獅子は宵闇の月にその鬣を休める

021.舞踏会ではありません

ここ最近の襲撃の多さから、リューンはあまり外に行く気になれなかった。

アルハザードに呼ばれた時と、2人で歩く時以外はほとんど月の宮から出ていないのは相変わらずではあったが、それにますます拍車がかかる。何より、自分を守るために護衛の人がばたばたと動くのは正直言って申し訳ないのだ。守られるのも職務の内というのは重々承知している。だが、どうしてもただひたすら守られる立場というのは慣れなかった。

ギルバートやカイルなどはピリピリしている。何か分かったのかとラズリに聞いても教えてくれず、アルハザードに聞いても芳しい結果は得られていないようだった。寝室を襲撃したものは死んでしまい、依頼主は分からない。

アルハザードを狙う敵意については、まだ帝国に来て日の浅いリューンには分からない。だが、自分を狙うとすれば、後宮の姫君が現在最も近接する敵意だろう。野心であれ嫉妬であれ、リューンを邪魔だと思う動機は充分にある。

今まで、それが表層化していないこと自体がおかしいのだ。一度サーシャ姫の侍女とオリヴィア姫の侍女と見えたことがあったが、そのときも一悶着あったではないか。他姫の関係者と顔を合わさないのは、単純にリューンが外に出ないからだけの話だ。

自分が顔を出さない……。今までは単純に、他と関わりたくなかったから外に出なかった。帝国の政には一切干渉しない、と考えていたからだ。自分が外をうろうろして、後宮の姫君の反感に晒される、というのも、言ってみれば政治の一種だとリューンは思っている。だからこそ、関係を避けるために、意図的に外に出ては居なかった。

今は時々引っ張り出されているが、……それは、恐らくライオエルト辺りが宣伝活動として企んでいるのだろうなということも分かっている。皇帝がまったく興味を示してこなかった妃に例外が現れたのだ。これを逃してしまえば、次にまた同じような女が現れるかは分からないと考えているのだろう。それが何故自分なのか、リューンには正直分からなかったけれど。

それならば、自分は、……リューン個人としては、どうなのだろうか。リューンは今では、アルハザードが自分を寵妃として扱っていることを受け入れている。仕方なく、では無い。政治的な意図を抜きにして、自分がそうしたいからだ。

アルハザードが自分を見る視線も、彼と話す時間も、彼に触れられているときも、彼の与えてくる全てにリューンは抗えなかった。流されるようなフリをしているが、リューンは自分で選んでそこに身を置いている。だが、それを認めるのは怖かった。

忘れそうになるが、リューンはベアトリーチェの娘だ。夫の治世を合わせれば30年もの間カリスト王国を混乱に陥れた、狂った女の娘。身分的には問題ないだろうが、出自的にアルハザードの側にいるのは、否定的な輩も多いだろう。自分とて、ベアトリーチェは憎かった。

だからといって、龍はリューンを否定しているわけではない。リューンのことを龍は妹のように愛していた。否定などできない。できるはずがない。だが、困ったことに、龍は自己肯定的な人間ではなかった。どちらかというと自己否定的だ。

そんな龍は自分が愛したリューンの身体で、今、生きている。自己否定することは愛したリューンを否定することになる。だからこそ、その矛盾がいつも龍を混乱させた。

そう、龍は一度死んだ人間なのだ。そして、リューンも死んだ人間だ。死んだリューンから身体をもらった。少なくとも、龍が生きている意思はベアトリーチェを殺すためだった。そして、ベアトリーチェを殺すという目的を達した今は、リューンが死んでしまっているのに、龍だけが生きてアルハザードの側に居る、……その安心感……に身を委ねるのはあまりにも後ろめたくて怖かった。

「……さま?……リューン様……?」

「って、おおっと、ラズリ、いつからそこに!?」

「……驚かせて申し訳ありません。ライオエルト殿がお見えです」

「ライオエルトさんが? お通しして」

時折、脳内会議を開催しているリューンは、ラズリやアルマから見ると深く思索にふけっているように見える。政策などを相談したときにも、しばしば陥る現象だった。

****

「はあ、夜会」

「はい。季節ごとに行われる、まあ貴族の顔合わせのようなものですね」

「陛下が主催されるのですか?」

「はい」

「へー」

ライオエルトが持ってきた話は、年に2回開かれる夜会についてだった。その期ごとの有事を発表し、貴族たちが皇帝に報告する。その後、貴族たちを労って宴を催す……と。要するに晩餐会ですか。なるほど、皇帝ともなればそれくらいするか。しかし。

「……で?」

「……で」

「……」

ライオエルトとリューンの間に、微妙な間が降りた。ライオエルトは思わず苦笑する。この月宮妃という人は、物事を的確に捉えて自分の考えを述べるのに、時折、このように世間や自分の価値を放置した反応をする。自分がその夜会に出席せねばならない、という考えには及ばないらしい。

「リューン様にも出席していただかねばなりません」

「……なぜ?」

「……」

またしてもライオエルトとリューンの間に……以下略……
ライオエルトは咳払いをひとつした。この調子では、いつまで経っても話が進まない。

「この会には、後宮の姫君たちも参加されます」

「え。全員?」

「全員です」

「なぜ?」

「なぜ?」

「わざわざ、後宮のお姫様たちが皇帝陛下の目の前で顔突き合わせて誰が得するの?」

「……」

身も蓋も無いがまったくその通りである。くだらぬ慣習だとアルハザードも言っていた。だが、それを言うと、女の寵を争わせることにしかならない後宮の存在自体がくだらぬ慣習なのだ。

しかし今回の夜会には、まったく別の意味がある。

それは、皇帝とリューンの姿を貴族たちに見せることだ。もちろん、獅子王ははっきりと、嫌がった。しかし他の後宮の姫君たちが参加するのに、今もっとも寵愛を受けているリューンが参加しないわけにはいかない。むしろ一番の目玉になるだろう。「あれがカリスト王国狂王ベアトリーチェの娘で、元女王。幽霊王女でありながら、後宮に上がれば皇帝の寵をもっとも受ける女性」と。

たしかに陽王宮という皇帝の私的な空間では、皆に受け入れられている。皇帝に好意的な貴族たちにも、ベアトリーチェの娘であることを快く思わないものもいるが、今まで一切皇妃を迎える気配のなかった獅子王が心傾ける女性として概ね肯定されている。だが、社交界となるとそうはいかない。いまだに若い皇帝に意を唱えるうるさい貴族も多いし、何よりもリューンに反発を持つ、皇妃の座を狙う貴族もいるのだ。そういった貴族たちが、善意を持ってリューンを受け入れるはずがなかった。

だが、リューンにはそれを乗り越えてもらわねばならない。皇妃として皇帝の隣に座すならば、それは必然だ。目の前の女性にその意図が有るか無いかは別として、少なくとも自分たちや皇帝陛下はそれを望んでいる。

無血宰相と恐れられているライオエルト自身もリューンのことを認めていた。普段は慎ましく言葉を控えているが、皇帝と話しているときに見え隠れする柔軟な洞察力と、そしてなにより、獅子王を恐れぬ眼差しは、皇帝の臣下から見てもとても好ましい。

「夜会ね……」

「気が進みませぬか」

「そりゃあ。地味に忘れそうになるけど、私はあの狂王の娘だから。興味津々の輩は多いだろうね。それに晒されろ、と」

「……」

リューンの瞳が変わる。慎ましやかな月宮妃が自分を裏返す瞬間。あの獅子王アルハザードを捕らえて離さない、苛烈な黒い瞳。

「他のはどうにでもかわせるけれど、こればっかりは本人の努力ではどうにもならない」

「他はどうにでもかわせますか」

「普通そっちに言及する?」

ふ……と、リューンが苦笑した。普段表情の薄いリューンが笑うと、時に物騒だ。どこに何がどう飛んでくるか、分からない。

リューンにしてみれば、後宮からの悪意も幽霊王女という謗りも、実は別段痛くもかゆくもない。その意思が政治的な行動になったら煩わしいが、そう思われるだけであれば全く気にならない。そもそも、妬み・嫉妬・謗りの類で、他人に悪意を向けられるなど、享年25歳で政治家秘書だったリューンには慣れたものだ。そんなものはスルーしておけばいい。

だがどうにもできないこともある。「あの親だから」という、覆しようのない理由で、事実と自分を引き離されることだ。日本にいたときもよく言われていた。「さすがあの汚職家の娘だ」とか、「どうせあの汚職家の娘だから」などなど。そう言われて自分の意見が通らなかったことの、どれほど多いことだろう。そしてこればかりは、自分が未熟である間は、どうにもできない。

「妬みとか嫉妬とか、みみっちい悪口なんかはスルーしとけば済むけど、本人の親がどうのを理由で否定されたら、それ以上話が進まない。それを超えるだけの評価や説得力を持たないといけないけど、それには大体長い時間がかかるものだわ」

「リューン様はその評価を得るつもりがおありなのですか?」

「どういう意味で?」

皇妃になるために、とは、今の段階では口に出来ない。リューンが自分に関わること以外で帝国の政治に干渉したことは無い。それはライオエルトにも知れていた。自分が皇妃になることなど求めてはいないのだろう。ライオエルトは答えず、リューンも答えを求めようとはしなかった。

「でも……、少なくともアルハザードに恥をかかせないようには努めるよ」

「恐れ入ります」

「いえいえ。あ、でもさ」

「何でしょう?」

「夜会って、ダンスとかないよね」

ライオエルトは虚を付かれたようにきょとんとする。

リューンにしてみれば重要だった。舞踏会でダンスて。確かに社交ダンスは貴族の嗜みかもしれない。だが、よく考えてみてほしい。日本人の龍にはなじみがなさ過ぎる。それになによりアルハザードがあの、泣く子も黙る仏頂面で舞踏会でダンス踊ったりするのかと思うと、腹筋が耐えられそうにない。いやいや、ほんと無理だ。やめて。でかい(身長が)

あんな、威厳だけで形作られたような人がワルツとか踊ったりするの怖い。怖すぎる。

あー、でもよく考えたら貴重な絵面かもしれないな。って、ダメ!ほだされたらダメ!

「ダンス……は、今回は舞踏会ではありませんので……」

なんだ、無いのか。

「お得意なのですか?」

「いや。20年間やったこともないことやれと言われましても」

「ああ」

……ライオエルトは忘れていた。ダンスどころの話ではない。リューンは20年間、幽閉に近い状況に置かれていた。社交的なものには一切出席しなかったと聞く。出席したといえば、恐らく、あの粛清のときだけであろう。あれが社交界デビューというのは皮肉な話だ。皮肉を通り越して過酷である。そのような女性が皇帝陛下の晩餐会に月宮妃として出席することに不安は覚えないのだろうか。目の前の女性を見ていると、その点に関して不安そうな様子は見られない。

「では、夜会に出席する貴族で、重要そうな人のリストを作ってもらえますか?」

「……手配しましょう」

「ライオエルトさん視点での注意点をお願いしても?」

「了解いたしました」

ライオエルトとリューンは顔を見合わせて頷いた。

****

リューンとの会見が終わり、雑談をする段になって、ふと気になったことを聞いてみる。

「リューン様。お伺いしたいことがあるのですが」

「なんでしょう」

「以前、ラズリ殿にちらりと聞いたのですが」

「ラズリに?」

「皇帝陛下が怖くなくなるコツ」

「ふはっ」

リューンは咳き込んだ。何を吹聴しとるんだ、ラズリは。ああ、確かに教えたことがあるなーと思いながら、リューンは苦笑した。

「簡単なことですよ?」

「ほう」

「皇帝陛下は公明正大な方なのでしょう?」

「ええ」

「ならば、不当な理由で目の前の人間を害したりはしないはずです」

「ふむ……」

「これから言わんとする自分の意見や、自分の考えにやましいことがなければ、皇帝陛下と対面する先にあるのは、別に危険なものではありません。それで無駄に手打ちにでもすれば、それは皇帝陛下の恥になるでしょう」

リューンはにっこりと笑った。

「だから、陛下が公明正大であればあるほど、そして、自分にやましいことが無い限り、別段怖くはないのです」

ライオエルトは、アルハザードがリューンに執着する理由が分った気がした。

人から恐れられる力を持っていることの孤独。人から恐れられることの意味。それらの全てを制御する必要のある、権力とはどういうことか。それと対面するのはどういう意味か。この女性は理解しているから、恐れない。だからアルハザードは心惹かれたのではないか。恐れないからこそ、自分から瞳を逸らすことなく、はっきりと意見を述べる。自身アルハザードの姿を見つめてくれる、怖いもの知らずのこの女性を。

「あ、でも、顔は怖いですけどね。あのひと

「……顔ですか」

「うん。顔」

「怖いですか」

「怖くない?」

「男らしく、女性には人気の高い顔と思われますが」

「えー……、でもすぐ睨んでくるし、睨むと怖いし」

「ああ」

……それに、女性に人気な顔はそっちライオエルトだろう。などとリューンは思うが、とりあえず黙っておく。

「お嫌いですか?」

ライオエルトが小さく笑って首を傾げた。

「あら、男は顔じゃないのよ」

銀髪眼鏡美形男子のテンプレ笑顔を受けて、リューンも誘われるようにふふんと笑った。