獅子は宵闇の月にその鬣を休める

028.真紅の騎士

きた。
きましたよ。
いよいよきましたよこのときが!

バルバロッサ卿を初めて見たとき、リューンは思わずうっとりとため息を零した。燃えるような赤い髪に、大人の男の色気を精悍さが押さえ、さらにそこに中年の深い渋みが加わる。ストライクだ。ストライクど真ん中すぎる。もう少しで拳を振り上げるところだった。危ない危ない。真剣な面差しは、戦士の逞しさを思わせるくせに、穏やかに微笑むと枢機卿という職に携わっているためか、落ち着いた包容力のある優しい眼差しに変わる。これだよ!真のダンディズムとは!このことだよ。ああ……神様……ありがとう、ダンディズムありがとう、中年紳士万歳!……って、おおう、また拳を作りかけた、危ない。

「第一枢機卿バルバロッサ・トゥールーと申します。バルバロッサとお呼びください。皇帝陛下の月宮妃たるリューン殿にお会いできるとは戻ってきた甲斐があったというもの」

「リューン・アデイル・ユーリルと申します。バルバロッサ殿のお噂は、かねがね皇帝陛下よりお伺いしております。お会いしたいと思っておりました」

「ほほう。ろくでもないことを聞かされてなければよいが」

バルバロッサの真摯な瞳が不意に悪戯っぽい眼差しに変わって、リューンを見下ろす。リューンはその視線とばっちり眼が合って、頬を染めて一度視線を外した。再度バルバロッサを見上げて、今度ははにかんだように小さく微笑む。やだもう、頭クラクラする。なんですかこれ。こういうおじ様がこういう視線を送るのって卑怯だと思いません? 思いますよね! しかも「リューン殿」ですって……、なにそれ。役得すぎる。さすが中年紳士、真紅の騎士、歪みねえな! リューンは、じたばたと悶絶しそうになるのを押さえながら、表向きはそっと淑女の微笑みを浮かべた。

「皇帝陛下が第一に信頼を置いておられるとお聞きしていますわ」

「これはまた、光栄なお言葉にございますな」

はっはっは、とバルバロッサが笑い、それに釣られてリューンも瞳を細めた。ああ、ダメだ無理これ以上無理。これは直視したいけど直視できないオーラ。油断するとニヤニヤする。考えてもみて欲しい。アルハザードは獅子王だし、シド将軍はストイックだし、ライオエルトさんは眼鏡美青年だし、なんというか、あとは……、ほら、男盛りのやんちゃな人か、若いのかってばかりで、こういう渋めの大人の男の落ち着きのある人っていうのが居なかったのだ。ときめきですよ。ときめきが足りなかったんです。もう一度、今度ははっきりいいましょう、ときめきます。

その間、バルバロッサはリューンの手を取ったままだ。一見和やかにも見えるその場だが、その傍らで、冷気を噴出している人物が居た。

獅子王アルハザードその人である。

室内を護衛していた護衛騎士ギルバートと近衛騎士ヨシュアはそのときのことを振り返って語る。

あそこまで手出しの出来ない皇帝陛下を初めて見た……と。常勝不敗を誇る獅子王が、あれほど敗北感に打ちひしがれる様子はいまだかつて見たことがなかった……と。加えて、シドやライオエルトは、皇帝陛下の様子を見て確かに腹黒い笑みを浮かべていたという。

リューンがいつになくうっとりとバルバロッサを見ていることは、部屋の誰にも明らかだった。あんな眼差し誰にも見せたことがない。あまつさえ、愛くるしくほんのり頬を染めている。当然、アルハザードもそれに気づいていた。自分のこともあんな風に見つめたことがないというのに、初対面のバルバロッサ卿にあんな視線を向けるなど、はっきりいって面白くない。自分に初めて会ったときは、あんなは顔してなかったはずだ。確かに怖がってもいなかったが、どフラットな素面だった。そもそも……、そもそもだ、いつも無表情に近いくせに、あんなに簡単に顔を綻ばせて……。

アルハザードは憮然とした様子で、バルバロッサからリューンの手をさりげなく取った。

「挨拶はもういいだろう。リューン。お前はこっちに来い」

「えー……」

「えー、ではない」

アルハザードに聞こえる程度、バルバロッサに見えないように抗議の声を上げてみせる。そのかわいらしい抗議の声が、ちょうどシドとライオエルトには聞こえた。アルハザードは不満そうだが、その会話の方がいちゃついているようにしか見えない……と2人は思う。

「おやおや、皇帝陛下はリューン殿を独り占めなさりたいらしい」

「バルバロッサ卿、リューンをからかわないでください」

「からかってなどいないだろう。挨拶をしただけだ。なあ、リューン殿」

「ええ。本当ですわ。陛下、どうかしたのですか?」

「……くっ」

咎めるように上目遣いでリューンに見つめられると、アルハザードは何も言えなくなった。最近、アルハザードはこの視線に弱い。

「とにかく、こっちに来い。座れ。おい、ライオエルト」

「はい」

「始めろ」

了解いたしました。……と一礼し、アルハザード、リューン、シド、ライオエルト、バルバロッサの5人が卓に付いた。

****

バルバロッサの調査報告と、神殿騎士の懺悔について大方を聞き終え、関連した資料を読みながら、大体の予測は外れていなかったな、とリューンは思った。

話の内容から、バルバロッサは最初かなり渋っていたが、リューンにとっては別段特殊な話でもない。むしろ、ありがちな話だった。聖職者がみだらな行為に堕落する、というのはよくある話だし、男色に走るというのも聞いたことがあるが、こちらの場合はどうなのだろう。龍が存在していた世界では、たとえば「女人禁制」だから、とか、姦淫は禁止しているから、などという制約の中で、そういった話もよく聞いたが、少なくともこちらではそういった禁止行為などはあるのだろうか。

「んー……」

資料を見ながら思索にふけるリューンの様子は、バルバロッサ以外には見慣れたものだったが、初めてリューンを見た彼は、やはり女性には厳しい話だったかと気遣った。時折くだけた口調になるのが年相応で愛らしい月宮妃は、アルハザードに大切にされているだろうことがすぐに窺い知れたので、このような話の場に彼女を参加させるのが、バルバロッサには信じられなかった。

「バルバロッサ殿」

「うん?」

「神殿教会というのは、たとえば……女人禁制とか、禁欲的な教義、とかそういったことはあるんですか?」

「……いや、不義密通や、互いの性を貶めるような極端な行動は禁止されているが、特に禁欲しなければならない、ということはありませんな」

「えーと、不義密通が禁止なんだったら、ラーグって独身なんですか?」

それに答えたのはアルハザードだ。

「ああ。だから、不義密通にはあたらないな」

「まあ、それくらいで尻尾が出たら、すぐに捕まってるわよね」

「そういうことだな」

「子供や女性を斡旋している疑いがあるけれど、疑いのみ……ってこと?」

「そうなる」

結局のところ、孤児の就職についてはラーグが世話しているが、世話をしているだけでその先で何があっても故意が無ければラーグの罪ではない。修道女については、その女とラーグとの間に合意があれば問題ない、ということだ。意外と強引に事を進められない帝国の法律にも驚いた。誘拐などがあれば取り締まりもしやすい。だが、子供斡旋とか、女斡旋……という問題については、悪意があったかどうか、同意があったかどうか、金銭の授受があったかどうか等が、証明できなければうやむやのままのようだ。表向きはあくまでも就職先の紹介であったり修道院の紹介であったりするのだから。

「薬品の購入が極端に増えた、というのは?」

「ラーグは薬師でもあるので、さまざまな薬品を調合できるはずだ」

「なるほど」

「だが、不法な薬品や許可の必要な薬品は購入していないのだ」

購入に合法・不法があるのか。こっちの薬品の法整備なんて、調べてみたことなかったな。

「調合に許可の要る薬品や、不法な調合……なんていうのはありますか?」

「……なるほど」

「いくつか候補があれば、その薬品を必要としそうなところと、ラーグが関係ないか、とか調べられないでしょうか」

「ふむ……。薬の調合に詳しいものに調べさせよう」

室内の人間は頷き、今後の方針と予定についていくつかの打ち合わせを行った。

****

一通りの報告が終わり、リューン自らがお茶を淹れた。全員にお茶を配りながら考える。ここまで来ると、リューンが口を挟むようなところはなさそうだ。まあ、できることも無くはないが、確実に全員に止められるだろう。夜会の時以来、絶対に無断でおかしな真似はいたしませんと約束したにも関わらず、護衛騎士たちの無言の圧力が相当痛いのだ。反省しているというのに……。でも、何か出来ないだろうか。たとえば、ラーグにちょっと関係のありそーな司祭と面会してみるとかしたら、直ぐにひっかかってきそうだけどなあ。

「ダメです」

「リューン様」

「ダメだ」

アルハザードが厳しい目でリューンを見る。さらに、バルバロッサ以外の全員が窘めた。どうやら、心の声が駄々漏れていたようだ。お茶を配り終えて、隣に座ったリューンの黒髪を梳きながら、アルハザードが有無を言わさぬ視線を投げかけてくる。大分伸びたがまだ女性としては短い髪は、見知ったものの居る場所ではフードを被らずにそのまま垂らしている。

「分かってますってば」

「リューン殿は、何かしでかそうとお考えか」

「考えてません。みんな怖いです」

むーとした表情で肩をすくめるリューンを見ながら、バルバロッサ卿は苦笑した。リューンが夜会で襲撃されたというのは、公にはなっていないが、無論知っていた。わざと囮めいたことをやって、関係者を大いに心配させた、というのはアルハザードから愚痴交じりに聞いている。なるほど、唯一寵を傾ける姫君がそんな危険なことに首を突っ込んでしまうような女性であれば、アルハザードも苦労するだろう。獅子王が目を離さず溺愛する気持ちがよく分かった。

「ラーグがお前に直接何かしてこないとは限らない。気をつけろ」

「はい」

もともと、ラーグがリューンに対してなにか手出しをしてくるかもしれないからこそ、手出しをしてくる前に、別の犯罪で確保しようとアルハザードは考えていた。それが分かっているからリューンも何も言わない。ことは個人的な問題ではなく、皇帝と皇帝の妃、陽王宮という皇帝の生活空間に及ぶのである。

アルハザードの手が再びリューンに伸びた。リューンの黒髪を耳にかける。

「お前は、俺の掛けた防御魔法をある程度操ることができるだろう」

自分がリューンのために施したとはいえ、アルハザードはリューンが防御魔法を操ることができるようになったのを微妙な思いで見ていた。自分ひとりで身を守る術を手に入れたからこそ、あの夜会の時にも無茶をやったといえる。リューンが1人で暴れるために魔法を施したわけではない。ただ、守りたいだけなのだ。

「だからと言って」

アルハザードの声が咎めるような厳しいものになる。

「無茶をするな」

「分ってるってば、アルハザード……」

「本当に分っているのか」

しつこく食い下がるアルハザードに、リューンは何か反撃したくなってきた。

「分ってるけど。あの」

「何だ」

「あのね」

「……」

「……陛下も無茶しないでくださいね……?」

リューンはアルハザードの逞しい腕に手を掛けると、子猫のように首を傾げてみせた。

「……ぐ……」

アルハザードが沈黙させられる。
雷将も無血宰相も真紅の騎士も、半笑いでそんな獅子王を見守っていた。