バルバロッサ率いる神殿騎士がファロール侯の別邸を包囲し、邸内は騒然となった。降伏するべきなのか、あるいは抵抗するべきなのか。だが所詮は私兵である。大方の人間は降伏した。
だが今部屋から出た2人の男は、私兵ではなかった。ファロールに仕えるニールという男の仲間だ。彼らはサーシャという貴族の娘を、リリスのところに連れて行けと命じられたのだ。扉から出てきたところに、背筋が凍るような緊張感を感じ、振り向く。
ドス……と独特の鈍い音が響いて、サーシャを引きずっていた方の男が倒れた。喉には短剣が刺さっている。一撃だった。黒いローブを深く被った男が、手を下ろした。短剣を投げたのは、どうやらその男のようだ。
「……!」
サーシャは悲鳴を上げるが、喉の奥から空気が漏れるような音になっただけで、それは声にならなかった。拘束されていた手が無くなり、身体が倒れる。
もう1人の男はすぐに剣を抜こうとしたが、その暇も無く拘束魔法に囚われた。もがくと、それは一瞬で解ける。だが、相手はその一瞬を逃さなかった。魔法に囚われ怯んだ瞬間に合わせて、相手が踏み込んでくる。
男に術をかけ、踏み込んできた相手が緊張感の正体だった。背の高い、濃い金髪の逞しい体躯の戦士。その金髪の男はほとんど無造作ともいっていいほどの所作で距離を詰め、手にしていた剣をひっくり返した。武器を逆手に構えて、そのまま敵の胸を一突きにする。刃をそのまま抉る様に押し込み、もう片方の手で敵の腕を捻り上げて、投げるように床に沈めた。一瞬で亡骸になった敵を落す勢いに任せて、剣を抜く。ヒュ……と剣を閃かせ血を飛ばすが、その身体には返り血すら、無い。
その姿は、敵を屠る金色の獅子そのものだ。
獅子は倒れた敵にもサーシャ姫にも一瞥をくれることなく、男達が出てきた扉の方向に視線を傾ける。
獅子に従うのは、2人の<影>のみであった。
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邸宅の外側は探知魔法は遮断されていたが、邸内では作動した。リューンの居場所はすぐに分かる。スフとナイアを従え、アルハザードは真っ直ぐリューンの居る部屋へと向かった。
その部屋に入ろうとしたときに、声が、聞こえたのだ。
「嫌よ……!……アルハザードっ……嫌!」
自分を呼ぶそれは、初めて聞くリューンの悲鳴だった。凍りついた心地を覚え、すべての魔力がそちらに向く。
アルハザードの視界に入ったのは、ナイアにそっくりな男に押さえつけられ身体を弄られているリューンだった。自分がいつもしているように、その首筋に顔を埋め、リューンのスカートに手を入れている。
「リューンから手を離せ……」
アルハザードは一気に冷たい怒りに支配される。制御できないほどの濃い魔力が周囲を覆い、唸り声にも似た怒りの声が零れた。
「……アル……!」
だが、我を忘れたのも一瞬だ。リューンの自分を呼ぶ震えた声が、アルハザードを引き戻した。アルハザードはリューンに向かって小さく頷き、命じた。
「リューン、眼を閉じろ」
「動くな」
ニールはアルハザードの姿を見た瞬間、咄嗟に片手でリューンの腰を抱き寄せ、もう片方の手を剣の柄にかけた。それを視界に納めた、アルハザードの瞳が怒りに瞬く。
リューンはアルハザードに命じられるままにぎゅ……と眼を閉じた。途端に、自分が纏っていた防御魔法に急速に魔力が注ぎ込まれるのを感じる。ニールの剣が鞘から抜かれる前に、ふわりと空気が揺れて身体の拘束が外れた。リューンはバランスを崩し、膝から崩れ落ちるように床に倒れる。
同時に、揺れた空気の優しさとは真逆の轟音が聞こえた。手錠のためになかなか身体が起こせなかったが、リューンが瞳を開けると、ニールは向かい合わせの壁に激突している。それを認識した瞬間、アルハザードの身体がリューンを包み込んだ。
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リューンの腰を抱き寄せ剣を抜こうとした瞬間、ニールは焼け付くような衝撃を受けた。衝撃はニールの身体をリューンから引き剥がし、気付けば半身が壁に激突したのだ。ともすればリューンをも巻き込みかねない魔法だったが、リューンはニールとは逆方向に倒れただけで、傷1つ付いていない。
アルハザードはリューンを纏う防御魔法を強化していた。「自分の撃つ攻撃魔法から守るように」と。そして、衝撃を伴う破壊魔法を打ち込んだ。ニールの身体を半分巻き込んだ位置を狙う。そもそも護身や防御・防魔の魔法は、アルハザードの得意とするところだ。もしもリューンが人質に取られた場合にも対処できるよう、リューンの身体にはそういった類の防御魔法も施してあった。
「無詠唱で防御と攻撃魔法かよ……目茶苦茶だな……」
壁に激突した衝撃で、背骨と頭をやられたようだった。けほ……と咳き込むと肺が軋み、口の中は血の味がする。ニールは視線を上げて、アルハザードを見た。忌々しいことに、既に自分のことを見ていない。軋む身体が倒れるように壁から剥れ、震える手で短剣を探った。だが肩が抜けたのだろう。手が動かない。さらに、視界が反転した。
アルハザードに続くように飛び出した黒い影が、ニールに飛び掛ったのだ。胸に熱い衝撃を受けてニールの身体が倒れる。ニールの身体の上にいるのは、ナイアだ。
「……お前ら、随分早かったじゃねーか……」
「ニールラトラルア……今度こそ、最期だ」
「はは……そうらしいな……」
ニールはナイアに向かって薄く笑みを浮かべながら、身体が急速に重くなるのを感じていた。致死性の高い即効性の毒で、まず胸を薙いだのだろう。ニールは短剣をアルハザードに向かって投げようと手首を翻す。だが、その手はナイアに押さえつけられることによって宙を切らなかった。身体に力が入らず抵抗が出来ない。
冷たい刃が首筋に当たるのが分かった。それが引かれる瞬間。
「……くそっ……リューン……!」
ニールは最期にリューンの名前を呼んだ。それに呼応するように、既にアルハザードの腕の中に納まっているリューンの黒い瞳が、こちらを振り向く。その時、……ニールの命が途切れる、まさにその瞬間、リューンは確かに鳶色の瞳を見つめ返していた。ニールが恋焦がれた、水に濡れた黒曜石のような強い瞳で。
だがそれも一瞬。
リューンは獅子に抱き寄せられるように隠された。
ああ、そうか。
やはりお前は、
獅子王のものなのか。
首筋に熱い刃が滑り、ニールの意識は完全に閉ざされた。
****
「リリス様。……バルバロッサ卿がお見えです」
「……第一枢機卿が?……わたくしは忙しいのよ。帰っていただきなさい」
「主はおりませんとお伝えしましたが、ならば邸内を改めさせていただくと……」
「何の権限で」
「神殿教会の司祭ラーグと競合して違法薬物を扱った件について。同時に皇帝陛下の依頼を受け、月宮妃誘拐の件にて身柄を拘束したい……と」
「ではなぜアルハザード様がいらっしゃらないの!」
パシッ……と音が聞こえて、報告に来た兵士が衝撃で横を向いた。リリスが立ち上がりその顔を張ったのだ。リリスの妖艶な顔は怒りに震えている。だが、一転、急に優しい声色になって兵士の頬を手でそっと触れた。
「……ねえ、本当はアルハザード様が来ていらっしゃるのでしょう?」
「……」
「答えなさい……!」
ギリ……と頬に爪を立てる。
「こ、の、……売女が!」
兵士は震える声で叫ぶと剣に手を掛けた。だが、その剣は抜かれることすらなく、胸に剣を突きたてられて後ろへ倒れる。リリスの横に控えていた2人の男の内、1人によるものだった。男は兵士の身体から剣を抜くと、何事もなかったかのようにリリスの横に控える。
「……なぜ、なぜ皇帝陛下が来ないの」
「リリス様……」
2人の男がリリスを下げさせ、再度剣を構えた。鎧の音が響き数人の騎士が姿を現す。その騎士服は神殿騎士のものだ。ハッとした顔でリリスが扉に目を向ける。
だが、そこから現れたのは、群青ではなく真紅だった。
「……リリス姫か」
「枢機卿。……なぜ貴方が来られたのですか」
「名代は伝えたはずだが」
バルバロッサはアルハザードとはまた別種の冷気を纏ってリリスを見据えている。ちらりと床に倒れている遺体に眼を向けたが、すぐに視線を戻して室内の3人に歩み寄った。1人の男が飛びかかり、バルバロッサの喉元を狙う。「バルバロッサ様!」神殿騎士達が叫ぶが、それは当然のように杞憂に終わった。バルバロッサは身体を反転させて向かってきた一突きを避けると、抜き様の一閃で男の上腕に剣を滑らせた。悲痛な叫び声を上げて、男が剣を取り落としその場に転がる。
怯んだもう1人の男にバルバロッサは視線をくれると、一言言った。
「死にたくなければそこをどけ」
「……っ……」
1人の男がかすかに身じろぎする。剣をバルバロッサに向けようとした、その瞬間。激しい拘束魔法に囚われた。剣を持つ手を掴まれると、捻りあげられ床に倒される。みぞおちを軍靴で強く踏みつけられて昏倒する。バルバロッサは剣を納めた。
「リリス姫を取り押さえろ。男は応急処置だけ施して連れて行け」
「はっ」
バルバロッサは横に並ぶ神殿騎士に合図をした。ざっ……と音を立てて、2名の神殿騎士がリリスの両手を押さえる。
「離しなさい!」
「悪いが、一緒に来てもらいましょう」
「……一緒に?」
リリスの声色が変わった。背を向けようとしていたバルバロッサが怪訝そうに振り向く。その背筋を這うような声に、取り押さえていた騎士も気色ばんだ。
「ねえ、貴方と一緒に行けばアルハザード様に会えますかしら……?」
リリスがその顔に、にぃ……と笑みを刷いた。それは妖艶で壮絶な笑みだった。バルバロッサは眉をぴくりと動かす。
「いいわ。ねえ、バルバロッサ様。わたくしアルハザード様にお会いしたいのです。あの方の瞳を見てお話したいの。ねえ、この場にあの方は来ていらっしゃるの? 今すぐ連れて行ってくださるかしら。ああ、その前にドレスをきがえたいわ、ねえあのかたはどうしてここにいらっしゃらないの? わたくしをむかえにこないの? わたくし」
両手を取り押さえる騎士達は、その様に一瞬目を奪われた。
彼女は甘いとろけるような舌足らずの声で、こう、言ったのだ。
「ねえ、わたくししぬまえにあのひとにひとめ、おあいしたいの」
ごくりと騎士達が喉を鳴らす。バルバロッサですら、薄ら寒いものを感じた。……だが、すぐさま表情を戻す。リリスを静かに見下ろし、胸元より小さな瓶を取り出した。致死性の毒だ。刃物に塗ったり、……慈悲を与えるために使う。
「仰向けに押さえつけろ」
「……閣下……まさか」
「慈悲など与えぬ」
通常、毒薬を飲ませるのは、死にあたって苦しみを与えぬようにする「慈悲」だ。
だが、今与えるべきは慈悲では、ない。
バルバロッサは悟った。この女を絶対にアルハザードに会わせてはいけない。声も聞かせてはいけない。それが、一連の彼女の目的だったのだから。リューンを殺すことではなく、アルハザードに到達することこそが目的だったのだ。その目的を叶えさせてはいけない。この罪を完成させては、いけないのだ
「やれ」と命じると、騎士2人がリリスを床に押さえつけた。もう1人の騎士が、その顔を固定し、口を開かせる。
「あ……あ……やめて、いや! ……アルハザードさま!」
「貴方をアルハザードに会わせるわけには行かない」
バルバロッサは淡々とその唇に毒を注ぎ込んだ。最後の一滴まで注ぐと、顔を固定していた騎士が顎を押さえて口が開かぬように処置をする。
「……!」
リリスはしばらくの間じたばたと暴れていたが、やがて事切れた。あっけない最期だった。
バルバロッサは脈を取ってその死を確認すると、見開かれたままのリリスの瞳を閉ざして、短く祈りの言葉を唱えた。リリスの片手に小瓶を握らせ、立ち上がる。
「リリス・ティーラ・ファロール侯爵令嬢は服毒により自害した。よいな」
「……はっ」
「数名は部屋を検分して薬物を押収しろ。残りは邸内の掃討を」
これで終わっただろう。バルバロッサは最後にリリスの死体を一瞥して部屋を出た。
****
「アル……っ……んっ……」
アルハザードは床に崩れたリューンを抱き起こすと、忌々しげに一度リューンの唇を指で強くなぞり、貪るように唇を奪った。アルハザードの手がリューンを求めるように首筋を支えて、手繰り寄せるように身体を深く抱きしめる。激しい抱擁と口付けに、リューンは慌てて少しだけ身体を離す。
「待っ、て、アルハザード……」
唇が一瞬離れたときに、リューンはその名を呼んだ。アルハザードは少し顔を離して、リューンの顔を見る。2人の視線が絡まった。その表情が僅かに疲れているのは、体力的なものでは無いだろう。リューンの肌に顔を寄せたとき、ざらりと触れた無精髭。どれだけ慌てて来たんだろう。ああ、ダメだ。この逞しい腕と首筋に縋りつきたい。でも、まだ終わっていないのだ。
リューンは泣きそうになるのを堪えて、笑って見せた。
「心配かけて、ごめん」
「リューン……」
アルハザードはリューンのその表情を受け、激しい感情に溺れそうになるのを堪えていた。男に抱き寄せられ、身体を弄られていた様子はアルハザードの心を掻き毟る。リューンに手を触れた男を、何度殺せば気が済むか……というほど殺してやりたかったが、リューンの眼前でそれはかろうじて避けたのだ。双子の男達に決着を任せ、アルハザードはリューンの身体をこの手に抱き締めることで、その奔流を食い止めた。
その背に手を這わせ、首筋に顔を埋める。だが、奇妙な魔力を感じてアルハザードは顔を上げた。
「……リューン、これはなんだ」
アルハザードは顔を顰め、声を低くして唸るように言った。リューンの首筋には一周するように魔法の文様が赤く刻みつけられている。そして、先ほどから気付いてはいたが、リューンの手には手錠が嵌められていた。
「これはニールが……っ」
言い終わらないうちにアルハザードがリューンを再び引き寄せ、その首筋に口付けた。ぬるりと冷たい感触がして舌が這っているのが分かる。同時にアルハザードの魔力が込められ、強制的に首元の魔力が相殺されて消えていった。相当強引な解呪方法だ。全ての魔力が取り除かれるまでアルハザードの舌は離れず、吸い取るようにそれが消えると、最後に大きく耳元に口付けをして離した。
リューンの身体に自分以外の魔力を、一瞬でも許した事実が腹立たしい。できることならこのまま彼女の身体を離したくはなかった。だが。
「……アレク!」
女の声に腕の中のリューンがハッと顔を上げる。アルハザードの腕から逃れるように身をよじってその方向を見ると、倒れこんでいる護衛の傍にサーシャがかがみこんでいた。護衛の手を握り、顔を労しげに拭っている。
「アルハザード様。リューン様のお手を」
スフがニールの身体から奪った鍵を持って控えた。アルハザードはそれを受け取ると、リューンの手錠を外す。よほど暴れたのだろう、擦過傷が痛々しい。治療しようとアルハザードが手首を掴んだが、リューンは「待って」とそれを避けた。アルハザードを見上げ、苦しげな顔をした。
「お願い……あの護衛の治療をしても?」
リューンの声にサーシャが振り返った。今にも泣きそうな顔をしている。
アルハザードは初めてサーシャの顔を見た。サーシャはびくりと一瞬恐怖に震えたが、眼を逸らすのを堪えたようだ。リューンのグラスに破片を入れ、少なからずその身体を傷つけた人間。アルハザードにとっては、助けるべき人間ではない。だが、リューン自身が助けたいと言っているのだ。アルハザードは苦い顔になるのを隠し切れなかったが、ため息をつき、頷いた。
リューンはすぐさまアレクの傍に膝を付き、サーシャに1つ頷いてその背を優しく撫でてやった。自由になった手をアレクにかざす。命に別状は無いようだ。リューンは魔力を集中して治療を施した。癒しの魔力を注ぎ込んでいると、うっすらとアレクの眼が開く。
「……アレク……!」
「……サーシャ姫、……リューン様……ご無事で?」
「もう、平気?」
「……面目ありません……」
掠れた声でアレクが答えた。リューンは治療が終わったことを確認すると立ち上がった。スフとナイアに指示を出していたアルハザードが、それに気付き傍に立つ。いつものようにリューンの腰を片方の手で深く抱き寄せ、サーシャとアレクを見下ろした。サーシャは一度アルハザードを見上げ、すぐに俯いて泣きそうな表情をした。……だが、泣いてはいなかった。頭を下げて臣下の礼を取る。その声は随分と、しっかりしていた。
「わたくしの護衛アレクの命を救っていただき、皇帝陛下とリューン様には感謝の言葉もございません……」
「お前たちには詳しい話を聞かせてもらうことになる」
「……はい。もとよりそのつもりにございます」
アルハザードはリューンを見下ろした。その腕を取り今度こそ傷を治療する。呪文を唱えそっとリューンの手首を握る。傷が完全に消えると、その頭を抱え込むように強く抱きしめた。逞しい胸、大きな手、力強い腕。リューンは、それらに寄りかかるように、僅かに体重をかけた。その微かな身動ぎを感じて、アルハザードの手に力が籠もる。もう一方の手で頬に触れると、リューンの瞼近くに唇を寄せた。
「遅くなった」
「来てくれてありがとう」
「また無茶をしたそうだな」
「う、ん、ごめん」
「他に怪我は無いか」
「……大丈夫。アルハザードは?」
「俺があの程度で怪我をするものか」
「うん……」
やがて、バルバロッサが神殿騎士を引き連れて現れた。アルハザードの腕の中にいるリューンの姿を見て、強く頷き、顔を綻ばせる。
リューンはアルハザードからもたらされる確かな安堵感に、今度こそ身を委ねた。