ガラスの破片を飲み物に入れた犯人はすぐに分かった。リューンが吐き出した破片と一致するガラスの破片が、オリヴィアの部屋から出てきたのだ。だがもちろん、オリヴィアが犯人ではない。犯人はサーシャだった。
夜会で振舞われたワインは確かに去年の銘柄と味が一致した。だが、去年の銘柄のものは、正式には夜会には使用していない。なおかつ、今年の銘柄は皇帝に献上された分しか帝国にはまだ入っていなかった。つまりは、誰かが夜会用に正式に用意されたものではないワインを持ち込み、後宮の姫たちに飲ませた、ということになる。疑われるべきはオリヴィアだろう。ワインの瓶はどこからも出てこなかった。ただ、サーシャの室で管理していたワインが一本足りなかった。去年の銘柄である。
そして、もう1つの証拠がある。割れたガラスの元になったグラスは、オリヴィアやサーシャの私物ではなく、後宮の備品だった。後宮の備品も数が管理されている。どの姫に、いくつ、……というように割り振られている。グラスの破片はオリヴィアの部屋から見つかったが、グラスが足りないのはサーシャの室だった。共用のものがなくなれば分からなかったかもしれないが、あまつさえ、室内の備品が無くなっていた。
リューンにしてみれば、正直、詰めが甘いと言わざるを得ない。証拠を残しておくなどもってのほかだ。その甘さがサーシャらしいといえばサーシャらしい。恐らく父親などにも相談せず、侍女と共謀して自身が計画したのだろう。彼女はどれほどの沙汰に問われるのだろうか。
「リューン様?」
思考に沈んでいたリューンを、オリヴィアの声が浮上させた。月の宮にオリヴィアを招き、2人でお茶にしていたのである。本来ならば向かい合わせに座るところを、リューンはソファを勧めて座らせ、自分はその隣に腰掛けている。
「ヴィア、様はいらない。リューンでいいわ」
「……はあ」
「リューンって言ってみて。敬語もなしでお願いします」
「……リューン」
「はい」
リューンはうっとりとオリヴィアを見つめて素直に返事をし、カップに口を付ける。それを眩しく見返しながら、オリヴィアは今の状況が信じられなかった。
オリヴィアが後宮に入ったのは他の姫君と同じ1年と少し前だ。正直言って、自分が何故選ばれたのかは分からない。父親である伯爵は領地から出てくることなく、様々なイチゴを作っては、それを使った物産を作るのが楽しいらしい田舎の男だ。爵位は高いが地味な家柄である。選ばれた理由は、恐らく身分がある程度あってちょうどよい年頃の娘が居なかったからだろう。ちょうどよい、と言っても、他の後宮の女性と同じように20歳を超えている。嫁き遅れというほどではないが、初々しいということもない。だが、断れる術も無かった。
初めて皇帝が訪ねてきた夜、オリヴィアはその威圧感と高貴な風貌に恐怖した。寝台に押さえつけられた手と淡々とした表情、そして何よりもその冷たい雰囲気に圧倒されて、歯の根が合わずにガチガチと震える。……おそらく、それを見かねたのだろう。皇帝はすぐにオリヴィアから手を離した。
「お前は初めてか?」特に何の情も感じられない声だった。その様子にさらに恐怖して、オリヴィアはただ頷くことしかできない。「そんなに俺が怖いか」皇帝はそう言って、やはり、特に何の表情も浮かべず、震えて答えられなくなったオリヴィアから興味を失ったように目を逸らし、寝台から降りた。
そして室内を見回し、花瓶を少しひっくり返してその手に水を取り、腰に佩いた短剣で小さく手を傷つけ、水と共に寝台に押し付けた。薄まった血痕がそこにつく。「いずれは家に返してやれるだろうが、その時、皇帝の手が付いていない、……という事実はおまえの不名誉になる。言い訳は自分で考えよ」……そう言って、皇帝は部屋を出て行った。
オリヴィアは呆然とその背を見送った。扉が閉ざされて、随分長いことぼんやりとしていた。じわじわと正気に戻り、言葉の意味を考える。……獅子王は、怯えるオリヴィアを抱かなかった。抱かぬまま、「いずれ返す」と言ったのだ。それが、彼の「慈悲」とか「哀れみ」だったのかは分からない。ただ、オリヴィアの部屋に皇帝が訪れることは2度と無かった。
そうして、オリヴィアが後宮で静かに過ごすようになって1年。月の宮に新しい妃が迎えられたことを知る。後宮入りしながら後宮ではない宮に部屋を与えられ、夜毎皇帝の寵を受ける黒い髪の姫君だと聞く。決して自分と関わりあうことなど無いと思っていたが、思いがけず、侍女がその姿を見て、あまつさえ、茶器をいただいたらしい。
……お互い深入りしないほうがよさそうだという雰囲気を感じ取って、オリヴィアは挨拶をするのを止めていた。ただ、どんな女性なのだろうという興味はあった。もし叶うなら、いつかお礼を言いたい。そう思っていた。そうして、夜会の日に、その姿を見たのだ。皇帝と寄り添うその姿。あの夜、恐怖しか感じなかった皇帝があんな風に優しく見つめる得がたい女性を。
「後宮は、あれから大丈夫?」
「ええ。何名か騎士様に事情の説明をしたけれど、特に問題は」
「そう。よかった。なにか不便なことはない?」
「大丈夫。ライオエルト様がよくしてくれていて」
「ライオエルトさんが?」
へー、あの銀髪テンプレ美形眼鏡が。一見すればクールで、女に興味あるんだかないんだか分からなさそうな、アルハザードとは別のタイプで女にモテそうなライオエルトさんが。一瞬ニヤリとしそうになったが、オリヴィアが現在後宮の妃であることと、自分の立場と、後宮に対して練られている計画に思いが至って、声のトーンが落ちた。
「ヴィアは……後宮から出るの、どう思うの?」
「……え?」
今回の事件にて、サーシャの沙汰はまだ決まっていないが、後宮は解散させるという意向で話が進んでいる。これは、まだ公にはされていないが、アルハザードによってリューンとオリヴィアの耳にも入っていたのだ。
リューンは正直、オリヴィアがアルハザードのことをどう思っているかが気になった。一夜しか共にしていないとはいえ、まだオリヴィアはアルハザードの妃なのだ。リューンがそれを積極的に気遣うのは微妙な気がするし、自分の立場からも、そして何より、アルハザードへの感情をはっきりと自覚した自分の気持ちからも、それを聞くのは躊躇われた。
そのリューンの気持ちが分かったのだろう、オリヴィアは小さく苦笑した。
「正直言うと……後宮のような場所は、私には分不相応な場所だわ。出ることに異などありません」
「本当に?」
「陛下のこと?」
「……あー……うん」
しゅんとしているリューンを見て、オリヴィアは小さく笑った。あの獅子王の寵愛を一心に受けている月宮妃は、もっと自信に満ちた女性かと思っていた。確かにそういう一面もある。皇帝と言葉を交わす様子は、その眼差しを恐れない堂々としたものだった。だが、当の本人の居ないところで皇帝陛下の話をするリューンは、まるで恋をしているかのように可愛らしい。
「皇帝陛下のことは尊敬していますが、もともと妃になりたいとは思っていませんでした」
不敬ともいえる台詞だが、今はリューンしか居ない。だからだろう、オリヴィアは素直に気持ちを口にした。
「望んで後宮に入ったわけでもないわ。だから、本当に出ることに異議は無いの。むしろ感謝しないといけないくらいよ」
「感謝?」
「ええ。失礼に当たるかもしれないけれど、後宮から出られるきっかけをくれて、ありがとう」
それを聞いて、リューンは少し困ったような、安心したような顔になった。その表情を見てオリヴィアは微笑む。
「リューンは皇帝陛下のことが本当に好きなのね」
「ムフゥッ」
リューンがお茶を噴出した音だ。
「え、な、わわ私が、ア、アルハザードのこ、ことを?」
「ええ」
リューンの動揺を知ってか知らずか、さらりとオリヴィアは頷いた。わあ笑顔が眩しい。
というか、今の何だ。今の質問は何なんだ。そしてベタな反応してしまった自分は何だ。世の中の女性はこんなことを話しているのか。しかも、少なくともオリヴィア以外に自分はこんな反応はしないはずだ。例えシド将軍やラズリなどに同じことを聞かれても、「その話はとりあえず置いておいてですね」などと平静を保っていられる自信がある。それなのに何故平常心を保てないのだ。
リューンが赤面してソファの肘掛に向かって話しかけているのを見ながら、オリヴィアがさらに追い討ちをかけた。
「それにね、リューン。これを言って、貴方が安心するかどうかは分からないのだけれど……」
「うん?」
「私は、陛下と何も無いのよ?」
「へ?」
「何も無いの」
「何が?」
「誰にも話さないって、約束してくれる?」
「ぬ?」
そこでリューンは聞かせてもらう。一度だけアルハザードが部屋を訪ねてきた夜、一体何があったのか、……ではなくて、何事もなかった、ということを。
「ヴィア……。そ、そそそそれは……」
「リューンは安心して?」
「え。な、なにが?」
「皇帝陛下には、きっとリューンしかいないから」
な、なななななにを言ってるんだ! あなたはっ。真っ赤になってげほごほむせる背中をまあまあ大変と叩くオリヴィアの手が温かい。その温かさを感じながら、リューンは奇妙に安堵した。そして、安堵している自分に対して、「私は調子がよすぎる!」と盛大に反省する。
「あー……」
リューンはがっくりと頭を抱えた。その様子を見て、オリヴィアがきょとんと首を傾げる。
「リューン?」
「私はやっぱり調子がよすぎるよ」
「え?」
「私は、ヴィアと友達になりたかった」
「リューン」
「オリヴィアとアルハザードに何があっても、私はヴィアのことを好きだって思ってる」
まるで愛の告白だ。
「でも、何もなかったと知ってこんな風に安心するなんて、わけが分からない」
何かに触れるとき、諦めから入るのはリューンの癖だった。リューンの頭を撫でながら、オリヴィアが優しく問いかける。
「安心したの?」
「うん。すごく」
「そう。よかった」
リューンががばりと、顔を上げた。慌てたようにオリヴィアを見つめ返す。
「後宮に入るのは嫌だったけれど、今はよかったと思っているわ」
「え」
「リューンに会うことができたでしょう? 私はそう思うの。リューン。私は、そう思うのよ」
リューンはまじまじとオリヴィアを見た。
「それに、いいじゃない。調子が悪いよりはいいほうが。不安よりは安心できるほうが。違う?」
「オリヴィア……」
リューンはぎゅうとオリヴィアに抱きついた。この女性は、リューンには持っていないものを持っている。静かで柔らかい穏やかな心。慎ましいかもしれないけれど、安心できる素直さ。最初はリューンを見ているようだと思ったけれど、恐らく違う。
調子のいいことかもしれない。贅沢なことかもしれない。まだ、こういったくすぐったい時間を得るのは怖くて、躊躇う。……けれど、このように同世代の友人ともいえる女性を得たことは、とても幸運なことなのだ。
「ヴィア、もしこちらに来ることがあったら、その、また会いに来てくれる?」
「もちろん。リューンが許してくれるなら」
「ありがとう。ヴィア、大好きよ」
「それは、陛下に言ったほうがいいと思うけれど……」
「うぐぅっ」
再び赤面しかけたところに、ノックの音が聞こえた。侍女のアルマが扉を開けると、アルハザードとライオエルトが姿を現す。
タイミング悪っ。ちょっと今このタイミングで来るのは卑怯じゃないでしょうか。いろんな意味で顔が見られません。平常心! 平常心ーーー!!
「アアアアアアアルハザード」
「……? リューン、どうした」
「い、いやべつに」
話しかけるな空気読め!……と理不尽なことを言いそうになるのを堪え、リューンは席を立つ。オリヴィアも立ち上がって、淑女の一礼を取った。アルハザードはオリヴィアを見て頷くと、いつものようにリューンの手を引っ張り抱き寄せた。だが、いつもと違って腕の中で若干身を固くするリューンに、怪訝そうな顔で首を傾げる。
「リューン?」
「な、なんでしょう?」
「どうかしたのか」
「どうもしませんし、 と、とりあえず離しませんか」
「何故」
「いや何故じゃなくて」
確かに近くにライオエルトやアルマが居たが、このようなシーンは見慣れたものである。もはや気にも留めていない。ただ、2人の仲睦まじい様子に、オリヴィアが顔を綻ばせた。
「リューン様。わたくし、そろそろお暇いたしますわ」
「オリヴィア姫」
部屋を辞そうとしたオリヴィアに、アルハザードが声を掛ける。「はい」と答えるオリヴィアの瞳に、かつてのような無闇に怯える光は無い。
「後宮を辞しても、またリューンに会いに来てやってくれるか」
「わたくしにはもったいないお言葉ですが、お許しいただけるならば、是非」
「そうしてくれ」
「ありがとうございます、陛下」
「待って、オリヴィア」
リューンが、アルハザードの手を抜けて自分の首から何かを取った。オリヴィアの元に歩み寄ると、細い手を取ってその何かを持たせる。
「……これは?」
「ヴィア。それを受け取って」
それは、リューンがいつも付けている蒼い雫のペンダントだった。確か夜会でもつけていたような記憶がある。オリヴィアが戸惑ったような表情を浮かべた。
「もし、よければ……時々でいいから、貴方に付けていて欲しいの。お願い」
「私に……?」
「そう。オリヴィアに」
オリヴィアは、くす……と困ったような微笑を浮かべて、頷いた。
「ありがとうリューン。大切にするわ」
「うん。また会いましょう」
「ええ、また会いましょう」
「オリヴィア姫、白星宮までお送りしましょう」
ライオエルトがオリヴィアに手を差し出す。その手を取って、オリヴィアは月の宮を辞した。
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「よかったのか?」
「何が?」
「あのペンダント、……リューンの大切な品だったのだろう」
「いいのよ」
寝台の上で、自分の裸の身体の上にリューンを引き寄せながらアルハザードは聞いた。筋肉質の肌触りを堪能しつつ、リューンはオリヴィアの綺麗な金髪を思い出す。いつだったか、リューンは絵に描いたような金髪のお姫様に憧れていたのだ。リューンがもし生きていたら、きっとオリヴィアといい友達になったはずだ。だから、……もし許されるならば、自分が友達になりたい。恐る恐る、リューンはそんな風に思った。
「リューンは金髪に憧れていたのよ」
「俺はお前の黒髪の方が好きだが」
アルハザードはリューンの黒い髪を撫でるようにすくう。だがその色っぽい手を無視して、リューンはがばっとアルハザードの頭を両手で包みこんだ。濃い金髪にわしわしと指を埋めて見下ろす。アルハザードはされるがままだ。
「そういえばアルハザードも金髪だよね」
「お前、人の話を聞いてないだろう」
「金髪だの銀髪だの……どうしてこうテンプレばっかりなんだか……」
「テンプレ……?」
「なんでもありません」
「今日はどうかしたのか?」
「どうもしないってば」
「そうか? ならば確かめてやろう」
「確かめるって、な」
アルハザードは「何を……」と言いかけるリューンを下にすると唇を重ね合わせ、そのまま寝台に沈み込ませる。リューンの腕がアルハザードの背に絡まった。
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数日後、リューンの元に小さなペンダントが贈られてきた。丸いサファイア……だろうか、小さな群青色の石が一粒ついている。アルハザードからの贈り物だった。
「うれしいけど、えっらく大量の魔法がかかってるわね……」
リューンは、思いつく限りありったけの種類の防御魔法がかかっているペンダントを見ながら苦笑した。象牙色の肌に一粒の深い青はとても美しく映える。あの獅子王がどんな顔でこのデザインのペンダントを発注したんだろうと思うと、ニヤニヤが止まらない。以後、月宮妃は普段でも夜会でも、日常からそのペンダントを愛用するようになった。
余談だが、帝国では、自分の瞳の色や相手の瞳の色の石を使った、装飾の少ないアクセサリーが、恋人や配偶者に贈る贈り物として流行することになる。