってアルハザードを真っ直ぐに見た。リューンを守りたい人間としてこの皇帝は信用できるだろうか。
「リューン様は『セクハラな感情をいだいていることだけは分かった』と仰っていましたよ?」
「……セクハラ?」
「性的嫌がらせ」
「……!」
ラズリはさらっと言った。
全員が、アルハザードまでもが、げほっと盛大にむせる。ラズリ満足気。だが、すぐに真面目な顔になってため息をついた。
「私としてはあのような輩に、ご自分を餌になさるような真似は控えていただきたいのです」
「自分を餌……だと……?リューンがそんな真似を……?」
「リューン様にはよくあることです」
「どういう意味だ」
唸るような低い声。怒りの矛先はリューンだろう。同感だ。リューンの態度が飄々としているからこそ、なお、その裏に隠された自分を軽んじる態度は止めさせたかった。皇帝陛下ならば、止められるだろうか。
「リューン様は、この2年の粛清の際、実際に行動されたことはありませんが、自分を囮やら餌やらにする作戦を何度も私達に進言してきました」
「……なぜだ……」
「それが一番有効で効果が高いからでしょう。全て止めましたが」
「それで、ラーグ子爵には何をしたのだ」
……ラズリは遠い目をした。
「いえなにも」
「言え」
「……本当に何もしてませんが強いて言うなら」
「なんだ」
「慎ましやかなリューン様をご存知でしょう」
アルハザードは、初めて会ったときの瞳を伏せて自分に挨拶をしたリューンの様子を思い出した。
「慎ましやかなリューン様は、優しげな声色で『神職にお就きになられているお方はお優しいのですね』とかなんとか……」
ラズリの棒読みが終わらないうちに、ガタン! とアルハザードがソファを立った。優しげな声色……慎ましやかな態度だと……? セクハラが目的の相手に、そんな煽るような真似を……? それもワザとやったというのか。そもそもラーグは、それを見たのか。アルハザードの心中に言いようの無い怒りが沸いた。誰に対する怒りなのか、何に対する怒りなのかは分からない。
「陛下!」ライオエルトが立ち上がり、続いて他の2人も立ち上がった。
「月の宮へ行く」
獰猛な気配を纏わせて部屋を横切ろうとするアルハザードを、ラズリが咎めるように止めた。
「陛下、お待ちください」
「……なんだ」
「ラーグ子爵が訪問した直後に陛下がリューン様にお会いになれば、ラーグ子爵が不穏な空気を勘付きましょう」
「だから、なんだ」
「ラーグ子爵が急いて妙な動きをすれば、危険が及ぶのはリューン様です」
「……」
「月の宮にお越しいただけるのであれば、いつもと変わらぬ風にお越しください」
「……怖れを知らぬ家令だな」
「リューン様にコツを教わりましたゆえ」
「なるほどな……」
アルハザードの怒気が下がり、威圧感も無くなる。頷いて、忠義な家令へと言葉を差し向けた。
「今夜月の宮に行くことは、リューンには伏せておけ」
「……は?」
「いつもと変わらぬ風に、と言ったろう」
「……御意に」
4人の会見はそこで終わった。
アルハザードはリューンの黒髪を思う。今夜月の宮に行ったら、彼女は何と言って自分を出迎えるのだろうか。
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「ラズリ殿、リューン様から教わったコツとはなんなのですか?」
皇帝の執務室から辞するとき、ライオエルトがラズリに訊ねた。ラズリの皇帝陛下に対する堂々とした態度は、リューンを思い出させるほどに好ましいものだった。ライオエルトは皇帝の忠臣として、その周辺に信頼の置ける人間が増えるのをよく思っている。彼は、その信頼に応え得る人物に思えた。
一方ラズリはライオエルトの質問に苦笑する。ラズリ自身はリューンとは異なり、皇帝陛下……獅子王の威圧感に怖れを抱かないわけではない。だが、リューンに一度聞いたことがある。獅子王のことが恐くないのか、と。すると、リューンは不思議そうに問いかけたのだ。「あの人、理不尽な理由で首刎ねたりしないでしょ?」とかなんとか。
「秘策ですから、お教えするわけにはいけませんよ」
「なるほど。リューン様にお伺いしたら教えていただけるでしょうか」
「直接お聞きすれば、快く教えていただけるでしょう」
「それは楽しみだ」
「ところで、宰相閣下」
「はい?」
「皇帝陛下が不機嫌だからといって、私を巻き込まないでいただきたいですな」
「いやなに、そちらの事情と合わせて解決したほうが手っ取り早いかと思っただけでして」
「ははは」
「ははは」
リューン側としてはラーグ子爵の相談を、アルハザード側としたら月の宮に行くきっかけを、合わせて解決したことになったのだ。それにしても、どんなことがあったのかは知らないが、女のところへ出向くのに迷いがあるなど、あの皇帝陛下に普通の男のような一面があったとは。
もっともそんなことを皇帝陛下に言ったら、命がいくつあっても足りないだろうが。