エウロ帝国の霧王宮の一室で、燃え盛るような赤と、静かで冷たい藍の影が重なっている。片方は白に近い灰色の騎士服に身を包んでおり、武人でありながら神の徒である神殿騎士の身分にあることが伺える。もう片方は黒を基調とした、伝統的な帝国騎士の衣装で……特に護衛と一目で分かる腕章をしていた。
地味になりがちな神殿騎士の装いを鮮やかにしているのは赤い髪、帝国騎士の華やかな様子を落ち着けているのは藍色の髪。藍の騎士はその身体の曲線から、女性であることが知れる。
赤と藍の身体が離れた。
唇が重なっていたのだろう。絡まりあった視線は熱を帯びていて、混ざり合った吐息は甘かった。……しかし、それも次の瞬間には解ける。赤の騎士が苦々しい顔になり、藍の騎士から顔を背けた。
ただ、背けた顔が藍の騎士にもう一度向けられたときには、その表情は不敵な笑みに変わっていた。
「やはり、私は貴方にはふさわしくない。コーデリア殿」
「……」
コーデリア……と呼ばれた藍の騎士の、凜とした深い……やはり藍色をした瞳が怪訝そうに揺れる。
「私では貴方を幸せにすることは出来ない」
「……」
藍の騎士……コーデリアの瞳は一片の隙も無く、赤の騎士の薄い色目の琥珀の眼差しを伺っている。嘘など許さぬ……というその強い光に気圧されるように赤の騎士の表情が揺らいだが、それでも……淑女をエスコートする直前の紳士のような一瞥をくれた。
「……だから、もう」
「バルバロッサ」
そんな赤の騎士の言葉を遮るように、コーデリアの毅然とした声が名を呼んだ。
「……嘘を付くな」
「コーデリア」
「貴方が私にふさわしくないかどうかは私が決めるのだ。だから、」
バルバロッサ……と呼ばれた騎士が面食らったような顔をした。その表情に笑みすら浮かべず、コーデリアは淡々と追い討ちを掛ける。
「神に嘘を付いても、私には嘘を付くな。バルバロッサ」
「……」
その言葉に、神殿騎士……神に仕えているであろうバルバロッサと呼ばれた騎士の表情から、どこか演技めいた不敵さが消えた。そうして、この男の本来の表情であろう自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「貴女には敵わないコーデリア。……神に仕える私に、そのような言葉を吐くとは」
「そう思うなら嘘をつくなと言っている」
「……なぜ嘘だと」
「本気で私と離れたいのであれば、そのように苦しそうな顔はしないだろう」
バルバロッサの顔が驚いたものに変わる。同時にコーデリアの顔に切なげな表情が浮かんだ。それはバルバロッサの瞳を優しく捕らえ、労しげに傾けられる。
「私に触れたくないならそれでも構わない。嫌っているならばそう言え。だが、すぐに分かるような嘘を付くな、バルバロッサ」
「すぐに分かる……か」
バルバロッサは表情を消し、片手を持ち上げコーデリアの頬に触れた。なめらかな頬に指を滑らせる。
「嘘ではない」
「何が、嘘ではないのだ」
「貴女を幸せに出来ないことが、だ」
「理由は?」
……一瞬、バルバロッサは躊躇った……が、今度は瞳の下に皺を寄せ、狡猾にも見える表情を浮かべた。
「私には子種が無い」
コーデリアの瞳が見開かれる。予測していた反応に、自嘲気味に鼻を鳴らす。
「……だから、貴女に子を授けることが出来ない」
それゆえ、バルバロッサは神に仕える騎士という職を選んだのだ。
****
バルバロッサ・トゥールーに子が出来ない……というのは、少年の頃にかかった病が原因だ。もちろん数を撃って試した……というわけではないが、そのような症状で知られる病であったため、両親は早くからバルバロッサに後継を期待するのを止め、トゥールー家の存続を諦めた。歴の長い武家であったが、武家らしい潔さでもあった。ただ、せめて武家の最後の1人として、それらしい職務を全うして欲しいと願ったのだろう。バルバロッサが神に仕える神殿騎士という職務を選んだときも、それならば……と納得した。神殿騎士は独身でなければならない……というわけではないが、求められる高潔さのために独身の者も多かったからだ。
若くして司祭の位も得、神殿騎士としての地位も固まりつつあったバルバロッサは、燃えるような赤い髪に、表向きは、神殿騎士という職に忠実な敬虔な態度もあって、多くの女性に慕われている。本来ならば自重すべきところだろうが、女に事欠いたことも無ければ、苦労したことも無い。ただ、その体質のために婚姻に向ける気持ちは避けていた。女性とただならぬ仲になれば結婚を迫られたりもしたが、そうなってくるとバルバロッサは逃げるのだ。「あなたの魅力を前にしてしまうと、神殿騎士としての職務を全うできぬ」……とでも囁いて、後腐れることなく。
決して高潔とはいえない態度だったが、複数の女性を同時に相手にしたことなどは無く、道を踏み外すようなこともしていない。帝国の教会を守り、神の徒として戦いに赴くことを厭うことは無かったし、魔法の技も剣の腕も皇帝以外並ぶ者の居ないほどまで高めた。騎士が極める道としては悪くない地位が与えられている。十二分すぎるほどだ。……ただ、男として女を幸せにすることだけが、彼には出来ない。その思いは、決してバルバロッサを女性に対して本気にさせなかった。
コーデリアもそのような女性の1人だったはずだ。
後宮には、現在、側室が1人だけ居を構えている。その護衛として常に側にいるのがコーデリアだ。皇帝の友人でもあり神職者でもあるバルバロッサは、よく連れ立って後宮である白星宮に顔を出した。その伝手でコーデリアと出会い、どちらからともなく声を掛けたのだ。
最初は色めいたものは無く、どちらかというと事務的な態度で互いに接していた。そもそも、コーデリアの目には神殿騎士でありながら、女性に人気のバルバロッサが軽薄に見えたのだろう。バルバロッサがふざけて声を掛けても、最初は全く相手にしなかった。
コーデリアは剣の腕も然ることながら、その辺りの男よりも騎士らしい振る舞いが清々しい女性だ。バルバロッサはそこを好ましく思った。女性なら誰もが喜ぶような口説き文句など彼女には通用しない。だから手を変えて、剣を合わせたり武勇の話を聞かせたりして、徐々に打ち解けた。時折、いかにも女性が好むような品物を送ってみせれば頬を染める様子が常ならず可愛く見え、騎士として相対すれば油断なら無いその男勝りの態度が勝負心を煽る。そうして解かした心を、身体と共に手に入れたとき、……バルバロッサはしまった、と思った。
手に入れれば自分の心は満足し、それで終わりかと思っていたのにそうではなかったのだ。
今までは、女性には自分から別れを告げていた。他の男と幸せをつかめばよいと願った。……だが、コーデリアに対する自分の思いは全く違っていた。自分では彼女を幸せにすることは出来ない。しかし、そうなればコーデリアはいずれ自分以外の男のものになるだろう。当たり前のゆく末に、これまでになく身が焦げた。今まで付き合いのあった女性には感じたことの無い感情、いや……そうなる前に閉ざしてきた感情だった。気付いたときには、もう遅い。神に祈ったところで、この焦燥が消えるわけではなく、距離を置いたところで、コーデリアはすぐに追いつく。
「子が出来ない?」
「そうだ」
「だから?」
「だから、私では貴女を幸せには出来ない」
「ああ」
そういうと、コーデリアは優しく笑った。なぜこのようなときに、このように笑うのか。バルバロッサにはその意味が分からず、ただ戸惑った。表情を隠すための不敵な笑みも、感情を押し殺すために女に向ける微笑も、コーデリアの前では意味を為さない。
「つまり、バルバロッサは私と子をなす程の仲になることまで、考えていてくれていた……というわけか」
「な……」
「違うのか?」
違う、いや、違わない。
二の句が告げないバルバロッサに、笑みを引っ込めたコーデリアは急に心配そうな顔になって首を傾げた。
「バルバロッサ。……身体は大丈夫なのか?」
「……? それは、大丈夫だが」
「そうか、それならいいんだ」
「コーデリア」
「それで、子が出来ぬから私は幸せになれぬ……と、貴方は言いたいのか」
長い沈黙が落ちた。コーデリアの率直な言葉は、少なからずバルバロッサの心を痛く刺す。そうだ。自分以外の男であれば彼女に子を授けることが出来るだろうし、そもそも、コーデリアのような貴婦人教育を受け、側室の護衛を任されるほど皇帝の信任も厚い令嬢に、子を期待できぬ未来を持たせてはいけない。バルバロッサは、苦い笑みで頷いた。
「……そういうことだ」
「ならば、私が幸せになるには子が必要ということか」
「貴女のような淑女には、そのような未来が必要だろう」
「そうか。……分かった」
バルバロッサがコーデリアを見下ろすと、コーデリアは真摯な瞳で自分を見上げていた。彼女は「分かった」と言った。バルバロッサは僅かの安堵に息を吐く。愚かな期待を抱かず、よかった。コーデリアが自分を求めるなどという幻想を、抱かずよかった……と。
だが、バルバロッサは甘かった。
コーデリアが、不意に笑って……バルバロッサを煽る、あの男勝りの笑顔で……言い放ったのだ。
「では、勝負しよう」
「……何?」
「私が他の男と幸せになったら貴方の勝ち。貴方が私と幸せになったら私の勝ちだ」
「何を……」
「そういうことだろう、違うのか?」
「違うだろう!」
「違わないさ」
コーデリアはバルバロッサに何の未練も無いかの如く、くるりと身を翻して身体を離した。
「負けたくなければ、せいぜい私が幸せになりそうな男を見つけて、けしかけるんだな」
コーデリアらしいとしか言いようのない勝負の内容だった。呆気にとられたバルバロッサを残して部屋を立ち去ろうとしたコーデリアを、慌てて引き止める。
「待て、コーデリア。……お前は……」
「何だ?」
「分かっているのか? 私は……」
バルバロッサが言いよどんだ様子に、コーデリアが僅かに俯いた。苦しげな表情を見せたのは、バルバロッサを気遣っている瞳だ。
「貴方が……これまで、どういう思いを抱いてきたか……私は、できればその力になりたいと思う。……けれど、幸せになるかならないか……という話は別問題だ。私の幸せは私が決める」
苦しげな瞳は、後半……気を取り直すように改められた。コーデリアは掌をバルバロッサの頬に当て、得意げな顔で笑ってみせる。
「本当にバカな男だな、バルバロッサ。私と別れたければ、私を嫌えばよかったのに。……だが、そうではない以上、私はいつだって貴方に勝負を仕掛けるよ」
そう言って、今度こそ……コーデリアはバルバロッサに背を向けた。触れた手のぬくもりは一瞬だったのに、それが失われるのが苦しい。その手を追いかけるようにバルバロッサがコーデリアを視線で追いかけると、見たことも無いような切なげな横顔が見えた気がした。思わずバルバロッサは駆け寄ったが、その目の前で扉が閉ざされる。
閉ざされた扉をただ見つめながら、バルバロッサは小さくつぶやいた。
馬鹿げたことだ。
……こんな見え透いた勝負など……。
「勝てるはずが、ないだろう」
バルバロッサは拳を握り締めた。
嫌えばよかったのに。
そんなことができれば、これほど苦悩はしないのだ。
****
剣を合わせる音が響き、時折歓声が聞こえる。帝国騎士団の鍛錬場に神殿騎士が招かれ、合同の練習試合が行われているのだ。練習試合といっても、神殿騎士と帝国騎士、それぞれから数名の代表が出場して勝ち抜けさせる本格的なものだ。盛り上がり方はかなりのもので、騒ぎを聞きつけた皇帝までもが姿を現し、場は一気に高揚する。
次の試合の場に降りたのは、神殿騎士のバルバロッサ。そして帝国騎士の護衛隊からコーデリアだ。謀られたような組み合わせは、一体誰が仕組んだのか。……バルバロッサはちらりと、皇帝の方を見やる。年のころはバルバロッサとあまりかわらぬ、友たる皇帝がニヤリと笑いながらこちらを見ていた。彼はバルバロッサとコーデリアの仲を知っている。だが、コーデリアから持ち掛けられた勝負のことは知らないはずだ。ほんの悪戯心で、この勝負を命じたのだろう。小さく舌打ちをして、相対するコーデリアに視線を向ける。
あれから2週間が経った。焼け付く胸の痛みを持て余して落ち着かぬ自分と比べ、コーデリアは腹立たしいほど普通だ。無視されるならばまだいいが、視線が合えば会釈を施し、不自然に避けることも無い。かといって、特別に何か話しかけるというわけでもなければ、微笑みかけてくるわけでもない。それが何よりもバルバロッサには堪えた。自分から別れを告げたというのに、なんと馬鹿げたことだ。
勝負の末は分かっているのだ。
バルバロッサは祈りの姿勢を、コーデリアは騎士の一礼を取った。剣を構え、切先を軽く合わせる。
2人の立ち姿は絵のようだった。先に仕掛けたのはコーデリア、受けたのはバルバロッサ。幾度か剣を合わせて打ち返すと、コーデリアが誘う。罠と分かって踏み込む。こちらも罠を仕掛ける。コーデリアがその誘いに掛かる。だが、彼女も罠だと分かって敢えて掛かったのだろう。
2人の技が本気で絡まり、そして。
「そこまで!」
審判の騎士の声がかかった。ほんの僅かな時間だったが、見ているものが息をするのを忘れるほど、緊張感の漂う手だった。一瞬の静寂の後、わっ……と歓声が上がる。気が付けばコーデリアが膝を付いて、その剣が落とされていた。バルバロッサは剣を仕舞い、思わず手を差し出したが、その手は取られなかった。コーデリアは苦笑して剣を拾うと、バルバロッサの手を制して自分で立ち上がった。
「さすがの技だ、バルバロッサ殿。やはり、貴方には敵わない」
「コーデリア……」
「私の負けだな、バルバロッサ殿」
そう言って、小さくコーデリアが笑った。
コーデリアの負け?
それを聞いた瞬間、バルバロッサの胸が酷く痛んだ。コーデリアの言っていた勝負の言葉を思い出す。
『私が他の男と幸せになったら貴方の勝ち』
その痛みが何かを認識する前に……バルバロッサが何かを言う前に、コーデリアは完璧な騎士の一礼を施し、背を向けて鍛錬場を後にした。その背を見送りながらバルバロッサは溜息を付く。剣の勝負は自分の勝ちだ。だが、もちろんそれを喜ぶ気にはなれなかった。冷静な態度で、バルバロッサもコーデリアとは逆の方向に鍛錬場を立ち去ったが、その顔色が悪かったことに気付いたのは、……皇帝くらいだったろうか。