月夜の小話集

[影たちの狂乱] 惑乱の紺

その男は今、追い詰められていた。

黒いローブを深く被り、顔の表情は伺えない。だが、そのローブの下では鳶色の瞳が焦りを滲ませている。

男の名はナイア。

獅子の治める帝国に在って、<影>と呼ばれる隠密組織の人間だ。彼の任務は、陽王宮に住まう主君とその家族を守ること。主君は魔力も剣技も世界で最も強いと言われている男で、彼自身に敵はいない。無論その身分ゆえに誰かに狙われることも多かったが、そのどれもが彼の敵ではなかった。だが6年程前から事情が変わった。主君……帝国の皇帝、獅子王アルハザードが、今は亡国となったカリスト王国の最後の女王リューンを妃として迎え、一心に寵愛するようになったのだ。

自分だけならば護衛など不要だったのだろうが、守るべきものが出来た獅子王は、陽王宮が脅かされることの無いように警護を強化し、闇の守りを配した。それが、ナイア率いる数人の<影>達だ。

ナイアは妃リューンが帝国に嫁してきた頃から、陽王宮の闇を守る任を任されてきた。<影>の統率者であり、自分の師でもあるスフにもその実力を認められた、手練の隠密である。

そのはず、だった。

しかし彼はたった今、陽王宮の庭……白星宮と呼ばれる建物の側近くにある、深く木々の茂った一角に追い詰められていた。ほんの僅かな油断と、一瞬の迷いが彼の命運を分けたのだ。足を掴まれ、両の手首を押さえられ……その視線で捕らえられ、一歩も動けない。

ナイアは対峙した相手を見下ろした。

「おじさん、だあれ?」

1人目の敵は、ふわふわの薄金色の髪とガラス玉のような蒼い瞳で首を傾げ、細い腕で自分の片方の脛にぎゅう……と抱きついていた。

「だめよ、アデル。おじさんってゆっちゃだめって、ヨシュがゆってた」

もう1人の敵は、少しクセのある濃い金髪だ。薄金色の髪の方をたしなめている。ナイアの片方の袖を引いて、「でしょ?」と自分を見上げてくる勝気そうな漆黒の瞳は、誰かを思い起こさせた。

「あやしいやつ。つかまえたぞ、ここでなにをしている」

そして最後の敵は、真っ直ぐで青みがかった黒髪が縁取った顔をナイアに向け、やはりもう片方の袖を掴んでいた。見上げる深い深い群青色の瞳は、既に凛々しさの片鱗を見せている。

「リュカ、あやしいってどういういみ?」

「ミーアはだまってろ。おまえ、ここはちちうえのにわだぞ」

きょろ……とナイアの片腕側からミーア……と呼ばれた濃金髪が顔を覗かせる。もう片腕側からそれを覗き込むように、リュカ……と呼ばれた黒髪が生意気そうに胸を張った。そうしている間もナイアの両腕は取られたままだ。

「もう、ふたりともけんかしちゃだめ。ねえ?」

ナイアの脛を抱えている、アデルと呼ばれた薄金髪が再び自分を見上げて、にっこりと顔を綻ばせた。問いを浴びせられ面食らったナイアが言葉に窮していると、片方の腕が解放されてその代わり、ミーアも足に抱きついてきた。

「けんかしてないもん。わたしもこっちがいい」

もう片方の腕も解放された。しかし、リュカがアデルが抱えている方の足に、アデルと一緒になって抱きつく。

「ミーアなまいき。アデルもちょっととしうえだからってずるい。ぼくもこっちがいい」

両腕は完全に解放されたがナイアは動けない。敵の視線を受けて、どのように動けばいいのかが分からない……など、ナイアには初めてのことだ。6つの瞳が無邪気な視線をこちらに向けてきて、どう反応すればいいのか、手を完全に逸した。

敵は主君の双子の子供たち……息子リュケイオンと娘ウィルヘルミア。そしてその遊び友達である宰相の娘アデリシア。庭で迷子になった彼らに捕まったのが、ナイアの運の尽きだった。

****

そもそもこの3人が庭の奥の奥に迷い込んできてしまったのが事の始まりだ。

アルハザードとリューン、その子供たちと小さな友人アデリシアが、庭を散策していたのだが、夫妻が目を離した隙に3人の子供たちが庭の奥にもぐりこんだのだ。リューンはあわてて探していたようだったが、アルハザードには確かに3人が庭にいることと、要所に配置された護衛が居ることが知れているからだろう。自由に遊ばせておけ、とそれほど心配しては居ないようだった。

このような事態は、ナイアにとっても日常のことだ。アルハザードが居なければ、大体しばらくしてそのあたりの護衛に掴まるし、アルハザードが共に居れば、探索魔法で何気ない風を装って子供たちに追いつく。それまでの間、子供たちが転んだ程度では、ナイアは手出しをしないのが常だった。

……が。

その日はたまたま魔が差した。

並んで歩いていた子供たち3人が、そろいも揃って大きな木の根に勢いよく引っ掛かり、そろいも揃って、すてん……と転がりそうになったのだ。咄嗟にナイアは地面に降り立って、リュケイオンを右手に、ウィルヘルミアとアデリシアを左手に抱えた。

子供たち3人は、助けられたこともよりも、抱えられたことにテンションが上がったらしい。陽王宮では見たことの無い風貌だったことも手伝ったのだろう。ナイアが抱えた子供をそっと下ろして、地面を蹴ろうとした瞬間……リュケイオンに腕をつかまれ、アデリシアに抱きつかれ、ウィルヘルミアにもう片方の腕を抱えられたのだった。

「ねえ、だあれ。かおみえない」

ウィルヘルミアの声に、ナイアは我に返った。

主君の子供たちとその友人の姫君。捕まってしまった以上、このまま放っておくわけにはいかない。早々に主君の元に送り届けなければ。ただその場合、自分の存在を晒すことになる。陽王宮の人間で自分の存在が知れているのは、主君のアルハザードとその妃リューン、そして宮の護衛を任されている護衛騎士隊長のギルバートだけだった。あまり自分が表立って、彼らを宮に連れて行くわけにはいかない。

「……リュケイオン殿下。手を離していただいてもよろしいでしょうか」

「どうしてぼくのことをしってるんだ」

「殿下のことは、この陽王宮の者であれば、誰もが知っております」

ナイアは皇子リュケイオンの手をそっと外させたが、むっとした表情で再び抱きついてきた。この皇子は、父王アルハザードの前ではしっかり者だが、姫君2人の前ではなぜか態度が大きくなる。最近ではどうやらアルハザードの口調を真似するのが流行りらしいが、本人が真面目な分、リューンや陽王宮に仕える人間たちを大いに楽しませていた。

ナイアは真ん中の姫君に視線を移す。

「アデリシア姫、手を離してはいただけませんか」

「どうして?」

「どうして……とは……」

なぜ理由を問われるのだろうか。そもそもこちらが掴まれている理由を聞きたい。アデリシアはきょとんとした、あどけない表情で首をかしげている。宰相ライオエルトの娘で、皇子皇女の遊び相手として、よく王宮に招かれている小さな姫君だ。子供らしく素直で愛くるしい笑顔は、アルハザードすら黙らせる……とはリューン談。彼女はアデリシアを小さな友人……と呼び、娘や息子と共に大変可愛がっていた。

ナイアは諦めたように、皇女ウィルヘルミアに視線を移す。

「ウィルヘルミア殿下。手をはなし」

「や」

「……なぜですか?」

「にげそう」

「……」

選択する言葉の突拍子の無さは、一体誰に似ているのか。ウィルヘルミアは好奇心一杯の漆黒の瞳をナイアに向けていた。小さいながらも言葉達者で、素直なくせに一筋縄ではいかない態度は、よく似たものだとアルハザードを嘆息させた。何をしでかすのか一番分からず、そういうところが目が離せないのだろう。本人は至って大人しいのにも関わらず、周囲をはらはらさせている。

3人3様の子供たちだったが、獅子王とその妃にはもちろん、……陽王宮の皆に一様に愛され大切にされていた。

さて、そんな子供たちを無下に振りほどくわけにもいかず、そもそもこういった相手にどのような態度を取ればいいのかも分からず、ナイアは戸惑うしかない。

「……リュケイオン殿下、道に迷われたのですか?」

「まよったのではない。あそんでいたら、でるところがわからなくなったのだ」

「ええと……それはまよったのではないのかしら、リュカ」

「そうよね、アデル。リュカがこっちへいこうっていったから」

「……すこしみちがわからなくなったのは、わるかったといっているだろ」

ふんぞり返った態度を取るのは誰の影響なのだろう。……だが、リュケイオンはすぐに肩を落として気まずげな顔をした。どうやらこの皇子が2人の姫君を道案内して、迷ってしまったらしい。

「だって、まえにギルとあそんでいたら、ちちうえとははうえがこっちのほうを、たのしそうにあるいていたのをみたから……」

それは追いかけなくて幸いだった。あの夫婦が2人きりでいる場面は、教育上よろしくない。……などという思いが一瞬頭をかすめたが、しょんぼりと視線を落としてしまったリュケイオンの頭に優しく手を置いた。

「では……道案内をいたしますから、手を離していただいても?」

答えたのはウィルヘルミアだ。

「にげない?」

「逃げません、ウィルヘルミア殿下」

その言葉を聞いて、もう1人の姫君が抱く腕を強くした。

「みち、わかるの?」

「ええ。アデリシア姫」

最後に、ナイアに頭を撫でられたリュケイオンが、唇を引き結んで黒いローブを見上げ、きりりとした表情を向けた。

「では、たのんでよいか」

「御意に。リュケイオン殿下」

ローブの中から見える口元を少し緩めて、小さく笑ったナイアは付け加えた。

「ですからその前に、……離していただけませんか?」

暑くてかなわない。

****

「リュカ、ミーア、アデル、どこに隠れているの。出て来なさい」

「リューン。あれを」

アルハザードがリューンの肩を抱き寄せて、視線を庭の奥へと向けた。その視線に誘われてリューンがそちらに瞳を向けると、3人の子供たちが歩いてきたのが見えた。リューンがほっと安堵して肩の力が抜ける様子が、アルハザードの手に伝わってくる。それを感じてアルハザードが思わず抱いた腕を緩めると、リューンが小走りに前に出ようとした。しかしアルハザードは顔を顰めて、再びリューンの肩を引き寄せる。

「走るな。腹に障る」

3人目の子供を妊娠しているのが先日発覚したばかりで、アルハザードは気が気でないのだ。

「アルは心配しすぎなのよ。走らないわ」

「いいからゆっくり歩け」

リューンが抗議するようにアルハザードの手に触れたがそれは外されず、ゆっくりとした歩調で歩くように促される。

「ちちうえ、ははうえ!」

母親と父親に気付いたリュケイオンとウィルヘルミアが大きく手を振り、リューンもアルハザードの腕の中から手を振ってそれに答えた。アデリシアとウィルヘルミアは手をつないでいるようだ。そのアデリシアの顔も、愛らしく綻んだ。

「3人とも、どこに隠れていたの?」

「おかあさま、かくれていたのではないわ、リュカがあっちにいこうっていったの」

「ミーア!……だって、ミーアもアデルもいこうっていったろ!」

「ええっと、……でも、たのしかったです。へいか、リューンさま。くろいひとがたすけてくれて……」

「黒い人?」

それはまた面妖な。アルハザードとリューンは顔を見合わせた。子供たちが「そうだよ、くろいひとは?」……などと口々に言って、元来た道を振り返っている。アルハザードの手を逃れたリューンが、リュケイオンの隣にしゃがみ込んでそっと頭を撫でると、小さな皇子が父親そっくりの群青色の瞳を向けた。

「ほんとうなんだよ、ははうえ」

「そう。どんな人だったの?」

「くろいふくをきててかおがよくみえなかったけど……やさしそうだった」

リュケイオンはリューンの手を離れると、アデリシアとウィルヘルミアと、一緒になって周囲を探し始めた。

「さっきまでそこにいたのに。な、ミーア」

「うん。てをつないでくれてたのに。ね、アデル」

「ね……どこにいっちゃったのかなあ……」

3人は、庭の深い茂みを不思議そうに見つめている。アルハザードは、立ち上がったリューンの隣に並ぶとその横髪に指を這わせて耳に掛け、唇を寄せた。「どうやらヘマをしたらしいな」「え?」……一瞬、不思議そうな瞳でアルハザードの群青を見上げたリューンは、やがて得心したように微笑んだ。「ああ。珍しいわね」

アルハザードはリューンの長い黒髪に指を入れて梳きながら、しばらくの間自分たちの周りをうろうろと探す子供たちを眺めていたが、やがてよく通る低い声を掛けた。

「戻るぞ。お前たち」

「はい、ちちうえ」

「はーい、おとうさま」

「はい、へいか」

獅子王の低い声色にも、動じないのは子供たちだ。リュケイオンはアルハザードの足元に駆けてきて、ウィルヘルミアとアデリシアはリューンの傍にやってきた。その様子にリューンは小さく忍び笑う。「リューンさま?」アデリシアが不思議そうにリューンを見上げて来た。リューンはウィルヘルミアとアデリシアの頭を撫でて、2人に手を差し出した。小さな愛娘はぎゅう……と、小さな友人はそっと、その手を握り返して、連れ立って庭を歩いていく。

3人を追うように、アルハザードがリュケイオンの頭を一撫でして歩こうとすると、小さな歩みが止まった。そっと庭の向こうを伺う息子の傍らで、アルハザードは身を低くする。

「どうした、リュカ。何か気になるか」

「ちちうえ」

「ああ」

「あのくろいひとに、れいをいうのをわすれました」

その言い様には、さすがのアルハザードもふっと笑った。臆すること無く自分を見上げる息子の瞳は、自分と同じだ。アルハザードは片方の腕でリュケイオンを抱き上げて、自分の肩に乗せて立ち上がった。

「ち、ちちうえ!」

もうそろそろ、そういう扱いが恥ずかしくなってきた年頃なのだろう。アルハザードはじたばたと暴れるリュケイオンを肩に乗せたまま、気にしていた庭の方角に向いてやった。

「どうだ、その者が見えるか?」

「……え」

リュケイオンはじっと庭を眺めているようだったが、やがてふるふると頭を振る気配が伝わってきた。

「みえません……」

「また会いたいか。リュケイオン」

「はい」

「お前があの者に会うにふさわしい皇子になれば、あの者からお前に会いに来るだろう」

「ちちうえがよんでもこないのですか?」

リュケイオンは首をかしげた。立派な父王アルハザードが呼びつけて、馳せ参じない人間などこの陽王宮に居るのだろうか。子供の素朴な疑問だった。

「私が呼んで来たのでは、意味が無いぞ」

「あのものにあうにはどうすればよいのですか?」

あれは<影>

皇帝と、その皇帝が信任した者にしか存在を知れぬ者たちだ。リュケイオンも帝国の名に恥じぬ生き方をすれば、いつかは会えるだろう。だがそれには……。アルハザードは表情を緩めたが、わざと声を低くして神妙に言った。

「まずは、姫君たちを連れているときに庭を迷わないようにせねばならんな」

「ちちうえ!」

「返事は?」

「う……。はい……。でもアデルとミーアとみんなでにわをみたいです」

「そうだな。それでは、庭を見るときに姫君たちを守るのはお前の役目だ」

「やくめ?」

「そうだ」

アルハザードはリュケイオンの背をそっと叩いてやった。顔を赤くしたリュケイオンを肩に乗せたまま、リューンの後を追おうとしたアルハザードは、最後にちらりと庭のある1点に一瞥をくれる。子供たちやリューンへと向ける瞳ではなく、帝国の皇帝……獅子王の瞳だ。それは帝国の暗部を支える、忠義な<影>へと頷くように傾けられた。

庭の一際大きく立った木の枝の上に気配を消して佇む<影>は、自らが守る主君が陽王宮に入るまでその後姿を見送っていたが、彼らが宮の室内へと消えるのを見届けた次の瞬間、風に溶けるように姿を消した。