月夜の小話集

[貴方と共に] 004.出発

リューンの裸の上に、気を失ったベアトリーチェの体がしなだれかかっていた。

リューンは自分の身体にシーツを巻きつけて、眼前の女を冷めた瞳で見下ろしている。冷めた瞳の奥に、見え隠れしているのは確かな憎しみと殺意だ。

片方の手には、短剣を持ち、ベアトリーチェの首にかけていた。

「で、」

アルマは呆然とその様子を見下ろしている。

まさかとは思っていた。
まさか、本当にベアトリーチェがリューンの身体を。

ベアトリーチェが部屋に来ると、先触れがやってきた日。信じられないなら見るといい。そう言われて、アルマは不可視の魔法でリューンの部屋に忍び込んでいた。

そこで見た光景に、思わずベアトリーチェに向けてしまったのは、睡眠の魔法と忘却の術。特に忘却の術は相当の難易度だ。咄嗟にとはいえ、一国の女王に自分の魔法を向けてしまったことの恐怖に、アルマは自分の手が震えているのを感じた。

「これ、殺してかまわない?」

恐怖に震えるアルマを、リューンの奇妙に落ち着いた声が呼び戻した。アルマは我に返り、じっとリューンを見つめる。

「私達の仇だよこれ」

「リューン、様」

「殺したい」

リューンの瞳は冷めているようにも見えたが、憎しみだけは熱く燃えていた。数週間前にアルマが見ていた穏やかで寂しげなものとはまったく異なっている。アルマは思わず、首を振った。

「さっさと殺して、終わらせたい」

「なりません」

「なぜ?」

「なりません!」

「……」

殺せば終わる。アルマにもそれは分かっていた。

だが、その終わり方は、ラズリや、死んでしまったラズリの父や、仲間たちの望むものではない。ベアトリーチェはこのように、突発的に王女に殺されてはいけない。ベアトリーチェを憎む者は、この国に多くいる。その者達に見せ付けるように、叛乱により、新しく宮廷を形作るラズリ「達」によって、見せしめのように殺されなければならないのだ。それにベアトリーチェだけを殺してしまっても、彼女の取り巻きが黙ってはいないだろう。すべての人間の喉を同時に掻き切る必要がある。

そして何よりも、幽霊王女には幽霊王女のままで、いてもらわなければならないのだ。

それが分かっているのだろう。リューンはため息をついて、頷いた。

「分かった。後はうまくやっておく。しばらく部屋を出ていなさい」

「リューン様……」

「大丈夫よ。殺さない」

「そうではありません!」

「ああ、分かってる。うまくやるから」

リューンの無表情が、不意に微笑んだ。

アルマは何かを言いかけたが、その微笑に、かつてのリューンを思い出して胸が詰まり、何も出来ないまま隣の侍女部屋に戻る。

幾つかの話し声と、弱々しい儚げな声が聞こえた。やがて、リューンの部屋の扉が閉まる音が聞こえ、護衛の鎧の音と共にベアトリーチェが出て行った気配がした。その気配が遠のいたのを確認すると、アルマはそっと侍女部屋から出てリューンの元に駆け寄る。

リューンは泣きはらしたような赤い目をしていて、アルマは思わずその肩にショールを掛けた。

「大丈夫、何もされていない」

「しかし、お顔が」

「静かにすすり泣きしてたら、満足そうに出て行ったよ」

「ほ、本当ですか」

「本当。……『かわいそうなリューン』だって。……さっさと死ねばいいのに、クソ女が」

「リューン様……」

「アルマ?」

アルマの肩を不意にリューンが抱き寄せた。
子供をあやすように、リューンの手がアルマの背中を撫でる。

アルマは泣いていたのだった。

死んだはずのリューン。それがすぐに息を吹き返し、「龍」という名前の人格に入れ替わったのを知ったのは数週間前だ。

そのときに聞いた、「リューン」と「龍」の物語。

アルマはそれを知ってしまった。リューンがどのような思いを抱えて宮で過ごし、ベアトリーチェに何をされていたのか。アルマは龍から聞かされたのだった。

リューンは、自分に関わったものが出来る限り危険に晒されないように、ベアトリーチェの前では絶対に苦言を呈することなく、大人しく、慎ましく、決して逆らわなかった。少しでもおかしな真似をすると、リューンの周辺の誰かが死ぬから。

幽霊王女でいること。それが、リューンが自分の身辺の人間達のために出来る、唯一のことだった。

『かわいそうなリューン』

ベアトリーチェはそう言ったという。許せない、なんという皮肉なのだろうか。

いや、許せないのは自分だ。自分はなぜ、リューンに対して向き合って来なかったのだろう。リューンの事情を知れば、唯一彼女の味方に成り得たかもしれなかったのに。

こんな風に、死なせることはなかったかもしれないのに。

「ありがとう。アルマ」

「なぜ、ですか」

自分を抱き寄せているリューンが、アルマにお礼を言った。

なぜ、リューンは……いや、龍は、自分などにお礼を言うのだろうか。この人の大事なリューンを見殺しにしてしまった自分に。

「リューンのために泣いてくれてありがとう」

「……!」

「リューンが死んだことは誰も知らない。知られてはいけないし、知られることもない。私が生きてしまっているせいで……だから、誰もあの子のために泣いてくれない。今も、これから先も、誰もあの子のことを思ってくれないし、思い出してもくれない。だから、貴女だけでもあの子のことを思って泣いてくれて、ありがとう」

「龍……様も、でしょう」

「そうね」

本当にそうね。

リューンは静かにそう言って、アルマが泣き止むまで自分を抱き寄せて、背中を撫でてくれていた。

****

ラズリがカリスト王国に戻ってから2年が経った。

その間、ラズリは書簡を通じて、リューンに関わる全ての事情をリューンやアルマとやりとりしていた。

リューンは表向きは相変わらず幽霊王女で、以前にも増して、宮は静かだった。必要以上の人間には関わらず、またベアトリーチェにはひっきりなしに恋人が現れる為に、リューンはほとんどその存在を忘れられていた。ただし、リューンとのやり取りだけを見れば、それはとても幽霊王女というものではない。

ラズリは最初はリューンが信用できるかどうか躊躇っていた。アルマを懐柔したのかとも思えたからだ。だが、痛々しいほどに、自分を囮にする作戦を提案してくるリューンに、徐々にそういった疑いの気持ちも無くなって来た。アルマの報告からも、彼女がすべてを守る為に口を慎んでいることが分かる。

リューン自身、時が経つにつれて過激な作戦や提案もしなくなり、粛清後の内政の計画についてアドバイスなどを進言するようになった。

ラズリは、リューンを襲った傷ましい現実に衝撃を受け、それと同時にアルマを守ってくれていることに感謝をせずにいられなかった。

アルマ。別れたあの日にたった一度だけ、身体を通わせた自分の恋人は、時折宮廷で姿を見かけることはあっても、互いに知らぬ他人のように振舞ってきた。琥珀色の瞳を覗き込みたいという葛藤も、赤みを帯びた紅茶色の髪をこの手に梳きたいという欲望も、全て封じ込めてきた。ベアトリーチェを倒す為に。数度、計画は頓挫しかけたが、それでも仲間たちは静かに臥していた。

王女リューンの、20歳の誕生日のこの日まで。

その日、生まれて初めてカリスト王国の宴席へと出席するリューンのエスコートを許されたのはラズリだ。侍女のアルマによって身支度を整えられた、幽霊王女を迎えに行く。

「リューン様。ご用意のほどはいかがか」

「リューン様のご用意は整っております」

2年半ぶりに交わした、それはアルマとの会話だった。アルマはリューンの手を引き、その手をラズリへと預ける。

初めて、3者が揃った。

互いの強い意志が微かに交錯し、一瞬だけ緊張感を共有したが、それらはすぐに、まるで無かったことのように伏せられた。

ラズリは頑なな文官の顔に、アルマは侍女らしく慎ましく視線を落とし、リューンは不安げな表情を浮かべてみせる。これから起こることを知っているなどと、誰が見ても思えない。周りから見れば、単に義務で王女を迎えに来た文官と、それを事務的に迎えた侍女と、初めて迎える宴席に戸惑う姫君にしか見えなかった。

ラズリはリューンを伴い、アルマをその後ろに従えて、宴の会場へと歩き始める。

****

酒を煽り、次々と倒れていくベアトリーチェの奸臣たち。ここまで上手くいくとは、はっきり言って誰も思わなかった。どれほど腐り、どれほど狂っていたのか。

最後まで毒を飲みきって倒れた貴族と、途中でそれと気付いて逃げようとする貴族達で、宴の会場は騒然となっていた。侍女や侍従を装った魔道師によって、一斉に呪文を封じる術が起動し、あらゆる場所で剣の音が響き始める。その場に居る全員が呪文を封じ込められるほどの無差別の魔法だ。だが、あらかじめそれと知っている仲間達は躊躇うことなく剣を抜き、刃向かおうとする者、あるいはおびえて命乞いをする者を、血に沈めていく。

リューンの足元にベアトリーチェが倒れたと思い、一瞬眼を離した隙に、2人の姿が見えなくなった。直後、部屋から出て行くアルマの姿を見かけ、ラズリは足元に縋る貴族達を蹴り飛ばしながら追いかける。

廊下を走るアルマの後姿、その前に扉の開いた一室があり、そこにリューンの黒髪が揺れた気がした。

まさか、ベアトリーチェを助けるつもりなのではないだろうかと、一瞬、リューンを疑う気持ちが浮上する。

ラズリは部屋に入ろうとするアルマの腕を引いてその身を庇うように下がらせ、室内に飛び込んだ。聞こえてきたのは、狂ったように叫ぶベアトリーチェの声と、どさりと人間の身体が倒れる音。

「皇帝ね……、おのれ、よくも……。……娘よ、お前の力でわたくしを助けなさい。そして殺せ、皇帝を。わが娘よ。あの憎き獣を殺しなさい!」

ラズリとアルマは、倒れたベアトリーチェの手を踏みつけるリューンの姿をそこに見た。

驚愕の顔で娘……いや、今まで自分が娘と思ってきた女の顔を、見上げるベアトリーチェと、それを見下ろすリューン。踏みつけられた手には、解毒剤が握られている。

リューンは、にっこりと笑って言った。

「自分の娘も分からないのベアトリーチェ」

「リューン様……!」

飛び出しそうになるアルマをラズリが引き止める。

「あなたの娘はもうこの世にいない。死んで地獄に行くといい。そしてあの娘に二度と会うな」

そう言って、リューンはベアトリーチェの顔を躊躇うことなく強く蹴り上げた。リューンは昏い憎しみを称えた瞳で、動かなくなったベアトリーチェを冷たく見下ろしていたが、やがて部屋を出て行こうと振り向いた。

そのとき、ラズリは、リューンの昂ぶった黒い瞳から涙が一筋零れていたのを見た。死んだリューンを悼む涙だと、一目で分かった。

ラズリ自身は、死んでしまったリューンに会ったことは無い。だが、彼女もまた、狂った女王の犠牲者なのだ。

黒い瞳が、ラズリの茶色の瞳を見返した。部屋から立ち去ろうとするリューンが掛ける言葉は一言だ。「好きなように始末しておきなさい」ラズリは思わずそれに一礼する。

リューン、いや、龍。

こことは異なる世界に生まれ、ベアトリーチェを殺すためにこの世界に生きることを望み、それなのに、この日までベアトリーチェを生かし、アルマを守り、自国でもない国の有様を憂いた女性。

恐らくは今後傀儡の女王となり、彼女の一生はこの世界に縛り付けられることになるのだろう。リューンは、それを自ら選択したと言うに違いない。だが、それが全てではない。原因の一旦は、確かにラズリ達にもあるのだ。傀儡の女王としての仕事を、ラズリ達はまだ、リューンに望もうとしているのだから。

ラズリは、国が失われた後、自分は恐らく皇帝に仕えるだろうと思っていた。しかし違っていた。自分の仕えるべき主が、今、見えた、そんな気がした。

「リューン様……、ラズリ様」

不意に、アルマの声がラズリを引き戻した。

自分を不安げに見上げる、琥珀色の瞳。ラズリは思わずアルマの腕を引いた。強く抱き寄せ、その紅茶のような綺麗な色の髪に口付けを落す。ずっと、こうしたかった。この手に戻したかった。自分と同じ道を歩むと言ってくれた、それはラズリの大切な恋人だ。

「アルマ……」

「ラズリ様……」

お互いの名を強く呼ぶ心地よい時間は一瞬。だが、その一瞬を、自分達はどれほど待ちわびただろう。

「アルマ……。私は、」

「ラズリ様、私は、」

お互い、同時に何かを言いかけて、言葉が止まる。2人は顔を見合わせた。最初に微笑んだのは、ラズリだ。

「アルマ……、私は恐らくこれからリューン様にお仕えすることになるだろう。それでも、」

「分かっております」

アルマの手がラズリの背に回された。

「私はいつでも、貴方と共にあります。私も貴方と共に、リューン様をお守りしたいと思っております。お許しいただけますか?」

「アルマ、貴方は……」

「ずっと……ずっと、お慕いしております。ラズリ様」

「私も同じ気持ちだ。……ありがとう……アルマ」

再びきつく抱き締めあって、2人の身体は離れた。仲間たちの足音が近づいてくる気配がする。ラズリはアルマを見下ろして、頷いた。

「アルマはリューン様の下へ」

「はい」

アルマがリューンを追いかけて部屋を出て行く。それと入れ替わりに、共にベアトリーチェとその奸臣を討った仲間たちが室内に入ってきた。ラズリは仲間たちに、ベアトリーチェの死を告げる。

この日。

先代の王と合わせて、カリスト王国を30年間苦しめ続けた狂王ベアトリーチェは、ラズリ率いる新宮廷派の手によって斃された。

****

「アルマ、悪いけどお茶を2人分とお茶菓子お願い」

「お客様ですか?」

「いや、ラズリと打ち合わせ。ついでに呼んできてもらえる?」

「かしこまりました」

帝都ヴァイスディアスの陽王宮。皇帝アルハザードの皇妃となってまだ日の浅いリューンだったが、バルバロッサ卿の奥方に皇妃として求められるお作法を習いつつ、騎士団の視察などの公務を少しずつこなしている。今はカリスト属領の施政についての資料をチェックしていた。まだ属領となって1年にもなっていないため、それほど大きな成長があるわけではない。だが、国が失われたというのに、酷く荒れてもいない様子にリューンは満足気だった。

「お呼びですか、リューン様」

リューンの自室に、ラズリが現れた。リューンは資料から眼を上げずに、片手を挙げた。

「ラズリ、カリストの領地はあとどれほどで安定しそう?」

「荒れているという状況は脱しました。当初の予定通り、最初の1年で特別な混乱は収まるかと思います」

「そうね。私も概ねそう思う」

「いかがしました?」

「アルハザードがさ」

「陛下が?」

「落ち着いたら、ユーリル家ではなく、陽王宮の家令に貰えないかって」

「私を、ですか?」

「他に誰がいるのよ。考えといて?……あ、それと」

リューンは椅子から立って、控えているラズリにバサっと資料を渡した。怪訝そうな顔をしながらそれをラズリは受け取る。リューンはラズリの茶色の瞳に、ニマリと笑いかけた。

「アルマのこと、どうするの?」

「……は?」

「私の大事なアルマをこれ以上放っておくつもり?」

ラズリの口がぽかんと開いた。たちまち、その真面目な顔が赤くなっていく。

「リュ、リューン様?」

「私も皇妃になったことだし、気兼ねなく、君達も、ほら」

「リューン様、何を……」

「ラズリ君。分からないと思ったかね。この私が」

「リューン様……」

「ラズリ君、顔赤い」

「リューン様!」

「違う?」

ラズリを常にないほど動揺させているリューンは嬉しげに、少し意地悪く微笑んでいる。主のその顔を見ながら、ラズリは息を吐いて心を落ち着けた。

「違いません」

その返事を聞いて、リューンの顔が花のように綻んだ。全くこの人は。自分のことのように、なんて嬉しそうな顔をするのだろう。主の笑顔を見て、ラズリは諦めたように言った。

「いつ、リューン様のお許しを頂こうかと」

「そう。ならいいのよ」

陽王宮の家令ともなれば、皇帝の家族の一切を取り仕切る役職である。帝都に邸宅を構える事だって、許されるだろう。

「いつでも、歓迎するわ。ラズリとアルマの、2人なら」

「リューン様、どちらへ?」

席に戻ろうとしないリューンを見て、ラズリは首を傾げる。

「忘れたの? これから、バルバロッサ卿のご依頼で神殿騎士団の視察です」

リューンの顔が大層嬉しそうなものになった。

「忘れてはおりませんが、もう少しお時間に余裕があったかと思います」

「それがね、アルハザードが、『バルバロッサ卿がいらっしゃるなら一緒に行くから、行く前に自分の執務室へ一度寄れ』って、昨日の晩言っていたのよ。すごい勢いで言ってたから、多分予定は上手く空けてるんじゃないかしら」

リューンは、アルハザードの言葉の部分をわざと神妙な顔で無愛想に言ってみせる。これは、ものまねのつもりなのだろうか。

「私は聞いておりませんが」

「言ってないもの」

「リューン様……!」

「あ、アルマが今からお茶2人分とお茶菓子持ってくると思うから、2人で食べてね?」

「はい?」

「ラズリと打ち合わせ用にって、頼んどいたから」

「リュ……」

跳ねる様に機嫌よくラズリの横を通って、すれ違うとき、リューンはポンとその肩を叩いた。

「ね、2人とも、ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」

不意にリューンから言われた礼の言葉に、ラズリは次の言葉を完全に逸して、リューンが扉の向こうに消えるのを呆然と見送った。しばらくすると、アルマがお茶の準備をして現れる。

「ラズリ様……リューン様は?……先ほど、護衛の方と共に出て行かれたようですが」

「アルマ……」

ラズリは観念したように、テーブルに資料を置いた。額に手を当てて、アルマを手招きする。

「ラズリ様? どこかお加減でも?」

「いや、違う」

自分の側に来たアルマの、長い髪に手を伸ばす。その紅茶色を指で梳きながら、きょとんとしたままの琥珀の瞳を覗き込んだ。

ここは帝都の陽王宮。

自分達が守ろうと決めた主と、その主が愛する獅子の休む場所。

そして、目指す道を共に歩んでくれる人がここにいる。
私は、貴方と共にあろう。

ラズリがアルマの耳に何事かを囁いた。
恋人の頬がほんのりと染まり、ラズリはそれを心から愛しく思った。