無事、陽王宮に戻ったリューンは、護衛騎士達に一斉に出迎えられた。
悲痛な顔で跪いたギルバートに、リューンは困ったように苦笑した。アルハザードに抱き寄せられていたリューンはその手を逃れ、ギルバートの視線に合わせるように身を低くする。
「……リューン様!」
その態度にギルバートと護衛騎士たちがぎょっとして慌てる。皇帝の唯一の寵妃が、自分達に膝を付くなどあってはならないことだ。リューンはそれを理解した上で、なお、膝を付く。礼を尽くすときは、視線を同じくしたいのだ。例え、自分が皇帝という権力者の妃であったとしても。
「ギルバート殿。貴方方の働きには感謝しています。陛下が居ない間、ここを守ってくれていてありがとうございます」
「……リューン様、陽王宮に敵を侵入させ、御身を危険に晒してしまうことになったのは私の不徳の致すところです」
リューンはふるふる……と頭を振って立ち上がり、アルハザードの傍らに控えた。
「その報告は陛下にしてください。でも、私は……貴方方に感謝します。あの時怪我がなかったのは、貴方方のおかげです」
再びリューンを片腕に包み込むと、アルハザードはギルバートを見下ろした。
「報告は後ほど受ける」
「……はっ」
「沙汰はそのときに申し渡す」
ギルバートは頭を低くしてそれを受け止めた。どのような沙汰も受けるつもりだった。
「ギルバート」
「はい」
「俺が留守の間よく陽王宮を守った。礼を言う」
ギルバートは少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに厳粛な面持ちで立ち上がり敬礼した。
「ラズリ……!」
やがて、ラズリがリューンを陽王宮に案内するためにやってきた。リューンの無事な姿を見ると、安堵したように深く頷き、リューンとアルハザードの前で膝を付く。
「……リューン様、ご無事で……」
「ラズリ。心配をかけてごめんなさい。留守を守ってくれて、ありがとう」
「リューン様がご無事であれば、何も言うことはございません。陛下。……リューン様をありがとうございます」
ラズリの主君はリューンのみだ。アルハザードも目の前に居たが、その忠誠はリューンにのみ向けられていた。だが、それを特に咎めることなく、アルハザードはラズリに視線を傾ける。
「当然のことだ。……ラズリ、リューンの室は準備できているか」
「怖れながら、まだ準備が整っておりません」
「では、準備が整うまで俺の部屋を使え」
「はい」
もとより、そのような命をバルバロッサから受けていたラズリは立ち上がり、リューンを促した。月の宮はまだ片付いていないのだろう。リューンは特に口出しすることなく従う。さすがのリューンも疲労していた。正直、少し休みたかったのである。
少し疲れたような顔をしていたリューンの手を引いて、陽王宮へ向かおうとしたアルハザードをバルバロッサが呼び止めた。
「アルハザード。報告することがある」
早くリューンと2人きりになりたかったアルハザードは抗議の声をあげそうになったが、疲労の色が見えるリューンと、バルバロッサの有無を言わさぬ雰囲気に気圧されて従った。リューンの頬を指で1つ撫でると、ため息をつく。
「リューン。疲れただろう。少し休め」
リューンは切なげな表情で首を傾げたが、静かに頷いた。
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「リューン様!」
「アルマ、心配かけてごめん」
「……いえ、……いいえ、ご無事でよかった」
アルハザードの自室に通されたリューンは、まず最初にアルマの首に抱きついた。リューンの背を優しくさすりながらアルマは身体を離し、その顔を覗き込む。眉根を寄せ、心配そうな表情をしていた。
「リューン様……、お顔色が。お食事を?」
「うん、さすがに少し休みたいか、な」
「お休みの前に何かお取りくださいませ。スープを持ってこさせましょう。ああ……お着替えも」
囚われていた間は気が張っていてそれほど疲労感は感じていなかったが、よくよく考えればロクに寝てもおらずまともな食事も取れていなかった。アルマが用意してくれていた消化の良いスープをお腹に入れると眠気に襲われ、温かい湯を使うと身体は休息を求めた。リューンはすぐに眠ってしまったようだった。
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結局、事後の処理と各人の報告を受け、さらに今後のことの指示を出していると、アルハザードが部屋に戻ることが出来たのは夜半もとうに過ぎた頃だった。正直に言うと、早くリューンをこの腕に抱きしめたくて仕方がなかった。聞きたいこともある。一度ナイアに救出される機会があったものの、それを許さず、リリスを確実に捕らえるために、囚われの身に甘んじていたと聞いたのだ。
リューンの主張するところは理解できた。リリスを捕らえるのと同時にリューンを救出したことで、一連の黒幕がリリスだったという事実は誰の目にも明らかなものになった。今回の件においては、バルバロッサが正式にファロール邸を制圧し、リリスの死を見届け、リューンを救出したこととなる。これにより、リューンが囚われた時にその場にいたバルバロッサ自身の名誉の回復にもなるだろう。何よりもアルハザード自身がその経過を自身の目で確認しているのだ。事件に関わるすべての人間に、言い逃れを許すつもりは無い。
だがそれは結果論だ。
リューンがニールという他の男に……自分以外の男に抱き寄せられ、触れられていた光景は、いまだにアルハザードの胸の内に昏く溜まっていた。そういう危険も可能性に入れて、リューンは残ったのか。それとも、ただ無茶をしたのか。どちらでもいい。何故、そのような危険な状況に、自分を置くのだ。
くれぐれも月宮妃に無理をさせてはならんとバルバロッサに念を押されていたこともあり、先に寝ておいてくれたほうが助かる。起きていれば、リューンの身体に無理をさせそうだった。
「起きていたのか」
しかしそうしたアルハザードの希望とは異なり、自室に戻ると、窓辺に腰掛けてぼんやりしているリューンを見つけた。
「アル……遅かったのね」
「リューン、何故寝ていない」
「寝てた。でも、目が覚めて」
寝ていなかったわけではない。いつの間にか眠って、そして起きてしまったのだ。寝る前はよく見ていなかったが、月の宮と広さも作りも全く違うここはアルハザードの私室だ。月の宮とは違い、シンプルで装飾の少ない部屋だった。いつもの部屋ではないことも、いつものようにアルハザードが隣にいないこともあったのだろう。リューンはもう一度眠る気になれず、寝台から降りてぼんやりしていたのだった。
少し焦ったようにアルハザードはリューンの座っている窓辺に近づいた。妙に切羽詰ったアルハザードの様子に首を傾げて、リューンは窓辺から身体を離す。トンと床に落ちた身体をアルハザードの腕が受け止めた。リューンの身体がアルハザードに触れた瞬間、その逞しい腕が驚いたように緊張する。
「アル?……どうかした?」
もう片方のアルハザードの腕が、リューンの背に触れた。その腕の力強さからは想像できないほど、繊細に、そっと引き寄せる。大きな手がリューンの頭を抱え、熱い吐息がリューンの髪にかかった。アルハザードの低く掠れた声がリューンの耳朶をくすぐる。
「リューン……何故、起きていた」
「アル、どうしたの?」
「何故起きていたのかと聞いている」
「目が覚めたら、……1人で、落ち着かなくて」
リューンの言葉を聞いたアルハザードの腕に、力が籠もる。
「リューン……。怖い思いをさせてすまなかった」
「怖い思いはしてない」
リューンは腕の中で頭を振った。だがリューンを助けたとき、アルハザードを見つけたその表情が泣きそうになっていたことも、腕に抱きとめたときに僅かに震えていたことも、アルハザードには分かっていた。
そして、リューンは必ず「怖くなかった」と言うであろうことも。
「嘘だな」
「……」
「俺には分かる」
「アル……」
「何もされていないか?」
「あー……、うん」
言葉を濁したリューンに、アルハザードの腕がさらにきつくなった。ニールに身体を触られていたのは見られていただろう。唇は奪われ胸にも触られたが、リューンはそれを積極的に言う気にはなれなかった。口に出すのも、嫌だ。
「ナイアから聞いている」
「え」
「あの男と2人きりだったと」
「……うん」
「何かあったのか」
「あれ以上は何も無い」
「あれ以上は」という言葉に、アルハザードは抱き寄せていた腕を解き、リューンから身体を離した。自分を見上げてくるしっかりとした瞳が困ったように潤んでいる。そんな顔をさせたいわけではない。自分に報告するべきことが何もなかったことなど分かっている。リューンの身体が他の男に奪われるようなことがあれば、このような表情をしないだろう。
リューンは誰の前に出ても、立派に皇妃を勤めるだろう。為政者としてのアルハザードが望む皇妃に、彼女はなるに違いない。アルハザードもそれを求めている。だが出来る限りリューンをこの手に留め、誰の眼にも触れさせたくないという、矛盾した思いも抱えていた。もちろん、皇帝として、リューンを皇妃にするのであればそれは無理だ。だから出来る限り他の男の手には触れさせたくなかった。劣情に駆られた別の男の視線に晒したくなかった。そしてその感情を、2人きりの時に抑えておくことなど出来なかった。2人きりのとき、アルハザードはただの男だ。
「アル、私は大丈夫よ?」
「俺が、大丈夫ではない」
今度はアルハザードが窓辺に体重をかけた。髪を掻き上げると疲れたようにため息をつく。
「お前がさらわれたと聞いたとき、」
アルハザードはリューンの手を掴み、自分の左胸に触れさせた。手の下の硬い筋肉が呼吸の度に上下し、温かく鼓動しているのがリューンの手に伝わる。
「この心臓を、刺されたと思った」
低い、呻くような声だった。アルハザードは、自分の左胸に手を触れさせたまま、じっとリューンを見つめている。
「俺を殺してくれるな」
「アル……」
自分が逆の立場だったら、リューンも同じことを思っただろう。もしもこの存在が失われてしまったら、自分の心臓は刺されてしまう。その思いを抱える苦しさと、嬉しさと、それは自分達だけに許された束縛だ。
その想いに至ると、急に自分の状況を心細く感じた。無茶をしてしまったのは分かっている。……そして、おそらくそのせいで、あの時感じた恐怖が、ひたひたとリューンの心に迫った。
「アル、……心配かけて、ごめんなさい」
「もうよい。何もなかったのだろう」
リューンはアルハザードに視線を向けた。窓辺に身体を預けているからだろう。低い位置にあるアルハザードの視線は、リューンの視線と同じ高さだ。
「何もなかった、けど」
「リューン?」
リューンはアルハザードの胸に手を置いたまま、その顔に自分の顔を近づけた。唇と唇が触れ合うか、触れ合わないかの距離で、リューンは声を潤ませ、震わせる。
「怖かった」
「……」
「こっちに来て、初めて、怖かった」
ニールが上に被さって来たとき、リューンは怖かった。取り乱しさえしなかったが、アルハザード以外の男に触れられたことに圧倒的な嫌悪感を覚えた。自分が、望まない男のものになるということがどういうことなのかを、はっきりと自覚したのだ。それは久々に味わった類の、恐怖だった。
掠めるほどの距離に近づいていた唇は、リューンが僅かに顔を揺らせばそっと重なり合った。角度を変え、啄ばむように口付け合う。そうしていると何度目かに、アルハザードの頬に雫が落ちた。顔を離すとリューンの瞳から涙が一滴、流れている。
涙の理由など問わない。
アルハザードはその雫に口付けると、リューンの身体を再び抱き寄せた。
震えるリューンを抱いて思うのは、その恐怖を優しく取り除いてやりたいという繊細な庇護欲と、……そして、リューンの全てを自分のものにしたいという、どうしようもないほど荒々しい独占欲だ。
「リューン」
「アル?」
「今夜はお前が欲しい。容赦できない」
リューンの顔が少し驚いたような表情になって、アルハザードを見つめる。その表情に吸い込まれるように、アルハザードはゆっくりと……だが、今度は重く唇を重ねた。リューンの答えを聞く余裕は無い。否と言われても止められないだろう。
アルハザードの手が激しくリューンの身体を弄り始める。柔らかな愛しい身体も、心も、全てを、たった今貪り尽くしたい。
触れ合う唇は今までに無く深く深く、リューンの中に入ってくる。