「おとうさま」
「とー」
「違うわ、ミーア、お・と・う・さ・ま」
「お?」
「あうー」
「リュカ、それ違う。おとうさまよ、おとうさま」
「おー」
「まー」
「ありゅ」
「ありゅー」
「だから、『アル』じゃないってば。おとうさまだってば」
きゃっきゃっ……と愛らしい幼児の声が響いているのは、陽王宮の皇妃の室の居間だ。侍女のアルマが側に控えて、子供をあやすための道具などを設えている。いつものように床の上に敷き布を敷いて、ふかふかのその上で月宮妃が2人の子供達に言葉を教えているのだ。リューンはなんとかして2人の子供たちに一番最初に「おとうさま」と呼ばせたかったのだが、どうやら「アル」の方が呼びやすいらしい。このままだと「おとうさま」よりも「アル」を先に覚えそうな危機感だ。ちなみにこの計画はアルハザードには秘密である。
ウィルヘルミアを膝に乗せ、抱き寄せたリュケイオンのお腹をくすぐって笑わせながら、リューンはむむぅ……と悩む。そもそも子供たちの前でアルハザードを「おとうさま」などと呼ぶ人間は居ない。部下達が「陛下」と呼び、リューンが「アルハザード」もしくは「アル」と呼んでいる。だからだろう。アルハザードを「アル」……と認識するほうが早そうだ。
ウィルヘルミアを自分のほうに向けて抱え直し、リューンは自分の唇を指差した。自分を見上げるまん丸の瞳は漆黒で、自分とまるで同じ色をしている。
「お・と・う・さ・ま」
「おとま?」
「そうそう、上手ね。おとうさま」
「おとーま?」
「あともう少し。お・と・う・さ・ま」
「おとーまー」
「ありゅー!」
自分も自分も……と昇ってきたリュケイオンを抱えると、リューンの身体は満員だ。その様子に、リューンはくすくすと笑いながら群青色を覗き込む。
「アルじゃなくて、おとうさま」
「ありゅ」
リュケイオンの口調が楽しくて、リューンが思わず笑ってしまうからだろう。リュケイオンは調子に乗って、「ありゅ」と連呼している。ウィルヘルミアは母親の口元をよく見るからなのか、覚えが早そうだ。それでも、リュケイオンが楽しそうに「ありゅ」と言っていると、ウィルヘルミアにもそれが伝染する。やれやれ。最初に戻ってしまった。
「やっぱり『おとうさま』って言葉、難しいのかしら」
2人の子供をあやしながら、リューンは首を傾げる。その様子にアルマとラズリが顔を見合わせて小さく笑った。
「ご心配なさらなくとも、いずれきちんとお呼びになりますよ」
アルマが主のために小さな砂糖菓子とお茶を用意しながら、柔らかく微笑む。ラズリも頷いて言葉を続ける。
「ご自分ではなく、陛下のことを先にお教えしたいのですか?」
「だって、あの怖い顔がどうなるか見たくない?」
シド辺りが聞いたら卒倒しそうな台詞だな……とラズリは思ったが、もう慣れた。丁重に同意を示して一礼する。
主君のささやかな計画は、果たして上手くいくのだろうか。
****
執務の合間にアルハザードがいつものように、陽王宮へとやってきた。
「リューン」
部屋を横切り、リューンと子供達が遊ぶ敷き布までやってくる。リューンがアルマに頷くと、心得たようにお茶を用意しに下がり、護衛達が少し距離を置く。
アルハザードは敷き布の端に座ると、リュケイオンを膝の上に抱いて自分を見上げるリューンを、息子ごと引き寄せて軽く口付ける。くすぐったげに瞳を細めて、リューンは首を傾げた。
「アル。仕事はいいの?」
「いつも働いているのだ。少しくらい休ませろ」
笑みを含んだ声でリューンの頬を撫で、さらにその指でそっとリュケイオンの柔らかい頬に触れる。そうしていると足の上に温もりを感じた。視線を向けると、ウィルヘルミアがアルハザードの膝の上によじ登ろうとしている。
それを見たアルハザードが片手ですくうように、自分の腿の上に乗せてやる。好奇心一杯の黒い瞳は自分の妃にそっくりで、屈託無く自分を見上げてくる。ふ……と笑って、金色の髪を優しく払ってやると、とろける様に笑われてアルハザードは面食らった。
その様子に、リューンも思わず笑う。
「アルも、ミーアには弱いのよね」
「どういう意味だ」
む……とした顔で、アルハザードがリューンを見返すと、リューンの抱いたリュケイオンが「あはー」と声を上げた。
「ありゅー!」
そして得意げに、アルハザードに向かって歓声を上げる。リューンが瞳を丸くして、護衛達の顔が思わず綻び、お茶を運んできたアルマがくすくすと忍び笑いをした。
「ありゅ」
それにつられたのか、今度はウィルヘルミアがアルハザードに手を伸ばしながら声を上げる。
「ちょっと違うでしょ、アルじゃなくておとうさま!」
「おとまー」
「ありゅー」
「ありゅ」
「もう、リュケイオン。せっかく覚えたのに、ミーアがつられちゃう」
慌てたようにリュケイオンをあやし、ウィルヘルミアの頬をつつくリューンをアルハザードが驚いたように見た。リューンは顔を赤くして、2人の子供達を黙らせようと、揺さぶったり頬をくすぐったりしている。アルハザードは黙ってリューンから視線を外し、2人の子供を再び見下ろした。
リューンがそんなアルハザードをそっと伺うと、……なんとあの獅子が、驚くほど緩い顔をしていた。心なしか頬も赤い。その様子に、お茶を離れたところに置いて下がるアルマが、執務の用向きを持ってきたラズリを押し止めた。
アルハザードがリューンの視線に気付いて、表情を改めた。
「覚えた……とは、何のことだ」
「や、別に」
そ知らぬ風にリューンがそっぽを向いたが、子供達のお喋りの調子は上々だ。
「ありゅ」
「おとーたま」
「それは俺のことか、ミーア」
アルハザードの口元が緩む。
ウィルヘルミアの両脇を抱えて、自分の頭の上に持ち上げた。その高さに、きゃはーとウィルヘルミアが快活に笑って、楽しげに手足を動かす。それを見たリュケイオンが、リューンの手を離れてアルハザードに手を伸ばす。
「やー、ありゅー」
「で、それも俺のことか、リュカ」
「ありゅ」
自慢げな顔で自分を見上げる群青色に、ウィルヘルミアをリューンに渡したアルハザードが、今度はリュケイオンの両脇を抱えて、再び自分の頭の上に持ち上げてやった。またも赤ん坊の歓声が上がり、子供達は大興奮だ。
「お前が教えたのか」
……問われてリューンが再び顔を赤くして首を振る。
「ちが、いや、ちがわ、ないけど。本当はアルって呼ぶはずじゃなかったのよ。おとうさまって呼ばせようと……」
「ミーアはちゃんと呼べていたな?」
アルハザードがウィルヘルミアに話しかける。その様子にリューンが、先ほどまでの照れを忘れて屈託無く笑った。
「リュカもすぐ呼ぶようになるわよ」
「ああ、そうだな。……リュカ?」
「ありゅ」
「おとーま」
「なんだ。ミーア。リュカ」
しかしリュケイオンとウィルヘルミアに返事をしながら、どういう表情をしてよいのか分からないのも事実だ。とんでもなく顔が綻んでいたような気がする。それにしても、自分を呼ばせようとリューンが画策していたのならば、その詳しい話は是非ラズリに聞いてみなければなるまい。
その前に。
「リュー」
アルハザードの甘い声がリューンの名を愛しげに呼んだ。アルハザードの抱えたリュケイオンと、リューンの抱えたウィルヘルミアの上で遠慮がちに皇帝夫妻の唇が重な……
「ありゅー!」
「おとまー!」
その声に思わずリューンが離れる……のを許さず、アルハザードは素早く妃の唇を奪った。
執務の合間に子供達を訪ねるのもいいものだ。