月夜の小話集

[影たちの狂乱] 褥に休む灰の影

隣の部屋から、激しい嬌声が聞こえ始めた。部屋を移した客が思う様、娼婦を抱いているのだろう。先ほどは物置部屋に誰もいないかどうかを確認したに違いない。もしくは時間稼ぎ……か。いずれにせよ、客は「獣」を呼び、「華宵の女」を使い「可愛い声」を聞いて、「身の内を焼いた」。どれも使われなくなって、久しい合言葉だ。スフは、小さく呪文を唱える。ニール、ナイアに確認した旨を伝えたのだ。あとは隣に居る客が帰る頃合に、ニールが後を付けるはず。

そして、問題は。

スフは、腕の中の楽師の女を見下ろした。

以前、噴霧の女亭で竪琴を爪弾いていた楽師だ。だから、別段2階にいるのはおかしくはない。もし人の気配があるならば、放逐しておくつもりだった。それで客が帰ればまた次の機会になるだけだ。

……だが、視界の端にきらめいた刃の光を捉えた時、信じられないことに、スフに迷いが生じた。華奢な身体と神秘的な銀色の髪、目隠しで塞がれた瞳、そして何より似合わぬ刃を持つその手を見て……スフは咄嗟に物置部屋まで連れ込んだのだ。そうして身体を密着させたまま、娼婦と客の激しい情交の様子を聞くこととなった。

別段その行為に心が乱れたわけではない。スフの心を冷静にさせたのは、常日頃の<影>の長としての精神力もあったが、女が手に持っていたものも一因だった。竪琴だけでも離させようと触れたとき、女の手が震えたのは、竪琴を奪われるからではなく、短剣の存在が知れてしまったためだろう。

スフは女の手首を握り、身体を自分の方に向かせると壁に押し付けた。

「……この刃は、誰に向けるつもりだったのか」

目隠しをした瞳は見えないが、潜めた眉と怯えたような唇の動きで、この女が決して手練れではないことが知れる。スフはこのか弱い楽師の手を包み込むように自分の手を重ねると、指を一本一本外してやった。よほど強く握っていたのだろう。その手は血の気が失せて、すっかり冷たくなってしまっている。やがてすべての指を外すと、短剣を奪い傍らに置く。強くは無いが緩くもない力加減で再び女の手首を押さえ、黙ったままの女に問う。

「聞こえないか」

女は首を振った。普段は美しいのだろうが、今は恐怖で掠れた声で、一言呟く。

「あの、男を」

「殺すつもりで?」

「それ以外に、何があるというのです」

もっとか弱いかと思っていたか、二言目の言葉は存外しっかりとしていた。目隠しをしていて見えない瞳というのは、どこに視線をもって行けばいいのか分からない。自然、言葉を紡ぐ口元を見つめることになる。

「何のために?」

「今の状況と関係が?」

「あの男の、名は」

顔は隠していなかったが、どこの貴族とも知れない男だ。あるいは主は別に居るのかも知れぬ。それならば、ニールが追い詰めるはずだ。女は僅かに首をかしげた。隣の部屋からは、相変わらず激しい嬌声が響いている。

「知らず、見張っていたのですか?」

「質問を許可した覚えは無い」

「……」

女は黙り、やがて唇を動かした。

「ルドリス子爵家の子供の、いずれか」

ルドリス子爵……訊いたことはあるが、それだけだ。気にかけるほどの家系ではなかったはず。良くも悪くも、下の貴族。獅子に歯向かうほどの気概があるような貴族とは到底思えない。

「いずれか、というのは?」

「私には姿かたちは分かりません」

「ではなぜ、その男だと知れた」

「声、で」

「声?」

「私は一度聞いた声ならば決して忘れませんし、いかなる喧騒の中でも区別が付きます。あの男の声が……、酒場で聞こえて。それで……」

「それを聞いて知れた……と」

女は頷いた。

「なぜ、殺そうと」

「今、関係あるのでしょうか」

「それは私が判断する」

女はため息を付き、やがてゆっくりと答えた。

「どこにでもあるような話です。痴情のもつれで、ルドリス子爵の息子の誰かが、私の妹の首を絞めて殺した。……あの程度の貴族であっても、どこの身分とも知れぬ、女1人が死んだことなど隠すのは容易いでしょう。だから……、私が。それだけの話です」

「もともと追っていたのか」

「探しては居ましたが、この身です。帝都で遊んでいる、と訊いて、娼婦の方とその顧客が集いそうな場所を転々としておりました」

スフの手が緩み、ずるりと女の手が下りる。ほっとしたように息を吐き、見えない瞳でスフを見上げた。

「私は、殺されるのでしょうか」

「……」

2人の間に沈黙が落ちる。女を握っていた手の片方は外れたが、もう片方は掴んだままだ。

カタン……と音がして、窓が開いた。スフは女の手を握ったまま、音の主に意識を向ける。

「ナイアか」

「スフ……。その女は……」

その瞬間、ビクッ……と掴んでいた女の手が揺れた。その身が竦んでいることに気付いてスフが怪訝そうに女を伺うと、見えぬ瞳でナイアを真っ直ぐに見つめている。気配が自分に向けられていると知ったナイアも、何事かと女を見た。フードに隠れてナイアの表情も見えないが、もとより目隠しをしているこの女に自分の姿は見えていないはずだ。……しかも、ナイアには見覚えの無い顔だった。

「どうした?」

スフの問いには答えず、女が身体を寄せ……息を吐く。

****

この女も、もともと娼婦だった。

親に死なれ、妹と2人身を寄せ合って生きてきた。自分は小さい頃の熱病が原因で目が見えない。身体に欠損を抱えた身の上では、女は身体を売るより生きていく術が無い。そういう街の出身だった。だが、妹は話術、自分は幼い頃より10年学んだ楽の技があり、男が付くのは早かった。特に妹は人気の婦となり、自分は楽の腕が重宝された。もちろん、目の見えぬという物珍しさからそういう気の男に望まれることも多かったが。

そんな中で、金回りだけはいい貴族の息子が人目を偲んでやってくるようになった。
それほど大きな娼館ではない。娼館というのもおかしいほどの、小さな館だ。だが、質のよい娼婦を抱えているのが噂になったのだろう。普段は高級な娼婦を雇っているらしいこの男に目を付けられたのは、妹だった。

よくある話だ。

気に入りの娼婦が他の男に抱かれているというだけで嫉妬に駆られ、その娼婦を酷く責め、挙句首を絞めて殺してしまう……など。そして、その男が貴族の息子である……という身分を傘に着て、大量の金を握らせただけでその話を揉み消してしまうなど。

女が楽師として帝都に入ったのは、それから3ヵ月後。

最初は娼館に入ろうかと思っていたが、まずは男を見つけるのが先だと判断した。フードと目隠しの風貌、そして近頃では珍しい竪琴の音色。その神秘的な様相に目を付けたのが、煙霧の女亭の主人だ。すぐに雇われ、何日かに1度歌を歌わせてもらえるようになった。定住できれば、元居た街でのように身体を売っても構わないだろう。そう思っていた矢先に、聞こえてきたのが妹を殺した男の声……だったのだ。

そしてもう1つ、聞こえてきた声があった。

領主の息子とひそやかに話す声。酒場の喧騒の中、この女でなければまず、聞き分けることが出来なかったに違いない。

その声が、今、目の前に居るナイアという男の声だった。

****

帝都郊外にある、ルドリス家の別荘が延焼したのはその2日後だ。徐々に炎が回る中、2人の男が向き合っている。

「よく、ここが分かったなあ、ナイア」

「……ニール、やはり、お前か」

「なあ、なんで分かった?」

対峙している2人の黒い影は同じ姿をしていた。だが、片方は軽薄、もう片方は正反対に落ち着いた気配だった。ただ1つ、刃物のように鋭利な雰囲気だけが共通している。

影を呼び出した人間に接触したニールは、接触する以上の動きをしていた。あの日、スフが捕らえた女の話から、それが知れたのだ。煙霧の女亭で、ルドリスの息子と話していたのはニール。内容はほとんど世間話だった。だが、確かにルドリスの息子とニールは邂逅の約束をし、もっと大きな貴族との接触を望んだ。

そして、……それはスフが見当をつけていた通りだった。ニールは<影>の技に酔いしれ、自分の身ごとその技術を売ろうとしていた。その気配を知ったスフは、わざとニールを単独で動かしたのだ。<影>と接触しようとしている人物の調査に派遣されたニールは、組織には黙って自分を売り込んだ。そこまでは、スフが予測していた展開だった。

ニールの危うい考えは、理解できないものではない。自分達の持っている技を使えば、王族の命を握ることすら、不可能ではない。そうなれば世界を裏から掌握することが出来る。ニールはそう考えたのだろう。もちろんそのようなことが、簡単に出来るわけが無い。それでも、だ。

最初に接触してきたのがルドリスの息子だ。軽率で鈍重だが金回りだけはいい、頭の悪い貴族だった。恐らく末端の末端なのだろう。そうした貴族は切り捨てやすく、使いやすい。そして必ず、……利用のしやすさに眼を付ける大きな貴族がいるものだ。ルドリスの後ろに居るのは幾人かの聖職者、そして侯爵家。ニールの狙いはその傘下へ滑り込むことだった。だが、ニールの予想以上に、ルドリスの息子は頭が悪かった。<影>である自分に接触できたのにも関わらず、娼婦を使うとは思わなかったのだ。これ以上頭の悪い動きをされると困る。ゆえに、ニールはルドリスの息子を屋敷ごと消し、貴族との接点を白紙に戻そうとした。もう一度、今度はもっと頭のいい貴族と接触するために。

だが、それほど上手くはいかなかった。

惜しむらくはニールがまだ若かったことだろう。技術は<影>の中でも、ナイアと共に次代の統率者と目されているほどではあったが、その浅はかさは若者だ。慎重で忠実なナイアと異なり、ニールは大胆で野心的な男である。それゆえ、自分の内にある未熟さを認めていなかった。自分の試みはスフの手の内にあり、確証を得るまで泳がされていた……ということなど、彼には到底認めることは出来ず、自分が誘導され、追い詰められていることに気付かなかった。

「スフはお前に『立ち去るものを追え』……と言っただろう」

ニールが笑んだ雰囲気を消した。

「お前がそんな単純な罠に引っ掛かるとは思わなかったがな」

「黙れ」

声を低くしたニールが腰に吊り下げた剣を抜く。それを見たナイアが何も持たぬ片方の手を伸ばした。トン……と床を蹴ったのは、ニールだ。

一気に距離を詰めたニールは、踏み込む一瞬で剣を逆手に持つと柄でナイアの顔面を狙う。腰を落としそれを避けたナイアは袖口からナイフを落として掴むと、自分の上を通り過ぎるニールの喉元を突き上げた。だが、それは避けられる。ニールが身を反転させるとナイアもすぐに身体を翻し、2人は離れて再び向き合った。周る炎の熱気で、それほど距離を空けることは出来ない。

今度はナイアが先に踏み込んだ。踏み込む瞬間に、腰の剣を抜刀する。ギィン……!とそれを受け止めた金属音が響いて、それが2、3撃続いた。

「なぜ、裏切ったニール」

「うるせーな……」

「答えろ」

「……聞いて何になる」

「俺達を拾ったのはスフだ」

「だから?」

言葉を交わしている間も剣戟は続く。一際大きく剣が重なり、キ……と僅かな擦過音が響いた。合わさった刃が擦れて、距離が近づく。

双子のナイアとニールを拾い上げたのはスフだ。ナイアは小さい頃から身に付けさせられた技術と皇帝への忠誠に不満を持ったことなど無いが、ニールは違った。

「お前さ、この生き方以外、考えたこと無いのかよ」

「……」

「ナイア。お前は何のために、スフに従ってる」

<影>として生まれついた自分の生き方に疑問を持つ。ある意味では、ニールの方が人らしいといえた。だが、それが<影>に必要な物かといわれると、そうではない。

再び2人の距離が離れた。

「……組織を離れてその技で身を立てたとて、この生き方『以外』だと、いえるのか。ニール」

しかし、自分達にはどれほどの生き方が残されているのか。身に付けてしまった技術と、知ってしまった忠義を持ったまま他に生きたとて、それが別の生き方だとどうしていえるのか。それならば、その生き方を最大限に昇華する、もっとも適切な場所はどこなのか。ナイアとニールは2人ともその場所を探し、最終的に別の場所に求めるのだろう。

3度、剣が重なり合った。切先を滑らせるように剣を回し、ニールがナイアの剣を押さえるようにその首元を狙う。

舌打ちが聞こえ、双方の動きが止まった。

ニールの剣はナイアの首元には届かず、かた……と後ろに後ずさることによって2人の身体は離れる。腹を押さえているのはニールで、そこには短剣が刺さっていた。押さえている手からは血が滴り、がくりと膝をついて倒れる。

息を吐いてニールを見下ろすナイアの左腕にも、短剣が刺さっていた。それを一息に引き抜いて、床に落とす。

互いの剣はフェイク。短剣が止めを狙っていた。刺し違うかと思われたその2本の片方はナイアの腕が受け止め、受け止めた腕の持っていた片方がニールの腹を抉ったのだ。

ナイアは膝を付いた。ニールの髪を掴み、ごろりと仰向けにさせる。

「……お前の負けだ。ニールラトラルア」

「さあ……、どうかな……」

ニ……と笑ったニールの口の端から血が流れる。鳶色の瞳は炎に照らされ、ナイアではなく……ナイアの背後を見た。

「『華宵の館』から、……目隠しした女が1人来たぜ、スフ。あのクソ息子、部屋に連れ込んだみたいだったが、それからすぐに俺の手が滑って火が回っちまってなあ……どうなったか……」

ケフッ……と1つ、嫌な咳をして血を吐くとニールの言葉が途切れて目を閉ざした。
途端に、天井の梁がバキ……!と軋んだ。炎で焼け落ちるのは時間の問題だろう。

ナイアの背後に立っていたスフが、ニールの身体に近づき首筋に手を充てながら言い放つ。

「ナイア。……脱出しろ」

スフはニールから手を離して立ち上がると、炎の中とは思えないほど無造作に歩いて部屋を出て行く。自分の片割れをその手に掛けたナイアは、覚悟していたとはいえしばしの間呆然としていた。だが、すぐに我に返り、出て行こうとするスフの後姿を振り返る。

「……スフ、……しかしニールは」

「炎の中に捨て置け」

「スフは……」

「行け」

そう言うとスフは扉から出て行く。途端に天井が崩れ、それを追いかけることは叶わなかった。ナイアはニールを炎の中に転がして、振り向くことなく窓から飛び降りた。

****

引き千切られた白い服の合わせを掴み、部屋の隅で目を閉ざした女が1人震えていた。この部屋は館の一番奥だ。盲目の女の耳にも、炎の周る音とざわつく館の音は聞こえていて、何が起こっているかは分かっていた。だが、炎の熱さに足が竦んで動けない。そもそも盲目の自分に炎の中を逃げることが出来るはずが無い。……女は半ば、諦めかけていた。

女がスフの手によって「華宵の館」に預けられたのは、2日前。

スフと2人きりにしてもらった後、ナイアという男とルドリスの息子が話していた……という事実を告げると、そのまま華宵の館まで連れて来られて重ねて事情を聴かれ、大人しくしておくように……と言い含められたのだ。女にはスフとナイア……、華宵の館の女主人が何者なのかは分からなかった。だが、彼らがならず者ではなく、何らかの洗練された人間であるということは分かった。

世には記憶を消す高位の魔法も存在するという。このまま放っておけば、恐らく……自分は、記憶を消されて放逐されるだろう。

だから来たのだ。記憶が消える前に、ルドリスの声を覚えている今の内に彼を殺す為に。

華宵の館から来た……と言えば嘘ではない。ルドリスの息子らの会話を覚えていた女には、帝都の館の大方の場所も知れていた。目が見えぬから……とあまり注視もされていなかったのだろう。しばらくすればスフもナイアも居なくなり、女1人、娼館から出るのはたやすかった。華宵の館は大層高級な娼館らしく、近くにあった辻馬車に告げれば館まで連れて行ってくれたし、そうして、華宵の館から来た……と名乗れば、ルドリスの息子は自分を何ら疑うことなく寝室に運んだ。

目隠しを外され、情事にもつれ込みかけた時、火事の騒ぎが起きた。

隠し持っていた短剣は使われること無く、あっさりとルドリスの息子は自分を諦め逃走した。何も出来ず置いていかれてしまった自分は呆然とするばかりだった。こんなところまで来て、結局は何も出来ずに炎に巻かれて死んでしまうのか。……自分は一体何のために、ここまで来たのだろう。妹の敵に一太刀すら与えることが出来ず、悲しみとも悔しさともつかぬ感情が胸を締め付けたが、光差さぬ瞳からは涙も流れなかった。

女は大きく息を吸う。

炎に巻かれて熱い思いをして死ぬよりも、煙を吸って窒息したほうが楽だろう。そう思ったのだ。肺に混じった気体に頭がふらつく。意識を手放しかけたとき、何者かの足音が聞こえ自分に近づいてくるのに気付いた。誰だろうと思うよりも早く、その何者かが自分の背中に手を這わせ身体を起こさせた。

唇に何かが触れた。

途端に呼気が送り込まれ、送り込まれた気体よりもされた行為にうろたえて、女の意識がはっきりと浮上する。

「な、ぜ?」

「ここを出る。あまり息を深く吸うな」

そう言われて、口元に布が当てられ、片方の手を取られて布を押さえるように言われた。声の主はスフという男のものだ。……年齢を感じさせぬ、不思議な声色の男。女はに顔は見えないが、触れた身体の様子から彼が戦いを生業とする者であることは知れている。スフは女を軽々と抱えた。

「……ルドリスの息子、は……」

「死んだ」

「あなた……が?」

「そうだ」

ニールを雇おうとしていた男だ。<影>を呼び出すことに成功した……と思っていたのだろう。スフの格好を見ると「お前が皇帝の犬か……! 金ならやる、私を助けろ!」……などと叫んでいた。ルドリスの跡継ぎと言うわけでもない。恐らくは火事の責任を押し付けられ、焼けて死んだということにされるはずだ。

「スフ様、……私を、置い、て……」

「少し静かにしておけ」

「自分を置いて逃げて欲しい」……と女が懇願する前に、バサリ……と顔と髪を覆うように何かが掛けられた。自分を抱えたスフが駆けたことを知ったが、それとほとんど同時に、パリン……!と音がして、女の身体を襲う浮遊感が酷くなった。

****

「スフ……あの娘、どうするつもりなの?」

華宵の館の女将が、スフの執務室のソファに腰掛けて足を組んでいた。大きく片方がたくし上げられたスカートからは、美しいしなやかな肢が見えていて、女将の艶を醸しだしている。

「金を持たせて、放してやれ」

「あら、珍しい。それでいいの?」

「何が、だ」

「記憶も消さない、なんて」

「あの女は何も話すまい」

「ふうん」

華宵の女将は、ほっそりとした指を唇にあてて何事かを考えている。やがて、ぽん……と手を打った。舐めるような色めいた瞳でスフを見て、嫣然と笑う。男であれば誘われていると勘違いして頬を染めそうだったが、スフの表情は動かない。

「じゃあ、私が雇おうかしら」

「何……?」

初めてスフの表情が動き、不機嫌そうに眉をひそめた。

「館の娘たちに楽器を教えて頂戴、って頼んだら、快く引き受けてくれてよ?」

「館に置くつもりか?」

「あら、貴方には関係ないのでしょう? あの態度と風貌だもの。目立つのは困るから、表立っては置けないけれど……楽の音に惚れた男でも居れば、部屋に出てもらってもかまわないし。あの娘も、それは別に構わないって言ってたわよ?……それに、事情を知っている女が増えるのは、こちらとしては好都合」

「……」

「ふふ、これも珍しい。貴方が溜息?」

女将が勝ち誇ったような表情でスフを見た。

「しかし、あれは我らの組織とは何のかかわりも無い、ただの……」

「そうかしら。少なくとも人の声を一度聞いたら忘れない、とか、喧騒の中で特定の会話を聞く……っていう特技があるわよ。それに楽器も。竪琴だけじゃあないわ。弦を使うものなら大体使えるそうよ。たいしたものじゃない」

「……」

沈黙したスフをさらに女将は追いかけた。

「記憶を消さないのはなぜ?……ねえ、スフ。拾って見出したなら、最後まで面倒見るのが責任ってもんでしょう」

<影>の長は瞑目して眉間の皺を深くしていたが、やがて目を開けると諦めたように言った。

「楽器を教えるだけにしろ」

「組織の説明は?」

「私からする」

スフは執務机を立った。

****

「華宵の館」では、娘達に歌と音を教える響きが時折聞こえる。笑いさざめく女たちの声に混ざって、弦を爪弾く音は心地よく、練習のものであっても男たちの耳を楽しませて興を引いた。あの楽を教えている者は誰か……と聞くものもあったが、楽の主が出て来ることは無い。それがまた神秘的でもあった。

その楽の音が娘達の習いの声に混ざらず、どのような音にも邪魔されること無く響くことがあった。それは練習ではなく、何者かに聞かせているように丁寧で細やかだ。

盲目の楽師と影の長との間に何があったのか、知る者は居ない。ただ、<影>達は理解している。

竪琴の音色は華宵の館に沈む影と闇を隠す。

その音が聞こえている時間が、獅子の影を統率する男スファトリクルフが、己に休息を許した時間なのだ。