朝からどえらいものを見た。
月の宮の護衛騎士として仕えているもっとも若い騎士カイル・レウスは、あんな皇帝陛下の緩まった顔を見たことがなかった。そもそも、皇帝陛下が「さっさと仕事行け」とかなんとか言われながらこめかみに指げんこつされているのを見るのは、後にも先にもアレ一回だけだろう。彼は遠い目をして当時のことを語る。
アルハザードが月の宮を辞したのは、朝の閣議に間に合うかギリギリという時間だ。アルマに淹れさせた紅茶だけを飲んで自室に戻った。寝所の扉を開け、思い出したようにアルハザードが「ああ」とリューンを振り返る。
「リューン」
「はい、陛下」
入り口の傍らに護衛騎士が控えているため、リューンは慎ましくアルハザードの傍らに控えた。小鳥のように首を傾げて、彼を見上げる。
「今夜は俺と夕食を共にとるように」
「はい。こちらへ?」
「ああ」
「では、そのように準備しておきます」
「リューン」
「は、いぃぃ……っ!?」
アルハザードは顔を下ろしてリューンに口付けた。咄嗟に身を引こうとしたが、頭を両手で抑えられ逃げられない。護衛騎士は一瞬ぎょっとする。アルマも呆気に取られている。
そして全員「見てはいけないもの」と認識して同時に目を逸らした。
……おい! 見て見ぬフリかおまえらーーーー! って味方いな……い? え、ちょ、まって、これ、いってらっしゃいのキスとかいうかわいいレベルの話じゃない、この野獣! 肉食系!……し、舌、いれるな、舐め回すな、は、離してえええぇぇぇぇ!
リューンは、トントン……トントンと腕をタップした。すみません、ギブ、ギブです! ギブアァーップ!
とうとう、ちゅ……と水音がし始めた。その瞬間、リューンは渾身の力でアルハザードのこめかみをぎりぎりと押さえ、顔を引き剥がした。
「アル……! さっさと仕事行きなさいようううううーー!!」
「ああ痛い痛い。分かった分かった」
しれっと悪い笑みを浮かべてアルハザードはリューンから離れ、離れる時に黒い髪を指で一房すくって小さく口付けし、自室へと戻っていった。
後に残されたリューンは唇をぬぐいながら肩で息をしている。扉を守るギルバートとカイルの耳に小さく「……あのど変態が……」という声が聞こえてきたような気がしたが、恐らく気のせいだ。いや絶対気のせいだ。むしろ気のせいであってください。お願いします。
恐々としているギルバートとカイルに向けてリューンが、低くつぶやいた。
「ギルバート殿、カイル殿……」
名前を呼ばれ、ビクゥッと肩を揺らす。2人はこのとき10cmくらい上に上がった。
「は……はい」
「今のは忘れるように……」
「……はっ」
2人は恭しく一礼した。あの獅子王の顔にあの攻撃。この女性はなんという類い稀なる方だろうか。
これは、陽王宮において、月宮妃と呼ばれることになるリューンの伝説の1つとなった。
****
「リューン様、帝国の食事はお口に合いますか?」
「ええ、宰相閣下。大変美味しいですわ」
夕食はリューンとアルハザードの他に、シド、ライオエルト、ラズリの5人で行われた。本来家令は主人と食事を取ることは無いが、リューンは1人で食事するのは嫌だと言って、いつもアルマやラズリと食事をしているから、あまり気にならない。
「リューン、お前はもっと食べろ」
「いやおなか一杯だし、これ以上食べると太ります」
「お前は細すぎる」
「本当におなか一杯なんだってば」
むっとしてアルハザードに答える。リューンが少食なのは本当だ。龍だったころから、忙しいときは栄養補助食品などで済ませたりすることはよくあった。美味しい食事は嫌いではないし、仕事上の付き合いで高級な料理を食べることもあったが、食事をする時間が無いときや1人で済ませるときは、ほとんど取らないことも珍しくない。要するに執着が薄いのである。
もっとも。
「リューン様は、甘いものはお嫌いですか?」
「そんなことはないです、シド将軍。宮で出されるデザートはとても美味しいです。困ります」
「困る?」
「食べ過ぎます」
「女性は甘いものが好きですな。私の妻もデザートは別腹だと言っていますよ」
「あ、シド将軍は奥様がいらっしゃるのね」
「ええ、25歳になります」
わあ、(龍の享年と)同い年の奥様だあ。リューンは可愛らしい女性が大好きである。リューンの身辺には護衛騎士の3名と侍女のアルマだけで、女友達のような存在が居なかったので、華やいだ話題は嬉しかった。リューンのいつも無表情の顔が綻んだ様子に、シドは目を細める。女王であり、女王を剥奪されて公爵となり、月宮妃となったリューンも、時に歳相応の顔になるのだ。
「いずれリューン様の元にも連れてきましょう」
「本当に?是非お会いしてみたいわ」
和やかに食事は進み、食後のお茶とデザートが運ばれてくる。だが、帝国の獅子王、雷将、無血宰相……そして月宮妃、リューンの家令。この人間が集められ、単に談笑しながら食事する、というだけで終わるはずがなかった。
「……というわけで、気になるのはラーグ子爵がなんでアルハザードの名前を出したか、っていうことと、何か意図があったか、ってところなんですよねー」
「意図……ですか」
「どうせくだらぬことだろう」
ふん……と鼻を鳴らして、アルハザードは眉をひそめる。ラーグ子爵がリューンに近付いたというだけで気に食わない、といった風だ。くだらぬことには違いないが、振り払わないわけにもいかない。そもそも、そのくだらないことにリューンを巻き込むことがまず許せない。何かあれば尻尾を掴んで引き摺り出し、完膚なきまでに叩き潰す。
「ラーグ子爵は『皇帝陛下がリューン様のことを気にかけて』と言っていましたな」
「うん。だから、人づてにそういうことを聞いたのかなと思ったんだけど」
ラズリの言葉にリューンも頷く。
あのタイミングでアルハザードが直接リューンが気になると発言することは無いだろう。となると、そういう雰囲気を周りが察知して、教会関係者に伝言ゲームした、ということになる。たとえば、「リューン様が何か悩まれているから、司祭として説法を訊かせて差し上げてはいかがか」とか。問題になるとしたら、入れ知恵か、独断か、というところだ。入れ知恵なら、裏に誰か居るはず。そっちの方が厄介だ。
「純粋に、神の教えを説きに来たという風ではありませんでしたが」
「というか、慈悲深い司教って何の冗談かと」
「……リューン。ラーグに何か言われたのか」
声低。怖。
隣でくつろぐアルハザードの不機嫌オーラは、さすがのリューンもドン引きものであった。ちょっと身を引きながら、答える。
「ええっと……私が髪を切って修道院に上がりたいって言ってた事を持ち出して、信仰の手助けになるようなことがあれば打ち明けてくれ、だって」
「なんだと……」
「だよねえ」
アルハザードの怒気をさらっと流しながら、髪をくるりと指に巻きつけた。アルハザードが怒るのも無理はない。確かに、リューンは髪を切ったにも関わらず、皇帝の慈悲で後宮に上がったことになっている。だがそれを知るのは一部の者のみで、公には伏せられているのだ。例えそれが公然の噂になっていたとしても、後宮で口に出すべきことではない。
皇帝の寵愛を一心に受ける姫相手ならばなおさらだ。「修道院に上がることなど、今は一切考えてなどおりません」という前提でいなければならないし、もう一度修道院に上がることを煽るようなことを言ってはいけない。それなのに口にした、ということは、
「まあ、私の信仰心に付け込もうとしてるんだろうね」
「信仰心……ですか」
「髪を切るって、それくらいのことなんでしょう?」
ラズリが眉をひそめた。カリスト王国ではそもそも神殿教会の活動は活発ではなく、神官や癒しの魔法は存在するが、教会の力はそれほど大きくはなかった。その代わり、その神聖さはかなり重要視されていて、神職に付くものが「信仰心に付け込む」とか「セクハラ」という考えがある、などと信じがたい話だった。
「……司祭の地位にある人が汚職とか、こっちではよくあることなのかしら」
リューンがライオエルトに視線を向けた。「こっち」というのはカリスト王国から見た帝国のことであろう、と意味を汲んで考える。司祭の神聖さが重要視されているがゆえに、ベアトリーチェ時代にあっては多くの司祭が粛清されてきたカリストに比べれば、帝国での司祭の汚職というのは珍しいことではない。むしろ権力欲と信仰心というのは一種特殊な相性で、時に時代を混乱させることがあった。
だが、現在は第一枢機卿のバルバロッサの手腕もあって、目立った汚職は全て一掃されている。軍事政権といってもいいアルハザードの下で、教会では神殿騎士という地位が今は力を持っているが、敬虔な神殿を守る騎士として厳粛に統括されていた。
「でも、全く汚職が無いわけじゃないのね。なるほど……」
リューンはお行儀悪く足を組み、背をソファに預けて考えた。ライオエルトの説明は、カリスト出身のラズリには馴染みのないことかもしれないが、実のところ日本の政治の近くに居たリューンにはお馴染の感覚だ。信仰というのは民衆に力を与えるし、時の権力者からは一線置かれるか、政治的な権利を与えられる。その権利に溺れて狂ったことをする聖職者というのは多い。厄介なのは、信仰心と慈悲深い表の顔によって、それがいともたやすく隠されてしまうことだ。ともすれば手を出したほうが非難されかねない。
「ラーグ子爵って、福祉関係施設への寄付や世話役とかよくやってたって言ってましたね。孤児院の経営とか」
「それもあって、慈悲深い人となりを知られているようです」
「慈悲深いって意味分かってんのかしら」
シドと言葉を交わしながらリューンは、アルハザードに聞いてみる。
「……髪の短い女は珍しいって言ってたよね」
「……ああ」
「ラーグ子爵って髪の短い女性がお好みなのかな?」
「………………………………」
リューンは自分の容姿が武器になるとまでは思っていない。だが、少なくとも「女」というだけで擦り寄ってくる種の人間がいるということは知っている。
長い沈黙。
なんだこの沈黙。
この沈黙が肯定なのか否定なのかさっぱり分からない。何か言ってくれないだろうか。
「考えすぎかしらね」
「……いや、あながち無くは無いかもしれません」
意外なことにリューンに答えたのは、シドだった。アルハザードとライオエルトは何か思い当たることがあるのか、黙って思案している。ラズリはリューンの言葉の意味と、リューンの今後の行動を思い描いて、厳しい瞳で彼女を見据えていた。
「陛下、神殿騎士の話を覚えておりますか?」
「……ああ」
「今日、その者の出自について調べておりましたが、ラーグ子爵の領地だったかと」
「……」
どいうこと?とリューンが首を傾げると、アルハザードが大きくため息をついた。
「神殿騎士に懺悔する者が出た」
「懺悔?」
「神の教えに背く行為をしてしまったと自己反省する神殿騎士のことだ」
「どういう意味?」
「その懺悔を行う騎士は司祭にその内容打ち明け、それによっては騎士の資格が全て剥奪される。……主に、自分が堕落してしまったとか、そういった話が多く、多くの場合は不問になるが、今回は審議となった」
「審議?」
リューンの疑問符にシドが答える。
「内容が本当かどうかが調査され、場合によっては大量の沙汰が発生します」
「内部告発ってこと?」
「そういう場合もあります。ですが、審議は全て教会によって行われ、皇帝陛下といえども干渉することはできません」
なるほど。政治と信仰は時に親密だが、基本的には不干渉だ。それは世界と国が違っても変わらない理屈らしい。無論、親和している国もあるが、今のところ帝国にそういった親和性は見られない。それにしたって、
「それって、内部告発の意味が無いんじゃ……」
それにはアルハザードが答えた。
「そうだ。だから、歴史的に教会と帝国との軋轢が問題になった場合もあった。今はバルバロッサ卿が抑えているから問題はないがな。本来は懺悔や審議があることすら皇帝には知らせられない。だが、バルバロッサ卿は時折俺にそれを知らせてくる」
「知らせる必要があった、ってことね。内容は?」
「内容までは知らされてない。今のところ神殿騎士の名前だけだ」
「そこから推察して注意せよってこと?」
「そういうことだな」
それと、セクハラがどう関わるかは分からないけれど、少なくともラーグ子爵に縁のあるかもしれない神殿騎士に「何かがあった」というだけでも調べてみる価値はあるかもしれない。
「ふーん。つまり、枢機卿も気を付けろと言っている程度に、叩けば埃のでる人間が、私のところに面会に来たってことですか」
リューンは思索を巡らせた。ラーグ子爵の領内で何があったか、彼が経営する孤児院や修道院に何かあるのか、叩けば相当埃が出るのだろう。だが、リューンの領域ではない。……それでも、ラーグに邪な気持ちがあるかどうか、程度であれば確認できる方法はある。
「リューン様」
不意に厳しくラズリがリューンの名前を呼んだ。その意図はすぐ知れる。リューンは素直に「はい」と返事をした。
「リューン様がこれ以上できることはございません。お控えください」
「言うと思った」
「リューン様。たとえばどのようなお考えが?」
「言えば止めろって言うでしょう」
「どのみち、私達の協力が無ければ出来ないことでしょう」
明後日の方を見る。
「リューン……何を考えている」
アルハザードの低い声が聞こえて、ソファに凭れている背が引き寄せられた。リューンはため息をつく。
「簡単よ。信仰のお話を聞かせてくださいって言って、呼び出せばいい」
そこで髪が短いところをさりげなく見せる。とか、いっそ、アルハザードが3日ほど通わなくなって寂しい、みたいな顔でため息の1つついて見せる。
もとより、龍の時代……日本で政治家秘書をやっていた時代にもよく居た手合いだ。女は弱く取るに足らない存在だとしか思っていない輩。そう思わせて、接触の機会が増えれば簡単だ。単純明快に、もしくは回りくどい方法で、どちらでもいい。最終目的を聞けばいい。何も無ければ反応は無いだろうが、何かあれば手を出そうとしてくるに違いないのだ。胸を触るなりおし
「リューン様!」
「リューン!」
どうやら、「女は弱く」辺りから思考が声になっていたようだ。室内の全員に激しく窘められた。特にアルハザードが怖い。相当怖い。顎を強く掴まれて、厳しい顔で見下ろされる。うわあ……怖えぇぇ……。
「俺が、そんなことを許すと思うか」
「思いません。だけど、」
「リューン」
「はい」
「ラーグに会うことは許可しない。命令だ」
まあ、そうなるだろう。ある程度は予想していた。リューンは「分った」とも「分からない」とも言わずに、思考を移ろわせた。接触できないとなれば、自分に出来ることは他に何があるだろう。そもそも自分が関わることが出来る人間自体が、とても少ないのだ。何か行動を起こそうとしても、秘密裏には出来ない。もちろん、しようとも思わない。……が、動きが制限されるのは困ったものだった。
「リューン様。陛下の仰るとおりです。お控えください」
静かな声色はラズリだ。ラズリがこういう声をしているときは、相当怒っていると知ってる。リューンは苦笑した。カリスト王国に居たころに、よくラズリに手紙で窘められていたのを思い出す。
「分ってるわよ」
今回ばかりは自分には何も出来ないなあ、などと思いながら、リューンは肩をすくめた。そうして、この問題は帝国の幹部達に一任し、リューンは絶対に手出ししないことを約束させられたのである。