「意外と広いのね。手入れ大変そう」
「手入れは大変だが、庭師の仕事が増える」
「なるほどね。これはちゃんと散歩しないともったいない」
「だからこうしてお前を連れて歩いているだろう」
陽王宮の中庭をアルハザードに手を引かれ、リューンは歩いていた。こうして中庭を2人で歩くようになったのは、つい最近のことだ。
リューンは別に月の宮に閉じ込められているわけではない。陽王宮の中であればどこに行くのも許可されていた。だが、もともとリューンは月の宮に引きこもっていることを苦に思っていなかったし、陽王宮を歩き回りたいとも思っていなかったので、今までそれをしていなかっただけだった。しかしライオエルトに何度か勧められ、アルハザードと一緒に居るときだけ、たまにこうして中庭を歩くのだ。
こうしていると、当然陽王宮で働く人たちの目に触れる。9割は羨望や憧憬や歓迎で、1割は敵意だった。無論ライオエルトの意図としては、それも分かってのことである。
ラーグ子爵のこともあるから、あまり敵意を煽るようなことはしたくなかったが、皇帝がどれほどこの妃を寵愛しているか、ということを知らせる効果もあった。獅子王アルハザードがこれほど寵を注ぐ女性に手を出せば、誰も無事ではいられないだろう、この2人の様子をみればそう思うほか無い。
しばらく歩くと中庭の最も奥に小さな東屋があった。アルハザードから手を離して、珍しげに東屋を見上げる。
「こちらには木造の建築は無いのかしら」
「砦や城は石造が多いな。郊外にでれば木造の方が多い」
「魔法を使ったりはしないの?」
「土壌や基礎を安定させるために一時的に利用することはあるが、ほぼ使わない」
「ふうん」
「お前の生まれた地では、異なるか」
「建築史的には木造が多いわね」
「それでは耐久性に問題があるだろう」
「石造りに比べれば。資材的なものと風土的な違いかなあ」
遠くから見れば仲睦まじく愛を囁いているように見える二人の会話は割りと色気が無い。というか無色。だが、アルハザードは悪い気はしなかった。リューンは普通の女が興味を引く話題にはあまり興味を持たないらしい。もっとも好奇心は多岐に渡り、特に国の歴史や政の成り立ち、政治学・経済などの話、先ほどのような建築の話や、王宮で働く人の職業や年齢の分布、武器や魔法、馬などの動物など、話題は尽きなかった。
リューンは宝石やドレスには興味が無く、後宮の女性達のように豪華なドレスを作らせたり、宝石を取り寄せたりなどは一切していなかった。女性らしい服よりも、どちらかというと凛々しい服が好きなようで、今日も男が着る様なジャケットを羽織っている。ただ、堅苦しいものではなく柔らかい素材を使っていたのでさわり心地がよい。スカートはプリーツが大きく入った派手さを抑えたもの。そして、胸元には碧色の雫のような小さな石がついたネックレス。これは、唯一リューンが好んで身に付けている貴金属だ。
アルハザードは服を着ている彼女を愛でるとき、よくその石を弄ぶ。なんでも、リューン……龍ではない、リューンが好きだった装飾品で、その色は黒い瞳のリューンが憧れる色だったそうだ。
アルハザードは東屋を興味深げに見上げているリューンに近づくと、首に下がっているそれに、つと指で触れて、さらにそのまま指を首筋、頬、耳に滑らせた。リューンは耳まで走った指の感覚に、びくんと肩を竦めた。抗議めいた表情で自分を肩越しに見上げるリューンを見下ろし、背後からその両手ごと腰を抱きしめる。
いつもしているように、その首筋に顔を埋めると、外に出て少し汗をかいているのだろう。しっとりと湿った肌の香がそそった。「ちょっと……!」抗議めいた表情は声になって、さらに身をよじる。だがしっかり抱きしめた腕は緩まらない。両手ごと抱きしめているから、抵抗もできなかった。「アルハザード!」さらに抗議の声を上げて、抱きとめられたままアルハザードの方を振り向こうと試みる。なんなのこのひと油断も隙もないんですけど。
「アル、やめてってば!」
「なぜ」
「え、なぜって。外だし」
「だから?」
「いやいや、『だから?』じゃなくて、なんか普通に不思議そうに素で聞くな、って、ま」
何事か言いながら暴れているリューンを楽しげに見下ろすと、アルハザードはわざと腕を緩めた。すると、リューンがくるりとこちらを向く。抗議するためだろう。アルハザードの胸に手を当てて、ぐーっと突っ張る。この一連の動きが好きでアルハザードはわざと後ろからきつく抱きしめ、わざと腕を緩めるのだ。そして、振り向いてきたところを、もう一度抱きしめる。
腰に深く手を充てて持ち上げるように抱き寄せ、身体を密着させた。もう片方の手は黒髪に埋めそれを撫ぜ、顔を下げて耳に舌を這わせ、少し齧る。「ちょっと、アル……っ」リューンの身体ががくんと動き、リューンの体重がアルハザードの身体にかかった。心地よい重みだ。少し上を向いて開いた唇に、遠慮なく自分の顔を落とす。小さく食べるようにその唇に何度も触れていると、リューンは身をよじって顔を避けてきた。生意気な。
「もう、人が来るから」
「来ない」
「なんで」
「結界を張ってある。侵入したら気づく」
「だからって、あの……っ」
アルハザードはリューンの身体を、ちょうど周囲から死角になる東屋の壁に押し付け、耳元を何度も舐め上げた。時折、じゅるりと水音を響かせるのが恥ずかしい。片方の手でリューンの手首を掴んで押さえ込み、もう片方の手は服の上からそっと胸の膨らみを撫でる。下着と服で遮られていて形は分かりにくいが、何度も集中して布越しにそこを責めると、抵抗する手が弱くなり、少しずつリューンの息が上がってきているのが分かった。
服を乱さないように気を使いたいところだが、難しい。アルハザードは手首を掴んでいる手を離すと、リューンのスカートに手を掛けた。少しずつ引き上げていくと、流石に抗議の声を上がった。
「……ダメ、アルハザード待って……」
「一度待てば続けてかまわぬのか?」
「……そういう、意地悪言わないで……」
「お前な……それは、誘っているのか」
「ちょ……違う……っ」
潤んだ瞳で「意地悪言わないで」と見上げられたら、男なら誰だって欲情するだろうが。アルハザードはリューンに宛がうように腰を押し付ける。アルハザードは容赦なくスカートの中に手を挿れ、太ももを撫で上げてくる。履物はガーターで吊るされていて、彼女の敏感な部分に到達するのは簡単だ。
下着の上から、そこに触れ……ようとした、そのとき。アルハザードが舌打ちすると同時に身体の全ての動きを止め、リューンの乱れた着衣を調えてやった。そして、身体を離す。その意味するところを知り、リューンも外れていたフードを直すと、身を調えて伏目がちに控える。人が、来たのだろう。
****
「……こ、これは……、皇帝陛下にリューン様もご一緒とはご無礼を」
「……ラーグか。無礼と思っているなら控えよ」
中庭に現れた意外な人物にアルハザードの纏う気配が一気に氷点下まで下がった。どこから入った? 中庭は皇帝とリューンが散歩中だと誰もが知っている。そうでなくとも護衛の騎士が要所に立っているし、まして陽王宮という皇帝の宮の中庭に、一介の貴族が許可なく入ってくるなど許されることではない。
「……ここが陽王宮の庭と知っておろうな」
「は……」
「どのようにここに入ったのか」
「リュ……リューン様を探しておりまして……」
「ほう……リューンを。それで?」
誤魔化しを許さぬ威圧感。嘘を許さぬよう、魔力が容赦なくラーグに流れたのにリューンは気づいた。さらに自分の名前が出てきたことに、ピクリと眉を動かしたがすぐに表情を改め、不安げな顔をしてアルハザードの背にそっと隠れるように下がる。
「リューン様の家令に聞きましたところ、中庭に居られると……それで」
「……ラズリがそう言ったのか……?」
「は、はい」
「なるほどな。……ラーグ」
誰もが震え上がる唸り声のような低い声で、アルハザードはラーグを威嚇した。
「後宮に用でもあったか」
「は、はいそうです。姫君方に神殿教会の信仰について説こうと……」
「後宮の渡りは中庭に繋がるからな……」
「そ、そうです、そこから!」
すうっと細くなったその瞳は獰猛な百獣の王の瞳だ。アルハザードは遠慮なくじろりとラーグを睨みつけ、もう一度問う。
「もう一度聞く。……ここが、我が陽王宮の庭と知って来たか」
「リューン様……」
なんで私を呼ぶ。クソ狸が。助けるとでも思ったか。……舌打ちしたいような不愉快な気分になってリューンはラーグを一瞥した。無論、顔には不安げな表情を浮かべたままである。アルハザードの片腕をぎゅっと遠慮がちに掴むと、「アルハザード様……」と震えるように小さく呟いてみせた。アルハザードはリューンに視線を落とし、愛しげに……何も心配ない、という風にその頬を指で撫でる。掴んだ手を離させ、片方の腕にその細い身体を抱き抱えると、リューンはその腕に凭れるように身体を寄せる。
そのとき、鎧音が響いて数名の人影が現れた。
「……陛下!……」
緊張感を割った声はギルバートのものだ。中庭の様子がおかしいことに気づいたギルバートが、数名の護衛騎士を伴ってやってきたのである。一瞬解けた緊張は、その場にあるはずのない3人目の人影に再び高まり、騎士達は一斉に腰の剣柄に手を掛ける。それを特に制することもなく、アルハザードは再度ラーグを一瞥した。
「……ラーグ、我が庭に許可なく入ることの意味を知っておろうな」
「どうか命だけは……」
「命が惜しくば早々にここから立ち去れ。……それから」
その場に居たリューン以外の人間が、一瞬背筋を震わせる低い声。
「二度とリューンの元を訪ねようなどと思うな」
「……」
「ギルバート」
「はい」
「ラーグ子爵が道に迷ったようだ。送ってやれ」
「……はっ」
「沙汰は追って知らせる」
陽王宮の中庭、皇帝のプライベートゾーンに迷い込んだ。不法侵入と変わらないその行動は、不問に付されることは無いだろう。ラーグは勇敢にもリューンに名残惜しげな一瞥を投げ、ギルバートに指示された2名の騎士によって連れて行かれた。それを見送ったギルバートがアルハザードの前に跪く。
「あのような輩の侵入を許し、申し訳ございません」
「かまわん。もとより、侵入者を防ぐように出来た場所でも、それを許さぬように作った場所でもない」
「……はっ」
「後宮の渡りから来たようだ」
「……白星宮の渡り廊下側を念のため調査し、警備を再編いたします」
「任せる」
ギルバートは再度一礼して、立ち上がった。
「リューンが疲れたようだ。執務室に戻る」
「はい」
アルハザードがリューンの肩を抱いたまま歩き始める。ギルバートは一礼したまま主が通り過ぎるのを待ち、一歩下がった位置から従う。我が主とその寵妃リューンの安全を守る為に、再度陽王宮の警備陣を組み直さなければならぬ、と頭を巡らせた。
****
皇帝の腕で身を小さくしていたリューンにラーグは身が震えるような劣情を覚えていた。あの女こそ、神に仕える我が身に奉仕するのにふさわしい。怯えたような黒い瞳が嗜虐心をそそる。……だが、皇帝の名を呼んだときのあの顔。頼るものは皇帝しか居らぬというような、あの小動物のような濡れた瞳。
ラーグは身を焦がすような嫉妬心に苛まれた。皇帝のような戦しか知らぬ男ではなく、自分のような敬虔な神の使徒に捧げられるべき女だ。……と、一瞬、皇帝への不敬な情を覚えてその威圧感に身が震えるが、何……あれほど心の小さな女であれば、脅せばすぐに手に入るだろう。
だが、ラーグ子爵はその思いとは裏腹に、半年間の登城の禁止を言い渡された。リューンに一目も会えぬ狂おしさに、徐々に身を焦がしていく……。