その日はひさびさにアルハザード達と夕食を共に取ることになっていた。
アルハザード、シド、ライオエルト、ラズリ、そしてバルバロッサと共に席に着き、ヨシュアとギルバートが護衛として、アルマも他の侍女と共に給仕に控えている。いつものメンバーが揃ってはいるが、食事自体は正式な会食ではないため、堅苦しいものではなく和やかに進んでいた。
「リューン」
食事も終わり、デザートのキャラメルタルトをもぐもぐしていたところでアルハザードがリューンの名を呼んだ。首を傾げて、アルハザードを見る。いつになく真剣なアルハザードの眼差しに、リューンはスプーンを置いて、改めてその群青を見つめた。
「今日の閣議で、正式にお前を皇妃に迎えることを決めた」
リューンは思わずぽかんとアルハザードを見返した。一度寝所で言われたことがあるし、心のどこかでは覚悟していたことだった。だが、それでもこうして当たり前のように言われると咄嗟の反応に困った。……こういう場合どのように返答すればいいのだろうか。
女王や女公爵、妃としての振る舞いは身に付けたつもりだったが、こういうパターンは予想外だった。周囲も沈黙している。何かしらリューンの反応を待っている様子だ。反応と言っても、こんな事務的な言葉にどう反応すればいいのだ。困った。
シミュレーションをしてみる。「何故?」とか? いや……いまさら何を聞き返したいというのだろう。皇妃という立場に立ちたいわけではないけれど、それを彼が自分に望むのなら理由なんて不要だと決めたではないか。……えーと、それならば、あっさりと「そうですか」わー、フラットすぎる。常日頃から自分の感情表現は下手だと分かってはいるが、そこまで無反応な心の内ではない。だって、本当は。
……。
………。
…………。
「謹んでお受けいたします。陛下」
結局すごい時間考えて出た答えがこれだった。
「ゲホッ」とシドが咳き込む。笑いを堪えているらしい。
バルバロッサもニヤニヤしている。
ライオエルトの笑顔は腹黒い。
ラズリは無表情で口元を押さえ横を向いている。さては笑っているなこの男。
ヨシュアは目をきらきらさせていて、ギルバートは相変わらずの紳士スマイル。
アルマは微笑ましいものを見るような優しい目をしていた。
全員の表情を見て、リューンはひとり怪訝そうな顔をした。なんだこのリアクション。
「……リューン殿も、真っ赤になることがあるのだな」
その沈黙をバルバロッサが破った。いまや、肩を揺らして楽しげに笑っている。
「……え?」
顔が赤い? リューンは頬に手を当てた。ちょっと待て、一体自分はどんな顔をしているんだ。あのストイックなシド将軍を噴出させてしまうほど怪しい顔をしていたのか。確かに心臓は鳴っている。ってなんで?……なんで心臓が鳴ってるんだ! 今の……、まるで辞令か何かのような事務的な宣告に、何故顔が熱いのだ。
リューンの顔を見たアルハザードはただ1人笑わず、真剣な顔で席を立った。部屋の一角へと歩くと、何かしら箱を持ってくる。バルバロッサも笑いを止めて立ち上がり、アルハザードの側でそれを受け取った。
「リューン。こっちへ来い」
「は、はい?」
アルハザードはリューンの手を取って立ち上がらせた。少し広いところまで動いて、リューンの手を取って、そして、
跪いた。
獅子王が誰かに片膝を付いたのは、後にも先にもこれ1度のみだ。
アルハザードはリューンの手の甲に口付けし、真剣な群青の瞳でリューンの黒を射抜く。
「リューン。俺と結婚して欲しい」
リューンはその言葉を聞いて、驚きに目を見開いた。黒曜石の瞳ががたちまち潤み、考えるよりも早く、するりと言葉が零れ出る。
「はい。……私でよければ喜んで。アルハザード」
その即答に、今まで見た中で一番優しい顔でアルハザードが頷いた。立ち上がり、吐息混じりにそっとリューンを抱き寄せる。素直にアルハザードの胸に身体を預けると、とくとくと心臓の音が聞こえた。リューンも同じだ。自分の心臓が彼の心音に重なるように鳴っていて、互いの胸が上下しているのが分った。
コホンと咳払いが聞こえ、「アルハザード」とバルバロッサが声を掛けた。アルハザードは軽くリューンから身体を離して、バルバロッサに向き直る。
バルバロッサが手にしていた箱を開けると、そこには一組のシンプルな指輪が置いてあった。男物の指輪と女物の指輪である。女物の指輪の裏面には群青色の小さな石が施され、男物の指輪には同様に黒曜石が施されていた。
えっ?
「……はぁぁぁぁ? 結婚指輪!?」
驚きのあまり、素っ頓狂な声になった。
いやいや、こっちには結婚指輪という習慣は無かったはずだ。何か願望ゆえにうわ言か寝言か言ったのか……? リューンがきょろきょろしていると、アルハザードはバルバロッサから女物の指輪を受け取り、当たり前のようにリューンの左手を取った。神妙な面持ちで左手の薬指にそれを、嵌める。
「リューン殿も」
リューンはアルハザードを見て、バルバロッサを見た。バルバロッサは、分かっているのだろう?……と言わんばかりに、今は優しげに……そして、少しだけ悪戯げなお茶目な瞳で微笑んでいる。アルハザードは、やはり真剣な眼差しだった。日本に生きていた頃にも、当然結婚などしたことは無いから、こういったお作法はリューンには分からない。見よう見まねというやつだ。リューンは恐る恐る男物の指輪を受け取って、アルハザードの大きな左手を取った。アルハザードは大人しく左手を取られ、じっとリューンを見つめている。
自分は日本で死んだはずだった。
だが、……まさか、異世界で生きて、こうして愛する人と結婚指輪を交換するとは思わなかった。ああ。愛する人。はっきりと自覚して、リューンは胸が詰まった。いまだに、どうしてこうやって自分の元生きていた世界の文化を、アルハザードと共になぞっているのかは分からない。混乱したまま、アルハザードの左手の薬指にそれを嵌める。
「では、誓いの口付けを」
「はいぃ?」
だからさっきからバルバロッサ卿何言ってんの!?……そう思った瞬間、アルハザードがリューンの横髪を払い、頬に手を添えるとゆっくりと唇を重ねた。一度、リューンの唇を食むように小さく啄ばむと、少しだけ舌が入り込み柔らかに唇が重なる。
…。
……。
………。
…………。
……………。
………………。
って、長!
ちょっと、待て、そんな長いものだったっけ、誓いの口付け。しかも、なんでこんなに、もごもごと、舌とか、その、あの、だから、ま、ちょ、
「おい、アルハザード……」
さすがにバルバロッサが小声でアルハザードに注意を促した。アルハザードは渋々唇を離す。
2人が唇を離すと、バルバロッサが満足気に頷いて、席に着いている一同を見渡した。
「ここに晴れてお2人の結婚が成立しました」
バルバロッサが部屋の全員に向かって、一礼する。シドが立ち上がり臣下の礼を取った。
「おめでとうございます。陛下、リューン様」
すると各々も立ち上がり、頭を下げた。みな、一様に何故かほっとしたような優しげな顔をしている。皇帝陛下に皇妃が誕生した、ということよりも、アルハザードとリューンが共にいることを祝う顔だった。
リューンは瞳が熱くなる。
自分では、なかなか認めることの出来なかった、リューンがアルハザードの隣にいるということ。周囲が、それをまず認めてくれていたのだ。
ベアトリーチェが死んで自分の目的を失った後、最初はただ自分が存在していればいいと思っていた。次にアルハザードの側にただ居られればいいと。今は皆がそれを望んでいる。リューンにはまだ少し、この状況を受け入れるのは怖かった。だが、これに身をゆだねるのも、勇気なのかもしれない。
自分はどれほど、贅沢なのだろうか。
「……リューン?どうした」
突然アルハザードが慌てて、リューンを覗き込む。リューンははらはらと涙を流していたのだった。
「ああ、いや、ご、ごめ、嬉しくて」
嬉しくて。
それを聞いて、今度はアルハザードがぽかんとした。ハンカチを取り出すと、リューンの手に持たせる。子供をあやすように背中をさすっていると、その慌てた様子を見て、リューンがくすくすと笑い始めた。なんてことだろう。アルハザードが慌てている。獅子王ともあろう人がおろおろしている。あはは、慌てた顔面白い、初めて見た。
泣いたり笑ったりと忙しいリューンの表情に、アルハザードはほっとしたような翻弄されたような、困った表情を浮かべている。獅子王のそんな情けない表情を見たのは、これが初めてだったとヨシュアは後に語った。
「……泣いたり笑ったり、なんなんだ、お前は」
「だって。嬉しくて」
「嬉しい、か」
「はい。ありがとう。アルハザード。みんな……」
リューンはアルハザードの背に手を回して抱きついた。みんなの前だけど、相手は獅子王だけど、今日くらいはかまわないだろう。それにしても背高いな、アルハザード。そう思っていると、アルハザードはリューンの黒髪に口付けるように凭れてきた。リューンの好きな、この重み。アルハザードはリューンの黒い髪を優しく撫でている。
獅子王と、その皇妃となる月宮妃の夫妻。
その誕生は、先代の皇帝から続く、エウロ帝国の荒れた皇位継承争いや後宮争いの歴史に終止符が打たれた日でもあった。