「まあ、とても美味しいですね。飲みやすい」
「……え、ええ。ありがとうございます」
オリヴィアの領地から献上された……というイチゴのワインを味わって、リューンは静かに微笑んだ。その表情を向けられたオリヴィアは、少し怪訝そうな顔でそれに答える。どこか心ここにあらず、と言った感じだ。
後宮の姫君4人は淑女らしく、一気に煽ったりはしなかった。半分ほど杯に残し、それを手に持っている。サーシャはデザートの置いてある方向に行ってしまった。数人の貴族の男性に声をかけて、その影に隠れる。リリスも似たようなものだ。果物が欲しいとそのあたりの男にねだればすぐに取り巻きが現れた。
その場には、リューンとオリヴィアが残される。
リューンはギルバートを探し、位置を確認する。彼は護衛として会場に居るはずだ。こちらの様子を少し伺っては、会場に目を配っている。シド将軍は、若い騎士たちを貴族達に紹介したり、ご婦人の相手をしたりしている。美しい女性を隣に連れているから、あれが奥方かもしれない。距離的には場外だ。ライオエルトは上位貴族の方々のお相手に忙しそうだったが、ギルバートに近い位置にいた。
……最後に、アルハザードをちらりと見てみる。彼はシドに近い位置に居た。むしろ都合がいい。……怒られそうだから……。となると、一番近いのはギルバートとライオエルトだろう。あの距離であれば、リューンが姿を消してもすぐに分かるはずだ。時間を稼ぐことさえ出来れば、何かあっても気付いてもらえる。
「……あ、あの、リューン様?」
「ヴィアとお呼びしても?」
「え……?……あ、……はい」
リューンは、オリヴィアの方を振り向いた。にっこりと笑い、オリヴィアのゆるく結い上げた金髪のおくれ毛を1掬いして、口付けを落す。まるで騎士のような所作に、オリヴィアが少し顔を赤らめた。
「少し中庭を見てきます。ヴィアはここに」
ギルバートの視線の動きをちらりと確認し、リューンはすっとその場を離れた。その声は小さく篭り、僅かに掠れていた。
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「けほっ」
おおっと。まさか、こう来るとは思わなかった。
リューンはテラスから外に出ると、植物を植えたオブジェの一部にワイングラスを置いた。ハンカチを取り出して口に当てる。何度か咳き込んで覗くと、白いハンカチは血に染まっていて、小さな透明な固まりがいくつか落とされていた。
ワインの中にガラスの破片が入っていたのだ。
何かある、とは思っていたから、すぐに飲み込みはしなかった。ただ、ガラスの破片だと思った瞬間、わざと口の中にそれを入れたのだ。これで確実に、リューンを傷つけたことになる。一発殴らせてから正当防衛を主張するようなものだが、やった人間さえ見つければ未遂ではなく既遂に追い込むことができる。
口の中は治療し辛いのが厄介だが、あとで適当に癒しの魔法でもかけておけば何とかなるだろう。それにしても、
「これは、多分嫌がらせかな。度の過ぎた悪戯レベル?」
的確にリューンを狙うならば毒を使うだろう。だがガラスの破片であれば、たとえ飲み込んだとしても、血は吐くかもしれないが死にはしない。もっとも、精神的ダメージは高い。つまり、脅しだ。
それにしても、飲み込んで血を吐くにせよ、違和感を感じてその場でガラスを吐き出したとしても、すぐに大騒ぎになるだろうに。なんて浅はかな。その場には3人の姫が居て、1人はワインを献上したその人である。確かに幼稚な手だが効果的ではある。リューンは事態に恐怖して、ワインを献上したオリヴィアが真っ先に疑われる……という筋書きだろうか。オリヴィアは3人の中でも力関係は弱そうに見受けられた。
だが、リューンならばこう考える。その場で血を吐くなら、それはそれ。もう1つ仕掛けるタイミングが存在する。それは、騒ぎにならないように人目の少ないところに出て、口の中の違和感を確認する、その瞬間だ。リューンはそれを狙っていた。タイミングが合ってくれればいいし、何事も無ければそれでいい。ガラスのことがなくても、1人になっていれば、そして狙いがリューンであるならば、何か仕掛けてくるだろう。
そう考えていると、がさ……と、庭側から音がした。リューンは自分の魔力を絡めて、アルハザードの施した防御魔法を拡張する。そのとき、だった。
「……リューン様?」
自分の後ろから聞こえる、オリヴィアの声。咄嗟にリューンは、オリヴィアが前に出ないように制して後ろに下がった。その動きに合わせる様に、ざっ……と、剣を持った黒い影が現れる。1、2、3人……。まさかオリヴィアが来るとは思わなかった。囮になるなら自分だけでいい。事があるのも自分だけでいいのだ。それなのに。
彼女に何かあるわけにはいかない。後ろはすぐに建物だ。建物に入れば安全だろう。
「ヴィア。すぐに建物に走って」
「……そんな、リューン様は、」
ヴィアの声が不安で震えている。怖い思いをしているに違いない。迂闊だった。リューンは自分を呪った。
「ヴィア、早く行って!」
「そんな!」
敵は何も言わずに、問答無用で一気に距離を詰めてきた。間に合わない。そう判断したリューンはオリヴィアを背に庇うと、剣を受けるように手をかざして、一気に防御魔法を自分の外側へと拡張した。襲撃者が剣を振り下ろした瞬間、キイン!とその剣が何かに弾かれるように上に跳ね上がる。効いた!
……リューンは、自分に施されている護身結界……図書室の襲撃で魔法灯をカチ割ったあの魔法が、こういった襲撃の時に時間稼ぎになるのではないかと考えていた。だから、自分の魔力を補助にしてそれを拡張するイメージをずっと練習してきたのだ。自分の内側よりも50cm程度、範囲を拡張してそれを敵の攻撃にぶつける。長くは保たないだろうが思ったよりも上手くいっている。そう思った、そのとき、だった。
「うぐっ……」
剣の跳ね上がった様子に、一瞬隙を見せた敵が左に吹っ飛んだ。魔力の矢が跳躍した、と思った瞬間、それが当たって転がったのだ。すぐに響く鎧の音、剣を抜く擦過音。そして。「リューン様!」ギルバートと、ライオエルトの声だ。
「ちっ……見つかったか」
残り2人の襲撃者が発見された様子に怯んだ。1人が逃げようとする。リューンは駆け寄ってきたライオエルトにオリヴィアを押し付けると、逃げようとする1人を追った。
「リューン様!……くっ、貴様、どけ!」
ギルバートがリューンを追いかけようとしたが、それはもう1人の敵によって阻まれた。リューンとギルバートを結ぶ直線状に身を置いて、その剣を強引に合わせてくる。ギルバートは剣が合わさった重みを感じた瞬間、自分の剣を倒して相手の刃を滑らせた。一歩引いて力を受け流すと返す一閃で剣を跳ね上げ、肩と首筋を狙って切り込む。その剣筋が軽く敵を薙いで相手がバランスを崩したところに一歩踏み込み、膝を入れてその身体を折らせた。そのまま足を払うように敵を地面に倒すと、背中から容赦なく剣を一突きして絶命させる。断末魔の声を無視して顔を上げると、リューンの向かった先に視線を向けた。
「リューン様、なりません!」
背後からギルバートとライオエルトの声……そして剣戟の音が聞こえたが、リューンはドレスを持ち上げると、防御魔法を意識しながら逃げる敵を追いかけた。無謀としか言いようがない。それはリューンにも分っていた。それなのに何故、追いかけてしまったのか……。夜会でふと、ベアトリーチェのことを思い出したために、奇妙に気が昂ぶっていたからだ。目の前が真っ赤になった気がした。自分を害する……リューンを始めとする大切なものを害そうとする輩達が、憎らしくてたまらない。
追いかけた距離も時間も、そう長くはない。ほとんど一瞬だ。繁みの近くで敵が振り向いた、その瞬間。
……ドサッ!
断末魔の声すら無く、先ほどまでリューンが追いかけていた敵があっけなくうつ伏せに倒れた。
倒れた敵の背に乗っているのは黒い影。その影は、短剣らしきものを倒れた人物の首元に突き立てて、まるでリューンに対して跪くよう頭を垂れている。
「得物(武器)も持たず、防御魔法だけでどうなさるおつもりだったのか」
「……あ」
「貴女はアルハザード様の妃。お1人の御身ではありませぬ。分をわきまえなさい」
「……貴方、は、」
「スフ、と」
静かな口調で厳しい意味を込めた言葉は、リューンに言葉を紡がせなかった。スフと名乗ったその黒い影が頭を上げる。黒いローブを目深に被っていて、その顔を伺い知ることは出来ない。言葉が見つからないままその影を見つめていると、ふわりとリューンの腰を温かい腕が抱いた。同時に、スフ……と名乗った黒い影が、トン……と後ろに飛んで、暗闇に溶ける。既に敵は絶命しているのだろう。スフが離れる瞬間、ガクリと身体が揺れたのは刃物を抜いたからだ。
それをどこか現実的ではなく感じながら見届けると、リューンは、自分を抱き寄せている硬い腕に手を触れた。振り向かなくても分かる。揺ぎない、自分に安心をくれるその人。だが今は、スフ……という人物が言った通り、分をわきまえなかった自分の行動にきっと怒っているはずだ。リューンはおそるおそる、その人を見上げる。怒っていると思っていたのに、その人は。
とても苦しげな表情をしていた。