帝都の地下牢に1人の囚人が繋がれていた。折られた腕は治療させられることなく、両の手を鎖に繋がれて壁に座らされている。
彼が牢に入れられたのは数日前のことだ。激しい拷問によって雇い主を吐けといわれたが、彼は暗殺者の矜持としてそれを吐かなかった。
だが、それも相手の計算のうちなのだ。
身の内の魔力は枯渇し、抵抗する力はもはや無い。恐らくこれから精神的な魔力による責めが始まるだろう。そうなった場合は、肉体的な責めよりも数倍の苦しみが始まるはずだ。
キィ……と、扉が開いた。
闇に溶けるように1人の男が現れた。覚えのある気配。今なら分かる、この男は。
自分を騙した。
いや、浅はかにも騙されたのは自分のミスだ。「獅子王を殺す」という、暗殺者にとっての最大の栄誉を得るために、それに乗ったのは自分。
「悪く思うな。『俺の』雇い主の命令だ」
それは聞き取れないほどの、小さな小さな声だった。
どのみち自分に先など無いのだ。それならば、暗殺者のうちに死なせてくれ。
声にならない願いを聞いたのか、聞かなかったのか……男の手が、心臓の上に当てられドスリと鈍い音が鳴る。囚人の身体が小さく揺れた。
「生きてられちゃ邪魔なんだとよ」
その囚人が最後の瞬間に見たのは、ニヤリと笑った鳶色の瞳。
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強襲の謎の多さは、ギルバートをはじめとする護衛騎士たちを騒然とさせていた。陽王宮を守る陣営は組み直され、要所に配置する魔法も見直しが入った。できる限り死角を減らし交代の隙を減らす。
近衛と護衛の騎士達は、その再編成のために一種騒然としていた。そこに、月の宮の寝所襲撃の報がもたらされ、騎士団を総括しているシドと共に護衛騎士隊長のギルバート、近衛騎士隊長のヨシュアは戦々恐々としていた。特にギルバートについては、その落胆振りといったら哀れなほどであった。
「襲撃者についてですが」
月の宮襲撃の襲撃犯の調査が任されていたのは、無血宰相ライオエルトだ。皇帝の執務室で、アルハザード、ライオエルト、シド、ギルバート、ヨシュアの5人が話し合っている。
「自供は得られませんでした。申し訳ありません」
「どういうことだ」
「牢への侵入を許しました」
「死んだか」
「……はい」
「侵入した者は」
「暗殺者の類でしょう」
「すばやいな」
「失敗も策のうちかもしれません」
この世界にも、暗殺を生業とする人間が存在する。無論、暗殺以外でも調査・護衛・潜入、どんな仕事も遂行する、まさに影に潜む人間である。特殊な魔法、特殊な技を使って潜入し、実行する秘技を操る。どのような人間がどういった集団に基づいて行動しているのか、長があるのかどうかも不明だ。獅子王アルハザードといえども、その実体は掴めていない。
「図書室での襲撃はリューン狙いだったが、あれは、俺を狙っていた」
「雇い主が違う、と?」
「最初の襲撃はシンプルだったが完璧だ」
図書室の襲撃。本棚を倒し、魔法灯を落す。やり方はシンプルだが、痕跡を残さず逃走した。だが、リューンを「確実に」殺す、という方法ではない。あわよくば、殺す、という風だった。パフォーマンスや脅しの類なのかもしれない。
だが、寝室での襲撃は全く異なった。結界を透過せずに消去して獅子王に近づくなど、まるで殺してくれといわんばかりだ。そもそも気になるのは護符にかかっていた遠視の術だ。あれではリューンを見るために……あるいは2人の閨事を見るために、暗殺者の命を1つ犠牲にしたようなものだった。
単純にリューンを殺そうとしているのか、アルハザードを殺そうとしているのか、誰が、何の目的で。その全てに、言ってみれば偏りがあったのだ。
「偏り……ですか」
アルハザードの考えにライオエルトが考え込む。いずれにしてもそういった類の技を使ってまで、陽王宮を害する者がいる、ということには変わりがない。
「暗殺者のような類には、同様の人間を充てねばなるまい」
「陛下。<影>を出しますか」
「ああ」
「……!」
「帝国にも隠密を生業とする組織がある」
「陛下……」
「名前は無い。だが、俺達は<影>という」
アルハザードが、淡々と言った。
この事情を知っているのは、宰相ライオエルトと将軍シド、そして枢機卿バルバロッサのみだ。したがって、ヨシュアとギルバートには初耳となる。国秘である。そう、念を押して、アルハザードは告げた。
「スフ」
「ここに」
アルハザードの短い呼びかけに、執務室のカーテンがふわりと揺れて、黒のフードを目深に被った男が現れた。フードのせいで口元以外の顔は見えない。声も老いているのか若いのか不明だった。歴戦の戦士達に一切の気配を感じさせない、それが、帝国の隠密を担当する名の無い組織の長、スフだった。アルハザードらはその組織を<影>と呼んでいた。
「……これより、陽王宮の護衛に関して、裏の部分はスフに任せる。ギルバート」
「……はっ」
「不満もあるだろうが。許せ」
「……陛下……」
不満。無いといえば嘘になる。陽王宮の護衛は自分に統括されている職務であり、それの一部を見知らぬ存在に任せるというのは矜持に反する。だが、自身の陽王宮の警護が至らないからこそ、<影>の存在を許すことになったのだ。そして、それをアルハザードがギルバートに告げるということは、それだけギルバート自身を信頼している裏付けでもあった。
「襲撃者により陽王宮の御許を騒がせているのは、我が不徳の致すところです」
「……」
「……ですが、だからこそ、その存在を秘せず、お知らせいただいたこと、感謝いたします」
「お前が陽王宮の守護の要であることは、間違いの無いことだ」
「ありがたきお言葉」
「……やってくれるか」
「無論。陽王宮を守ることが私の職務です。そのための手段であるならば、何事でも」
アルハザードが大きく頷いた。シドとヨシュアに視線を向けて、再度問う。
「ヨシュア。お前も、不満は無いか」
「ギルバート殿と同じ思いです。このヨシュア、何事がありましても陛下のお側をお守りします」
アルハザードと宰相ライオエルト、そしてシド。帝国3将は満足気に頷いた。アルハザードが帝位について10年、それを支えてきた礎である。だからこそ、信頼できる言葉でもあった。
ギルバートは、まさに<影>のように控えていたスフを見た。黒いローブの中の表情は伺い知れない。だが、その<影>はギルバートを確かに見ていた。そして、微かに頷いた。
****
「どちらにしてもこれ以上陽王宮を騒がせるわけにはいかぬ」
「何か策がおありですか」
「これは以前から考えていたことだが、」
ヨシュアの問いに、アルハザードは両手を組み顎を乗せて、一瞬の間をおいて答えた。これは、ライオエルトとシドにのみ明かしているところであった。
「後宮を無くす」
「……え?」
そもそも後宮を持たない、というのは、アルハザードが即位したときから考えていたことでもあった。だが、皇妃を迎えないまま10年が経過してしまった。結局、後宮を持てとうるさい貴族を黙らせる為に3人の姫を後宮に上げたという経緯がある。自分に皇妃が出来ようが出来まいが、彼女らのいずれかを皇妃に迎える気は無く、いずれ臣下に下賜するか実家に帰すかと考えていた。一度皇帝の手がついた女性は、他の貴族の妻になっても悪い扱いにはならないはずだ。だが。
「……貴族共が納得しますか」
ヨシュアがアルハザードに問う。
「しないだろうな」
「推し進めますか」
「まあ、早急には解散させぬがな。現在の騒ぎが後宮から出ていることは、ラーグの件から間違いない。3人の姫のいずれか、であろう」
「確かですか」
ラーグ子爵が後宮と関係しているのは、ということだろう。
「先日も言ったように、ラーグは後宮の手を借りて中庭に出ている」
ヨシュアが首をかしげて、眉を寄せる。
「……あの小物がそこまでしますか?」
「後宮のいずれかが、進言したのだろうな」
「誰か、というのは……」
「それが分かっていれば苦労はしない。そもそも後宮自体が隠れ蓑だろう。後宮は特殊だ。俺ですら簡単にその慣習に手出しできない、隠れるにはうってつけの場所だろう」
アルハザードは自嘲する。だからこそ、まず解散させる。そして、今後後宮という仕組み自体を置かぬようにしようと考えていた。
「だからこそ、後宮からもう一度火が出るのを待つ。陽王宮に何かが起こって、その出所が後宮であれば、貴族どもに言い訳も立とう」
「しかし……それでは、リューン様が……」
ギルバートが眉をひそめた。後宮から火が出るのを待つ、……事が起こるのを待つ。そうなれば、最も危険なのは他でもないリューンなのだ。後宮を解散させる、というのはよもや月宮妃まで手放す、ということだろうか。それはあり得ないはずだ。
「……陛下……リューン様を囮になさるのですか……?」
「……囮か……」
アルハザードが相手だとしても、ギルバートは非難めいた声になるのを抑え切れなかった。
リューンが囮となる。
アルハザードのその考えは、シドにもヨシュアにもライオエルトにも、先ほどの会話で計り知れた。そしてヨシュアやギルバートには信じられなくもあった。あれほど寵愛している妃。先だっての図書室での事故の時の様子で、皇帝がどれほど彼女を傷つけたくないか、誰の目にも知れていた。それなのに、今はそのリューンを囮にするのも辞さないことを言っている。
「結果的にはそうなるかもしれぬ。だが守りきれ。万が一も許さぬ」
搾り出すような声でアルハザードが言った。これもまた、信じられないことに、それは悲痛な声だった。いつも威厳と自信に満ちている獅子王の声が、苦しげに掠れていた。後宮を無くすという目的のために、寵愛している妃を囮にする。どれほどの気持ちで、これを決めたのだろうか。ならば後宮の解散が成ったときに、リューンはどうするのか。
「……リューン様をどうなさるおつもりですか?」
「愚問だな」
その一言で全てが知れた。皇帝陛下は、月宮妃を……皇妃にするつもりなのだ。部屋に居る誰もが、それに異論があるはずが無い。身分的にも申し分ない。人柄も知性も、月宮妃以上の皇妃はないだろう。無論、あのベアトリーチェの娘だからと煩い貴族達もいるだろうが、子でも為せば文句は出ない。
「子でも為せば貴族どもは黙るだろうが……」
部屋に居るものの考えを読み取ったように、アルハザードは言った。無表情で、だが、その瞳の奥は何かの感情を押し殺しているようだった。
「今、子を為せば、守るべきものはリューンだけではなくなるだろうな」
室内に重苦しい空気が下りる。リューンがアルハザードの子を宿していないからこそ、後宮の姫君はまだ対等と言える。対等さが崩れれば、事が意図せぬ方向に一気に動いてしまう可能性があるだろう。そして、子供が居れば、その子を狙って標的が拡散する。リューン自身も動けなくなる。アルハザードはそれを恐れていた。
全てをつぶして、陽王宮の安全を確保しなければならない。いや、未来永劫、皇帝の側に居るかぎり完全な安全など無い。いつ何時、敵に狙われるかも分からないのだ。だからこそ、今明らかに目に見えている脅威は全て取り払わなければならない。
ライオエルトが長く息を吐いた。
「ラズリ殿は許さぬでしょうな」
「……分かっている。許されようとも思わぬ。今日の会話は全て秘しておけ。よいな」
「……はっ」
会話を終えたアルハザードは、僅かに気を緩めて背もたれに身体を預けた。部下達に向かって、苦笑する。
「女1人のために愚かだと思うか」
これまで部下の誰にも見せたことのない、最初で最後の獅子王の弱音だったかもしれない。
「陛下」
それに答えたのは、シドだった。
「なんだ」
「後宮を無くすというのは、もともと陛下がお考えになっていたことでしょう」
「ああ」
「それならば、リューン様お1人のためではありますまい」
後宮というひとつの組織を帝国から失くす。これはリューンが居ても居なくても、アルハザードが考えていたことだ。にも関わらず、問題を後回しにしていたがゆえに後宮を持ってしまい、さらにリューンを迎えて幾度かの襲撃があり、その機会が思いのほか性急で強引で危険なものになってしまった。だが裏を返せば、膠着していた事態を返す好機ともいえた。もちろん、そのためにリューンを失ってしまっては、元も子もない。
もっとも、シドとしてはそれだけが理由ではない。リューンは、敬愛する皇帝が唯一その鬣を休める場所であるのだ。それだけでも充分に守るに値する。
「そうか」
アルハザードは頷いた。
「……リューンのことを頼む」
「はっ」
****
執務室にアルハザードと、そして<影>が残っていた。アルハザードは、スフへと話しかける。
「スフ。陽王宮を確保するために、必要な人材は全て使え」
「御意」
「何か入用なものはあるか」
「……状況によっては、月の宮に別の者をつけましょう」
「……かまわぬか」
「無論」
アルハザードは誰に言うでもなく、ポツリと呟いた。
「……今まで俺が子を作らなかったのは、愚かな女に自分の子を産ませる気にならなかったからだ」
「……」
「子は女にも似る。愚かな女から愚かな子が生まれれば、俺は愛せまい。だがそれは俺の身勝手であり、皇帝という人間の都合だ」
アルハザードは、政においても戦場においても、敵に対して容赦は無い。法に照らす必要が無く、闇に葬る必要があればそうしてきた。魔力の量は国で最も高く、剣技だけであればバルバロッサ卿以外は類に及ばない。それゆえ、彼は「獅子王」と呼ばれているのだ。それは、尊敬や畏怖だけではない。恐怖の誹りでもあるのだ。
そのような自分が、1人の男としてリューンを得たいと思ってしまった。皇帝として生きていながら、人としての我を通す。都合のよいことだと自嘲する。だが、それでも手に入れたい。リューンの存在が国益である、とか、要人である、などというのはただの言い訳にすぎない。
「だが、俺の身勝手も、皇帝という人間の都合も、全て含めた上で、俺という人間個人が愛してもかまわないのかと思わせる女が見つかったのだ」
「……それは月宮妃にお伝えなさい」
「そうだな……」
ふ……と静かな笑みを浮かべる。
「スファトリクルフ。エウロ帝国の<影>総括に命じる」
アルハザードは、スフを振り返った。
「リューンが皇妃となるべく、陽王宮を守れ。後宮を無くし、帝国内部に手を出すものを一掃する」
「御意に」
スファトリクルフ。アルハザードしか知らぬ、スフの名の下に。<影>は、頭を垂れ、身を引いてその気配を消した。