「サーシャ姫?」
乱暴に床に投げ出され、リューンは膝をついた。その後ろでバタンと扉が閉められ、ガチャリと鍵のかかる音がする。
リューンがサーシャの方に視線を向けると、目が合った彼女はびくりと肩を震わせてカタカタと震え始めた。
「わ……わたくしは……」
「サーシャ姫……どうしてここに?」
「……わ、たくしの、護衛……が……」
「護衛?」
「……ぅ……」
リューンはすぐに男の方に目を向けた。手錠のままなんとか身体を起こすと、男の側へ近づいて膝をつく。むせ返るような血の匂いに一瞬眉をひそめたが、……身体を低くして、その口元に顔を寄せ魔力を集中した。男にはまだ、微かに息が合った。リューンはほっと息を付く。
「……生きてるわね」
「……え……?」
「この人、生きてる。サーシャ姫、手を貸して」
「……な、にを」
「短剣を抜いて。いったん腹部の応急処置をする。血は流させない」
「……ゃって……」
「なに?」
「どうやって……っ、わたくし、できな……」
「私は両手が塞がれてる。やるのは貴女しかいないわ。文句言わない、やるの」
がたがたと震えるサーシャにイライラしながら、リューンが指示していると、男の手がリューンのドレスを掴んだ。
「……待て……」
「悪いけど喋らないで」
「サ……シャ姫……に、……は、……りだ」
「うるさいな。私だって怖いわよ」
リューンは不機嫌に言い捨てた。男は無視してサーシャに目を向ける。子供のように目に涙を溜めている。まったく。こんな顔をされると、強く出られないではないか……。リューンはなだめるような口調で言った。
「この護衛。貴方を守ってこういう怪我をしてしまったのでしょう」
これは自分にも痛い言葉だな……と自嘲する。自分はあれほど釘を刺されたにも関わらず、相変わらず無茶をして、自分を助けようとしてくれる人たちを利用している。夜会の時と、まるで同じだ。あの時は誰も怪我をしなかったけれど、今回は……どうだろうか。リューンは手を男の腹の上にかざした。魔力を集中する。
「それなのに、貴方は何もしなくていいの?」
いつだって、守られてばかりでそれを返すことが出来なかった自分。守られているだけで、そこにいるだけでいいといわれているその存在に、一体何の意味があるのだろう。いつも自問自答してきた言葉だ。そして、今、リューンには、目の前で酷い怪我をしている人間を助ける力がある。見殺しに出来るはずが無い。
「貴方1人にはさせないから、私達の手で助けましょう」
リューンの声を受けて、サーシャが唇を噛んでアレクを見た。その目にもう涙は無かった。震える手で男の腹部に刺さった短剣をそっと持つ。
「いいわよ。一気に抜いて。私が合わせる」
「……っ」
「……うっ……!」
サーシャが一気に短剣を腹から抜いた。随分と深く刺さっていたのだろう。刃が身体の内部を通る感覚に男の口から小さくうめき声が漏れ、その独特の、肉を引く感覚に、短剣を持ったサーシャはぶるぶると手を震わせていた。
リューンは引き抜かれる短剣の動きに合わせて、魔力を一気に集中する。一思いに突き刺されたのだろう。だが、あまり時間が経っていない様子だったことと、刺したまま抜いていなかったのが幸いした。とはいっても、先ほどナイアに治療を施したのに加えて、今度の治療も簡単ではなかった。切り裂かれた部分を内臓から一気に治癒する。その後、かなり長い時間かけて、傷口を塞いでいった。リューンは一度目を開く。思ったより魔力の消費がきつくて、息が上がる。
「……う……」
「アレクっ……!」
サーシャが引き抜いた短剣を傍らに置いて、護衛の顔に触れる。その顔には安堵の表情が浮かんでいた。やればできるじゃない……、リューンは一瞬だけ気を緩めて一息つき、再度男の血液量を活性化するように魔力を集中させた。
****
最初に連れて来られてからどれくらい経過しただろうか。恐らく丸1日と少しは経過しているだろう。部屋の中には生活に困らないだけの設備は整っていた。水や焼き菓子のような食べ物は備え付けられている。ニールなどの音沙汰が全く無いのが、逆に不気味だった。水以外は口にする気になれなかったものの、少しだけ食べるものを齧り、うとうとしているサーシャを、リューンは改めて見てみる。ドレスは乱れてはいないが、ご自慢の豊かに結い上げた髪は無残に解けてしまっていた。
サーシャは夜会の際にリューンのグラスにガラスの破片を入れた件で、幽閉されていたはずだ。それが何故ここにいるのか。護衛の話によれば、サーシャは誘拐され、それを追ってきた護衛は返り討ちにあって重傷を負ったらしい。
「リューン……」
サーシャの声だ。リューンは思索から浮上して、サーシャの方に眼を向けた。
「貴方……わたくしを、なんで助けるの」
「え、何が」
「わ、わたくしが貴方にガラスの欠片を飲ませたって、知ってるんでしょう?」
「ああ。あれね……。今となってはもういいよ、どうでも」
「どうでも……」
「あの程度、虐めでも嫌がらせでもなんでもない」
入っていると分かって、わざと飲んだ負い目も少しあった。
「わたくし……」
「それに貴方を助けたんじゃなくて、アレクさん? を助けたんだし。気にしなくてもいい」
ドレスをぎゅっと握って、サーシャが俯く。
自分はなぜこんなところにいるのか。後宮を追い出されてから、サーシャは大人しく隠遁していた。ガラスの破片を仕込んだのは確かに自分だ。だが、まさか、本当にリューンがそれを飲んで、口の中を傷つけるとは思わなかった。ただ驚けばいい、そう思っていたのだ。加えて、その日に襲撃が起こりリューンが襲われたと聞いて、自分のしでかしたことの大きさにサーシャは怯んだ。もともと、そういった類が得意な女ではない。だが、獅子王の怒りを買ってしまったことだけは、はっきりと分かった。だからこそ、何もかもから逃れるように大人しくしていたのだ。
それなのに……自分は今、ファロールの別邸にいる。これはもちろんファロール侯爵の策によるものだったが、彼女はまだ知らない。自分が何者かの駒になることがあるなどと、彼女は信じられなかったのだ。
「ねえ。貴方がやったのはガラスだけ?」
「どういう意味?」
「あの夜、襲撃があったのは知っているでしょう」
「あれはわたくしじゃない!」
サーシャではない。……とすると、全然関係がなかったってことか。若干予想はしていたが、リューンは地味にうなだれた。何か罠があると思って外に出たのは、結果的に襲撃者を誘いだすことにはなったけれど、今思えば、深く考えすぎだったようだ。
だが。あれが、サーシャではないとすれば、やはりリリスなのだろうか。
そもそも、リューンもサーシャも一緒に、たった今、ファロールの別邸に居る。何が目的でどんな手を使ったかは分からないが、一連の事件の黒幕は恐らくリリスかファロール侯爵か、あるいは両者なのだろう。
しかし、なぜサーシャは誘拐されたのだろうか。
「わたくし……ほんとに貴方が飲むなんて……」
サーシャの涙交じりの声に再びリューンの思考が中断される。
「飲んだらどうしよう、ってところまでは考えてなかったの?」
「……」
「普通はそれくらい考えるでしょう」
「どうせわたくしは頭が悪いもの……」
「は?」
サーシャは確かに頭のいい方ではなかった。そして、それを自分でも自覚していた。貴族の姫君にはありがちなことだが、末の娘として、いわゆる甘やかされて育った典型なのだ。小さい頃から皆に可愛がられた愛くるしい顔、豊満な肢体。リリスとはまた別の、いかにも女の女らしい魅力だけが磨かれた姫君だった。受ける教育は、男とはどういう生き物なのか、とか、女とはどういう風に笑えばいいのかなどというお作法だけ。いつもにっこり笑っていればいいのだよと、蝶よ花よと育てられ、行き着いた先が帝国の頂点に立つ男の後宮だ。リリスのような生まれながらの毒々しい魅力ではなく、かわいい女の我侭が魅力のはずだった。だが、そんな武器が獅子王に通用するはずもない。他の姫君と同様、つまらぬ女とも言われぬ代わりに、何の興味も持たれずに、獅子王は一夜でサーシャに通うのを止めたのだ。
「みんな笑っていればそれでいいって……、でも何にもならなかった」
リューンはため息をついた。抽象的すぎて何がなんだかよく分からないが、今この状況でその悩みを打ち明けられる神経がある意味うらやましい。
「いいじゃない。女の武器が笑顔とか」
「何が……?」
「顰め面してるより笑ったほうがいいでしょ、特に貴方は」
サーシャが意外そうな顔でリューンを見た。いずれにしろ、リューンの本音だ。いつも愛想笑いも仕事のうちだと割り切ってきたリューンに、おねだり笑顔や、小悪魔笑顔は、到底無理な芸当だ。無論、秘書スマイルを行使することはできる……だが、笑顔が仕事なのと、仕事に笑顔が必要というのは全然違うのだ。言ってみれば、サーシャは前者でリューンは後者だろう。得意なベクトルが異なる。
リューンはため息をつき、手錠の付いた手をサーシャに伸ばして、そっと前髪を払ってやった。
「貴方の場合は笑ったほうが、可愛く見えるんじゃない?」
サーシャは黙って俯く。何かを考えているようで、その先の言葉は紡がなかった。
「リリス姫は……何が目的なのでしょう」
黙ってしまったサーシャの代わりに、アレクという護衛が掠れた声で小さく呟いた。年齢は恐らくアルハザードと同じか少し下くらいだろう。精悍な顔は今は険しい表情になっている。それをちらりと見ながら、リューンは思案を止めて答える。
「サーシャの誘拐? 私の誘拐?」
「どちらも……です」
「目的は、私を誘拐すること……だと思う。殺すチャンスは幾らでもあったけど、それをしていない。でも、若干偏りがあるというか……、一連の行動に隙があるような気がするのよ」
「隙?」
「私を誘拐するとき、バルバロッサ卿がいらっしゃるときに大掛かりに襲撃した」
「第一枢機卿が……?それは……」
「既に暗殺の域じゃないよね」
ナイアにそっくりのニールを使った理由は分かる。リューンやバルバロッサを一瞬でも油断させるためだろう。だが、あれほど大騒ぎして宮を襲えば、今度こそ主犯がすぐに知られるところになるだろう。それに、百歩譲ってリューンを誘拐したのはまだいい。サーシャを誘拐した理由が、分からない。
「……静かに」
突然にアレクが声を下げた。室内にピリリとした緊張が走る。……耳を澄ますと、遠くからバタバタとした足音が聞こえてきた。何か、動きがあったに違いなかった。
****
ニールはいらだたしげに廊下を歩いていた。予定していたよりも思ったより早く勘付かれたようだ。3つの入り口をバルバロッサ率いる神殿騎士が固めている。真紅の騎士が出てきたのであれば、この邸宅が陥落するのは時間の問題だ。自分の自由になる仲間はそう多く連れてきてはいない。大半がファロールの私兵であり、連携が取れなさ過ぎる。
リリスにはまだ連絡していない。リューンを連れ去るなら今のうちだろう。気の触れたあの女の元に置いておくつもりは毛頭無かったし、こうなった以上、命令通り殺るつもりもなかった。ファロール侯爵にこれ以上従うつもりも、無い。もう1人の姫君は邪魔だ。リリスの元に送りつければ、殺すなり生かすなり、どうにでもするだろう。
ニールは2人の部下と共にリューンを閉じ込めている部屋の扉を開けた。そこには、……居ない? リューンも、あの頭の悪そうな姫も、死に掛けていた護衛も居なかった。そう判断したのは一瞬。ニールは横からくる一閃を紙一重で避け、すぐさま剣を抜く。
「お前、生きていたのか」
扉の開く死角から飛び出した男にニールは瞳を鋭く細め、一度刃を合わせて1歩退いた。アレクは追撃せずに距離を保つ。ニールはその後方に控えているリューンをちらりと見遣った。
「リューンか。お前が魔法を使ったのか」
「ニール」
「なんなりと、リューン様」
自分を呼んだ声に楽しげに、ニールが答えた。一礼すらする余裕で、に……とリューンに笑いかける。
「なぜサーシャをさらったの」
「自分のことじゃなくて、サーシャが気になるのか?」
「サーシャを誘拐する理由などないでしょう」
「使える駒は多いほうがいいんだろ」
「何に使うの」
「なんにでも使えるだろ」
「たとえば」
「食い下がるねえ」
ニールが肩を揺らして、楽しげに笑う。
「正直言うと、サーシャ姫はどっちでもいい」
「何が」
「生きていようが」
死んでいようが。ふざけた調子の声が急に冷たく低くなって、サーシャがびくりと身体を震わせた。
「そんなことはどうでもいい。リューン、お前、呪文無しで魔法が使えるのか」
「それが、何?」
「まあいい……あとでたっぷり聞いてやるよ」
魔法が使える、ということは、ナイアも生きていた可能性があるか。そこに思いが至って、バルバロッサにあまりに早く勘付かれた理由に合点が言った。ナイアは仮死の法を使って死体に見せかけ、館に出された後すぐさま陽王宮に戻ったのだろう。バルバロッサがこの場に居る、となると、獅子が……あの男が……ここに来るのは時間の問題だ。
「悪いがおしゃべりはここまでだ」
リューンは舌打ちする。ニールは、視線をアレクに戻した。
「さて、その短剣でどうやってこの俺にどう対応するつもりだ」
ニールが一気に詰める。騎士の剣とは違う、柔らかな剣筋でアレクの短剣を滑らせるように絡めた。だが、アレクも善戦していた。腕はかなり立つほうだったのだろう。ギリギリのところでニールの剣をかわしている。
「おい、お前ら。2人を押さえろ」
その声で2人の剣士らしい男が現れた。
「……リューン様!サーシャ姫!」
「余所見するんじゃーねーよ」
「ぐっ……!」
2人の男が一気にリューンとサーシャに剣を向ける。同時に気を取られたアレクの呻き声。ニールはアレクの短剣の柄を叩き落した。リューンは既に防御魔法を展開しており、サーシャをさらにかばうように背に押しやる。だが、逆にサーシャは前に出た。
「……やめて。抵抗しない! だからアレクは助けて!」
「サーシャ姫、なりません!」
アレクの悲痛な叫びが部屋に響いた。
前に出てくるサーシャの腕を剣士の1人がとり押さえる。サーシャを止めようとしたリューンも、もう1人に肩を抱えるように捕まれた。「ふーん」と面白そうにニールはサーシャを睨み、アレクの胸倉を踏みつける。うぐっ……とくぐもった声が聞こえてきた。あばらが折れたのだろう。だがその足をアレクが掴む。
「……お2人を離せ」
「離すかよ」
冷たく言い放つと、ニールはアレクの顎を蹴り上げる。手が外れ、アレクは動かなくなった。
「アレク……!」
「ずいぶん成長したなあ、お姫様。あんな小物を助けようとするなんて」
「ニール」
「はいはい、なんでしょうか、リューン様」
ニールは再度、ふざけた口調でリューンの声に答えた。この女が自分の名前を呼ぶと、なんという甘い響きか。
「サーシャを連れて行っても人質にはならないでしょう。さっさと私を連れて行きなさい」
「言われなくてもお前は連れて行くさ」
ニールは拘束されているリューンに近づくと、その頬を撫でた。そしてちらりとサーシャ姫に目を向ける。その瞳にサーシャは身を怯ませたが、強く睨み返した。
「いい目をするようになったが残念だな。お前はこれからリリス姫の元に行け」
「リリス?」
リューンが怪訝そうな顔をする。ニールはそれを無視してサーシャを押さえる男のほうに視線を向け、「行け」と顎をしゃくった。サーシャがずるすると引っ張られていく。
「離して! アレク! アレク!」
「サーシャ!」
「お前はこっちだ」
リューンを拘束する手がニールに変わる。リューンを掴んでいた男に「お前も行け」と指示を出す。
「離して……!」
「黙れ」
サーシャを連れた男が2人部屋を出て行きかけたのを確認すると、ニールはリューンを立たせて壁際に押し付けた。
「何を……っ!」
「さて、少し静かにしてもらう」
ふん……とニールが笑った。せっかく2人きりになった一瞬だ。本格的に味わうのは落ち着いてからでも構わないが、今この瞬間を逃せば落ち着くのは随分先になるだろう。ニールはリューンの両脇に自分の手を付き、身体ごと、その柔らかさに触れた。
急にニールの身体が密着して色めいた何かを感じ、リューンの背が冷えた。手を突っ張って身体を離そうとするが、無理矢理密着した身体に押さえ付けられ、リューンの動き程度ではニールはびくともしない。
「ニール止めて」
「止めると思うか。せっかくこの手に入ったのに」
「止めてってば!」
片方の手がリューンの顎を押さえ、リューンの唇を無理矢理奪った。噛み付かれないように強く顎を掴み、舌で唇をなぞっていく。リューンはほとんど殴るようにニールの身体を離そうともがいた。だが、両手を手錠で拘束されていて自由が利かない。
「………………っ!」
じたばたと動くリューンの足の間に、ニールは自分の足を割り込ませて腰を密着させ、動きを封じた。ニールはリューンから唇を離すと、暴れる手を掴んで持ち上げた。リューンの頭の上で手を押さえつけ、もう片方の手でスカートを捲り上げていく。
「止めなさい、離して!」
「煩いな。少し黙れよ」
リューンの耳元に荒い息で囁きながら、その手がリューンの太ももに触れた。吸い付くような肌だ。この肌が自分のものになるのかと思うと、ニールの身体は熱くなる。
「離せって言ってるでしょ。嫌よ……!……アルハザードっ……嫌!」
リューンの声がほとんど叫ぶように部屋に響いた。そのとき、だった。
「リューンから手を離せ……」
それだけで人を殺しそうなほど、低い唸るような声が2人の耳に届いた。
息が詰まりそうな、恐ろしく獰猛なその声。一瞬で場の空気を支配し、その姿とその雰囲気を、注視せずにはいられない。黒いマントに群青色の軍服を着た、濃い金髪の獅子のような男。
ニールとリューンの前に現れたのは、獅子王アルハザードその人だった。