獅子は宵闇の月にその鬣を休める

012.求めと応え

まるで恋人同士のように愛し合って、突然「やっぱりつまらなかった」と言われるのは、流石の自分も悲しい。

与えられる分返したいけれど、どうやって返せばいいのか分からない。来ないで欲しいのは、静かに過ごしたいからではない。

その手に応じたい、応えたい、……という心の裏返しなのだ。

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リューンの侍女アルマは、夜の帳が落ちた頃、うとうとしているリューンを無理矢理お風呂に叩き込んで夜着に着替えさせると、いつも通り寝台周りをセットし、寝る前に一仕事する彼女が飲むお茶の準備をして、寝室を辞した。

入り口を守る護衛の騎士に一礼をして、今日は直接侍女部屋へは出向かずラズリの部屋に報告へ向かう。現在リューンが調査しているラーグ子爵の話題と、それに対する今後の方針と対策を話し合うためだ。……その途中、いつもよりも早い時間に月の宮に渡ってきた皇帝と鉢合わせた。

威圧感はそのままに護衛も連れずに歩いてくる皇帝に、身を低くしてすれ違うのを待つ。不意に、声を掛けられた。

「リューンのところの侍女か」

「はい、陛下。アルマ・ルイスにございます」

「どこへ行く」

「家令ラズリのところへ、主の様子の報告に向かうところです」

「……アルマ。面を上げよ」

「はい」

「リューンに変わったところはあるか?」

「変わったところ、ですか……?」

アルマは首をかしげる。少し考えていると、皇帝が動く気配が伝わってきた。

「……無いなら、よい」

「……はい。あ、陛下……!」

アルマは1つ思い当たることを皇帝陛下に進言する。思いがけず呼び止めてしまった形になり、恐縮するが、それを気に留めた風も無く皇帝は振り返った。

「なんだ」

「怖れながら、変わったことが1つあります」

「申してみよ」

「主は就寝中に目覚めることが多く、その際に喉が渇くと水をお飲みになるのですが」

「ああ」

思い当たる節に、アルハザードは頷いた。

「こちらの宮に来てから、その水の量の減りが減っておりました。水をお飲みになっていない日もあったのですが、……この3日間は多ございました」

「眠れぬということか」

アルマは首を傾げる。

「全く眠れない、というわけではないようですが、夜中に何度もうなされて起きたり、目が冴えてしまったりなさっているようです」

「いつもか」

「カリストでの2……年間は、ほぼ毎日です」

だから、水の減りがいつもと違うことに気付いたのである。

確かに宮に訪ねたときの彼女は、1度か2度ほど、夜中に起きて水を飲んでいたときはあったが、概ねよく眠っていた。少なくとも毎日起きてしまう、ということは無かったはずだ。もっとも、自分が激しく抱いた後の疲労感で起きられないだけかもしれなかったが。

「恐い夢を見るのですか、とお聞きしたことはありますが、お聞きしても『いや見ない』と笑っておられるだけでした。……あまりとやかく言うと、起きる気配すら気づかれぬように沈黙なさりそうで」

「詳しくは聞けぬか」

「……心配することくらい、許して欲しいものですが」

アルマは苦笑した。龍にも、リューンにもそういうところがあった。問いかけを失敗すると、それ以上心配をかけないように心を閉ざす傾向がある。

「面倒な主人を持ったな」

「わたくしなどにはもったいない主です」

「リューンはお前を頼りにしておろう。わざわざ帝国まで連れてきたのがよい証だ。これからもリューンによく仕えよ」

「もったいなきお言葉にございます」

アルマが身を低くして一礼すると、アルハザードは立ち去り、やがて寝所の扉の開閉音が聞こえた。その扉の方向を見ながらアルマは思う。あの皇帝ならば、リューンの心を守ってくれるのだろうか。

****

アルハザードが部屋に入ると、いつものようにリューンは出迎えには来なかった。

それもそのはず。彼女は長椅子に身を横たえて眠っていたのだ。テーブルの上には幾枚かの資料と、教会関係の本、役職や職名などが載った資料集などが置かれている。恐らくラーグのことや、教会と帝国の関係辺りを調べていたのだろう。寝所に来れば、必ず彼女は何かしら調べものや読書をしていた。

その資料の内容を一瞥してアルハザードは眉をひそめた。面会に応じたというラーグ。ラズリは「自分を餌にした」などと言っていた。ラーグが面会に来た意図を探ろうとして、リューンは動こうとしているに違いない。「セクハラ性的嫌がらせ」と言っていたが、恐らく、ラーグが好色な目でリューンを見たのだろう。聖職者が聞いて呆れる。

「……ぅん……」

不意にリューンが身じろぎをした。唇から喘ぐような声が漏れ眉を寄せてむずがるような表情を浮かべる。その顔をもっと見ようと、アルハザードは長椅子の肘掛に体重を預け、その黒髪をそっと撫でた。短い髪も悪くは無い。昨夜の女の長い髪はただ鬱陶しいだけだった。

……昨夜の娼婦……他の女を一瞬でも抱いて、その次の夜にリューンの元に訪れてしまったアルハザードは焼け付くような罪悪感と自己嫌悪を感じていた。その種の行動が自分にこういった感情をもたらすのは、予想できなかったことだ。だが、おかげで気付いたこともある。自分は、この存在をやはり手離すことが出来ないし、他の女で代用することなどもってのほかだ。

「……ューン……、アル……」

自分が呼ばれたような気がして髪を撫でる手が止まる。

「リューン?」

アルハザードは小さくその名を呼んだ。アルハザードの声に反応するように「……ふ……」と、小さく吐息が聞こえると、彼女の瞼から一筋雫が零れた。それは一筋だけ、まるで真珠のようにつるりと頬を滑り顎の先端で落ちそうになって、思わずそれを人差し指ですくう。指に移った涙をアルハザードはぺろりと舐め取り、再びリューンの顔を見下ろす。もう泣いてはいない。リューン、泣くほど俺が嫌なのか?

肩から滑り落ちたショールをかけ直し、寝台に連れて行こうとリューンの身体に手をかけたとき、ゆっくりと彼女の瞳が開いた。黒い黒い、夜闇のように穏やかで、黒曜石のように硬質の瞳。思わずその瞳に惹きこまれる。

アルハザードは愛しい恋人同士が初めてするような、やさしい口付けをリューンの唇に落とした。

「あ、……アルハザード?」

「他に誰がいる」

がばりと身体を起こす。

実を言うと、3日ぶりのアルハザードの声に、リューンはびっくりするほど安堵していた、……自分にびっくりした。安堵って何のだろう。っていうか、寝てました? 今寝てました? 私。よだれとか垂らしてませんでした? リューンはうろたえた。寝言とか言ってたらどうしよう。

夢を見たような気がするのだ。誰かが自分の頭を撫でていた。誰だろう。そういう風に優しくするのをやめて欲しい、いや、やめて欲しくない。その2つの心が葛藤して、抗議のために口を開く。「リューン? アル?」

……そして意識が覚醒して、気が付けば目の前にアルハザードが居たのである。

「……寝てました?」

「ああ」

「寝顔見ました?」

「……いつも見ているだろう」

「アルハザード……」

いつも見ているという言葉になぜか面食らった。どうでもいいがアルハザードの顔がそうとう近い。

「なんだ」

「なぜ来たのですか?」

「お前を抱きに来た」

……沈黙。

つい口から滑るいつもの質問。だが、その解はいつもとは違う直接的なものだった。なぜなんだろう。リューンは心底不思議に思う。抱いて楽しいのだろうか。それよりももっと……なんというか、手練れの女性を抱いたほうがが楽しいのではないだろうか。それとも子供が欲しい? そうではない気がする。それならばリューンに通わずとも、国内の有力貴族が3人も後宮に入っているのだ。

もっとも、それを望まれても叶うことはないだろう。アルハザードは無論知らないが、リューンは薬を飲んで避妊をしているから妊娠することはない。

「……なぜ?」

「お前を抱きたい」

……再度沈黙。

リューンの両頬が押さえられ、僅かに力を込めて長椅子に倒された。アルハザードの顔が落ちてきて、リューンの唇をゆっくりと舌でなぞっていく。色めいたその動きに、自分の身体がはっきりと疼くのを感じる。

リューンは身をよじったが、アルハザードの手が頭を抱えて力をこめると、どうしても抗えない。アルハザードは長椅子の前に跪き、舌で舐めとるような動きで、リューンの唇に触れていた。しばらくそうしていたが、今度こそ彼女を抱き上げ寝台へと連れて行く。

アルハザードは決めていた。辛いと言われても通うのを止めるつもりはない。すでに諦めはついている。それは憎まれるという諦めだった。

「なぜですか」

今日は少し強情だ。自分は正直に「抱きたい」と言った。それ以上の気持ちは無い。いや、あるか。

「好いた女を抱きたいと思うのが悪いのか」

「は……?」

……え?

思いがけない、斜め上からの言葉にリューンは二の句が告げない。「好いた女」とはどういうことだ。どういう意味だ。帝国の文化として「好いた女」というのは何か自分が知っている定義とは別の意味があるのか。

ああ、いや、違う。そうではない。本当は分かっている。

アルハザードの気持ちではなく、自分自身の気持ちにリューンは気づいていた。「彼を悦ばせることができない」という感情自体、すでにその表れだ。最初は国を助けてくれた恩人として、次に自分を見つめる獰猛な瞳に、そして、夜に彼が抱きしめてくれるその温かさに。リューンは心惹かれていた。目が離せない。

これが愛情なのか恋慕なのか、それは分からなかった。だが、求められて応じるのは仕方がないからではない。自分がそうしたいからだ。だけどすぐに後悔する。与えられるものがあまりにも甘く、同じだけのものを応えられない自分が心苦しくて。

「どうしてですか」

「何が」

「……私では、」

「?」

本当に、今日は強情だ。リューンを寝台に下ろし自分はその隣に腰掛けた。上着も下穿きも脱いで、裸になりながら見下ろしていると、戸惑ったような、焦ったような顔でアルハザードを見上げて質問を繰り返している。その表情は普段よりも率直で、感情的だった。まあかまわない。聞かれるたびに何度でも応えてやる。だからリューンも、何か言葉があるなら言えばいい。いつまででも、待ってやる。

珍しく、行為の前に全て脱いだアルハザードは、寝台の掛け物をめくってその中にもぐりこむ。リューンの身体もその中に引き寄せて、彼女の服に手を掛けた。

「……って、だから、待って、なんで、」

「聞かれれば応えるが、回答は決まっているぞ……? お前が、」

「……じゃなくて、私は、」

彼女の抵抗は意に解することなく、言葉を交わしながら夜着を剥いでいく。いつもの装飾のない淑やかな夜着は簡単に下ろされ、下着ごと足から抜かれた。あっという間にアルハザードもリューンも一糸纏わぬ姿になって、裸のまま身体を引き寄せられた。

リューンは身体を起こしたアルハザードの膝の上で抱きすくめられる。だが、リューンはいやいやをするように頭を振ってアルハザードの胸板に手を充てて突っ張った。もちろん、離れようとするその動きをアルハザードは許さない。ただ、あやすようにリューンの頭を撫でた。

「なんだ」

「……私は、何もできないのに。どうして」

「何も出来ない?」

「恋人みたいにされても、貴方を悦ばせるようなこと、何もしてあげられませんし、」

逃げようと動くリューンを抱きとめていたアルハザードの目が驚きに見開かれる。

「貴方に応えることができないのに、与えられるだけなのはつらいのです」

その言葉を言い終わらないうちに、アルハザードはリューンをきつく抱き締めた。これまでに味わったことの無い激情がアルハザードの胸を詰まらせる。

今、何と言った。

「俺に応えてくれるのか」

リューンの背をアルハザードの手が這う。リューンの黒髪に口付けるように、息を吐いた。

「声の出ないことを気に病んでいたのか」

まさか、そんなことを今までずっと心配して、気に病んでいたのか。

きつく抱きしめた腕の中でリューンが言葉を詰まらせているのが分かる。ぎゅ……と自分の胸に少しだけリューンの体重がかかってきた。

重ねる問いかけは、問いかけではない。回答は求めていない。確認だ。

「声を上げねば、俺が悦ばないと思っていたのか」

アルハザードの声は少し怒っているようだった。ハッとした顔で、リューンがアルハザードを見上げる。

「でも、つまらないでしょう」

「つまらない?」

単に声が出ないことが?

そんなはずは無い。リューンがずっと自分の手に反応していることを、アルハザードは知っていた。彼女のどこに触れればどこがどのように反応するのか、声が出ないからこそ、吐息と身体の反応にずっと集中してそれを探っている。そして、その探る作業が彼自身に快楽をもたらしている。新しい反応を見つけたとき、ずっと責め立てたら戸惑うように揺れる身体と、荒くなる吐息……その全てが、アルハザードを悦ばせているのだ。

アルハザードは戸惑うように自分を見上げるリューンの黒い瞳に、自分の群青を映した。

「分からないか?……お前だけが俺を悦ばせる」

「え?」

「今夜は無理をさせてしまうだろうが。許せ」

「あの、ちょ、まっ」

「待たぬ」

膝の上のリューンの脇を支えて身体をかしづくように一度見上げ、僅かに顔を下ろすと、胸の膨らみのすぐ下を強く吸い上げた。小さな痛みが走ってそこに赤い痕が付けられたのを知る。そのすぐ隣にも、もう1つ。さらに、脇へとずれてもう1つ。やがて、胸の膨らみと首筋を大きく舐め上げる。ゾクリとした感触にリューンの背が反れ、アルハザードの大きな手がそれを支えた。

リューンの喉元に唇を寄せ、そこを喰らうように舌を這わせると、獅子が低く囁いた。

誰が誰を悦ばせているのか、

「分からなければ、分からせてやろう」

やがて、獣が毛皮を舐めるように、とろりとろりと身体を舐め回され、リューンの力が少しずつ解けていく。脳まで解けそうになりながら、アルハザードの言葉が思い出された。「お前だけが俺を悦ばせる」……と。どういう意味なのだろうか。本当なのだろうか。自分は彼の手を受けてもいいのだろうか。疑問符が身体を打って、リューン、いや、龍の感情は戸惑う。

だが、もう、同じではないか。この手を信じても、信じなくても、彼の前に出てしまえば自分の結果は同じだ。

胸の奥が甘く疼き、その疼きのままに、リューンはアルハザードの手に身を任せた。