「先だって、誰かを……ですか」
「ああ。既に宮廷に数名居るのは居るが、さらに別働隊を潜り込ませておきたい。早めに彼らに味方を付けておいてやりたいのだ」
ラズリは、父の部屋で、帝国へ提出する嘆願書の打ち合わせを行っていた。その際、タイミングを合わせてカリスト王国へ数名忍び込ませたい旨、父より聞いたのだ。ラズリが父と共に帝国へ赴いて、4年になる。父自身は、時折カリスト王国へ戻ることはあったが、ラズリはこの4年間一度も戻ってはいない。カリスト王国の最後の良心と呼ばれた父を、ラズリは尊敬し誇りに思っていた。若い頃は青臭い正義感に従っていたという自覚はある。今、その正義感は貴族の矜持として、伯爵家の長子として、カリスト国民のために確実にベアトリーチェと現宮廷を倒すことに向けられていた。
「確かに、こちらでの人員もかなり確保できました。あとは帝国への要請が通れば、人員の入れ替えに入れます。それまで待つわけには参りませんか」
「それでも何らかの連絡方法は必要だろう」
「では私が……」
「それはならぬ。万が一、帝国への要請が女王に露見すれば、お前にはやらなければならないことがある。常日頃から申しておるだろう」
「……父上、それは」
ラズリの顔が一気に曇る。万が一の場合、父に託されている自分への仕事。それは、父の仕事を引き継ぎ、ベアトリーチェを打倒することだ。そして、もう1つ、重要な任務があった。それを自分に託す父に、恨めしさを感じずには居られない。その表情を見て、ディール伯爵は苦笑を浮かべた。
「案ずるな、万が一の場合だ。……なんでも、王女殿下の侍女の席が1人空白らしい」
「空白だとして、……何の為に、その位置に誰かを?」
「その身をお守りするためだ」
「狂った王の娘を守れと?……そもそも、あの王女にどのような危険が……」
「王女を今、死なせてはならん。我々が処刑するのであればまだしも、女王の気が触れてその手にかかれば、傀儡としても見せしめとしても……もし、帝国に売るとしても、価値が無くなる」
「ベアトリーチェといえど、娘を死なせるでしょうか」
「あの狂王は何をするか分からん女だ。それに奇妙な噂もある」
「奇妙な噂?」
「聞くにおぞましい噂だ」
それを聞いたときに、確かにラズリはゾッとした。今は寡婦となったベアトリーチェは、無論、慎ましさとは無縁である。男も女も問わず、様々な恋人を持ち、享楽に耽っていると聞く。その享楽の合間に、王女ですら自分の慰みものにしているという。あくまでも、噂であった。
「アルマはどうか」
「……父上!」
ラズリは思わず声を荒げた。目的のためなら手段を選んではいられないと分かっているが、それでもアルマの名を出されると酷く動揺した。
アルマ・ルイス。ラズリの友人、ウィルマー・ルイスの妹だ。幼い頃から友人と共に学び、その魔術師の腕はラズリも認める優秀な女性だ。1年ほど前、ウィルマーがベアトリーチェに首を刎ねられたと聞いたとき、帝国へ亡命するというルイス夫妻とアルマを迎えに行ったのはラズリである。18歳になった彼女は、芯の強そうな美しい女性に成長していた。だがどうしても、最後に別れた15歳の時の、まだあどけなさの残る少女のイメージが抜けない。彼女の綺麗な紅茶色の髪と琥珀色の瞳は疲れ果てていて、そこに見える傷心の色にラズリの心も傷んだ。
帝国で彼女に邸内の世話をさせるようになって1年。彼女の瞳は徐々に輝きを取り戻した。それに伴って、ラズリの心も時折騒いだ。カリスト王国外であるとはいえ、常に目の前の人間が敵か味方かを疑い、さらには国の将来の設計をする生活は、静かであっても気の休まるものではない。そんな中で、常に身の回りを調え、毎日自室まで茶を運び、穏やかな声で自分を呼んでくれるアルマの存在は、驚くほどラズリを癒してくれた。
そのアルマも、兄ばかりではなく、つい先日両親を亡くした。母親は心労で。父親は妻の後を追うように。ラズリも、ラズリの父も、そして仲間たちも、アルマに掛ける言葉が見つからなかったが、アルマが泣いたのはたった一晩だけで、翌日からは元のアルマに戻り仕事をこなしていたのだった。彼女を思う家族は誰一人、この世からいなくなってしまった。それもベアトリーチェという女の存在ゆえに。そのような彼女に、宮廷の内通者になるだけならまだしも、兄の仇の娘を守れなどと、残酷な話だ。
「それに、王女に関わった者たちが、数人首を刎ねられているのはご存知でしょう」
「……」
ベアトリーチェの一人娘、リューンは17歳になる。彼女は母であるベアトリーチェによって城内の片隅に幽閉され、宮の外から一歩も出されることなく過ごす、幽霊王女と呼ばれる存在だった。分かっているのは、彼女が12歳になるまでに、王女に関わった者のほとんどが女王の機嫌を損ねて処刑されているということだ。
理由は大体同じだ。「王女の耳にいかがわしいことを吹き込んだ、不埒者」として。……王女の教育係だったり、王女のご機嫌伺いを命じられた貴族だったり、侍女だったり、様々だ。ここ最近そのような処刑は減っていたが、彼女が15歳の時と16歳のときに、侍女と、そしてアルマの兄が首を刎ねられている。
そんな気まぐれのような危険にアルマを晒したくはない。そもそも国家への叛乱という血生臭い中枢に、アルマを置きたくはないのだ。
「とにかく、人選は別の……」
そのとき、不意に父が視線を動かした。ラズリが振り向くと、そこには何かを決めたような表情のアルマが居た。
****
「ラズリ様」
「アルマ、……ダメです」
「ですが……」
「ダメだ!」
その夜、自室にお茶を運んだアルマに、ラズリは珍しく声を荒げた。ラズリの動揺の原因は、王女の侍女にアルマが自ら志願したことだった。
「私はルイス家の魔道師です。それに王女殿下に必要な一通りの世話はできますし、年齢的にも……」
「とにかく、ダメだ。アルマ」
「ラズリ様……」
ラズリには分かっていた。この人選は、必然だ。女性の仲間は居るが、身のこなしや魔法の腕前から言って、アルマ以上の適任は居ないだろう。それは分かっている。だが理屈は分かっていてもそれを許すことはできなかった。叛乱を成功させる為に、何もかもを犠牲にすることをラズリは覚悟していた。それでも、彼女を宮廷に出すことは出来ない。そして、出来ないといいながら、……恐らく最終的には自分はそれを見送るだろう。
「アルマ」
「ラズリ様」
「私は認めない。……もう行きなさい」
アルマの琥珀色の瞳が、何か言いたげに自分をずっと見つめているのが分かったが、ラズリはそれを見返すことができなかった。
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「連絡方法と、向こうでの立ち回りは大体理解したかね」
「はい、ディール様」
「だが、最終的にはアルマの判断に任せる。くれぐれも危険な真似はしないように」
「はい」
アルマが王女の侍女としてカリスト王国へ潜入すると決めてから、ラズリはアルマとほとんど言葉を交わすことなく数日が過ぎた。そして、とうとう出発する翌日となった。アルマはディール伯爵の部屋で、最終的な指示を受けている。宮廷に居る内通者や、既に宮廷入りした者達にも連絡を取り、1週間後には王女の侍女として潜入できるはずだ。ラズリは、その傍らに静かに控えている。相変わらずアルマとは言葉を交わすことなく、最後の確認も終えてしまった。
その夜、いつもと変わらぬ風にアルマがラズリの部屋を訪ね、いつもと変わらぬ風にお茶を淹れた。
言葉は交わさぬといっても、この習慣を変えないアルマに、ラズリは自分の思い煩いが幼稚なものに思えてため息をついた。
兄を殺され、父母を亡くし、それでも心折れることなく自分や父についてきたアルマ。その健気な姿をラ、ズリはできれば自分の手でそっと守ってやりたかった。だがそれは叶わないことを知っている。自分はいずれベアトリーチェに叛旗を翻す。失敗すれば命は無く、成功したとしても国が無事にあるとはいえないのだ。
「アルマ」
「はい、ラズリ様」
久々に声を掛けられたのが嬉しかったのだろう。敵の渦中に飛び込む前日とは思えないほど、アルマは嬉しそうに顔を上げてラズリに微笑んだ。
「どうしても行くのか」
「……決めたことです」
「ウィルマーの仇を?」
兄の名前が出て、アルマは少し驚いたような顔になった。その琥珀色の瞳が、寂しげに揺れて、そしてしっかりと首を振った。意外な反応だった。
「いいえ。違います」
「では、なぜ。危険な場所だ」
「私、兄も父も母も亡くしましたけれど、まだラズリ様とディール様がいらっしゃいます」
今度はラズリが驚いたような顔になった。その表情を見て、穏やかにアルマは笑って、ラズリへ一歩近づく。
「確かに兄の仇を討ちたい。ベアトリーチェを倒したいという思いは私にもあります。でも、そんなのは一方的な私の憎しみにしかすぎません。……私は……、私は、ラズリ様のお役に立ちたいのです」
アルマはそっと両手を胸に置いて瞳を伏せた。
兄の敵を討ちたい。それは確かにアルマの率直な気持ちだった。だが、今はもっと大きな感情が、アルマの胸を占めている。
小さい頃、自分の持つ力、学んだ技を役立てようと誓った兄とラズリ。魔道師という力を持ちながら、カリスト王国で狂王におびえて暮らす自分に比べて、彼ら2人は眩しかった。
そんなアルマの幼い憧れの眼差しは、いつしかラズリに対する恋慕へと変わったが、それを自覚する前にラズリはアルマの前から立ち去ってしまった。いつか会えると信じ、カリスト王国での恐ろしい暮らしの中で魔術の技を磨いてきたのは、ラズリの役に立ちたいという一心だ。ラズリが自分の力を民のために役立てようと誓ったように、アルマもまた、その力をラズリのために役立てようと誓ったのだ。その機会が、こうしてやってきた。
「私に分かるのは、ベアトリーチェの恐ろしさと、女王が兄の仇という憎しみだけ。でも、ラズリ様には私には見えていない、国への憂いと民への想いがあります。私はそういうラズリ様の、お役に立ちたいのです」
「アルマ……」
幼い頃から、彼女が自分に憧憬とも恋慕とも付かない感情を抱いているのは知っていた。ラズリ自身も、また、アルマの一途な想いに惹かれないわけではなかった。だが、彼は結局は父について国を倒す道を選んだのだ。それでも時々湧き上がる胸の奥の感情を、家族愛や、兄弟愛に似たようなものなのだと、ラズリはここ数日ずっと押さえてきた。数日?……いや、そうではない。この1年間、ラズリはアルマを見守ってきたのだ。アルマの穏やかな瞳に、癒され、愛しく思ってきた。
だが、国に叛旗を翻そうとする男が、どうしてその気持ちを伝えることができるだろう。どのような気まぐれで命を落とし、成功を収めたとてその後に平穏があるかどうかは分からない。それについてきて欲しいなど、そんなことが許されるはずが無い。分かっているはずなのに、何故、今この時になって、彼女への恋情が溢れるのだろうか。
ラズリは立ち上がり、アルマの手を取った。取った手をそっと持ち上げて、少し低い位置にある彼女を見下ろす。
「何故今そういうことを、貴女は言うのだ……」
「ラズリ様?」
「貴女に、私の行く道をついて来て欲しいと、言えるはずが無い……。貴女に復讐などは似合わないのに」
「ラズリ様……」
自分の名を呼ぶアルマの声が、ラズリの胸に浸み込んでいく。
「アルマが私の役に立ちたいといったその気持ちが、私には何より嬉しく、愛しく思う。それなのに、私は恐らくそれを利用し、頼るだろう。すぐ側に居ても、すぐ隣に居ても、私は貴方を守ることはできないかもしれない。それでも……、貴女は私について来るというのか」
いずれラズリ自身も、カリスト王国へ戻る日が来るだろう。そのとき、例えアルマが自分の目の前で窮地に陥ったとしても、それを助けることはできないかもしれない。
アルマの返事を聞く前に、ラズリは苦しげに息を吐いて、その身体を抱き寄せた。抱き寄せた瞬間気付く。ああ、自分はこうしたかったのだ。彼女と共に在りたかったのだ。それが自分の歩む道と相反する思いだとしても。
「ベアトリーチェを討つまで、貴女と再びこうすることはできない。それでも、行ってくれるか」
アルマの両腕が、ラズリの背に回された。満たされた声で、アルマは言う。
「もちろんです。ラズリ様……。私は……ラズリ様を、お慕いしております」
ラズリはアルマから身体を離した。自分を見上げるアルマの琥珀色の瞳には、迷いが無い。しかしラズリには迷いがあった。今この手で一度でも貴方を望んだら、それはこれから先の迷いになるだろうか、それとも糧になるだろうか。けれど、今この場の2人に選択肢など、一つしかないのだ。
ラズリは自分の唇でアルマの唇にそっと触れる。
躊躇ったのは一瞬だけだ。アルマの髪にくしゃりと指を絡めると、激しく深く自分を沈めていった。
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翌朝。自分の腕の中で静かに眠るアルマの頬をそっと撫でて、ラズリはその柔らかな肢体を抱き寄せた。気持ちを確かめ合ったばかりだというのに、すぐにこの手から離さなければならない恋人。もう一度こうすることができるのは、恐らくずっともっと、先のことだろう。それが果たされるかどうかも今はまだ、分からない。
アルマが身動ぎをした。瞬く睫が、もうすぐこの時間が、終わってしまうということを示している。
数秒でも長く、貴女とこうしていたい……と。満たされれば満たされるほど、ラズリの胸は痛んだ。