あの男ならば何と言うだろうか。どんな言葉使いだっただろうか。どんな性格だっただろうか。奪われた妃を追って屋敷に侵入した男は、一瞬瞑目して……考えた。腕が一本やられているが、その程度で任務を怠るわけにはいかない。
男は、屋敷の廊下を見張る私兵の1人に声を掛けた。
「おい……」
「お前……ファロール様の……? 確か先ほどまであの姫のところに居なかったか」
「どの姫君だ」
「月宮妃だよ」
「どこの部屋だ」
「どこの部屋って……その扉の……っ!」
男が身体ごと兵士を壁に押した。余計な声を零すことなく、私兵の身体が崩れ落ちる。
崩れ落ちた身体の胸には短剣が刺さっていた。男は倒した身体を足で踏んで無造作に短剣を引き抜くと、鋭い瞳で扉を睨んだ。
****
自分の下に黒い髪の女が気を失っている。
手錠で拘束した手が無防備に胸の上に投げ出されていて、僅かに顔が横に倒れていた。紺色の髪の男がその上に圧し掛かり、そっと手を伸ばして顔を正面に向かせる。真っ黒な、夜闇のような色の髪、象牙色の肌。その黒い髪に指を絡ませると、それは素直な柔らかさで、さらさらと男の指を滑っていった。瞳はまだ開いていないが、きっと黒曜石のような黒だろう。
男の鳶色の瞳に、首筋に横に走った朱の筋が映った。男は、小さく癒しの呪文を唱えて身体を下ろす。女の首筋に顔を埋めると、その朱の筋をぺろりと舐めた。女の肌の香りが鼻腔を擽り、舌の上には鉄の味が乗る。……求めていた黒い女の香と味だ。舌で傷を舐めると、癒しの力で綺麗に朱が消えた。
それに男は満足すると、今度は桜色の愛くるしい唇に自分の唇を重ねる。少し開かれたそこに自分の舌を入れて、ゆっくりと口腔内を舐めた。その瞬間。女の身体が激しく動いた。拘束した手で男の胸を強く押してくる。男の唇が女から離れた。
「離しなさい……!」
「嫌だと言ったら?」
「貴方は誰」
男は面白そうにリューンの抵抗を受け止めた。手錠を付けた両手をリューンの頭の上にずらすと、片方の手で押さえつける。身をよじるたびにカチャカチャと鎖が鳴って、その姿は男にとっては酷く誘惑しているように見えた。
「……ナイアだと言ったろう」
「違うわ」
「何が違う」
「ナイアじゃない」
「なぜ」
「だったらナイアはどこよ!」
ふっ……と男が笑って、鋭い瞳が細められる。まるで狐のようだ。狡猾で冷たい刃のような瞳。
「さあな……腕一本分の骨をヤったところで逃げられたぜ?……惜しいことをした」
リューンの瞳が驚きに見開かれて、男を睨んだ。……やはり美しい。その黒曜石の瞳。硬質で吸い込まれるような強い色だ。
「とりあえず離して。……貴方は誰」
「俺の名はニール」
「ニール、離して」
「そうだ。……呼べ。俺の名をもっと……」
「人の話聞きなさいよどうでもいいけど離せっつってるじゃない……!」
「威勢がいいな。悪くない」
ニールの声が甘いものに変化した。暴れる足を押さえこむように、自分の足をリューンに絡める。片方の手でリューンの手を押さえて抵抗を許さないまま、耳元にそっと唇を落とし、舌を這わせた。「離せって言ってるでしょ触らないで!」……リューンが何事かを言って暴れているが、当然、男の動きは止まらなかった。もう片方の手がリューンの身体を服越しに弄り、胸の膨らみに手をかける。……そのときだ。
リューンの身体の上からニールの重みが消えて、黒い影が狼のようにニールの身体を横に落とす。寝台の横に転がるように2つの人影が絡まり、リューンは慌てて身体を起こした。
「……まだそんな元気があったか。ナイア」
「黙れ、ニール」
下側の男が上の男を蹴り上げる、それを避けるように身を反転させて床に立ち上がり、大きく刃を振り下ろした。その刃を横に転がって起きた方の男は、片手をだらりと倒していた。あっちがナイアだろう。リューンは2人が戦ってる間に、転がるように寝台から降りた。……それに気づいたニールが、リューンとの距離を詰める。だが、その間に立ったのはナイアだ。
2人はゆっくりと対峙した。……どちらも黒いローブに細身の黒い簡素な軍服のような服を着ている。そして、鏡に映したようにまるで同じ姿をしていた。
「帝国なんぞのために死にたいか。ナイア」
「……それが我らだ」
「くだらん。スフほどの技があれば、国も手に入るというのに」
「それに何の意味がある」
ふん……とニールが鼻を鳴らし、2、3度剣を交えた。ニールは執拗にナイアの動かない手を狙い、ナイアの身体が揺らいだ瞬間、短剣を持った手を横に振った。ナイアが片腕を押さえて膝をつく。ニールの手から短剣は消え、それはナイアの片腕に刺さっていた。ニールは金属音を響かせて腰の剣を抜き、抜き様にナイアに向かって振り下ろす。だが、その剣はナイアに届く寸前に止められた。
リューンが膝をついたナイアの側に肩膝をついて、手錠を掛けられた腕でその身体を庇ったのだ。恐らくリューンに掛けられた防御魔法か何かを頼ったのだろう。一瞬強力に膨れ上がった魔力を感じた。
「そんな男を庇うな。退けよ」
「退かない」
「リューン様、お下がりください……」
三者の声が交互に響く。
済んでのところで剣を止めたニールを睨みつけるように、リューンの黒い瞳が真っ直ぐその鳶色を見上げてきた。その強い、黒。全てを見透かすような深い色に思いがけず強く見返され、なぜか、ニールは怯んだ。いつだったか、寝所で獅子王に魔力で捉われたときのように、目が離せない。……身体の奥を弄られるような悦楽。誘われているかのような劣情。抉られるような欲望。……ニールは喉をゴクリと鳴らし、剣を引いてリューンに手を伸ばす。
「ニール殿」
ニールの手の動きを止めたのは、扉の外から自分を呼び出す声だ。
「……リリス姫がお呼びです」
「……リリス……?」
怪訝そうなリューンの声に、チッ……とニールは舌打ちした。主の名を簡単に明かすなどと、浅はかな。
「入るな。今行く」
ニールはリューンの喉にそっと手を伸ばした。一瞬身を引いたが締め上げるように掴まれる。何事かを呟き、手を離した。リューンは急に解放された喉に数度咳き込む。喉に何か魔力が貼り付けられたようだ。
「何を……」
「さあな」
ニールは、扉へと歩いた。……去り際、振り向いて冷たい笑みを浮かべる。
「……あと15分ほど、というところだな。せいぜい仲良くやるといい」
じゃあな、……と言って、バタンと扉が閉ざされた。
****
部屋に残されたリューンは、ニールのその言葉にナイアの方を振り向く。声をひそめて、ナイアに囁いた。
「……ナイア。今のどういう意味」
「短剣に毒が塗られています」
「……え?」
「お守りできず、申し訳ありません」
「そんなことは……」
同じように声を潜めてリューンは首を振った。ぐ……と拳を握って、一瞬眼を閉じた。自分が置かれている状況に恐怖を覚えないわけではなかった。だが、大丈夫だ。カリスト王国に居たときは、いつ女王に殺されるかも、女王の敵に殺されるかも、分からない状況だったではないか。冷静さを取り戻せと自分に言い聞かせて、そして眼を開く。
リューンは首を逸らして、ナイアに刻み付けられた魔力の紋を見せた。
「この首の魔力は何か分かる?」
「……これは、呪文を封じる魔法ですね」
リューンは再度目を閉じる。……自分にかけられた魔力をなぞり、解析していく。これは無理だ。自分にはアクティブに黒魔法を行使することはできない。解呪することはできそうになかった。呪文を封じる、ということは、呪文を口に乗せようとすると、どうなるのだろう。……試しにリューンはナイアの短剣の傷へ手錠を掛けられた手をかざして、簡単な癒しの呪文を唱えてみた。途端に、バチッと首に痛みが走る。「……っ!!」その激痛に思わず身体を折る。脂汗が滲んで、息が止まるかと思った。魔力なんて、一瞬たりとも練ることができなかった。しかもほとんど抵抗できなかった。かなり強力な魔力によって構築されているようだ。
「リューン様!呪文を使ってはなりません」
「……ごめ、ん、つい。……これ、呪文に、反応する、っていうこと?」
痛みに息が上がったリューンの顔をナイアが覗き込んだ。
「呪文や術式の構築に反応します。……リューン様、……私のことはかまいません、陛下の防御魔法や追尾魔法は?」
「いや、構わなくはないでしょう。それなら治せると思う。ちょっと協力して」
リューンは息を整えながら、答えた。ナイアはリューンが自分に癒しの呪文を使おうとして、その身を苦しめたと思ったのだろう。間違いは無かったが、それは呪文が詠唱出来るかどうかを試しただけだ。呪文が使えないだけなら、恐らく、問題はない。リューンは両手を短剣の刺さっている部分にかざした。ナイアの声が少し低くなってきている。毒が回ってきているのかもしれなかった。
「……ナイア、短剣を抜いて。血は出させない」
「……何を……」
「早く」
ナイアは動くほうの手を使って、短剣を掴み一気に引き抜いた。身から刃が抜ける感覚に、思わず顔を顰める。出血は、……無かった。代わりに自分の身体の傷口から、這うような魔力が注がれていたのだ。……思わず、ナイアはリューンを見た。リューンは真剣な眼差しで、ナイアの傷に手をかざし……魔力を放出している。
その眼差しを、ナイアは息をつめて見つめていた。やがてリューンの瞳が静かに閉ざされ、さらに集中を深める。傷口から、自分の血液の中を温かい清冽な魔力が通っていくのが分かる。同時に毒が回って重くなっていった皮膚感覚と筋肉の感覚が、徐々に戻ってきているのを感じていた。
以前施された治療で、リューンが呪文の構築を必要とせずに癒しの魔力を使いこなせるのは知っている。だが、こんな魔法をナイアは少なくとも見たことが無かった。解毒の魔法は確かに存在する。だが、それはある種の簡単な毒を消すもので、<影>達が使う特殊な毒を……ニールが使ったような複雑な毒を解毒するものは存在しないはずだ。だが、ナイアの腕からは確実に毒が消えていた。
一方リューンもそれほど余裕があるわけではなかった。解毒の治療は知っているだけで、実際にやったことがあるわけではない。知っている解毒の呪文から得られたイメージをなぞって治癒していた。癒しの魔力で毒素となっている物質を取り去り、新しい血液を生み出して自浄を促す。損なわれていた器官を元に戻し、健やかな状態に保つ。身体の構造は癒しの魔力がなんとか吸収し、その形に添うように流れ込んでくれるが、流れ込む形が崩れないよう注ぐ力を安定させるのが難しい。やがて、解毒が終わり傷が塞がった。ふ……と一息つく。さて。次は骨折部分だ。再びリューンは魔力を集中させると、ナイアの腕に手をかざす。それを見ていたナイアが、リューンの手を握った。
「……ナイア?」
「リューン様、それ以上はなりません」
「何が?」
「顔色が……」
言われてリューンは手枷の付いた両手を上げて自分の額に触れてみる。少し汗ばんでいるようだ。熱くも冷たくも感じない。体内の魔力を確認してみる。今までになく減ってはいるが、枯渇しているというほどではなかった。……恐らく、ここまで一気に魔力を使ったのが初めてだったから身体が追いついていないのだろう。
「や、大丈夫」
「しかし」
「あのね、ナイア」
リューンはナイアの鳶色をじろりと睨んで言った。
「少し黙ってて」
……まったくどいつもこいつもこっちの男共ときたら……。とくに意味もなくぶつぶつ言い始めたリューンに気圧されてナイアは沈黙した。自分より大分年下だというのに、まるで母親か姉にでも怒られているような気分だった。もっともナイアには母親も姉も居ないが。
おとなしく魔力が注がれるのを見守っていると、やがて腕から痛みや違和感がなくなっていることに気が付いた。いつの間にかリューンの手が離れている。
「……どう、動く?」
今度はリューンが首を傾げてナイアを覗き込んだ。肩で息をしている。
「……大丈夫ですか、リューン様」
「動くかって聞いてるんだけど」
「動きます」
「そ、よかった」
先ほどと同じように有無を許さない口調で言われて、ナイアは慌てたように頷いた。腕の痛みも違和感も無くなっている。何度か拳を作ったり開いたりしてみたが、特に問題ないようだ。改めて、リューンの癒しの魔力に驚かされた。
「お体は大丈夫ですか、リューン様」
「大丈夫。普段使ったことないから、急に使って体がびっくりしたんだと思う。魔力はまだ残してる」
「……そうですか」
「ところで」
……ここはどこなんだろう。一見したところ、部屋の作りは豪華だがシンプルだ。リューンが寝かされていた寝台とソファ、スツールなどが置かれている。装飾などは見当たらないが、家具は豪華そうだった。
「ここは、ファロール侯爵の帝都別邸です」
「……帝都……?」
「貴方を抱えてそう遠くは移動できないでしょう」
「でも、ファロール侯爵の別邸って、見張りがついているでしょう」
「この館には見張りの目をくぐって出入りのできる、もう1つの入り口があります」
「……リリスは表向きどこにいることになってる?」
「恐らく、ファロール侯爵の本邸です」
「なるほどね。でも実際にはここに居るんだ」
リューンは沈黙した。……どう動くべきだろう。魔法があるから、自分がさらわれたことはアルハザードの耳に当然入っているはずだ。バルバロッサ卿も、手は打ってくるだろう。
「ナイア、ニールは……」
その短い質問で、どのような問いかをナイアは把握する。
ニール。
ナイアの双子の兄だ。かつて、ナイアと共に帝国の<影>として働いてきた男。だが5年前に裏切った。<影>の術の特殊性・絶対性に溺れ、帝国に仕える以上の動きを図ったからだ。だが、ナイアの手によって、殺されていたはずだ。もっとも、<影>には仮死の法もある。死んだと思わせ、スフやナイアの目をくぐってニールは生き延び、今こうして陽王宮を脅かしている。
その存在に気が付いたのは、ナイアが月の宮の護衛を任されたときだった。月の宮の側にいる、自分と同じ気配。それを見つけたとき、ナイアは自分と同じ姿のその男を、問答無用で斬った。だが、彼の剣はそれを一歩踏み越えた。手傷を負わされたのは自分で、逃げたのはニールだ。そのときの傷はリューンが治している。
もちろん、スフには報告をした。だが、スフは一言「ならば斬れ」と言っただけだ。始末は自分で付けなければならない。それからはひたすら追いかけっこだった。この事実は仲間も知らないはずだ。……そして、月の宮が襲撃された。好都合、とは言わない。だが、そのおかげでナイアは一連の黒幕の元に到達し、そして再度ニールに不覚をとったのだ。
「ニールは双子の、私の兄です」
「……」
リューンが少しだけ沈黙した。ナイアの双子の兄。リューンに剣の技は分からないが、恐らくナイアと同じだけの実力を備えているに違いない。……そして、様々な事情があるのだろう。だが、それ以上踏み込む時間は無い、必要も無い。リューンは追求せず、今聞いておくべきことを選びながら言葉を続けた。
「ニールが月の宮に出入りできたのは……」
「ニールは私と同じ姿です」
「ナイアの振りして侵入できてたってこと?」
「仲間達が、私の命令で退け……とでも言われれば、すぐに退きます。スフならばニールを見破ることが出来たでしょうが、それ以外の仲間は、恐らくニールの存在すら知りません」
「それって、……<影>の人達は無事なの?」
「……リューン様」
唐突に自分達の仲間を心配したリューンに、目を見開いて驚く。この人は、手足であり道具であり、しかも見ず知らずの、いるかどうかも分からない、<影>のことを心配したのだろうか。ナイアは頷く。無駄に血を流したり死体を作ればその動きをすぐに勘付かれる。ナイアの振りができるのに、それほどの無駄はしない。そう説明すると、リューンは神妙に頷いた。全てを信じてはいないのだろうが、それでも頷く他ないのだろう。
「ニールは当然、戻ってくるよね……」
「でしょうね」
「遠話の魔法は……?」
「試してみましたが、遮られているようです」
リューンは少しの間、考えた。
「ナイア、もう動ける?……宮廷まで、すぐ戻れるかな?」
「無論……多少魔力は消費しましたが、陽王宮にはすぐに戻れます……が」
「貴方はバルバロッサ卿のところに行って」
「リューン様?」
「アルハザードのところにはスフがいるでしょう? 貴方達なら、ここに来るまでの最適な方法が分かるはずだわ」
「ニールがいるのに、リューン様をここに置いておく訳には……」
ナイアは、ニールがリューンの上に被さっていたことを知っている。ニールの目的はリューンでもあるのだろう。そのような男の側に、獅子王の妃を置いていくわけにはいかない。だがリューンは首を振った。
「私は大丈夫。……ナイア、私を抱えて逃げるよりは貴方1人で脱出する方が簡単で、確実でしょう。それに……私が今無事に陽王宮に戻って、これはリリスの仕業だと喚いても、証拠がないからと白を切られてしまう。証拠を揃えて、帝国の人間が、彼女を捕まえないと……今までのようにうやむやになってしまうわ」
「それは……しかし」
「行きなさい」
リューンの声が鋭く、有無を言わせぬものになった。ナイアを見上げたその黒い瞳は、飄々としたものでも不安そうに揺れるものでもない。ナイアは苦々しい顔になった。
「そして、早く助けに来て」
もう二度と無茶はしないと、アルハザードと約束した。でも、ごめん。
主君にも似た強い瞳で見返してくるのは、その妃。月宮妃リューンの言葉にナイアは沈黙し、頭を垂れた。