結局のところ、ラーグ子爵は半年間の登城禁止の処分となった。
少なくとも、これで半年間は勝手に後宮に潜りこまれることは無くなる。同時に、バルバロッサ卿へ手を伸ばし、ラーグ子爵の調査について協力を仰ぐこととなった。懺悔を行った神殿騎士については、騎士剥奪はされなかったようだ。バルバロッサ卿の帰還の時に、調査の内容は知れるだろうということだった。
****
リューンはよく本を読む。帝国の文化や実情、歴史など、国を象るバックボーンを知るためだ。もとより知識を詰め込むのは嫌いではない。子供が読むような絵本や図鑑などを見て、当時の為政者がどのような考え方を持っていたか、などを予測するのも好きだった。いつもは蔵書目録からピックアップして、それらしい本をラズリやアルマに頼んで取り寄せてもらっているが、今日は少し気分転換も兼ねて、図書室に直接赴いたのだった。
「リューン様。恐れ入りますが、こちらへ」
傍らにギルバートと2名の護衛が控えている。本棚の側で本を見ようとしとしていたら、ギルバートが声を掛けた。本棚の側は危ない、ということだろう。リューンは大人しくその場を移動した。そのとき。
「リューン様!」
女性の護衛がリューンの身体を浚って床に押し倒す。同時、木の軋むような大きな音が響いて本棚が倒れた。一瞬だった。護衛の反応が遅ければ本棚の下敷きになっていたに違いない。一息ついたのも束の間。不意に、リューンは自分の上に何かの揺れを感じた。これは、恐らく、魔力の揺れだ。
「アリシア、リューン様を安全な場所へ!」
「待って、危ない!」
自分を庇った女性の護衛騎士がリューンの身体を立ち上がらせ、広い場所へと移動させる……が、その手を、身体を、リューンは突き飛ばした。
ガシャーン!
「リューン様!」
ガラスの割れる音、護衛騎士たちの悲痛な声が図書室の空気を裂いた。
****
雨王宮の執務室で書類を精査していたアルハザードは、弾かれたように立ち上がった。何事かとその姿を見た宰相ライオエルトとヨシュアは、アルハザードの纏う今までに無い気配に背筋が凍った。怒りと焦りでグルルと喉を鳴らすその様子は、まさに静かに怒る獅子そのものである。
「陽王宮へ向かう」
「陛下、何が……」
「リューンを守る護身の結界が欠けた」
「……な」
リューンの護身結界。アルハザードがリューンにかけている防御魔法の1つだ。月宮妃のリューンには、防御魔法・追跡魔法など、思いつく限りの魔法がアルハザードの手によって掛けられている。そのうちの1つ、攻撃的意思を伴った物理攻撃・魔法攻撃などの衝撃から守る結界が護身結界である。
この結界が欠けた、ということは、アルハザードの結界が欠けるほどの攻撃を受けた、ということだ。もともとアルハザードの魔力で作り上げた結界は、何かあったら、その揺れがアルハザードに伝わる。アルハザードはそれ以上の言葉を紡がず、執務室の奥に併設している転送陣の扉へと向かった。
****
空気を切り裂いた衝撃音と、そして、沈黙。
図書室の天井を飾る、ガラス製の魔法の灯りがリューン達の上に落ちてきたのだった。直撃は免れない。最悪の事態を予想したギルバートは心底背筋が冷え、リューンの元へと一気に距離を詰める。だが、リューンの様子は全員の予想を、別の方向へ裏切るものだった。
「いたた……」
リューンの傍らには魔法灯の大きなガラスが割れて転がっていた。大きく2つに割れて、ひとつはリューンの身体の上、ひとつは傍らに転がり、さらに細かい破片が散らばっている。思わず「いたた」と言ったが、本当のことを言えば、それほど痛いわけではなかった。だが、事が大きすぎてリューンにはいまいち現実味が沸かずどこか他人事のように間を置いた。
現実味が沸かなさ過ぎて、まるで自分の頭の固さでカチ割ったように見える方が気になる複雑な女心だった。
「リュ、リューン様ご無事で」
普段は落ち着いたギルバートのあわただしい声に、リューンは我に返った。
「ギ、ルバート、私は大丈夫です、周辺を……」
「!……ルーク、窓を押さえろ。アリシア、扉へ!」
リューンは咄嗟にギルバートに敬称を忘れて指示した。弾かれたように2人の護衛騎士が図書室へと散らばる。ガラスが落ちてくる、というのは流石に衝撃が大きすぎる。それだけ隙もできてしまう。そもそも本棚倒壊が罠だったのだろう。咄嗟には動けなかった。
「リューン様!……失礼します」
リューンの平気そうな声に気をとられてしまって反応が遅れたが、大きなガラスの固まりがリューンの上に覆いかぶさっていた。ギルバートがそれを持ち上げて、強引に横に動かした。軽くなって身動ぎしようとしたリューンを厳しく咎める。
「リューン様! 破片がありますから動いてはいけません。お怪我は?」
「……大丈夫です。えーと、アルハザードの……陛下の防御魔法かなこれ……」
アルハザードが自分にあらゆる防御魔法を施してくれていることは知っていた。だが、大きなガラスが落ちてきても、その身に傷1つ付けないような精密で強力な魔法だとは思わなかった。たんこぶのひとつすら出来ていない。その声に、ギルバートが安堵したように頷いて、リューンの手を取ろうとしたときだった。
「リューン!!」
図書室の扉が勢いよく開き、恐ろしいほど獰猛な気配が近づいてくる。紛うこと無きこの気配は、無論獅子王その人だ。ギルバートと、見回りに走っていた2人の護衛騎士が戻ってきて膝をつく。アルハザードはリューンを真っ直ぐに見て、その無事な姿を確認して安堵の表情を浮かべた。
「皇帝陛下……!」
アルハザードは、ギルバートの悲痛な声に黙って頷き片手で制すると、リューンの側に膝を付いてその身体を抱き寄せた。黒い髪をゆっくりと撫でて、その場の者たちが驚くほどの甘い声を出す。リューンはなぜかほっとして、アルハザードの腕の中で力が抜けた。
「リューン、大丈夫か」
「……大丈夫」
「怪我は無いか」
「びっくりしただけで」
「そうか」
アルハザードは長く息を吐いた。リューンを抱き寄せ膝を付いたまま、ギルバートに視線を向ける。既に、女の身を案じる男の姿ではなく、陽王宮内への侵入者を許さない獅子王の姿に戻っていた。ギルバートは、謝罪の言葉を口にする前に状況の説明をする。
「本棚……?」
「はい。アリシアによって直撃は免れましたが、そのすぐ後に上から魔法灯が落ちてきて……」
「……陛下……リューン様、申し訳ありません!」
割って入ったのはアリシアだ。「どういうことだ」とアルハザードが問うと、何か言いかけたアリシアを制してギルバートが続ける。
「……魔法灯が落ちてくる気配に最初に気付いたのはリューン様です。咄嗟にリューン様が、アリシアを庇われたのです」
アルハザードは沈黙した。なんと言う無茶を……と思ったが、そもそもリューンが行動しようがしまいが、リューン自身の結果は同じだっただろう。あの状況では二人とも同等に危なかった。だが、リューンの選択によって、アリシアが無事だったのだ。
「そうか」
様々な言葉を飲み込んで、ただ、アルハザードは頷いた。
「アリシア、お前に責は無い。最初に本棚よりリューンを守ったことに礼を言う」
「……!……は、もったいなきお言葉にございます……!」
アリシアは恐縮して頭を低くした。
リューンは恐らく、魔法灯が落ちてくるときに魔力の揺れを感じたのだろう。本当に、咄嗟に、アリシアを突き飛ばしたに違いない。それに、その場に居たもので魔力の揺れを感じたのはリューンのみだったのだろう。
リューンの持っている魔力は緻密で豊富だった。自分も同様の魔力を持っているアルハザードには大体読める。魔力が高ければ高いほど、周囲の魔力の動きを感じ取りやすい。だが、それには、常に自分に魔力の網を纏わせ、それが無意識に制御できる程度に魔力を自分のものにしておかなければならない。
呪文や術式が不要なほど精緻で高い魔力を持っているアルハザードならばできるが、リューンにもそれができたのだろうか。……考えてみれば、彼女はアルハザードが「嘘を見抜く魔力」を見破っていた。それほど、魔力を感じ取りやすい、ということだ。
「犯人は分かったか」
「扉より出た者はありません。窓、天井を見ましたが逃走の形跡は消えていました」
やっぱりな。……リューンは思った。あんなに立派な立て付けの本棚が倒壊するとは信じられなかったし、その倒壊自体が罠だとは思わなかった。最初から、魔法灯を落すことが目的だったのだろう。
「ギルバート殿」
「はい……」
「陛下の魔法があったとはいえ、あの規模の本棚の倒壊を直撃していたら、私は無事では済まなかったでしょう」
これは本当のことだ。防御魔法によって命までは落さなかっただろうけれど、腕や足の1本や2本は折れていたかもしれない。
「守ってくれて、本当に感謝しています。これからも、貴方方のことを頼りにしております」
「……は」
リューンは今、守られるべき要人で、その仕事は全てギルバートが統括している。中庭へのラーグの侵入といい、今回の騒動といい、ギルバートはかなり精神ダメージを負っているだろう。リューンはそれ以上はもう不問だ、という意志を皇帝の前で明確にした。アルハザードも何も言わない。もちろん、今後もギルバートを頼りにするのは心からの真実だ。
3名の護衛騎士は深く頭を下げて一礼した。それを合図にアルハザードがリューンの手を取り立ち上がると、護衛騎士達も立ち上がる。リューンもアルハザードに支えられて立ち上がった、つもりだった。
「……うおぅ」
「リューン!」
「リューン様!」
リューンは、かなり前から立ち直っていたはずだった。最初は精神的にも衝撃を受けていたかもしれないが、少なくともすぐにアルハザードが来てくれたし、実質的には何事もなかった。
だが……本当はかなりショックだったのかもしれない。足に力が入らず、立ち上がった瞬間がくんと膝が折れたのだ。先ほどまで気丈にギルバート達に指示していたと思っていたので、これには流石にギルバートもアルハザードも慌てて声を上げた。
崩れ落ちるリューンの腰をさらうように抱き寄せて、その手を握り直す。リューンはかすかに震えていた。いつものリューンと異なり、弱々しい、戸惑うような視線を受けて、よほど怖かったのかとアルハザードの胸が詰まる。
一方アルハザードが手を握り返してきた思いとは裏腹に、リューンは若干赤面していた。確かに、少し怖かったのは本当のことだ。自分が震えているのもわかった。だが、どうでもいいが、声に出したのが「うおぅ」て。そっちの方が恥ずかしい。そっち突っ込んでくれ。いたたまれない。「きゃ」とかかわいい声出せないのか自分。これは毎度毎度何かにつけて気になることだが、黄色い声出せる人がうらやましい。「きゃ」とか言える人が実にうらやましい。心底うらやましい。存在するんだろうか。咄嗟に「きゃ」って言える人。あと、「きゃあ」とか言える人。
……などと、本当にどうでもいいことを考えながら立ち上がろうとしたときに、横抱きにされたため、リューンは心底驚いた。
「……って、アルっ、大丈夫、大丈夫ですから、横抱きは勘弁し」
「大丈夫ではないだろう」
「いえいえいえいえいえ、大丈夫でしょうおろしましょう、むしろおろしてください、恥ずか」
「分かったから暴れるな。……ギルバート!」
「分かってないし、聞いてないし、ア」
「月の宮に行く」
「はっ」
みんなの前でお姫様抱っことかなんという鉄板羞恥プレイ……。
しかし当然のことながらリューンの抗議はまったく受け入れてもらえず、無論、ギルバートをはじめとする護衛騎士がそれに口を挟むはずもなかった。
****
「大丈夫か」
「……大丈夫です。流石にちょっとびっくりして……」
「頼むから無茶をするな……」
アルハザードの声が痛々しくて、リューンは返す言葉が見つからない。
陽王宮の図書室から戻ってきたリューンは、すぐさま寝台に寝かされた。
いやいや、どこも悪くないのだから……と起きようとしたのを、アルハザードとアルマに怒られて、大人しく横になっている。本当にどこもなんともないから平気なんだけどなあと思ったが、起きて何かやる気があるかと言うと、特にやる気も起きなかった。流石に、あそこまで自分を狙った激しい襲撃が初めてで、緊張したのも大きい。
「アルハザード……」
そうだった。リューンは、自分はもっと冷静な人間だと思っていたが、あのときアルハザードの姿を見て、明らかに安堵した。この人が来たら大丈夫だ、という、絶対的な安心感を感じてしまったのだ。自分が弱い人間のようで情けなかった。その情けなさも相まって、アルハザードを呼ぶ声が小さくなる。
「なんだ」
「魔法をかけておいてくれて、ありがとう」
アルハザードはリューンの言葉に一瞬目を見開いた。その意外な反応にリューンは唇を尖らせた。
「何……、私だってお礼くらい言います」
「いや、そうではない」
アルハザードはリューンの護衛だと言って、彼女を無理矢理月の宮に押し込めた。彼女を守るのは当然のことだ。……それに、なによりもリューンが傷つくのは耐えられなかった。礼を言われる筋合いは無い。リューンには髪の毛一筋の傷も付けたくない。もしそれが許されるとしたら、
「リューン……」
アルハザードは立ち上がり、寝台に横たわるリューンの顔に唇を落とした。抵抗することなくそれを受け入れる。軽く口付けて、もう一度。今度は深く侵入していく。何度こうして口付けたことか。優しく触れたいと思う反面、欲望に身を任せて蹂躙したいとも思う。
……そう。もし傷つけるのが許されるとしたら、それはアルハザードだ。アルハザード自身の身体を、リューンの身体に刻み付ける。それだけが唯一許されていることだった。
アルハザードは口付けを深くしながら、リューンの額に手を充てた。自分の身の内の魔力を手繰り寄せ、リューンの身体に網をかけていく。欠けた護身結界を修復するのだ。口付けていた唇を少し離して、話しかける。
「リューン、魔力を舌に集中しろ。俺の魔力を捕らえるように。分かるか?」
「うん、多分……」
アルハザードがもう一度口付けた。今度は濃密な彼の魔力が流れてくる。それは身体を内側から攻め立てるように広がっていく。その奔流を飲み込むように、リューンも魔力を手繰り寄せた。
魔法において、呪文を使わない魔力の放出も可能ではある。ただし、相当な魔力の量と質、そして自己による魔力の綿密な解析が必要だ。どれだけの量をどのような形でどのように放出するか、というのを計算して術に転化しなければならない。今のところ帝国の要人でそれが出来るのは、アルハザードとバルバロッサくらいだろう。それが出来れば呪文という制約にとらわれず、自由に術を構築できる。
そして、癒しの魔力に限ってリューンもそれを呪文無しで行使できた。だから、今、アルハザードの魔力が自分に対して何を行っているのかは分かる。アルハザードは自身の魔法の構築に、リューンの魔力を少しだけ使おうとしているのだ。リューンの魔力は癒しの魔力だから、防御魔法を構築することはできない。だが、魔力そのものをその一部にすることはできる。丁度、織物の縦糸の一本に別の糸を織り込むように。
アルハザードの魔力がまるでリューンの身体を愛撫するように、彼女の内側を絡めていく。リューンが自分の魔力を意識すると、それをアルハザードの魔力があっという間に絡めとり蹂躙していった。その恍惚とした感覚に思わずリューンは口付けしているアルハザードに手を回した。それに答えるようにアルハザードがその顔を優しく抱き寄せ、慎重に体重をかける。
アルハザードは、さらにリューンの内側を舐め取るようにその魔力を注ぐ。やがて、リューンの魔力が捉えられた。精緻で清冽で身体を満たす魔力を引き寄せ、結界の網の1つに加えた。さらに、リューンにかけている防御魔法や追跡魔法にも掛けていく。少しきっかけを与えてやるだけで、リューンの魔力は全てを理解したようにアルハザードの魔力に解けていく。
アルハザードは、一度唇を離した。長いこと吸い続けて、少し赤みを帯びている。リューンの耳元に唇を寄せた。
「無理をさせた」
「……今の……」
「お前にかけている魔法の一部に、お前自身の魔力を使った。持続の効果が強まる。上手く使えば、自分でもある程度拡張できるだろう」
「う……ん」
魔力をアルハザードに捕われた一瞬を思い出した。なんだアレ。なんだこの恥ずかしさ。悶絶しているリューンを面白そうに見下ろしながら、アルハザードは追撃した。
「夜までには調子を戻せ」
「え」
「今夜はお前を離せる自信が無い」
アルハザードはそっと耳元で甘く囁くと、ふっと笑って寝台を離れた。「夜まで、ゆっくり休めよ」そういって、月の宮を立ち去る背中を見ながら、リューンは、よるこわい、……と頭を抱えた。いまだに先ほどのよく分からない情欲が自分の中に残っている。多分アルハザードもそうなのだろう。
余談ではあるが、魔法の補修は別に口付けでなくても可能じゃね? ということにリューンが気付いたのは、もう少し後になってからである。