獅子は宵闇の月にその鬣を休める

015.月宮妃

ここ最近、時々ではあるが、陽王宮の中庭を皇帝と月宮妃が連れ立って散歩する姿が見られるようになった。

これまでどのような姫も相手にしなかった皇帝の寵愛を一心に受ける姫が月宮妃である。この妃はリューンという名があるが、陽王宮月の宮に入っているためこのように呼ばれるようになった。美しい黒い髪と黒い瞳は夜闇を思わせる。特に黒い髪は耳より下をローブで隠してはいたが、陽の光を浴びてちらりと光るその艶は月のようだった。

月宮妃は慎ましく控えめで、あまり外に出ることが無いらしい。皇帝に伴われて中庭を歩く時、王城が休務のときに自室で執務を取る皇帝の下に呼び出された時、陽王宮で働く者にとって、時折その姿を目にするのは憧れでもあった。

皇帝と言葉を交わしている月宮妃の姿は淑やかで、獅子王自身も彼女を連れているときは、普段の高圧的な雰囲気が嘘のように穏やかな顔でその頬を撫でている。威風も堂々とした金色の獅子とたおやかな夜闇の乙女が2人並び立つ姿は、一幅の絵のようだった。

だが、後宮に姫君たちが居なくなったわけではない。

3人の姫君のうち、2人はいまだその寵をあきらめず、1人はひっそりと我が身を案じていた。

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その日、後宮のオリヴィア姫付きの侍女マリスは主家から支給された茶器を受け取り後宮へと運んでいた。その途中で事は起きた。ちょうど、別の姫君の侍女も主家からの荷物を受け取りに来ていたようで、その侍女と鉢合わせしてしまったのだ。ひかえめな主と比べて、よく言えば華やか、悪く言えば派手な、その姫君に仕える侍女もまた、ひかえめとは程遠い過剰な性格の者が多かった。マリスは、何か言われる前にさっさと退散しようと一礼して、そこを通り過ぎようとした。そのときだった。

前方から、護衛騎士と侍女を1名ずつ連れた、宵闇のような姫君が歩いてきたのだ。

皇帝の寵愛を受ける月宮妃リューン・アデイル・ユーリル女公爵。ローブで半分を隠した黒い髪と、黒い瞳。白い装飾の少ないブラウスに、袖口を編み上げたベルスリーブの燕尾風ジャケット。青灰色を基調にした長いスカートは、上から黒い薄い布を何枚か重ねている。甘い雰囲気の一切無い服装だったが、纏う雰囲気は女らしかった。2人の侍女は廊下の端に寄って一礼し、彼女が通り過ぎるのを待つ。

「おはようございます」

驚いたことに、言葉を掛けたのはリューンからだった。リューンにしてみれば何気ない朝の挨拶をしたに過ぎない。この月宮妃はその身分に奢ることなく、王宮のどの人間にも挨拶を忘れなかった。この日もいつもと同じように、初めて見る顔の侍女2名に挨拶をして、通り過ぎた。そのとき。

「あ、……お、おはようござ……きゃっ……!」

ガシャーン!

護衛騎士が通り過ぎ、リューンがオリヴィアの侍女の側を通り過ぎようとしたとき、マリスとマリスが支えていたワゴンが倒れ、茶器が派手な音を立てて床に散らばり欠片になった。

「リューン様!」

護衛の騎士が慌てて手をかざしリューンを押しやる。さらにアルマもリューンを庇うようにすばやく前に立った。

「リューン様、大丈夫ですか?……一体何を、」

「カイル殿。アルマ。大丈夫です」

リューンに安否を問いかけ、さらに控えていた2名の侍女に事を聞こうとした護衛騎士のカイルを先制して押さえ、にっこりと笑ってリューンは頷いた。すると、しゃがみこみ青ざめたマリスが震えるような声で顔を伏せた。

「も、もうしわけありませ、」

「まあ! リューン様! 大丈夫ですか?……あなた、オリヴィア姫様のところの侍女ね!? 何をなさっ」

「……待って」

盛大な抗議の声を降らせたのはもう1人の侍女だ。だが、リューンはその言葉を最後まで聞くことなく、というよりも完全無視して身をかがめ、マリスが震えながら床の破片に伸ばした手を取った。

「……も、もうしわけありません! お許しを……」

手を掴まれたのを、咎められると勘違いしたのだろう。震えながら顔を伏せているマリスは、意外な言葉を聞いた。

「手が切れてしまう。触れてはいけません」

「え」

「破片に触れないで。立って」

少し身を低くしているリューンの顔は、マリスの顔の驚くほど近くにある。見た事もない真っ黒の瞳が冷静にこちらを伺っていて、瞳が合うと、そのきつめの光がふっと和らいだ。マリスの手を取ってリューンが立ち上がるが、その動きはまるで姫君の手を取る騎士のような所作だ。恐縮してマリスは声が出ない。リューンはマリスが完全に立ち上がったのを見ると手を離し、アルマを振り返って言った。

「アルマ。申し訳ないけれど、掃除のできる方をどなたか呼んできて」

「はい。リューン様」

アルマは心得たものだ。リューンの行動を咎めることもなく、一礼して陽王宮の廊下を渡っていった。リューンはふと思い出したように、派手な方の侍女に顔を向ける。

「貴方もオリヴィア様の侍女ですか?」

派手な侍女はぎょっとして、首を振った。

「まさか! わたくしはサーシャ姫の……」

「そうですか。では、」

ぴしゃりとその言葉をさえぎる。リューンはにっこりと綺麗な笑みを浮かべて言った。

「サーシャ様がお待ちでしょう。ここは心配ありません。もう行ってかまいませんよ」

「……なっ!」

抗議の声を上げようとしたが、リューンのにっこり笑顔と……そして、傍らに控えるカイルの冷たい雰囲気に気圧されて、言葉の続きが出なかった。「……し、失礼します!」そう言って、ばたばたと後宮へと走っていく。リューンはその後姿をちらりと見やりながら、「あー、嫌われたかなー」という声をぼそりと発した。

「……今の侍女、いかがしますか」

同様に、侍女の去っていった方角を見ながらカイルが遠慮がちに問う。

「放っておきましょう」

「かまいませんので?」

「わざわざ私が咎めるほどのことではありませんから」

「……あ、あの……」

その会話の意味が分からず、マリスがおずおずとリューンに話しかけると、彼女は小鳥のように首を傾げた。

「茶器が駄目になってしまいましたね」

「あ……いえ、リューン様にお怪我はございませんでしたか?」

「大丈夫。問題ありません」

「でしたら、それに越したことはありません」

「オリヴィア様の侍女の方ですか?」

「……は、はい。マリスと申します」

「オリヴィア様は貴女を咎めますか?」

マリスの瞳が驚きに見開かれた。リューンが先ほどから自分に問いかける意外な言葉と意外な優しさは、まるで自分の主を思い出させる。もっともそれよりもずっと意志が強く、有無を言わせない口調だった。マリスはぶんぶんと首を振ってそれに答える。

「いいえ。そんなことはございません」

「そう。よかった」

「は……はい」

掛けた言葉はそれで終わりだ。よろしく伝えろとも、挨拶の言葉も特には言わない。間もなく、掃除のできる女官を連れてアルマが戻ってきた。彼女達はリューンに一礼をして、手早くそこを片付け始める。リューンはそれを見て、女官たちに「ありがとう、この場をよろしくお願いします」と声を掛け、何事もなかったかのように護衛騎士と侍女を連れてその場を立ち去った。

「……あれが、月宮妃のリューン様……」

マリスは呆然とその後姿を見送った。「マリス!」と声を掛けられて我に返る。マリスは慌てて、掃除をしている女官に一礼した。声を掛けてきたのはマリスも顔馴染みの女官だ。

「す、すみません。手伝います」

「いいえ、貴女に手を出させると私達が怒られます」

「え……?」

マリスは目を丸くして、掃除をしている女官たちを見た。

「割れ物の欠片は手が切れるので、準備の無い者には手伝わせないようにと、リューン様の侍女の方から」

「リューン様は、そういったことを守らないとお怒りになるの」

「さっきも私達に『よろしくお願いします』なんて仰るし」

掃除をしながら女官たちは誇らしげに言った。リューンに言葉を掛けられたのが嬉しいのだろう。マリスは、自分の手を取り騎士のような所作で自分を立ち上がらせたリューンの仕草を思い出す。

あの女性ひとが、皇帝の寵を受ける唯一の姫君。後宮に入ってからほとんど毎日、皇帝陛下がその鬣を休める身体の持ち主。自分の主とは正反対の待遇を受ける女性。マリスはちくりと心が痛んだ。だが、その痛みが、オリヴィアが寵を受けられなかったことなのか、マリスには分からなかった。

****

「リューン様、よろしかったのですか?」ともう一度聞こうとした自分の質問を、カイルは飲み込んだ。恐らくリューンの言葉は何度聞いても同じだろう。要するに、捨て置け、ということだ。

サーシャ姫の侍女は、リューンが通りがかるタイミングで、故意にオリヴィア姫の侍女を小突いた。それは何気ない稚拙な行動だったが、若くして実力で月の宮の護衛騎士を賜ったカイルはすぐに気がついたのだ。サーシャ姫の侍女の行動は、オリヴィア姫の侍女に嫌がらせをしようとしただけではない、下手をすればリューンの身を狙ったともいえる行為である。正義感の強いカイルは、どうしてもサーシャ姫の侍女が行った所業を見逃したくはなかった。

「納得できない?」

不意にリューンに声を掛けられて、カイルは我に返る。リューンは、周囲に関係者しかいないときは、時折、敬語を抜いた口調で話しかけてくる。カイルは歳が近いこともあり、このように話しかけてきてくれるリューンの方が、親しみやすかった。普通ならば、「親しみやすい」などという感情が主君の妃に許されるはずもないが、なぜかこの女性にはそれがしっくりくるのである。

「……1つ間違えばリューン様の身に危険が及ぶところでした」

「そうね」

「ならば」

「気持ちは分かるけれど、放っておいてね。私も怪我をしないように気をつけるから」

「リューン様がお気を病むのは違います」

カイルはため息をついた。リューンが怪我をしないようにするのが自分達の仕事で、サーシャの侍女を咎めようが咎めまいが、その仕事が変わるわけではないのだ。

「私がこういうことを言うべきではないと思うけれど、あんまり白星宮のお姫様たちに関わりたくは無いの」

「……分かりました……」

リューンは苦笑してカイルをちらりと見上げた。カイルの態度から、サーシャ姫の侍女が手を出したのだろうことは容易に想像ができた。浅はか過ぎる、とリューンは思う。侍女同士で事があることなど珍しくは無いのだろうが、それは同時に自分達が仕える主同士の争いになる。下手に騒げば、その罪が及ぶのは自分達の主だというのに、あの侍女はリューンの目の前でそれを繰り広げたのだ。

サーシャ姫とオリヴィア姫同士の諍いであるならば、まだリューンは関係ない。だが、サーシャ姫の侍女がリューン本人を巻き込もうとしたのは明らかだ。恐らくは、リューンに粗相をしたオリヴィア姫の侍女、などを演出したかったのだろうが、それでリューンが怪我などをしてしまえば、ことはそれだけでは済まなくなる。そこまでは狙ってなかったとしても、そう思われても仕方がないのだ。正直、関わりたくない。

後宮に3人居るという姫君。彼女達のことは、リューンももちろん気になっていた。

ずっとこのままにしておくことはないだろうけれど、どのようなタイミングで何をどうするか、というのは、いくらリューンでも口を出していい問題ではない。いずれにしても、今まで大人しかったのが意外なことなのだ。今後何らかの動きがあるかもしれない。

それに、リューン自身、アルハザードと後宮の関係に思いをはせると、その気持ちが不安定になる。毎日のようにアルハザードが自分の宮に通い、自分を寵妃として扱っていることを知っているし、受け入れても居る。そんな中で、アルハザードが別の女性のところに通う、となると、今、……たった今の自分の感情はどうなるだろう。

もちろん、贅沢を言っていい立場ではないと分ってはいるし、もしそうなれば受け入れもするのだろう。それでも平気ではいられないかもしれないな……と、リューンは分かっていた。認めたくはないけれど。

目的地であるアルハザードの、陽王宮に備えた執務室の前に到着した。今日は雨王宮(執務宮)が休みの日である。しかし皇帝陛下は休みの日でも、時折自宮で執務を取っていた。そんなときは、こうしてリューンが執務室を訪ねて、話をしたりお茶を淹れたりしているのである。

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それから何日か後、マリスにアルマからこっそりと新しい茶器が渡された。それはリューンの意図ではあったが、リューンからの贈り物、というわけでもなく、ただ渡されただけである。お礼も不要です、との言葉にマリスは恐縮した。

その可愛らしい様子にアルマは苦笑する。リューンから個人的に後宮の特定の姫君に贈り物などをすれば、一気に後宮の力の均衡が崩れるだろう。だからこそ、正式でなくこのような形で侍女同士の手渡しを行ったのだ。マリスは黙って頷いて、その茶器を受け取った。

「リューン様から……」

侍女のマリスよりひそやかに説明を受けたオリヴィアは、その意図を正しく汲み取って頷いた。リューンへの感謝をただ胸に秘めるだけにして、挨拶の品物も贈ることはしなかった。