獅子は宵闇の月にその鬣を休める

022.4人の姫君

その日のリューンはいつもの凛々しいドレスではなかった。

僅かに鎖骨が見える程度に開いた胸元、そしてむき出しになった肩。上半身には薄い布をあしらって露出を抑えてはいるが、ちらちらと肌の色が見えて華奢な肢体を強調している。色は全体に青灰色で、少しずつ色目を変えた布が身体のラインに沿うように幾重にも重ねられていた。華美な装飾品は一切無く、胸元を飾るのはいつもの蒼い雫形の小さなペンダント。シンプルすぎるその装いは、背に垂らされた見事な髪が彩っている。

艶やかな黒いその髪は結わずにそのまま背の肩甲骨辺りまで垂らされて、耳の後ろ辺りからぐるりと白い慎ましい花と金色の鎖で彩られていた。恐らく付け毛なのだろうが、まったく分からない。見事なものだ。

もっとも、他の姫君たちも今宵は見事なドレスと装飾で各々、自分達を引き立てている。特に後宮の妃の2人は、豊満な肢体をあからさまになりすぎないぎりぎりの線で強調し、男達の目を楽しませていた。

自らが主催した夜会にて、先に会場で貴族達と歓談していたアルハザードは、ギルバートに手を引かれて現れたリューンに気づくと、貴族達との話を中断して、その手を受け取った。会場の貴族達の注目が一気に集まる。今まで後宮のどの姫もエスコートしたことのない皇帝が、その手を取る黒い乙女。貴族達がリューンに向けるのは、好意、悪意、そして大体は好奇心の視線だった。

アルハザードは時折瞳を細めてリューンを見下ろすものの、甘い表情を見せることなく皇帝の威圧感を漂わせている。リューンは、時々はにかむような表情でアルハザードを見上げては、にぎやかな場所に戸惑うような静かな微笑を浮かべていた。皇帝と共に居る手前、貴族達からリューンに向けられる挨拶は控えめだ。波が途切れると、お互いにしか聞こえない言葉で話す。

「髪が長いお前を始めて見た」

「付け毛作ってくれてた」

「お前の髪か」

「アルマが取っておいてくれたんだって」

「なるほど。触れても?」

「触れるくらいなら大丈夫なんじゃない?」

アルハザードはそっと、長い髪を撫でてみる。確かにリューンの髪だ。艶やかで柔らかい黒い髪。下の方を一束梳くって落すと、それはすんなりとアルハザードの指を流れていく。

「それにしても、やはり細いな」

「え?」

「腰が。もっと食べろ」

「太っているほうがいいの?」

「……そういうわけではないが、細すぎて不安になる」

「きちんと食べてるわよ」

「だが、お前は細い」

「コルセットはしたくない」

「ああ。あれは確かに必要ない。脱がせ辛い」

「脱がせるとか今言わない」

「今脱がせるとは言っていない」

言いながらアルハザードはリューンの細い腰をそっと抱き寄せる。いつものように強引ではなく、ドレスのラインが崩れないように繊細に。壊れ物を扱うように、大事に。

そんな2人を見て周囲はざわめいた。貴族の妻たちは、その仲睦まじい2人の様子を見て夫に寄り添う。若い騎士たちはリューンを憧れの眼差しで見つめた。貴族の娘達の半分はアルハザードとリューンの様子に、絵物語を見つめるような視線を向けてうっとりとため息をつき、もう半分は嫉妬と悔しさで表情を歪めたのである。

やがて、シドとライオエルトが2人の元にやってきた。数名の若い騎士が、緊張と畏怖の視線を込めてアルハザードへと挨拶をする。その挨拶を頷きながら受け止め、アルハザードはシドとの会話に入った。一方、ライオエルトはリューンと時節の挨拶を交わしながら、アルハザードと距離を離す。

それを頃合と、他の貴族たちがリューンに挨拶に来た。大体が、ライオエルトから渡されたリストに載っていた貴族達だ。そのリストのおかげで、どの人物がどのような感情を自分に持っているだろうかという予測は頭に入れていたし、この類の輩は敵味方を、政治的な価値判断と自分の権力欲への天秤で決めるから、ほとんど怖くはない。

リューンは、自分に振られる嫌味はきょとんとした小鳥のような天然顔で交わし、自分に向けられる悪意は無難に受け止め、そして、好意的な意見には、真摯な眼差しで頷いた。これにより、理解力のある貴族達には好意的に迎えられ、それ以外の貴族達には当たり障り無く評価されることになった。ライオエルトは付かず離れずれその様子を見聞きし、その機敏に満足したが、リューンにとっては政治家のパーティーと同じだ。皇帝という分かりやすい権力がすぐ側にある分、むしろたやすい。

問題があるとすれば。

「貴女が、リューン様……?」

「お初にお目にかかります。リューン・アデイル・ユーリルと申します」

「ごきげんよう。わたくし、サーシャ・ミリアム・ルルイエと申しますの」

きたな。

周囲の貴族達がさりげなく引いていく。そこから現れたのは、絵に描いたような豊満な体の女性だった。見事な金茶色の巻き毛は、横髪は縦ロール。さらに、上に大きく盛られている。おお。これはいわゆる……あれか、age嬢か。ここまできて盛ってる髪を見るとは思わなかった。ああでも、まだまだ盛の高さが足らないか。胸の強調もお作法通りだ。ぎゅっと身体を細く絞めて、ぽってりと上に盛り上げて高さを作っている。

彼女はサーシャ・ミリアム・ルルイエ伯爵令嬢。爵位はリューンより下だが、どこか上から目線なのは、恐らく、もっとも最初に後宮に入ったという事実と、リューンが年下だからという単純な理由だろう。精一杯の矜持を張った、世間知らずのお嬢様、といった感じだ。23歳だけど。

「わたくしもご挨拶してよろしいかしら?」

間髪いれずにサーシャの隣から、同性のリューンも怖気づきそうな色気の女性が現れた。妖艶で、かつ享楽的な美姫。男性が一気に前を押さえそうな、匂いたつようなフェロモンを放っている。いや本当に、何かが香ってきそうなほどだ。

「ごきげんよう。リリス・ティーラ・ファロールですわ。よろしく」

リリス・ティーラ・ファロール侯爵令嬢。新鮮な炎のようなオレンジ色の髪に、薄い茶色の瞳。そして、髪の色を濃くしたような豪奢なドレスを身に付けている。ドレスの色は派手なのに、中の人はまったく負けていない。いや、むしろその毒々しさがよく似合っている。……こちらも爵位はリューンより下。ただ、リューンにとっては家柄の上下などはまさにどうでもいいことだったが。

……それはそれとして、やはり彼女の目線も上からだ。彼女の場合は、生まれ付いての女王様なのだろう。男は皆、自分にかしずいて当たり前。女は自分ひとりだけ。と思っているタイプ。そして、恐らく、彼女の人生においてはその通りであるに違いない。男性であれば親兄弟であっても意のままに操りそうだ。ただ1人、アルハザードを除いて。

2人のお姫様の濃さに辟易していると、リューンは遠慮がちに控えている可愛らしい女性を発見した。色の少し淡い猫っ毛の金髪をゆるく結い上げ、白い小さな花を散りばめている。チョコレート色のオーバースカートの隙間からカスタードクリーム色のレースを覗かせたドレスが、甘いお菓子のようで彼女によく似合っている。榛色の瞳が子リスのようだ。だが、子供っぽくは見えない。ただただ、愛らしい。

恐らくこの人がオリヴィア姫だろう。リューンは覗き込むように視線を動かし、丁寧に一礼した。

「貴方は……? ご挨拶してもよろしいでしょうか。わたくし、リューン・アデイル・ユーリルと申します」

「……ご挨拶が遅れて申し訳ありません。オリヴィア・イース・オーガストですわ」

やはりこの人がオリヴィア姫だった。おずおずと柔らかに微笑んで、淑女の一礼を返してくる。おいおい……なんだこのかわいい人は。もう一度言おう。やばいかわいいなにこのひとかわいい。リューンは一目で心奪われた。思わず手を取って、ぎゅううっと抱きしめそうになる。率直に言って、口説きたい。頭を撫でたい。撫でまわしたい。猫ッ毛の金髪をふわふわくるくる指で弄びたい。リューンはわきわきする両手を自重しながら、平静を装った。

そんな2人の様子を見て、ふんと鼻を鳴らして笑ったのはサーシャだ。

「まあ、リューン様はオリヴィア姫をご存知でしたの?」

「いいえ。お三方はこの会場でも、特別にお美しくあられました。サーシャ姫、リリス姫と美しい花がそろっておりますもの。もう一輪はオリヴィア姫かと思いまして」

「あら」

サーシャはまんざらでもなさそうだ。言った側から噴出しそうなほどベタな褒め言葉を使ってみたが意外と単純である。リリスは言われ慣れているのだろう。当然、といった顔で表情を変えず、オリヴィアは戸惑ったように目を伏せた。

「リューン様は、陽王宮に月の宮を賜れておられるとお聞きしましたわ」

「わたくしなどに勿体の無いお話でございます」

「まったくですわね」

女王様の如き鋭い視線で、リリスが言葉をかけた。まとわりつくような声色で、視線を揺らめかせる。

「宮以外でも、皇帝陛下とお会いになっておられるとか」

「……時折、陽王宮で、お言葉を賜るだけでございます」

「そう。お言葉をね……。あなたに」

そのまとわりつくような声に、リューンは奇妙な不快さを覚えた。息の詰まるような感覚と、向けられる言葉の微妙な食い違い。

「あの皇帝陛下に。本当に恐れ多いこと……。リューン様はもっと慎ましくなさったほうがよろしくてよ」

別に皇帝陛下に対してなにもやってないんだが。それにしても、「あの」皇帝陛下……とは、どういう意味だろうか。一瞬ちらりと見えたリリスの恍惚とした表情をリューンは見逃さなかった。だが、その意味するところは分からない。

このリリスという女性は、自分がリューンより劣ることのないという絶対的な自信に満ち溢れている。女としてどうのこうのというよりも、自分自身が権力であり女王であるという自負。先ほど感じた不愉快さ、奇妙さと相俟って、リューンは思い出した。

その感覚は、

ベアトリーチェに、似ているのだ。

権力、女王、……そして、混沌とした心の読めない奇妙な声と、周囲には見えていないものを探るような瞳の動き。もっともリューンはベアトリーチェにそれほど何度も会ったことがあるわけではなかった……だが。

それに気付いたリューンの胸の奥がざらつき、苛立つ。いつもは冷静なリューンに珍しく妙な敵対心が沸き、無駄に喧嘩を売りたくなる。だが、リューンは己の気の昂ぶりを無理矢理ねじ伏せて、笑みを浮かべてみせた。

「ええ。気をつけます」

「そうなさい。わたくし達は、つつましく陛下にお仕えする身なのですから」

リリスは、リューンの反応に一瞬苦々しい顔になった。その表情の変化にリューンは気付いたが、給仕がタイミングよくワインを入れたデカンタとグラスを運んできて、それ以上は見定めることができなかった。サーシャがにっこりと笑い、オリヴィアを押し出すように振り返る。

「そうそう。これは、オリヴィア姫が今宵の宴のために献上したワインとか」

「……はい。私の領地は、イチゴが名産でして。これはそのイチゴで作ったワインです」

「まあ。珍しいのですね」

薄いルビー色の美しい液体を見てリューンは心からそう思った。こちらのワインは葡萄が主だ。焼酎っぽいものはあるが、果実酒はあまり充実していない。リューン自身は飲めないわけではないが、こちらの世界ではアルコール摂取の年齢制限などない割りに、歳若く見られるのかあまり飲ませてもらえない。

「では、このワインで杯をあげませんか?」

サーシャが首を傾げて見せた。おや? このお姫様は、こういう屈託のない顔が可愛らしい。大きいお胸ではなくて、このような表情を武器にすればよいのに。リューンは少し楽しい気分になったが、その気分をリリスの声色が邪魔をした。

「そういたしましょう」

リリスの言葉にサーシャが頷いて、順にグラスを渡していく。

「では乾杯を」

4人の姫君はグラスを少し上げて、ゆっくりとそれに口を付けた。