【月宮妃、お手に怪我を】
たとえばこんなことがあった。
アルハザードと並び、リューンが書類に目を通している。
近々、帝国騎士団と神殿騎士団、合同で行われる訓練を兼ねた騎士試合が行われる。その内容を見せてもらっていたのだ。枢機卿のバルバロッサにひとしきり内容を説明してもらったリューンは、興味深そうに書類を捲る。
「いろいろな競技があるのですね。危なくないのですか?」
「かなりの規模ですからな。もちろん怪我人は出ますでしょうが、救護班も控えておりますから心配いりませぬよ」
「救護は私もお手伝いできるでしょうか」
救護を手伝う……と言い出したリューンに、バルバロッサは穏やかな瞳を見せて優しく言い聞かせた。
「いや、リューン殿に治療していただければ、騎士達も舞い上がるでしょうが、今回は皇妃としての役割に専念していただきたい」
「そうですか……」
「当たり前だ、リューン。それにお前が治療せねばならんほど、酷い怪我人は出さん。武器は全て模擬剣で行うからな」
少しばかり心配そうに表情を落とすリューンの背を撫でて引き寄せながら、アルハザードが答える。「それに……」と、アルハザードの声が耳元で甘くなったときだった。
「あいたっ」
「リュー?」
「手ぇ切った」
紙の端で指先を切ったのだ。アルハザードが顔を顰めて、リューンの手を取る。だが、リューンは常に無い抵抗でアルハザードから離れようとした。常日頃のリューンの態度から見て大人しくしているとは思わなかったが、アルハザードも面白く無い。
「見せてみろ」
「大丈夫よ、このくらい」
「血が出ている」
「そりゃ、切ったんだから出るわよ。ちょっと離して」
「治してやるから貸せ」
「いいって」
「なぜ」
なぜって。
リューンが先日、針で指を突いたときにうっかり言ってしまった「舐めといたら治るわよ」という台詞が、アルハザードのお気に入りだったからである。その時はアルハザードが「なるほど、舐めれば治るのか」……と言って、有無を言わさず指先を口の中に入れた。(ただし、アルハザードの名誉のために付け加えておくと、魔法の力を使って舐めて治した)
「なめ」
ほらみろ。不穏な言葉を言いかけたアルハザードの口を、リューンはもう片方の手で慌てて塞ぐ。
「あーーもーー! 大丈夫! 大丈夫だから!」
「貸せ」
「やだ」
「いいから」
「いい、自分で治す」
「待て待て」
……などという攻防を続ける獅子王と妃を眺めていたバルバロッサが、ひょい……とリューンの怪我をした手を取った。
「月宮妃、お手に怪我を」
バルバロッサが丁寧にリューンの手を取って小さく呪文を唱えると、きゅ……と指先を握ってみせた。魔力が通って、傷がすぐにふさがる。
「バルバロッサ卿!」
アルハザードが抗議の声を上げたが、完全に無視。バルバロッサは熟年の紳士の笑みでそのままリューンの手を持ち上げ、洗練された騎士の所作で手の甲に軽く口付けた。
「これでよし。……淑女の御手にお怪我は似合いませぬな」
「あ……、あの、あの……、ありがとうございます……」
「いやなに、役得というものです」
珍しく声を詰まらせ、挙句、見たことも無いほど盛大に頬を染めた初心な表情のリューンに、バルバロッサが大きく笑う。そんなリューンを見たアルハザードが、真紅の騎士から妃の手を奪い、むっとした顔でその身体をきつく抱き寄せた。
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「……っていう現場を見せられたら、もうどうすればいいんですか!」
「ああ。そうだな」
「ギルバート殿、聞いてます!?」
「聞いてる聞いてる」
久々にヨシュアと仕事の後の一杯の誘いに乗ったギルバートは、ため息をついた。
アルハザードとバルバロッサのリューンを挟んだ睨みあいは、常にバルバロッサの圧勝である。ただ、それを見ている部下達の目には、やはりどう考えても主君夫妻が仲良くしているようにしか映らないのであった。
ゆえに、こうしてヨシュアのボヤきを聞くことになる、のである。
まあ、たまにはいいか。