「王女殿下。……リューン様。黒魔法が使えないからといって、それほどお気になさることはございません」
「でも」
「黒魔法が使えなくても、リューン様は癒しの魔法が使えるではありませんか」
「こんな宮に1人で居ても、それを役に立てることはできないわ」
「そんなことはございません。いつか、そのお力がきっとお役に立つことがございます」
「本当に?」
「ええ。傷ついた人を自由に癒すことのできる、素晴らしいお力です」
「でも、でも……。私の知らないところで、人は、皆は、傷ついているのでしょう。私……」
「リューン様……。リューン様は、宮を出たいとお思いですか」
「……!……ウィル様、今のお話は聞かなかったことにしてください」
「リューン様」
「ウィル様。お願いです。誰にも何も言わないでください」
ウィルマー・ルイスは、ベアトリーチェの側近に、王女リューンへの魔法の手解きについての報告を行った。その際、リューンが他に比類ないほどの癒しの魔力を持っていることを訴えた、と言われている。そして、一度、宮以外のところを見せて差し上げれば……とも。
恐らく、その進言がベアトリーチェの気に障ったのだろう。
彼はそれから、二度とリューンの元に来ることはなかった。
****
「リューン様。今日より御身の回りをお世話させていただきます。アルマ・ルイスと申します」
「ルイス……?」
アルマの眼の前に、これから、自分が偽りの主として仕えなければならない女性が居た。
黒い髪に黒い瞳。象牙色の肌をした、儚げな姫君だ。
リューン王女。17年間、この宮から一歩も外に出ることなく、外の世界の憂いを知ることなく、狂った自分の母親を止めることも出来ず、王族としての責務を果たさない、幽霊王女。そんな幽霊王女は、アルマの姓を聞いたときに少しだけ顔を綻ばせて首を傾げた。長い黒髪が肩からさらさらと流れて落ちる。
「貴方と同じ姓の方に、魔法を教えていただいたことがあるわ」
悪気の無い一言だったに違いない。だが、悪気が無いだけに、余計にその一言がアルマの心を鋭く抉った。ラズリのために任務に就いたといえど、ベアトリーチェへの憎しみが消えたわけではない。この王女は自分に仕えたものが斬首になったことなど知る由もないのだろう。アルマは出来るだけ感情を抑えた声で言った。
「ウィルマー・ルイスですね」
「ええ。ウィル様。とても分かりやすくいらしたのだけれど、私、どうしても黒魔法が使えなくて」
「私の、兄です」
「まあ。どうりで……紅茶のような綺麗な髪の色が、とてもよく似ているわ」
「兄は、最近こちらへは?」
「いいえ……1年ほど前から、こちらには来ていただけなくなったの。お忙しいのかしら」
「兄は死にました」
「え」
ぎくりとした表情で、リューンがアルマを見返した。伏し目がちで弱々しいと思っていたのに、なんて深い黒い瞳をしているのだろう。アルマはそこだけはっきりと意志を持った瞳に何故か苛立った。わざと、清々しく、言ってのける。
「不敬罪により、斬首で」
リューンがびくんと肩を震わせた。たちまち黒い瞳が水に濡れたように潤む。泣き出すかと思ったが、予想に反してただ瞳を伏せただけだった。両手を硬く握り締め、震えた声で、一言だけ言った。
「そう」
「そう……?」
アルマはその一言を聞いて、自分の血が逆流するかと思った。兄が死んだのを、「そう」というただ一言で済ませる。何故なのかとか、もっと泣き喚くとか、そういった感情は、この王女には存在しないのか。
「兄は……! 兄は、貴方の母親に殺されたのに、……そう?……その一言で貴方は済ませるのですか!? 王族のくせに、王女の癖に、王女という権利を持っているくせに、貴方は何もしない! そのせいでどれだけの人が死んだと思って……!」
一瞬我を忘れた。リューンを罵ったアルマの、憎しみのこもった声に、リューンがひどく傷ついたような顔になった。傷つけばいいのだ。この王女の両親のせいで、どれほどの間、どれほどの人間が傷つき、苦しめられていると思っているのだ。それを止められるだけの地位にありながら、この王女は何もしない。それだけでも罪ではないか。
アルマの口からさらに憎しみの言葉が吐かれそうになる。それを見て、リューンはそっと人差し指を唇に充てた。その静かな所作に、思わずアルマは沈黙する。
「アルマ……。声を押さえて。ここでは誰が聞いているとも分かりません」
「……な……」
リューンのその言葉に、アルマは一瞬で頭が冷えた。リューンの側に居れば、どのような気まぐれでアルマの首が飛ぶとも知れない。それはアルマ自身にもよく分かっていた。分かってはいたが、それでもリューンを罵ることを止められなかった浅はかさに、徐々に冷静な判断力が戻ってくる。リューンがどんな王女なのか、アルマには分からない。命じれば、すぐに自分は殺されてしまうだろう。……覚悟を決めたアルマだったが、意外にも、リューンはそのアルマの強い視線を真っ直ぐに受け止めた。そして、1つ頷いたのだ。
「……アルマ。もう、分かりました」
そう言って綺麗に、だけどとても悲しげに、リューンは笑った。その笑顔に、アルマは面食らい、それ以上は何も紡げなくなった。
****
帝都ヴァイスディアスの雨王宮。
アルマがカリスト王国の宮廷に入って半年。その内情を的確に知らせてくる仲間たちの手によって、着々と宮廷の入れ替わりの準備は進んでいた。あとは、帝国の後ろ盾を得るだけという段階になり、ラズリは父と共に、エウロ帝国皇帝との面会の機会を得たのだ。
「なるほどな。……予定ではどれほどかかる」
「3年を見ております」
「2年でやれ」
「は……」
ディール伯爵が一礼した。相手の言葉は短いが、有無を言わさぬ迫力がある。獲物を逃がさないという明確な意思を持った低い声と、震えを覚える威圧感。皇帝アルハザード。帝位について8年。年齢は30を1つ越し、為政者としての盛りはこれからだろう。魔力も剣も恐らく世界でもっとも強い男と言われている。政治においても、戦においても、年齢や身分に関係なく忠義心と実力で登用を決めるという。内政も柔軟で、公明正大な人物だった。ただし、何事にも容赦のない人と為りは、内外から尊敬と畏怖を込めて「獅子王」と呼ばれている。
「それで、望むものは」
「帝国東、カリスト王国国境の開墾と難民の受け入れを」
「他には」
「他国からの干渉を抑えていただきたい」
「帝国に後ろ盾を要請した時点で、干渉をする愚かな国などなかろうがな」
「それから……カリスト王国出身の人間が数名帰国いたします。見逃していただきたい」
「かまわぬが、その者どもが皇帝の息がかかっておらぬ人間とは限らぬぞ?」
「もとより」
「そのつもりか」
獅子が、ディール伯爵の言葉を遮って不敵に笑う。帝国の息のかかった人間がカリスト王国の宮廷にそれと知って入り込み、国を動かす。完全に内政干渉だ。
ラズリはその会話を横で聞きながら、獅子王から常に放たれる己を試すような視線と言葉に、父はよくぞ堂々としていられると舌を巻いた。無論、自分に口を挟む余地などは無い。
「それで」
皇帝アルハザードは両手を組んでそこに顎を乗せ、微かに笑む。当然、優しい微笑みなどではない。
「貴公らは何を差し出す」
獲物を狩らんとする、獅子の唸り声が聞こえた気がする。だが、それをさらりと受け止めるように、ディール伯爵は真っ直ぐに獅子の瞳を見返した。
「国と、王家を」
カリスト王国、そのものを。その一言を聞いて、アルハザードは満足気に頷いた。
「よかろう」
ディール伯爵は獅子王の決定に頭を下げた。その頭に向かって、さらに低い、獰猛な声が追い討ちをかける。
「ただし、2年で終わらなければ、力で奪う」
力で。……戦で奪うということだろう。
そもそも、帝国が小国への干渉と支援を2年続けた結果、何の成果も得られず、その国から手を引くなどということはありえない。今攻めたとて、勝利は帝国のものだ。だが民を虐げぬよう、戦争によって国土を荒らすのは2年待つ、という、これは温情だ。
手段が異なるだけで、結果は同じ。
ディール伯爵と皇帝が面会し、その同意を得る、……ということは、自分たちの計画が例え成功を納めなくても、2年後にはカリスト王国は帝国のものになる、という決定事項だった。
「では、2年の間は……何があろうとも、支援をいただきたい」
「何があろうとも、か」
「はい。例え叛乱の首謀者が、死んだとしても」
「ほう」
獅子王の群青が、不意に緩まって面白そうにディール伯爵を見た。
「死を覚悟する者は嫌いではないが、どうせならば、叛乱の首謀者として生き恥を晒して俺に仕えよ」
「は……?」
ハッとした顔でラズリは父を見、そして、獅子王を見比べた。ラズリの父もまた、思いがけない言葉を聞いたような表情でアルハザードを見上げている。アルハザードはただ1人、愉快そうな顔をして父を見つめていた。
『俺に仕えよ』帝国の頂点たる獅子王から思いがけず賜ったその言葉は、今は別の国への憂いで動いている男達にとっても、何よりも己を奮い立たせる魅力的な言葉だった。
「2度は言わぬ」
アルハザードがラズリの視線に気付いたように、こちらを見る。
「ディール伯爵か、覚えておこう」
その視線に射抜かれたように、ラズリは思わず頭を下げた。
自国の王とはまったく異なる。同じ為政者であり、同じ権力を持つ者とは到底思えない。自分の内に沸き起こる、これが忠義心というものか。なぜ、「獅子王」と恐れられながらも、この気鋭の王の下に実力を有したものが多く集まるのかが、ラズリには分かる気がした。
****
『どうせならば、叛乱の首謀者として生き恥を晒して俺に仕えよ』
しかし、獅子王のその言葉は、叶えられることは無かった。
ラズリの眼前に、2つの刺客の死体と父の死体が転がっている。
帝国への嘆願書が通り、すぐにでもカリスト王国へと帰国するという直前、父は刺客に襲われたのだ。1人はラズリが殺し、1人は父が刺し違えた。
4人の内、生き残っているのはラズリただ1人だった。
「父上!」
「ラズリ……」
ラズリは必死に治癒魔法を唱えたが、父の消えていく命を戻すことは出来なかった。父はラズリの手を握り、微かな声で何かを訴える。
「父上、しゃべっては……」
「ラズリ聞け。約束を守れ。……国を救え……」
「父上」
「ラズリ……私の身勝手にお前を巻き込んだことを、許せよ……」
「父上……!」
ラズリは拳を握り締めた。
刺客はベアトリーチェのものだ。なぜ、国を苦しめる女が生き残り、国を思う男が死ななければならないのか。
「アルマ……私は……」
この女が支配する魔窟に自分の恋人がいる。不意に、そんな自分勝手な思いがラズリの胸をよぎった。
だがラズリはそれを振り払い、傍らの剣を取る。万が一の場合、父に託されている自分の仕事を実行するために。
ラズリは父の首に、剣の刃を当てた。
****
「ラズリ様が……」
アルマは早足にリューンの宮へ戻っていた。ラズリという男が国に戻って来たという話を聞いたのだ。まだその姿を認めてはおらず、本人から連絡も入ってきてはいない。
だが、噂によれば、ラズリはベアトリーチェに面会して、数人の仲間と共に、たちまちの内に宮廷へと入り込んだという。
ラズリは、叛乱の首謀者の首をベアトリーチェに差し出したのだ。
つまり、ラズリの父、ディール伯爵の首を。
叛乱の内情を知っている全ての人間は、これがどういうことかを知っていた。
ディール伯爵は恐らく、ベアトリーチェの刺客にかかって殺されたのだ。自分に万が一のことがあった場合、ディール伯爵は「自分の首をベアトリーチェに差し出して、帝国に擦り寄る奸臣は討たれた」と報告せよ、と言い渡してきた。それほどの覚悟があったからこそ、ディール伯爵に皆がついてきていたのだ。
そのディール伯爵が討たれた。
そして、ラズリが宮廷へと戻ってきた。
ベアトリーチェは、自分の父を殺して差し出すという背徳的なラズリの行為をいたく気に入ったようで、さらに金を積んだともなれば、単純にラズリらを宮廷に誘い込んだ。
ディール伯爵の死は、宮廷に入り込んでいる仲間たちにとって、大きな礎を失った不安をもたらしたが、さらにそれを上回るベアトリーチェへの憎しみを生み、全てをやり遂げる決意ともなった。
そんな中、アルマはただ1人、恋人を想った。
あの穏やかな人が、どんな思いで、尊敬する父の首をあの女に差し出したのか。すぐにでも彼の元に行って、ディール伯爵を悼む気持ちを分かち合いたかった。だが、今はまだそれを叶えることは出来ない。
アルマは自分の、そんな気持ちを表情に一切出すことは無いまま、リューンの部屋に到着した。
アルマがカリスト王国へ戻って、半年が過ぎた。その間、仇の娘であったはずのリューンは、拍子抜けするほどのか弱い少女だった。リューンは自分の話をすることはほとんどなく、当たり障りの無い会話を交わす程度だ。時々だが、出される食事の内容や、読んでいる本について聞かれることがあった。だが、それも事務的なもので、アルマには何の感情も読み取れない。
数度、夜、ベアトリーチェが訪ねて来る日の方が、アルマは緊張した。だが、そのような日は、必ずリューンは自分に何かしら、長くかかりそうな用事を言いつけ、それが終わるころに部屋に戻ってみると、もうベアトリーチェは居なかった。そのような夜は、リューンは必ず泣きはらしたような瞳をしていて、手が震えていた。アルマはリューンの様子がおかしいことに気付いてはいたが、それを気遣う余裕はなかった。
いや、違う。気遣う余裕が無いと自分に言い訳しながら、リューンから眼を逸らしていた。
初めてリューンに会った日、激昂してしまったアルマは自信を失っていた。リューンを見て怒りを覚えることは、あらかじめ予測していたはずだ。自分は何を見ても、そんな感情の動きを制御しきれると自負していた。それなのに、自分は出会って数分であのような醜態を晒してしまい、そして……リューンはそれに対して何も言わなかったのだ。その証拠に、自分の首は今、つながっている。
だからこそ、ベアトリーチェが恐ろしく、そして……リューンに憐れみを覚えることが恐ろしかった。心を閉ざし、怯えて泣き暮らす仇の娘と思うほうが、彼女にとっては楽だったのだ。
昨晩もベアトリーチェがリューンの元を訪ね、リューンは自分に「もう下がっていいわ」と指示したのだった。ベアトリーチェは恐怖の対象であり、会えば自分の感情が何をするか分からない。自分の立場から考えても、姿を見られぬ方が何かと都合がいい。リューンのその言葉に一礼し、言われるがままに部屋に下がったのである。
「リューン様、おはようございます」
部屋の入り口で、いつものように一礼をして入る。リューンの返事は無い。寝台へ眼を移すと、リューンはまだ眠っているようだった。
「リューン様? まだお休みですか?」
アルマは怪訝そうに寝台の傍らへ歩み寄った。リューンは、早い時間に眼が覚めることがあっても、寝坊したことはなかった。寝ていても、朝、声をかけると必ず「おはよう、アルマ」と返事が返ってきて、起き出してくるはずだ。
嫌な予感がした。なぜか、鼓動が速くなる。
気がつけば、部屋から何の精気も感じられない。誰も居ないような空気感と、息の詰まるような緊張感が部屋を支配している。
「リューン様……?……リュ……」
アルマは眠っているリューンに触れた。
彼女は、リューンは、息をしていなかった。
****
ひとつの死は、大勢の人間の悼みと共に、最後まで狂王への盾となり、剣となった。
だが、もうひとつの死は、その死すら誰にも知られず、宮廷の片隅でひっそりと消えたのだ。