宴の会場からリューンが見えないことに気づいたアルハザードは、ギルバートの姿を探した。いない。リューンのすぐ側に居たはずのライオエルトも……だ。
その瞬間、リューンの防御魔法が揺らぐ。今までどんな敵を目の前にしても、どんな傷を負っても恐れることのなかったアルハザードの背筋が心底冷えた。それでも、平静を装わなければならない皇帝という身分を初めて呪いながら、アルハザードは群がる貴族達を悠然と避け、比較的近くに居たシドに耳打ちする。「ここを任せた」……と。
状況を予測したシドは頷き、アルハザードは追跡魔法を手繰り寄せた。
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「……リューン」
アルハザードは搾り出すような声でリューンの名前を呼んだ。ある程度、覚悟はしていた事態のはずなのに、自分でもこれほど動揺するとは思っていなかった。腕の中でリューンが振り向き、アルハザードを見上げる。その唇の端に血が付いているのを見て、さらに怒りと焦りが渦巻いた。
アルハザードはその唇を指でなぞる。己の声が、掠れている。
「血が……」
「ああ。口の中が切れて」
リューンはアルハザードの声で初めて気が付いた。夢中になっていたから気づかなかったが、口の中を切っていたのだ。まさか血を口元に付けたまま会話してたのか。ホラーだなホラー。ばたばたしていて治すのを忘れていた。
リューンは癒しの魔力が使いこなせるからだろうか、自分の怪我に対しては認識が薄い。すぐさま自分の口元に魔力を集中させる。だが、アルハザードがそれを許さず、癒しの呪文を唱えて唇を重ねた。舌が入り込み、リューンのそれにそっと重なる。いつもは忙しなく蹂躙するその舌が、今はリューンを撫でるようにゆっくりと押さえつけた。癒しの魔力が口腔内に満ちて、ぴりぴりする痛みが引いていく。リューンは初めて他人から癒しの魔法を受けたのを知った。
「あ、アル……? ありが」
「ありがとう」という言葉を告げる前に、ぎゅうと強くアルハザードが抱きしめてきた。アルハザードは何も言わない。名前すら呼ばない。リューンの髪に頬を寄せ、顔を埋めたままきつく抱きしめている。常とは様子の違う抱擁に、リューンの身体は締め付けられた。
「あ、の、アルハザード……ちょ、苦し」
リューンの抗議の言葉に、アルハザードは我に返ったように腕を緩める。「陛下!リューン様!」背後から、ギルバートとライオエルトの声が聞こえ、アルハザードの意識がそちらに向いた。
その声に、リューンもハッと顔を上げる。
「あ、アルハザード、どこも怪我してない?」
「……何?」
「ちょ、っとごめん。ギルバート殿、ライオエルトさん、……ヴィア!」
リューンの予想外の言葉に一瞬呆気に取られたアルハザードの腕を逃れると、その腕をつかんで3人の元に走った。アルハザードも引っ張られるように3人に近づく。ギルバートが敬礼を取り、ライオエルトはオリヴィアの肩を支えたまま一礼した。オリヴィアも無礼にならないように瞳を伏せて頭を下げる。
「3人とも、どこも怪我してない?……ね、ヴィア、大丈夫?」
「……は?」
「……え?」
「怪我! 怪我はしてない? って聞いてるの」
有無を言わせぬリューンの口調に、3人は思わず頷いた。その様子を見てリューンは安堵した表情を浮かべ、ライオエルトの手を借りて立っているオリヴィアの首に抱きついた。
「ヴィア、怖い思いをさせてしまってごめんなさい」
「リュ、リューン様?」
リューンはオリヴィアの頭を撫でながら、少し離れているところに倒れている2人の敵の身体に気づいた。オリヴィアから身体を少し離して、ギルバートに問う。
「全員死んでしまった?」
「は?……い、いえ。1名は気絶しております」
「そう」
さらにリューンはほっとした顔になった。「おい、リューン」完全に放置気味のアルハザードが何かを言いかけた時だ。
「陛下!」
数名の騎士を連れたシドがやってくる。アルハザードがそちらに視線を向けた。
「シド。会場の様子は」
「陛下もリューン様のお姿も見えないので、ゆるやかに解散しております」
「そうか。ご苦労だった」
「お2人ともご無事で?」
「ああ」
シドは敬礼を取ると、引き連れてきた部下たちに指示を出し、遺体の始末や気絶したものの処理を始めた。遺体を見て目を逸らしたオリヴィアに、リューンがもう一度声をかけようとしたとき。
「ヴィ……」
「リューン。お前はこっちだ」
アルハザードが有無を言わさずリューンの腰をさらって抱き寄せた。
このような場は慣れないのだろう。オリヴィアの顔は青ざめていて、その身体をライオエルトが支えていた。リューンを抱き寄せたまま、アルハザードがそれを見下ろす。
「オリヴィア姫か」
「……はい。陛下」
声を掛けられてオリヴィアはびくりと肩を揺らして、アルハザードを見上げた。怯えているかと思ったその瞳は、存外強く、アルハザードを見返している。オリヴィアは白いハンカチを差し出した。
「これを……リューン様は、口の中を切られておいでです」
「……これは」
白いハンカチはリューンのものだろう。点々と血に染まったそれと、ガラスの破片、そして破片に付着する、やはり血を見て、アルハザードの気配は一気に氷点下まで下がった。この血はリューンのものに違いない。先ほど口の中が切れて、と言っていた原因に思い至り、冷たい怒りが込み上げてくる。アルハザードはオリヴィアの手からハンカチを受け取った。
「……詳しい話を聞かせてもらうことになるが、よいか」
「もちろんです。あの……」
「なんだ」
「リューン様のお怪我は……?」
「治した。問題ない」
オリヴィアの表情がほっとしたものになって、再度アルハザードに一礼した。
****
帝国の人達に怪我人は出なかったことと、敵の内1名は生かして捕縛が出来たことにリューンは安堵していた。ただ、……こちらの味方を巻き込んで敵を倒してもらったことには言い訳できない思いだった。先ほどまで無謀にも敵を追いかけてしまうほど昂ぶっていた気持ちはしゅんと萎れ、全員の荒ぶる気配に圧されて、今は奇妙に落ち着いている。
「リューン様。……なぜ、あのような危険な真似をなさったのですか!」
「……えーと、どのことでしょう」
「敵を追いかけるなどという真似のことです!」
「……えー……と」
別室に通されて席に落ち着いたとたん、ギルバートがリューンに食って掛かった。いつも物静かで礼儀を崩さない護衛騎士隊長とは思えない様子だ。それを見て、さすがのアルハザードもギルバートを制した。
「ギルバート。待て」
「陛下、しかし……っ!」
「リューン。最初から話せ。何があった」
アルハザードはリューンを見た。リューンはその群青の瞳をちらりと見るとすぐに視線を外して、口を開く。
「後宮のお姫様と挨拶をしたときに、ワインを勧められて」
「飲んだのか」
「飲んだ。絶対何かあるだろうと思ったから、すぐに飲み込みはしなかったけど。そうしたらワインの中に違和感があって、ああ、ガラスか何かかと」
「何かあると思って何故飲んだ」
アルハザードは、ぴくりと眉を動かす。その声は完全に怒っていた。獰猛な低音は今にも飛び掛られそうだ。あまりの気配に、周囲の人間はもちろん、リューンすらも息が詰まりそうになる。
「ガラスだと思ったから飲み込みは」
「ガラスだと思って何故飲んだ!」
ガシャン!……と音がした。アルハザードが拳をテーブルに叩き付けた音だ。びくんと肩を震わせてリューンは口をつぐんだ。言い方を間違えた。怒られるようなことをした自覚は確かにあったから、何も言えない。
「リューン……」
「状況証拠は多いほうがいいかと思いまして……」
声の低いまま自分の名前を呼ぶアルハザードに、リューンはしょんぼりと答えた。さすがに、未遂を既遂にさせるため、とは言えなかった。
「自分が傷つけられた、という証拠か」
だがすぐバレた。グルルと喉を鳴らさんばかりの怒りを交えた声とその意味に、室内の全員が絶句する。アルハザードは、さらに問う。
「中庭に出たのは何故だ」
「……陛下、あの」
気丈にも、オリヴィアが口を挟んだ。リューンが表情を沈め、窘めるようにそちらを見る。だが、オリヴィアはリューンに「大丈夫です」と微かに笑って頷いた。
「ワインはわたくしの実家の領地から献上したものでございます」
「……それはまことか」
「はい」
オリヴィアが献上したワインに破片が混ざっていた、となると、真っ先に疑われるのは彼女だ。だが、彼女ははっきりと頷く。
「ですが、味が少し違っておりました」
「味が?」
それはリューンも初耳だった。そういえば、彼女が一口飲んだ瞬間怪訝そうな顔をしていたのを思い出す。
「今年のワインは少し甘めで軽く、女性が好む味に仕上がっていると、父から聞き及んでおります。その一番出来のよいワインを献上したはずです。ですが、いただいたワインは酸味が強く重かったのです。日にちが経っている……というか、恐らく去年のものではないでしょうか。そして、今年のワインはまだ陛下にしか献上しておりません」
「え、そうだったの」
「ええ。リューン様が美味しいですねと言われた後、すぐに中庭に行かれたので、本当はお口に合わなかったのではないかと心配して」
「……まさかそれで、後を追ってきた?」
「はい……」
それは流石に分からなかった。リューンは額に手をあてて、はー……とため息をつく。珍しい味だと思ったのは、本当だったけれど。
……それにしても、ワインが去年のもの……、今年のワインは宮廷にしか入っていない。ということは、今年のワインを使って事に及ぶことは出来なかったということだろう。献上されたものには警備上も管理上も手出しが出来なかったに違いない。ワインを持ってきた給仕ごと罠なのだろうから、手っ取り早く手に入るものを使った、ということだろうか。
「リューン!」
思考に沈み始めたリューンを、アルハザードが苛立たしく浮上させた。
「それで、わざわざ人気のないところに出たのはなぜだ」
怒気を強めた声で再度問いかける。リューンは観念した。言い訳も反論も特にはないのだ。先ほどのようにのらりくらりとした口調ではなく、きっぱりと答える。
「もし私がこれを仕掛けたんだったら、どっちにも罠を張る」
「罠……?」
「その場で血を吐くか、人気のないところまで行って、口の中を確認するか」
「……お前は、これが罠だと考えて、外に出たのか」
「そういう可能性もあればと思った」
「なぜそんな危険な真似をした」
「襲撃者がいれば出てくる、と思ったから」
「それを捕らえるのはお前の仕事ではない」
「でも私が行けば、確実に出てくるでしょう」
「では何故、逃げる敵を追いかけた」
「……それは……」
あれは確かに無謀だったと自覚している。スフに言われた通り、自分の分をわきまえない馬鹿な真似だ。だが、まさか「ベアトリーチェのことを思い出してイラついて」などと言えるはずがなかった。困惑したように俯くリューンを見て、少しだけ声を柔らかくしたアルハザードが促した。
「危険だとは思わなかったのか」
リューンは首を振った。
「ヴィアを危険な目に合わせたのは、悪かったわ。ギルバート殿やライオエルトさんに迷惑かけたのも謝ります」
「……リューン様!」
リューンの言葉に非難の声を上げようとしたのはギルバートとライオエルトだったが、一番最初に声を荒げたのはオリヴィアだった。リューンはオリヴィアの方に顔を向けて、素直に返事をする。
「はい」
「陛下はそのようなことを聞いておられるのではありませんわ」
「はい?」
「なぜ、ご自分を危険に晒すような真似をなさったのかとお聞きになっているのです」
「だから、それが一番確実な、」
「リューン様!」
「……はい」
「もっと酷いお怪我をなさったらどうなさるおつもりですか」
「あ、それはだい……」
大丈夫、といいかけた言葉だったが、リューンは最後まで言えなかった。アルハザードが相当険しい顔をしてリューンを黙らせたのだ。
「よもやと思うが、癒しの魔力があるから大丈夫という言い訳は却下だ」
「……」
まさにその言い訳をしようとしたリューンは沈黙した。アルハザードの言葉に室内の全員が咎めるような表情を浮かべ、オリヴィアが声を強める。
「リューン様……」
「う……、はい」
「なぜご自分をもっと大事になさらないのですか!」
「……はい?」
リューンは思いがけない言葉を聞いた風に、きょとんと首を傾げる。慎ましやかでおとなしいと思っていたオリヴィアが、あのリューンを押している。
「リューン様は、もっとご自分を大事になさらなければなりません」
「大事にしてないかな?」
「なさってません」
「えー……」
きっぱりと言われて、リューンは目を逸らした。
「リューン様は、ご自分の大切な方がそのような態度で耐えられるのですか」
「それは……耐えられないねえ……」
もしも、リューンが今の自分と同じ事をしたら、龍はそれを止めさせるはずだ。
「自覚なさってるのですね」
ため息混じりのオリヴィアの言葉を聞いて、リューンは苦笑した。初対面だけれど自分はこの女性に弱い。なぜだろうか、もしリューンが生きていて、彼女に怒られたとしたら、こんな気持ちになるのではないだろうか。とても正直で、その正直さがとてもかわいい人。自分とは違ってひねくれていない。きっと、リューンのように優しい芯のある女性なんだろう。
「分かった。心配かけてごめんなさい」
「……本当に分かっているのか」
「分かってるよ。アル」
分かっている。その言葉に嘘はない。
ずっとアルハザードから目を逸らしていたリューンは、静かに瞳を瞬かせ、アルハザードを真っ直ぐ見た。口元には僅かに苦笑を浮かべたまま、凪いだ表情で見返してくる。その静かな苦笑と返答に、アルハザードは言葉を詰まらせた。分かっていると笑いながら、機会があれば彼女は同じ事をするだろう。そう確信した。
ラズリの言葉を思い出す。自分を餌にするような作戦ばかり提案してくる……と。アルハザードは、後宮の憂いを無くすために、敢えて後宮が騒ぎを起こすようなシチュエーションを整えてきた。今回の夜会についてもそうだ。中庭の死角にいくつか<影>を配置して侵入者を探し、泳がせる手筈だった。また、夜会の参加者が接触する人間たちの動きにも、気を配っていたのだ。リューンに手を出す、ぎりぎりのところを誘い出す為に。だが、まさか隙をついて、自分達の見ていないところでリューンがわざと1人になるとは思っていなかった。
「リューン、お前は自分がやったことでオリヴィア姫を危ない目に合わせ、ギルバートやライオエルトに迷惑をかけた、と思っているのだな」
「アルハザードにもね」
リューンは傷ついたような顔になった。それを言われるのは、リューンにとって一番つらいことだった。それを分かっていて、なおアルハザードは口にするのだろう。だから、リューンは先制を切った。困ったように悲しげに笑って、アルハザードを見返した。
「自分が危険な目に合えば、他の人も危険な目に合う、ってことも分かっています」
「リュ……」
「分かってて、利用してる。ごめん」
それを聞いて、アルハザードは自分の言葉が失敗したことを知った。これ以上の追撃をすれば、リューンは完全に心を閉ざしてしまうだろう。そんなことはさせたいわけではない。
何故分からないのだ。
どう言えば分かるのだ。
……アルハザードは声から怒りを消した。ただ、有無を言わせない雰囲気が、強くリューンを捕らえる。
「リューン」
「はい」
「俺は、お前が傷つくのを見るのは耐えられない」
「え」
「来い」
「ちょ……と、」
アルハザードはリューンを引っ張るように立たせると、無理矢理横抱きにした。
「ライオエルト。後は任せる」
「はっ」
「ギルバート、シド、ご苦労だった。俺は下がるが、許せ」
「はい」
「オリヴィア姫」
アルハザードは、リューンを抱いたままオリヴィアを見下ろして言った。
「少し身辺が忙しくなるやもしれぬ。もうしばらく、辛抱してくれ」
「私のことはかまいません。陛下はどうか、リューン様を」
アルハザードはゆっくりと頷いて、リューンを抱いたまま月の宮へと下がった。