帝国の男たち

蒼い雫に銀の策略

帝国内で最も多くの上位貴族が招かれ、その貴族達が最も緊張する夜の宴。

半年に一度開催される、皇帝主催の夜会。執務宮である雨王宮と皇帝の住まいである陽王宮に挟まれた、謁見用の霧王宮に一番大きく取られた広間と、そこから繋がる広い庭園が会場だ。

その日、多くの貴族達が招かれていたが、それでも人と人の間は適度に距離が保たれている。その中で、最も目を引くのは主催者である獅子のような男であったが、それから少し離れたところでは、獅子とは別の流麗な雰囲気を纏わせて、周囲に目を配る青年があった。

高位の文官の衣装を着て、長い見事な銀髪をひとつにまとめて後ろに垂らしている。周辺で花を振り撒く貴族の令嬢達よりもはるかに美しい立ち姿で、眼鏡を掛けてはいたが、その美貌を抑えるものではない。その眼鏡の奥には、冷ややかな蒼い瞳が見え隠れしている。

銀髪の青年は、ライオエルトという。若くして帝国の宰相を務め、皇帝アルハザードの理を支えている男だ。

彼は上位貴族の令嬢方に囲まれその話題に相槌を打ちながらも、静かに会場に意識を向けていた。

今宵の宴には特別な意味がある。主催者である皇帝から一心に寵愛を受ける月宮妃が、初めて公の場に姿を現す宴なのだ。これまで後宮に3人の妃を迎えながら通わず、夜会で声を掛けることすらなかったアルハザードが、夜毎その宮に通い時を過ごす女性。……その存在は、宮廷からは歓迎されていたが、帝国内の貴族からはまだまだ、嫉妬に近い悪意をもたれているはずだ。

彼女は帝国内の貴族とは一切のつながりがなく、故郷は既に失われている。それでいながら、王族ゆえに公爵という身分を与えられ、帝国内での後見が無くとも皇妃に立つことは可能だ。すなわち、貴族達としても月宮妃に近づく術が無い。もはや媚を売るとか贈り物を贈るとか以外の方法が無かったが、月宮妃がそういった類の面会は全て断っているのは有名な話だった。

月宮妃……リューンは、自分が後宮に入るときですら、後見を立てずに自らの署名で行っている。それはアルハザードの意図でもあったが、リューンが皇妃になろうが子を為そうが、帝国内の貴族で利を得るものは誰も居ない……という状態を生み出すこととなった。

ある意味、アルハザードらしいといえる。

この獰猛で味方をも震え上がらせる獅子王は、忠臣は多かったが、敵も多い。本人も特にそれを気に留めておらず、主君と忠臣、皇帝と領主……という為政者としては、アルハザードらしい振る舞いと付き合いを見せたが、それ以外となると、最低限以上の交流を貴族達と持たなかった。先代から続く皇帝位争いと、それに連なる貴族達の騙し合いに飽いたのだろう。それをフォローするのが、宰相としてのライオエルトの役割だ。あの獅子が貴族に助力を請う姿など想像も付かない。あの姿こそ、獅子王アルハザードという為政者の姿であり、畏怖されながらも民から支持されている所以なのだから。

近頃そのアルハザードが寵愛するリューンの周辺で、不審な事象が起きている。胡散臭い神職者が近づき、図書室で怪我をしそうになり、……そしてアルハザードまでもが、リューンと共に寝所に居るところを襲われた。

当然の動きだ。味方にできぬ孤高の女公爵など、邪魔だという貴族は多いだろう。それに、あれほど寵愛する妃が居なくなれば、その喪失感から新たに寵愛を受ける者が出てくるかも知れない。特に後宮の姫君達にとっては、またとないチャンスになる。

だがアルハザードらもまた、この状況を利用しようとしていた。

今宵、夜会に罠を仕掛けている。
多くの隙を作り、それとなくリューンを1人にした。

上手くいけば襲撃者がリューンを狙い、……闇に潜む影達が、それを狩るはずだ。

****

「ライオエルト殿……」

華やかな貴族令嬢の相手をするライオエルトに、遠慮がちな……だがしっかりとした声が掛かった。ライオエルトが視線を上げると、ギルバートの僅かに焦った瞳とぶつかる。ギルバートはその場を乱さぬように一礼したのみで、身を翻した。ライオエルトはすぐに視線を会場に移す。……リューンの姿が、居ない。先ほどまで、後宮の姫君と何事かを話し、酒杯を取ったところは見た。無論、それを口にした直後に変わらぬ様子も確認した。……その後、薄い色合いの金髪が慎ましやかな後宮の姫……確か、オーガスト伯爵の娘オリヴィア……と言ったか、……その女性と何事かを話していたはずだ。その姫君とリューンが、居ない。

「では私はこれで。……騎士達が、美しいお嬢さん方と話したがっているようです。場所を譲らねば、怒られますからね」

ライオエルトは眼鏡の両脇を押さえて位置を調え、騎士達に目配せをするとその場を後にした。名残惜しそうな令嬢達も、銀髪の宰相からそのように言われれば退かざるを得ない。ライオエルトは完璧な立ち居振る舞いでその場を辞し、会場から中庭に続く廊下へと出た。

ギルバートの姿はすぐに分かった。ライオエルトがその傍らにたどり着くと、2人は無言で頷きあって視線を配る。すぐに目的の人間は見つかった。中庭とそこに出るテラスの境目に、並んでいるオリヴィア姫とリューンの姿が見えたのだ。その瞬間。弾かれたように、ギルバートとライオエルトが走り出す。

視界に入ったのは2人の姫君の姿と、剣を振り下ろした襲撃者だ。その様子にライオエルトの肝が冷えた。

駆けるギルバートと並び、ライオエルトは呪文を紡いだ。攻撃魔法は得意ではなかったが、使えぬわけではない。1撃目はリューンが防いだようだが、恐らくアルハザードの防御魔法を利用したのだろう。2撃目を振り上げる襲撃者にライオエルトが呪文を放つ。剣を抜く音はギルバートだ。そして、ライオエルトとギルバートが叫んだのはほぼ同時だった。

「リューン様!」

その声に襲撃者が怯み、片方が逃げる。そしてあろうことか、リューンは身を起こして追いかけようとした。

リューンを止めようとライオエルトが口を開きかけた瞬間、自分の身体に何かが押し付けられる。思わずそれを受け止め、次の行動が遅れてしまった。ギルバートがリューンを追いかけようとするが、その行く手をもう1人の襲撃者に阻まれ、剣を合わせた音が聞こえる。一瞬でその敵は死の淵に沈み、腕の中の何かが震えたことが知れたが、それを認識する前にライオエルトとギルバートは再び叫んだ。

「リューン様、なりません!」

思いがけないリューンの行動に、ライオエルトは舌打ちしそうだった。なんということをしでかすのか。追いかけようとしたが、すぐさま、異様な魔力の流れと息の詰るような気配に気付いた。腕の中に抱える何かも、震えて身体を強張らせる。

一瞬でその場を支配する濃密な王者の魔力。
今にも飛び掛りそうな肉食獣を思わせる気配。

気が付けば、ライオエルトの視界の端にアルハザードのマントが翻っていた。その行方を目で追いかけると、アルハザードがリューンの身体を後ろから抱えている姿が見える。その様子から、リューンの身が無事であることが分かった。

「……ご無事だったか……」

はー……とライオエルトが息を吐き、ギルバートに向けて頷く。先ほどの襲撃の緊張感が嘘のように静まり返り、ライオエルトの気持ちも常と同様に落ち着きを取り戻す。そこでやっと、腕の中の存在を見下ろした。

榛色の瞳の端に涙を滲ませ、恐らく敵の襲撃と死の匂いに怯えているのであろう……身体が寒さではなく震えている。不意に、その榛色が自分を見上げた。

その、あまりのか弱さにライオエルトは思わず腕に力を込める。しかし、声は平静を保ちながらゆっくりと言った。

「……オリヴィア姫、ですね」

腕の中の榛色がゆっくりと頷き、唇を動かして震えた声を紡ぐ。

「あ、の……これを……リューン様は……」

オリヴィアが差し出したものを見て、ライオエルトは厳しい表情を見せた。白いハンカチに付着する血痕。少し光っているのは何かの破片か。ライオエルトはオリヴィアに向けて頷く。

「リューン様はご無事のようです。……それは貴女から、陛下に」

オリヴィアは真面目な顔で頷いた。

****

リューンらから事情を聞いたアルハザードは、今までに部下達が見たことの無いような切実な表情を浮かべ、そのまま妃を抱いて月の宮に下がった。聞けば、リューンは自分の身をわざと危険に晒し、証拠のために自分の身をわざと傷つけるような真似をしたという。王族の姫君とは思えない行動に、ライオエルト達は言葉を失った。

部屋の空気が重く、誰とも知れず溜息を付く。だが、こうもしていられない。この場を収拾し、次の手を取らなければなるまい。

「オリヴィア姫」

次の手。……ライオエルトが沈黙を破って呼んだのは、この場に居る唯一の女性。オリヴィアの名だ。室内の全員の注目を感じながら、ライオエルトは眼鏡の位置を直した。

「失礼なこととは承知の上で、……敢えてお願いしたいことがございます」

「……私に出来ることならば。なんでしょうか」

小さな鈴の鳴るような声だと、ライオエルトは思う。空気混じりのその声は、リューンやバルバロッサ卿の奥方のような張りのある声ではないが、真綿のような柔らかさだ。

「今宵の襲撃について、貴女にお聞きしたいことがあるのです」

「はい」

「……質問する際に、魔法を使っても?」

「ライオエルト、それはあまりにも……!」

シドが声を荒げる。ライオエルトは、アルハザードと共に剣や魔法を学んできた友でもある、シドに向かって頷いた。

オリヴィア姫は伯爵位にある上位貴族の令嬢だ。そして後宮の妃でもある。そのような身分の人間に対して「嘘を許さぬ魔法」を使う……というのは、よほどの事が無ければ為されない。嘘や迷いが許されぬ質問など、普通の人間には酷なことであり、相手が貴族ともなれば不敬にもあたる。確定的な証拠があるならば別だが、それならば魔法を使う必要が無い。

それをライオエルトは、このか弱いオリヴィアに対して行おうとしている。シドが慌てるのも無理は無かった。そのようなことがオリヴィアの父親であるオーガスト伯爵にでも知れれば、まず間違いなく抗議を寄せてくるだろう。いくら相手が無血宰相ライオエルトであろうとも。

無血宰相。これがライオエルトの2つ名だ。

雷将シドと並び立つ、アルハザードの忠臣らしい公明正大な振る舞いの文官だったが、情報を得るためならば容赦が無かった。それが最善となれば、魅了の魔法も挑発の魔法も躊躇い無く使う。無血宰相という2つ名は、血も涙も無い……という意味もあったが、剣を使わずに敵を倒すという意味も込められているのだ。

そうしたやり方を、何の力も持たない、ましてやリューンと共に危ない目に遭ったオリヴィアに対して行おうとしている。もちろん、そういった自分のやり口が、この子リスのようなオリヴィアにどのような心理的影響を与えるか……というのも、ライオエルトには分かっていた。それでも、なお、それを行う。

断られ、怯えられても仕方が無いと思っていた。それほどの魔法なのだ。だがオリヴィアは微笑み、頷いただけだった。

「はい」

……と、ただ一言。

「大丈夫です、ライオエルト様」

少なからず、ライオエルトは驚いたが、その表情を表に表すことなく、隣に座るオリヴィアに身体を向けた。

「では、失礼します」

ライオエルトはそっとオリヴィアの頬に指で触れると、呪文を唱える。

「あのワインはオーガスト伯爵領地のものですか」

「はい。私の知る限り、帝国内でイチゴを使ったワインを作っているのは父の領地のみです」

「……では、去年の銘柄というのは本当ですか?」

「私にはそう思えました。……ですが、私の舌がそう感じただけですので、出来ればボトルを調べるべきかと思います」

シドとギルバートが心配そうに2人のやり取りを伺っている。だが、それは証人にもなり得るだろう。ライオエルトは続けた。

「リューン様のグラスに入っていたガラスの欠片に、覚えは」

「ありません」

オリヴィアが瞑目し、はっきりと首を振る。

「では、今宵の襲撃者に覚えは?」

「ありません」

今度は、まっすぐにライオエルトを見据えて言った。その視線を受けてライオエルトも一瞬目を閉じ、頷く。……長く息を吐いた。いつの間にか、かなり緊張していたようだ。このような場で緊張するなど、ライオエルトには珍しいことだった。

「……ご協力、感謝いたします」

「いえ」

こうしたやり口は気に入るものではないだろうに、オリヴィアはふわりとした微笑みをライオエルトに向ける。なぜ、このような振る舞いをした自分に対して、この姫君は優しい微笑を向けるのか。……自分のやり方を自嘲しそうになったライオエルトは、オリヴィアの笑みに酷く安堵した事に気付いた。