リューンがさらわれたという報を聞いたとき、アルハザードは血が出るほどに壁に拳を叩き付けた。平静さを保てず取り乱す。怒りで魔力が揺れ、制御できずに威圧感となってそれはアルハザードを取り巻いた。その様子には、シドもヨシュアも言葉を失う。何か起こるとは思っていたが、こうもむざむざリューンをさらわれてしまう事態になるとは思わなかった。無論、すぐに探知魔法を起動させた。だが、どうやら探知系の魔法は遮断されているらしい。
アルハザードはバルバロッサからの報告とほぼ同時に、部屋に姿を表したスフに視線を向ける。
「スフ。……ナイアと同じ姿の者が、リューンをさらったらしい。心当たりはあるか」
「あれの双子の兄が、かつて<影>に」
「存在していたのか」
「……5年前に死亡したはずでしたが、先日月の宮の警護に当たっていたナイアが、その姿を確認しています」
「何故報告していない」
「ニールが存在する限り結果は同じでした。万が一の時があれば、逆の手が使えるかと。……ですが、アルハザード様に進言すれば、お止めになるでしょう」
「万が一の時があれば」という言葉に、アルハザードが今にも唸り声を上げて飛び掛らんばかりの視線を向けた。だが、スフはその視線に動じることなく静かに佇んでいる。
スフはニールが5年前に死亡したのを自分自身で確認していた。だが<影>の秘術には様々なものがある。その中には、仮死の法もあった。その死体を完全に始末しておかなかったのは確かに迂闊だったともいえる。ニールの存在をそのままにしておいた言い逃れをするつもりはない。
だが、万が一。……リューンがニールに狙われたら、実力から言って、ナイアか自分でなければそれを排除することはできないだろう。そして、侵入できるという点では、ニールのところにナイアが……という点も同じなのだ。ニールが死ねばそれでよし。もし死なせることができなくても、ニールの動きによっては、一気に黒幕の喉元に到達できるだろう。もちろん、それにはリューン自身の無事が確保されなければならない。そうでなければ、アルハザードによって己の首を食い千切られる。そういう、賭けであった。
「……ナイアがリューン様の居所は突き止めるでしょう」
「ナイアは死んではいないか」
「それならば、私が分かります」
「……なるほどな……」
アルハザードは再び沈黙した。リューン自身は、恐らく無事だ。もしものことがあれば、防御魔法が霧散する気配を感じるだろう。一瞬、その「もしものこと」を考えて、アルハザードは心臓を掴まれたような思いがした。
「シドとヨシュアは予定通り、ラーグとファロールを拘束しろ」
「……はっ」
「俺は、転送で帝都まで戻る。まる1日半はかかるが、それだけあれば戻るだろう。リューンを宮廷に連れて帰る頃にはお前達も帝都に到着するはずだ。到着次第ラーグとファロールを拘束しろ。俺も共に出発する。準備を」
シドとヨシュアは一礼して、準備のためにすぐに退室した。部屋にはスフとアルハザードだけになる。
「言い訳はいたしますまい」
「当然だ。リューンを取り戻し、敵を全て引きずり出せ」
アルハザードの声がいつにもまして、冷たいものになる。
「これは命令だ、よいな」
「無論」
「俺も行く。1日移動すれば、転送できるだろう」
スフは一礼して窓の外へと溶けた。
****
執務室で1人になったアルハザードは、執務机に座ると額を手で押さえた。表面上冷静さを保ってはいるが、今すぐにでも吼え、暴れだしたいほどに心が荒れ狂っている。これほどに心が乱れていれば、魔力を使うのもままならない。何とかシドとヨシュアが準備を終えるまでに、平静さを取り戻さなければならなかった。
「リューン……俺が行くまで無事で居ろ……」
搾り出すような声でアルハザードは呟く。結果的にリューンを囮にすることになるだろう、と……そう決めた時もあった。その時に、こういった事態も予測に入れていたはずだ。だが、自分でもこれほど取り乱すとは思わなかった。どのような敵にも覚えたことの無い、それは恐怖だ。まるで自分の半身を奪われかけているかのような痛みを覚える。
「リューン……」
もう一度、アルハザードが呟いた。
『アルハザード、陛下?』
聞き慣れた声に、アルハザードがハッと顔を上げる。目の前に居たのは、
『はじめまして』
アルハザードの求めて止まない女と、同じ姿の存在がそこに居た。
ただ、見たことのない衣装を着て、背中に届くまで髪が長く、そして……アルハザードが知っているリューンよりも少し大人びた姿で、……そして、大人びた姿であるにも関わらず、自分の愛するリューンとは少し違った、幼げな瞳をしていた。
「リューン……?」
アルハザードは手を伸ばした。会いたいと思うあまり幻でも見るようになってしまったかと頭が冷えていく。その手に答えるようにリューンではないリューンが、自身の手を重ねた。だがアルハザードの手は何も無い空を切る。触れることが出来ない。
「……お前は、何者だ」
『リューン・アデイル・カリストと申します。今は、龍が私の変わりに生きているので、岩倉龍という女性の姿を借りて貴方の前に出てきてますけど』
「岩倉……龍? リューンの……」
『そう。正確には私はもうリューンではありません。リューンは今は、貴方のリューンです。今のリューンの姿は、……もう龍のものだから……。だから私は、龍の姿を借りました』
龍の姿をしている……というリューンは、アルハザードに向かって頷いた。いつも彼女が好んで着ている騎士服にも似た上着に、足が剥き出しの短いスカートを履いている。年齢は、恐らくかつてリューンが言っていたように25歳前後なのだろう。もっとも、大人びた雰囲気ではあるがそれほどの年齢にも見えない。
『まずは、リューン・アデイル・カリストとして帝国皇帝陛下に、我が国の民を受け入れてくださったこと、お礼申し上げます』
リューンは膝を折って淑女の礼を取った。短いスカートは裾を摘むことはできなかったが、その一礼は綺美しく、リューンを……龍を思い出させた。アルハザードはその礼には答えず、自嘲気味に笑った。
「お前の龍がさらわれてしまった」
『はい』
「無事でいるか」
『もちろん。大丈夫です』
「大丈夫……か」
『貴方のことを信じて待っています。きっと助けに来てくれる、って。迷惑かけて、ごめんなさいって思ってるみたい。でも、彼女の性格を知っているでしょう。また勝手なことをしてしまうかも』
アルハザードは頷く。そうだろう。恐らく信じて待っているだろう。だが、自分に出来ることは多少無理をしてでもやるだろう。それが危険なものであろうとも。
『彼女を助けてくれますか?』
「当然だ」
『ありがとう』
「もう行くのか」
『ええ。もう。「いき」ます。……でもその前に、陛下にお願いしたいことがあるんです』
「なんだ」
リューンはゆっくりと笑った。一歩踏み出して、アルハザードにそっと何事かを耳打ちする。アルハザードが一瞬それに首を傾げる。怪訝そうに2、3答えて、さらにリューンといくつか言葉を交わした。アルハザードは分ったように、頷く。
『お願いしてもかまいませんか?』
「ああ」
『龍のことも、お願いします。あの人、ときどきすごく無茶をするの』
「分かっている」
『それから』
「なんだ」
『あの人、あなたのことを最初からとても尊敬していたんですよ。後宮のことはちょっと怒ってたけど、でもちっとも怖くないって。好きだって認めたのは、少し後だけれど。……でもまあ……、素直じゃないですよね』
一気にまくし立てたリューンの言葉を聞いて、アルハザードの顔は、不思議なものを見るような表情になった。何かを言おうとしたが、それが言葉になる前に、リューンは柔らかな、微笑むような空気を残して、消えた。
この場にふさわしくない、リューンのささやかな「お願い」に、アルハザードは驚いて、そして気がつけば心が凪いでいた。自分の中の魔力に集中する。恐らく、平常通り使うことができるだろう。
しばらくすると足音が近づき、シドとヨシュアが現れた。
「……誰かいたのですか?」
「いや、誰も居ない」
「準備が整いました」
「ああ」
アルハザードは執務机から降りるとしっかりとした足取りで、執務室から出る。シドとヨシュアを従えた獅子王から、焦りや動揺は消え、いつもの気配を纏っていた。
****
荒れたリューンの自室を見ていたバルバロッサはアルハザードとの会話を思い出していた。
『アルハザード』
『……』
『アルハザード、大丈夫か』
『……大丈夫です』
『私が付いていながら、すまん』
『バルバロッサ卿が付いていて奪われたのであれば、私がいても同じでしょう……』
『こちらに転送は出来るか』
『……問題、ありません……。ナイアではない……と、リューンは言っていたのですな』
『ああ。確かにそう言っていた』
『スフに確認しましょう』
幾ら皇帝といえど、3日の旅程がかかる距離を1度で転送はできない。遠話の声は落ち着いて聞こえるものの、相当焦っていたのだろう。アルハザードの魔力に自分の魔力を繋げたバルバロッサは、彼の魔力が危うくバランスを失いかけていることに気付いた。
アルハザードの計画によれば、既にシドはファロール侯爵を、ヨシュアはラーグ子爵の身柄確保のために雨王の神殿を立っている。アルハザードも共に雨王の神殿を出ており、1日馬を飛ばしたあと、明日にでも転送術で単身こちらに帰還する手はずになっていた。陽王宮は、ギルバートに命じて護衛を強化させ、内からも外からも出入りをさせないようにしている。襲撃者によって荒れた月の宮は、調査の為に片付けることを許さず、リューンが帰ってきたときのために、ラズリやアルマには、正式な皇妃の室の他、しばらくの間アルハザードの自室を使うことができるように、準備させていた。
あとは、リューンの誘拐された場所を特定するだけだった。ファロール、ルルイエ、ラーグら関係者の施設には既に見張りが立っている。また、発覚したラーグとのつながりによってファロールは見張りを強化されているはずだ。だがもう1つ、懸念事項が増えていた。ルルイエ伯爵令嬢のサーシャが、幽閉されている別邸から護衛と共に姿を消した……という報が届いていたのである。
急速な事態の展開にバルバロッサは眉間に皺を寄せ、窓に背を向けた。
「貴方がバルバロッサ卿ですか」
「何者だ」
不意に現れた気配だったが、バルバロッサは冷静さを保ったまま、肩越しに視線だけを向けた。
「ナイア、と」
「……ナイア……?」
聞き覚えのある名前に、身体ごと振り向く。割れた窓からトンと降り立ったその人物は、黒い服に身を包んだ、今はローブを脱いだ紺色の髪に鳶色の男。……声で分かる。リューンをさらったその男だ。バルバロッサは剣の柄に手をかけた。その威圧感は、アルハザードにも匹敵するだろう。目を細めながら、その人物に問う。
「リューン殿をさらった男か」
「違います」
「……ナイアと言ったな」
「はい」
「証拠は」
確か、リューンはさらわれる前に「これはナイアではない」と言っていた。ナイアという男ではない男が、ナイアのフリをしてリューンに近づいた、ということか。つまり、双子? だが、双子であれば、目の前の人物がナイアではなくても、バルバロッサには分からない。
「……リューン様からの伝言です。『アル坊の顔の傷は、男の箔』……と」
「……」
その伝言を聞いてバルバロッサは警戒を解いた。こんなときに、なんという緊張感の無い伝言を……。だが、確かにその話はバルバロッサとリューンしか知らないものだ。一瞬、苦笑が浮かびそうになる。
「リューン殿は無事か」
「今のところは」
ナイアはリューンから癒しの魔法を受けた後、仮死の法を使って死を装ったのだ。一般的な魔法ではなく、スフが自ら組成した、再生までの時間が極めて短い特殊な魔法だ。恐らくニールもその魔法の存在を知らない。付け加えれば、月宮妃は10分ほど何やら「悲しい思い出」とやらを思い出してさめざめと泣いたのだ(何を思い出して泣いたかは聞かなかった)。ナイアはその瞬間仮死状態だったが、泣きはらした真っ赤な眼でニールに見せた演技は、見事なものだったに違いない。
「場所は」
「ファロール侯爵の帝都別邸です」
「……そこは見張りを立てているはずだが」
「入り口3箇所は全て表の目を欺くもの、隠れた入り口が一箇所存在します」
「……なるほどな」
玄関、裏口……そして隠し扉までもが囮か。4箇所目の出入り口の存在、秘密裏に出入りする必要がある、そういう用途に使う類の館ということだ。
そして、バルバロッサは最も重要なことを聞いた。
「ナイア……。リューン殿の無事を確認しながら、ここへお連れできなかった理由は何だ」
それを聞いてナイアは顔を顰めて俯いた。落ち着いていた声色に、初めて焦りが滲む。
「1人で逃げたほうが確実で早い、と。……それに」
「それに……?」
「自分が今無事に陽王宮に戻って、これはリリスの仕業だと喚いても、証拠がないからと白を切られてしまう……、証拠を揃えて帝国の人間が、彼女を捕まえなければ……と」
「黒幕は……リリス姫か」
「恐らくは」
「なんという危ういことを……」
バルバロッサは深いため息をついた。これをアルハザードは心配していたのか。
誘拐の目的が分からない以上、どれほど猶予があるかは不明だ。出来るだけ迅速に、そして……リューンの今の状況を無駄にしないよう、確実に動かねばならない。
「案内できるか」
「もちろんです」
……バルバロッサは顎を撫でると、アルハザードに二度目の遠話を試みた。