「今日はいるか」
エウロ帝国帝都にある高級娼館のひとつに、紺色の髪に鳶色の瞳の男が居た。対応しているのはこの娼館の女将。年齢不詳のこの女は、娼館の運営の一切を取り仕切っている。男にも、正直この女将が一体どういう人物なのかは分からなかったが、知る必要のないことでもあった。
女将は男の質問に、ああ、と笑って顎で天井を指した。
微かに、弦を弾く音が聞こえる。小さな竪琴の音色だ。男は得心したように頷く。
ここは、帝国の名も無き隠密達がねぐらにしている施設の1つ「華宵の館」
男はナイアと言って、隠密たちの長であるスフと呼ばれる人間の片腕だ。ナイアはスフへの報告事項を持って、ここを訪ねてきたのだ。スフはナイアの予想通り、この館にいるらしい。だが、会えるのはしばらく後になりそうだ。そう思って、ナイアは竪琴の音色が聞こえる方向に視線を向ける。向けたからといって、その竪琴を奏でる主が見えるわけではなく、どこから聞こえるのかは、事情を知っている者しか知る由も無い。一見すれば、娼館に流れる音楽代わりに娼婦の誰かが爪弾いているのか、その程度にしか周囲には分かるまい。
だが、ナイアはその竪琴が聞こえる意味を知っていた。あの竪琴が聞こえているときは、スフは……<影>の長は確かにここに居る。だが、1日彼は出てこないだろう。
その音が聞こえている間が、スフという男に許されている唯一の安息の時なのだから。
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煙霧の女亭。
ここは帝都の富裕層が利用するランクの酒場だ。金さえあれば、身分の高い者でも貴族でも庶民でも、同じ酒の席に着くことができる。貴族に取り入ろうとする庶民や、さらに上の人間に媚び諂おうとする人間にはうってつけの場所で、安酒を飲むような酒場とはまた別種の噂話や煙たい話が飛び交う酒場でもあった。
その酒場のカウンターで、1人の中年の男が杯を傾けていた。
濃い灰色の髪を短く刈り、同じ灰色の瞳は時間をもてあまし気味に酒盃をじっと見つめている。高価そうな服を着ているが、貴族という風ではない。一日の仕事が終わって疲れた金持ちの商人……といったところだろうか。誰かと話すわけでもなく、何かに聞き耳を立てているわけでもなさそうで、ただ、酒を嗜んでいるだけのようだった。その気配は完全に周囲に溶け込み、気に留める者は誰もいない。煙霧の女亭は別に怪しげな取引ばかりに使われる酒場というわけではない。仕事帰りの金持ちの旦那が1人酒を楽しむ姿も少なくなく、男もこうした類の人間に見受けられた。
男の杯が空いた。
店の主が次の杯を促したが、男はそれに首を振り、カウンターに金を置くと席を立った。
別にそのタイミングに合わせたわけではあるまい。……だが、男が席を立ったと同時に、酒場を音が彩った。こうした高級な酒場は、時折人間を雇って、客の耳を歓ばせる音楽を奏でさせる。そうした者だろう。今日、その酒場を彩る音楽は、落ち着きのある竪琴の音色だ。この辺りでは珍しい奥ゆかしい音に惹かれたのか、酒場の喧騒が少しだけ収まる。
席を立った男も例外ではなく、他の客と同様に音色のほうに視線を傾けた。
そこには、ローブを被り、目隠しをした女が小さな竪琴を奏でていた。女を見る男の視線に気付いたのか。主人が杯を片付けながら雑談代わりに口を開く。
「新しく雇った楽師だ。盲目らしいが、旅をしているんだと。帝都に落ち着きたいから雇ってくれないかと言ってきてね」
男はちらりと主人を見たが、何も言わずに店を出た。
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男は酒場を出ると、「華宵の館」という高級娼館へと入っていった。様々な娼婦たちが男たちに色を売るロビーに入ると、男に気付いた一人の娼婦がにっこりと笑ってしなだれかかった。男は何事かをその娼婦に囁く。娼婦は何もかも得たように色っぽく頷いて、花の香りを巻きながら男を誘い、娼館の奥へと消えていく。
男は案内された扉の前で、娼婦の腰に回した手を離した。
扉をくぐり、男は1人になる。
瞬きをひとつするうちに、男の纏う雰囲気が変わる。そこにいるのは、商家の気疲れした中年の旦那ではなく、女を抱く前の色めいた男でもなく、油断ならない鷹のような風貌の男だった。その顔には深い皺が刻まれていて男の年齢を感じさせるが、それは老いという種類のものだけではなく、どちらかというと重ねた経験から来るものであろうことが一目で分かる。濃い灰色の瞳は飛び立つ前の猛禽のように静かで鋭く、周囲の気配をうかがっているようだった。
男はスフと呼ばれている。
エウロ帝国に存在する隠密の集団を統括する男だ。組織に名前は無く、資金は全て帝国の皇帝の私有財産と組織自身が得たもので賄われている。それゆえ、潤滑な資金が動いてもそれが帝国の中枢以外に知られることは無い。こういった類の組織が存在することは予測していても、誰が、どこで、どのように暗躍しているかは、帝国の貴族たちは知る術が無く、法に照らされることなく処理される様々が、この組織によって行われていた。どういった人物が動いているかを把握しているのは、現在帝国の中枢部では皇帝を含めて4人が知っているのみで、彼らはこの集団を<影>と呼ぶ。
華宵の館は、<影>達が掌握している施設の一つだ。<影>の最も大きな隠れ家につながり、館で実際に働く娼婦の幾人かは<影>そのもの。もちろん、組織を知る者もいれば、知らない者もいる。
スフは階段を降り、開けた室内を横切って小さな部屋へと入った。
その帰還を知った<影>の2人がスフを追いかけて続く。
「知れたか」
自分を追いかけてきた仲間の1人に、スフが短く言い放った。
狭い部屋には多くの本や武器らしきものが並び、壁には術式や魔方陣を描いた紙が所狭しと貼り付けてある。スフ……<影>の統括者の執務室は、彼という個人の得意とする魔法の研究の場でもあった。<影>そのものが、その種の仕事に役立つ魔法を極端に研究している集団である。その中枢とも言える部屋のソファにスフを追いかけてきた男の1人が鷹揚に座り、軽い口調で答えた。
「知れた。明日、『煙霧の女亭』に娼婦を呼んだぜ」
「接触してきたのか」
「ああ」
話している男にそっくりなもう1人の男は、壁際に立って腕を組んでいる。
2人の男は、ナイア、ニールと呼ばれている。まるで同じ顔の、双子である。紺色の髪に鳶色の瞳。スフよりも数段若く、鋭い体躯は刃物のようだった。
2人はスフに命じられて、<影>に接触を試みようとしている貴族を洗い出していた。「噴霧の女亭」という酒場に、古い古い方式で主君からの呼び出しが届いたのは数日前。主君にはスフにしか通用しない<影>専用の遠話がある。にも関わらず、このような方式を用いて連絡が来たのをいぶかしみ、スフは自ら皇帝の執務室に直接身を運び、確認してきたのである。主君はもちろん覚えが無い……という。そしてこうも言った。「接触してきたものをあぶり出し、必要とあらば消せ」と。
主君とその主君が選任したもの以外が<影>との接触方法を知ることはあってはならないことだ。だが、そのような接触方法が知れてしまった出所を追及しなくてもよいのか……と問うスフに、主君はどちらでもよい、……と鼻で笑った。
『任せる。既に知れているならば、完全につぶすことなど出来ぬだろう。どうせならば、使え。お前たちに接触しようとしてきた者は、少なからずこの俺に敵愾心を持っている者達だろうからな。……それに、お前達のことだ。ある程度は知れているのだろう』
そのような言い様も予想していたことだ。スフは主君に黙礼すると、館に戻り指示を出した。
接触してきた声に応じ、ニールを遣わしたのだ。姿は見せなかったが接触は出来た。相手は「華宵の館」の娼婦に興味を持ち、その娼婦に指示を出す……という。その様子から、あまり頭のよさそうな手合いではないことが知れた。
「捕らえるのか?」
「泳がせてもかまわんが、出所は掴まねばならぬ」
ふうん……とニールが鋭く瞳を細めたが、ニヤ……と笑ってスフを伺う。ナイアは無言だ。
「……で、明日は誰が行く?」
「<噴霧の女亭>には私が出る」
「へえ」
「ニールは立ち去る人物を追え」
スフ自らが出る……という言葉に、ニールはさらに笑みを深くした。
「即捕獲して、吐かせるか?」
「いや。明日は確認のみだ。見つけて正体が分かっても、手を出すな」
「どうせ殺るんだろ? なら一緒じゃねーか」
「ニール。短慮なことを言うな」
「うるせーな……。いい子ぶってんじゃねーぞ、ナイア」
「なんだと……」
「ナイア」
スフは片手を上げて、ナイアの言葉を制する。話はそれで終わりとなった。
閨事で何かを話すか、黙ったままか……それは、華宵の娼婦の腕による。あるいはニールが追って顔を見るか。拠点が分かれば簡単だ。そこまで上手くいくとは思えないが。
スフが視線を上げた。退室せよ、との合図だ。
ナイアは黙礼して、ニールは肩を竦めてソファから立ち上がると、それぞれ部屋から出て行った。
****
当日の煙霧の女亭も、いつも通りの賑わいだった。程よい喧騒が室内を包み、少し離れれば密談には最適の静けさとなる。
その酒場の2階。
ふわりとカーテンが揺れて、その場に居るのは黒衣にフードを目深に被った男……<影>のスフだ。彼は気配を消していたが、無造作ともいえる所作で2階の廊下を歩いていた。2階の間取りは頭に入っている。狙う人物が取る部屋を確認しておく。物置の隣に位置する、豪奢だが小さな部屋のはずだった。
トン……。
小さな足音が響いて、2階に誰かが上がってきているようだ。足音は1つだった。目的の人間ではない。スフは物置の扉を開け、そっとその中に身を滑らせ……ようとした。そのとき。
「……ああん、待って。旦那さま。もう少し下で飲みましょうよ。誰か居たらどうするの?」
「誰もいやしないさ。ほら。待ちきれない、触ってごらん」
「……旦那様ったら、……待って、もう少し……」
最初に上がってきた者とは別の、華宵の館の娼婦と客らしい男の声が聞こえた。予定よりも時間が少し速い。娼婦が2階にいるであろうスフに、これからそちらに出向くことを暗に言い聞かせているのだ。もちろん、スフが鉢合わせをするような馬鹿な失敗をするはずがなかった。……だが、今は。
……先に上がってきたほうの足音が、止まった。振り向くように、つま先が動く音。声が聞こえてきたほうを伺っているのだろう。……スフは先に来た人間の正体を伺い、それを確認すると。
「……っ!」
その人物が持っていたものごと身体をさらって口を塞ぎ、物置へと引っ張り込んだ。
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2階に上がってきた人間を抱え、スフは物置の奥へと連れて行った。連れて行く予定は無かった。記憶を操作するか、殴って気絶させるか、手はいかようにもあったはずだ。だが、彼はそのどちらもしなかった。
「静かに。何があっても声を立てないように。……約束できるか」
フードの中から聞こえるスフの声は老いているのか若いのか、全く年齢を感じさせない不思議な声色だ。低くも無く、高くも無い。スフが手に抱えている身体は女。白い衣装に白に見える銀の髪。目隠しをしていてその瞳の色はうかがい知れない。女は震える手で、守るように小さな竪琴を抱えていて、口を塞がれたまま何度も頷いてスフに従う意思を伝えた。
その態度に嘘は無いようだったが、吐息の音も零すわけにもいかない。後ろから抱えるように抱き締め、片方の手で口を塞ぎ、そのまま大きな箱の裏へと連れて行き、女の持つものに手を掛けた。……女の手がぎくりと震える。
「取りはしない。音を立てられては困る。こちらへ」
スフの表情はフードに隠れていて全く読めない。ただ、そこから僅かに覗く唇が女の耳元へ寄せられ、冷静に言葉を紡ぐ。竪琴を抱える女の手が緩んだ。彼は女の手からそっと竪琴を抜いて、その細い身体を抱えたまま、少し離れた床に置いた。
その間にも、物置の外からは娼婦とその客の乱れた足音が聞こえる。
「……ああ、丁度いい、ここでやろうじゃないか」
「あ、あ……待って、旦那さま、こんなところでは……。部屋で……というお約束で」
「まともな部屋など使えるはずが無い。……そうだろう? 獣の影がどこにいるとも知れぬ」
バタン……と扉の音が閉まり、物置は完全に密室となった。スフと楽師の女、そして娼婦とその客。互いの存在は互いに知れぬまま、狭い室内で4人。話しているのは娼婦と客だ。客の艶めいた急いた声と、衣擦れの音が聞こえ始める。
「部屋には後で連れて行ってやる。まずはここで、だ」
「あ、後でならば、今連れて行って……。人が来るかもしれないではありませんか……」
「それがいいのだろう。人が来たとて、娼婦のお前を連れていれば野暮な真似はしないだろうよ。せいぜいお前の肌を見せつけてやる程度だ。……さあ、手をつけ……」
「待って……あっ……」
静かな室内には、肌が触れ合う音が響き始めた。その音は徐々に高くなり、やがて大きく打ち付けあうような音に変わっていった。それと共に、娼婦の嬌声が上がる。
「ああ……っ、い、やっ……そんなに……っ」
「全く……華宵の女は噂通り可愛い声を出すことよ。……身の内が焼かれるようだ」
ギシッ……と調度品が軋む音と、肌を打ち付けあう音が激しくなってくる。ちらりと箱の物陰から伺えば、獣のように腰を動かしている客の姿が見えた。女が身動ぎをし、それを抱くスフの腕も強くなる。だが、それ以上は2人とも動かない。息を殺して、潜んでいる。ただ、2人が呼吸するときの心臓と肺の動きだけが互いに互いの存在を伝えていた。
「……ふっ、く……っ、締め付けすぎだ……さすがと言うべきか、出すぞっ……」
「あっ、あっ……旦那様……っ!」
部屋と2人が響かせる音は静まったが、娼婦と客が結合している箇所は最後の余韻を楽しんでいた。娼婦と客の荒々しい吐息が空気を震わせ、部屋の中に独特の淫猥なねっとりとした雰囲気を落としている。
「なんて素晴らしい身体だ……今宵は離さんぞ。さあ、今度は寝台で抱いてやろう……」
「ああ、旦那様……、次は私が……」
「ほほう、それは楽しみだ……」
娼婦と客は睦言を交わしあいながら、物置部屋を出て行った。扉を閉める音が聞こえたが、スフは女を抱く腕は弱めなかった。むしろ強めた。再び口元が女の耳元に寄せられる。
「これはどういうことか、説明できるか」
スフは女の腰ごと、華奢な細い手首を抱すくめている。
掴んだ女の手には、短剣が握られていた。