アルハザードが政務で帝都を留守にすることとなった。バルバロッサと入れ替わりに雨王の神殿へ、新人騎士の視察である。
雨王の神殿までは3日ほどの行程で1日視察をして、再び3日かけて戻ってくる予定だ。アルハザードだけならば転送術で1日半もあれば雨王の神殿まで行けるが、皇帝1人で神殿に行くわけにもいかない。いろいろ制約が多いとアルハザードは顔を顰めたが、皇帝であるからには仕方がない。
帝都を離れるのは、リューンが後宮入りする前から決められていたことだった。今までの襲撃を考えると、このタイミングで何かが起こる可能性は高い。とはいえ、この出張を取り止めるわけにはいかず、連日、アルハザードらは対策を考えていた。さらに、スフ自身がアルハザードに付き従って雨王の神殿に出向く。その間、月の宮に護衛として<影>を付けることになった。
「ナイアと申します」
アルハザードの眼前で、スフと同じく黒いフードを目深に被った男が一礼した。背はスフより少し高い。声は若い感じがした。ナイアと名乗った男が一歩踏み出し、そっとローブを取って顔をさらす。
それは、短い紺色の髪に、薄い鳶色の瞳の鋭い顔立ちの男だった。
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「リューン、何度も言うが無茶はするな」
「分ってるって」
「怪我もするな」
「怪我は、」
「しても癒しの魔力で治せるというのは却下だ」
「分かったってば」
アルハザードが帝都を離れる、という話を聞いてから、ここのところ毎日このようなやり取りが続いていてリューンは若干うんざりしていた。よほどリューンが暴れると思っているらしい。だが、さすがにこの1週間で見え見えのことをするつもりはなかった。後宮に女性は居なくなっているとはいっても、夜会の襲撃の犯人は判然としていないのだ。
リューンは部屋の窓に近づいて外を見る。不安がないといえば嘘になる。帝国に来たばかりの頃は1人で過ごすつもりだった。そしてそれは苦ではなかった。今はどうだろう。アルハザードの手の内にあることが、すっかり当たり前になっている。これではいけないのではないかと、リューンはぼんやりと思う。守られてばかりでは、ダメなのではないか、と。
「リューン」
「ん」
名前を呼び、アルハザードが後ろから抱き寄せてきた。
「俺はお前に謝らなければならないことがある」
「何?」
「後宮から何か騒ぎが起こるように、隙を作ったのは俺だ」
腕の中で身動ぎし自分を見上げてくるリューンを、アルハザードはいつになく真剣に見下ろしていた。それは愛する女に向ける甘い瞳ではなく、獅子王としての為政者の瞳だ。
「事が起こる前に安全に裏を取ることをせず、後宮を解散させるために、わざと事が起こるのを待った」
「それは」
「お前の身に何か起こるかもしれない、ということも分っていた」
結果的にリューンを囮にした、というアルハザードのそれは告白だ。どんな抗議も受けるつもりだった。だが、予想に反してリューンの表情は戸惑ってもなければ怒ってもいなかった。
「後宮を解散するために、私を囮にしたってこと?」
「そういうことになるな」
「アルハザードは、後宮を解散してもよかったの?」
「以前も言ったろう。俺は後宮は持たないつもりだった」
第三者的な立場から見れば、こちらの世界の文化的慣習と帝国の制度に「後宮」という組織が存在することは非常識なことではない、とリューンは思う。もちろん、現代日本人の龍から見れば、まったく非常識な空想上か歴史上の組織であり、まっぴらごめんの慣習ではあった。だからこそ、当初は後宮入りを仕方ないとは分っていても、気に食わないと反発したのだ。
だが、後宮を置くこと自体が間違いというわけではないだろう。皇帝という権力にあって、妃を複数持ち、いくつかの貴族の後ろ盾を得て、子孫を残す……というのは、歴史的に見ても珍しいことではない。また、それこそが権力者の仕事だという価値観も、世の中に存在するだろうことは想像できる。
ただ、政策の1つとしてそういった組織を潰すつもりでありながら、成り行きで作ってしまい、さらに放置してしまったのは、アルハザードからしてみればミスだったのかもしれない。
「そのつけが今、まわってきた。だが、俺は……お前を得て、それを好機と捉えた」
「うん……」
「怒っているか」
「いいえ……。私を囮にするなら、むしろもっと大胆にやれって気分」
「言うと思っていた」
お互いの正直な感想だ。
小さく笑いながら、リューンはアルハザードの胸に額を預けた。自分は宮に居るだけで何もできない。提言や進言は出来るし、それに耳を傾けてもくれるが、後宮の妃という立場では基本的に政に関わることはできないのだ。皇妃として積極的に関わりたいというわけでは、もちろん、無い。それでも、アルハザードの側に居るだけで、何もしないまま無為に過ごすのは、リューンにはつらかった。リューンにとって与えられるだけの生活は、とてもつらいのだ。与えられるものが優しくて、温かいほど。
後宮を解散させるというのは、ただリューンのため、というだけではないだろう。今後後宮をおかないようにする、という、これは帝国の政治の一部だ。少なからず、自分という存在を利用したアルハザードの為政者の瞳を思い出して、リューンはホッとした。
「リューン?」
「少しホッとした」
「何故」
「多少は、私の存在が役に立っている、と思って」
「お前は」
その言葉を咎めるようにアルハザードがリューンの顎を掴んで顔を上に向かせた。少し怒っている。その顔を見てリューンは苦笑した。何が言いたいかは分っている。だが、これも言わせてほしい。基本的に、リューンは自分が尊敬できるほどの仕事をする人間が好きなのだ。そして自身が、ある程度日本で政治に関わっていたからだろう。皇帝陛下という身分の男にこのような評価をするのはいかがなものかと思うが、アルハザードの為政者としての働きを、リューンは尊敬していた。
「私は、仕事をしている貴方も好きだわ。尊敬してる」
「リュ……」
あらやだ、言っちゃったわ。はずかしいなこのやろう。何か言いかけたアルハザードを無視して、リューンは言葉を続けた。
「だから、別に私が政治に利用されようと、どう使われようとかまわない」
「お前」
「アルハザード」
リューンはアルハザードが何かを言いかけたのを、手で押さえた。
「私は何もしない。おとなしくしておく」
だから、もし何かあったら。
「だから、もしも何かあったら失敗しないで」
リューンの瞳が物騒なものになった。アルハザードの表情が一瞬苦々しいものになったが、すぐに打ち消して真摯な表情でリューンを見返した。自分の口を塞ぐリューンの手を掴んで、獰猛に笑った。
「当然だ。俺を誰だと思っている」
リューンもまた、ニヤリと笑った。「俺を誰だと思っている」ですって?
リアルでこの台詞が似合う人初めて見たわ。
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「ここは俺が見る。下がっていいぞ」
「ナイアか」
「ああ、お前は向こうへ回っておけ」
紺色の髪に鳶色の瞳の男が、月の宮の室中心を警備していた仲間の1人に命じた。命じられた<影>の1人はうなずいて、闇に解けるように下がっていく。「自分」が命じれば、簡単なものだ。
男は鳶色の瞳を月の宮の窓に向けた。
そこには、獅子王に背後から抱き寄せられる月宮妃の姿があった。獅子王は愛しげに唇で妃の耳に触れている。腕の中の女が何か言いたげに首を捻ると、2人の唇が重なった。一度離れ、もう一度。今度は長く深く重なり合っている。やがて獅子王がさらうようにリューンを連れて動き、窓から見える範囲の外に消えていった。
鳶色の瞳は、欲情した。自分の中心が猛ってくるのが分かる。早くあの黒を手に入れたいと、身の内が焦げそうだった。
不意に動いた気配に意識を向ける。
侵入者か。昂ぶっている気持ちを静めるには丁度いいだろう。男は腰のショートソードに手をかけた。
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まったく、油断も隙もない。
アルハザードに昼間っから嘗め回された身体を拭いて、リューンは着衣を調えていた。最後までするのは流石に自重していただいたが、こういうときは夜が怖い。昼間が中途半端な分、夜が激しく長い上にあの粘着質な性質だ。やれやれ……と思いながらも、まあ、悪い気はしな
?
ふと、周囲で微かに魔力が揺らいだような気がした。本当に気がしただけだ。自分の身のうちにある魔力のせいだろう、リューンはそういった気配には敏感だった。
方向は浴室のほうである。
浴室へは自室の扉から、小さな休憩室と脱衣場の2間を通ってその奥だ。リューンは警戒を強めながら、浴室への扉をそっと開けた。
そこには、胸の辺りを手で押さえ、苦しげに息を吐く黒衣の男がいた。その衣装は見たことがある。以前、夜会で見かけた「スフ」と名乗った男と似たような服を着ている。押さえている手は赤く染まっていて、それは明らかに鮮血だった。リューンは怯んで動けない。しまった、これは。
敵なのか。味方なのか。
「敵ならばどうするおつもりですか」
「……!!」
不意に自分の斜め後ろから聞こえてきた声に、リューンは思わず叫びそうになった。咄嗟に防御魔法をMAXレベルに集中させてそちらを振り返る。
「スフ……さん?」
「スフでかまいません」
フードを目深に被っていて顔は分からないが、声で分かった。年齢のいまいち分からない声。スフはリューンの方を見ずに、まっすぐ怪我をしている男の方へと歩みを進めた。
「動けるか」
黒衣の男が微かに頷いた。スフが小さく癒しの呪文を唱えて、その身体に手をかざす。怪我をしたほうの男が体勢を整えて、スフに並び、それを合図に2人は窓へと動いた。おいおい、もう動くのか。あれでは応急処置程度にもならないだろう。相当大きく切られ、出血している。あの程度で動いたら、どこかで傷が開いてしまう。
ああもう、見てしまったからには放っておくわけにもいかないではないか……。
スフが、振り返りリューンに頷いた。
「ここは私が調えます。リューン様はお戻りを」
「スフ、私が治しても?」
「……リューン様」
2人の視線が同時にこちらを向いた。どちらの男もフードで顔がよく分からないから、どのような表情をしているか読めない。
「っていうか、問答無用で治します」
「リューン様、早くお戻りを」
「分かりました。早く戻りたいので、文句言わないでください」
「リュ」
「ああもう、うるさい」
スフは沈黙した。いまだかつてこの男に「うるさい」と言った女は存在しない。
怪我をしている方の男はリューンがその怪我に手をかざしても、特に抵抗することはなく身を任せていた。
大きく切られているが複雑な傷ではない。毒も無いようだった。魔力を集中して傷の具合を見ながらそこを修復していく。ぬり絵の要領だ。日本にいるときは血なまぐさいことに縁遠かったリューンだったが、カリスト王国での粛清がリューンの意識を少し変えた。平気ではないが、心は妙に冷えている。
ふと、リューンは男の顔を見上げた。男は意外そうな顔をしていた。恐らく、呪文無しで癒しの魔法を使っているのに驚いているのだろう。
フードの中に見えたその瞳は鳶色。わずかに覗く髪は紺色をしていた。鋭い気配が印象的な男だ。
ほどなく怪我を治し、今度は血液の活性化を……と、再度魔力に集中しようとすると、その手を男が掴んだ。
「もうかまいません」
掴んだまま、男はスフのほうを向いて頷いた。スフもそれに応えるように頷く。
「リューン様?」
自室からリューンを呼ぶアルマの声が聞こえた。
「お戻りを」
「アルハザードに報告は?」
「私から行います。リューン様、お早く」
急いたようなスフの声を合図に、掴まれていた手が離されて、押しやられた。やれやれといった風にリューンは一歩下がると、姉が弟に言い聞かせるような口調で言った。
「仕方ないわね。出血した分は戻してないから、しっかりご飯食べなさいね」
「ごは……」
「2人とも気をつけて」
「リューン様」
出て行こうとするリューンを呼び止める。
「私はナイアと」
「アルハザード様がいらっしゃらない間、貴方の護衛をいたします」
鳶色の瞳の男の名乗りにスフが付け加えた。リューンは小さく頷くと、自室へと戻っていった。
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「スフに会ったそうだな」
アルハザードは、横になったまま膝を付いて身体をこちらに向けている。もう片方の手はリューンの夜着の肩紐で手遊びをしていた。
「夜会のときにも一度会ったことがあるわ」
「ああ」
「スフはなんて?」
「部下の1人が怪我をしたところを、リューンに見つかったと」
「ナイアね」
アルハザードは頷く。
「呪文無しで癒しの魔法を使っていたと、ずいぶん驚いていた」
「あの人たちが<影>なのでしょう」
「ああ」
アルハザードはリューンに、<影>の話を聞かせたことがある。帝国に仕える裏の組織。暗殺以外でも調査・護衛・潜入、どんな仕事も遂行する、まさに影の集団である、と。
俗に言う隠密とか忍のような者だろうとリューンは理解していた。どのような国家にも、そういった暗部の仕事をする人間や組織は存在する。アルハザードが慎重に言い聞かせた気持ちとは裏腹に、リューンはさして驚かなかった。若干お伽話か何かのように現実味が無かった、という感想も正直ある。ただ、この人の下には一体どれほどの有能な人物が集まってくるのだろうと、内心舌を巻いた。
それにしても、ナイアは誰にやられたんだろうか。
「やっぱり侵入者がいるのね」
「そうだな」
「相手は分かったの?」
その質問にアルハザードは答えなかった。リューン自身も特にしつこく聞きはしなかった。<影>と呼ばれる隠密の人間。並みの手合いではないのだろう。そのナイアがあれほどの怪我をしていたのだ。<影>と呼ばれる帝国の暗殺者と、同じ実力を持つものに、陽王宮と自分は狙われているのだろうか。
急に無言になったリューンに、アルハザードは「心配するな」という言葉はかけなかった。その代わり、大きな手でリューンの黒い髪を撫でる。
「不安か」
「少しだけ……」
不安ではない、とは言えなかった。アルハザードが、大きな手で自分に触れているせいもあるだろう。
いつもは弱気の発言などしないリューンのその言葉に、アルハザードはその身体を抱き寄せた。いつもの温かく心地よいその身体に触れながら、これまでの襲撃を思い出す。その度に冷えた心地を味わってきた。今度リューンに何かあったら、自分は冷静でいられるだろうか。