秋野優月がそこを通りかかったのは、本当に疑いようも無く、まったくの偶然である。
優月は、今年25歳になる。若いというほどではないが、年嵩というわけでもない年頃だ。染めてはいないのにダークブラウンのつやのある髪は、ほんの少しクセがある。目鼻立ちがはっきりとしていて、睫が長い。身体のラインもメリハリが効いていて、華やか……といえば響きはよいが、つまるところ派手な容姿と形容されることが多い。本人はその性格も相まってどうにも不服で、派手と評価される容姿を押さえるために化粧も控えめ。スーツは至って普通の、黒のパンツタイプを着用していた。地味に見せようと思っているのだが、そのシンプルなストイックさがむしろ色めいて見える。
そんな優月が仕事の帰りに公園のそばを通りかかったときだ。
「これで最後だ……くらえ、必殺……!」
かなりとんちきなセリフが聞こえた。
「ハイスペックキラキラマスターーーーーー!!!」
ダッサ。いや、名前それ、ダッサ。 え、今の言い方って必殺技だよね? そもそもキックとかパンチとかビームとかじゃないの? マスターって。マスターってなんの技なの。どういうタイプなの。あとキラキラって。
まるで見たことも聞いたこともないタイトルのB級ヒーロー特撮ものをうっかり見てしまったときのような、うすぼんやりとした突っ込みが優月の脳内に思い浮かんだのと、光が膨れ上がったのは同時だった。
カッ…!
思わず優月がその眩しさに目を瞑ってしまう。それは一瞬で静まった。直後、ドン! ズサササーーーーツ!と地面を何かが引き摺られるような音がして、優月の足元に黒い塊が転がってくる。どうやらそれは人っぽい形をしているようで、ちょっとこれは不味いかも。
……と、よくよく考えてみれば、ここで足を止めてしまったのが人生の分岐点、運命の分かれ道だったのだろう。
黒い人型を見下ろしていると、背後で無駄にきらきらした男の声が聞こえた。
「思い知ったか、怪人オナカイタクナル!」
それこの倒れてる人の名前? ダサ
そう思っていると、オナカイタクナルがぐう…とくぐもった声を上げる。
「無念…私のオナカイタクナールが効かないとは…」
だからなんなのそれ必殺技か。必殺技なのか。けど、自分の名前と被ってない? 怪人オナカイタクナル、必殺技オナカイタクナール。
優月が呆気に取られていると、ガクリ…と、怪人オナカイタクナルが、意識の落ちた時特有の動きで首をかくりと傾けた。それに対して、ふ…と例のキラキラした男がため息のような声を吐く気配が伝わる。
「結局、宇宙の至宝とはいったいなんだったのか……アクノテイオーンはどこにいるのか……だが僕は…戦わねばならない。この地球を、この青い星を、この宇宙唯一の宝石を守るために…。なぜなら……、僕は……キラキラマンだからっ」
アクノテイオーンとは。そしてキラキラマンとは。名前から察するに正義の味方か。光り輝く男か。
優月が次の行動をためらっていると、キラキラマンが立ち去る気配がした。
「では……さらばだ!」
どうやら向こうから優月は見えてなかったようだ。見えてなかったとしたら、一体誰に向かって「さらばだ」と言ったのかは分からないが、立ち去った人を追いかけてどういう意味なのかと問う気概はない。というか興味がない。それよりも、優月は目の前で放置されている怪人オナカイタクナルにそっと触れた。
足で。
……………。
しかし見なかったことにした。
オナカイタクナルは動かなかったし、冷静に考えればこれ以上こんな変態劇に付き合う義理は無い。今見たことは仕事で疲れた自分の脳が見せた錯覚か、どこぞの劇団員が遊園地か何かで見せるショーの練習をしていたと思うことにする。
くるりときびすを返す。
「今、お前は怪人オナカイタクナルを助けようとしたのか。」
「ひい!?」
女としては腑に落ちない奇声を上げてしまい、振り向いた優月の眼前5cmのところに真っ黒の物体があった。さらに、その真っ黒の物体の上…丁度優月の頭のてっぺん辺りから、聞くだけで女の2,3人を孕ませそうな、クソ甘い低音ボイスが聞こえてくる。優月は思わず腕を突っ張ってそれを跳ね退けた。
だがその黒い物体は跳ね退かず、がっしと優月の腕を掴んだ。突き指ならぬ突き腕にしそうになるほど弾力性に富まない。
「積極的だな。」
何が?
「もう一度聞くが、お前は怪人オナカイタクナルを助けようとしたのか?」
「違います」
「だが、様子を見ていただろう」
強いて言うなら足で触った。
「気のせいです」
「いや、少し気にしていた」
「目の前に人が転がっていたら誰だって気にするでしょう? 不可抗力ですよ」
余りに色気のある声に、女としての危機を感じ恐ろしくて顔が見られない。まあ、そもそも夜の公園にほとんど零距離で男に腕を掴まれているのだから、状況としては怖さマックスなのだが。
「こちらを向け。女」
「無理です」
「向けというのに」
「嫌です。帰ります。離してください」
「顔が見えぬ」
「夜ですから」
「余にそのようなものは関係ない」
は? 余? 一人称が余?
思わず優月が顔を上げ、しまった、と思った瞬間、男の手が優月の顎を掴んでいた。く…と顎を持ち上げ、優月を見下ろしている。
黒い仮面の男が。
ぶふっ…と思わず吹いた。
「なぜ笑う。余の顔に何か付いているのか」
「いえ、なんでもないですすみません」
強いて言えば仮面が付いている。が、それを指摘するのもどうかと思ったし、初見で笑うなんて相手がどんな格好であろうと失礼には違いないので優月は素直に謝った。とにかく、一人称が「余」の黒ずくめのいやらしい声の男に手と顎を掴まれているこの状況をどうにかしたい。
「とりあえず離してください」
「よかろう」
黒い仮面男が優月の顎と手を離した。
改めて向き合う。暗い上に黒いのでよく分からないが、男は非常に背が高く、黒光する鎧のようなものに裏地の赤い真っ黒のマントを羽織っている。そして偽物感がない。なんというか……、相当お金がかかっているであろうと一目見て分かるほどの立派なもので、安っぽいコスプレ衣装ではない。どう見ても手の込んだセレブ用コスプレ衣装だ。でなければハリウッド級の映画を撮影しているか。しかしいずれにしても、ハリウッド級のコスプレで夜中に公園を徘徊しているいやらしい声の男は、どう考えても正常には見えない。
しかも顔は分からない。黒い仮面で顔の全てを覆っているからだ。
「では、失礼します」
というわけなので、早々に退散することにした。
「待て」
待つものか。
男の声が追いかけてきたが、それは幻聴。聞こえない聞こえない。優月は何事も無かったかのように荷物を肩に掛け直し、ふい…と公園の外へと出て行く。
追いかけてこないだろうかと不安になったが振り向く勇気は無い。足音は聞こえないし気配もないから、まあ大丈夫だろう。なんだか疲れたし夕食を作る気力も無い。コンビニ寄って新作のパスタでも買って帰ろう。そう思って、コンビニ方向へと足を進めた。
チリン…と自転車のベルが鳴る。
「ちょっと君」
呼び止められてそちらを向くと、警察官だった。夜の巡回をしているらしい。警官は、なぜか優月の背後に視線を遣りながら、胡散臭いものを見るような顔だった。
「君、ちょっといいかな」
どうやら優月の後ろに誰かがいるらしく、それに話しかけているらしい。つまり、胡散臭いものを見るような……ではなく、胡散臭いものを見ているのだ。誰に話しかけているのか大方予想が付いて、優月は振り返らずに足だけ止めた。
後ろの人物が答えないので、警察官が顔をしかめる。今度こそ優月に向き合った。
「……君の知り合いかね?」
「違います」
即答して、荷物を背負い直す。
「何かご用件でしょうか」
「……この辺りで、男の争う声が聞こえてきた、という苦情が入ってね。見回りをしていたんだが、……君は……その……」
再び警察官が優月の後ろに視線を向ける。多分、ものすごく怪しい男が後ろに控えているんだろう。苦情のあったという争う声についても優月には心当たりがあったが、それを訴える気にもなれない。私は関係ないのです……そう言おうとしたら、警察官がずばり聞いた。
「君、……見るからに怪しいが、ちょっと署まで来てくれるかな?」
そりゃそうだろう。ああ、やっと解放される。優月がほっとした顔をすると、付け足された。
「あ、君も」
「え?」
ぎょとする。思わずぶんぶんと首を振った。ついつい前のめりになる。
「私、関係ないんですけど!」
「え、だけど明らかに一緒にいるよね」
「一緒にいませんよ。むしろ声掛けられて困ってるんです」
「何?」
警察官が明らかに不穏な空気になった。優月の勝ちである。だが、次の一言でそれもまた打ち砕かれた。
「……それならば尚更、申し訳ないが一緒に来てもらおう。……君も……」
「なぜ、余が行かねばならぬ」
「……は?」
今までずっとだんまりを決めていた怪しい男が、ようやく言葉を発した。やはり無駄にいやらしい声だ。優月は舌打ちしそうになるのを堪える。何反抗的な態度取ってるんだ、面倒くさい。そう思って、振り返った、そのときだった。
黒い仮面の男はどこにもおらず、ダークグレーの落ち着いたスーツに同じく色見を抑えたネクタイを締め、がっしりとした体躯の背の高い紳士が立っていたのだ。
どういう所属の何系の人間なんだか全く分からないタイプ、しかしどう見ても一般人には見えない。夜なので顔もよく見えないが、見たいとは思わなかった。
そもそも……黒い仮面と黒い鎧と黒いマントはどこ?
などという疑問を口にする前に、謎の紳士は片方の腕で優月を抱き寄せ、もう片方の手を警察官に伸ばした。「ちょっと……!」と抗議の声を発する前に、ぐるりと周囲の空気の圧が上がる。
「!?」
急な変化に身体が硬直し、それを受け止めるように紳士の腕の拘束が強くなる。声を上げたくても喉が麻痺したように響かず、押し付けられている身体の逞しさだけを妙に意識してしまう。変化は一瞬で、すぐさま周囲の空気は通常通りの流れになったが、腕は離れなかった。
「ちょっと、何……今の」
「……君たち、何をやっているのかね? こんな夜中に危ないだろう。先ほど男の争う声がこの辺りで聞こえきたと通報があったばかりだ。早く帰りなさい」
「そうしよう。職務、ご苦労」
まるで何事も無かったかのような会話が、優月の見ていないところで繰り広げられ、抵抗する間もなく、警察官の自転車が走り去る音が聞こえた。何なんだと優月が混乱していると、やっと腕が緩む。
「何、今、何やったの!? ……なんで……」
「別に何も。少しあの者の記憶を巻き戻しただけだ」
「巻き戻し……って」
「恋人同士が歩いている道すがらを、邪魔するような無粋はせぬだろう。さすが公務員、殊勝な心がけだな」
「は!? 恋人同士? 誰と誰が」
「余とお前以外に誰が居るのだ」
エア恋人でもいるんでしょうか? ……と思ったが賢明にも口に出さず、思い切り腕を突っ張って身体を離した。
「少なくとも、私と貴方ではないことは間違いないでしょうね」
「おい、待て」
「失礼します」
待てるかというのに。そもそも、さっきまで黒い仮面にマントだったのが一瞬でダークグレーのスーツになり、警察官に怪しげな術を掛け、怪人オナカイタクナルの関係者で、一人称が余。関わっていい人種とは思えない。
優月は男の身体を突っぱねると、きびすを返した。早足で家の方向へと足を向ける。やはり後ろは振り向けない。足音も気配もない。……いっそ、静かすぎるほどだったが理由を考える余裕も無かった。一体なんだというのだろう、今日は厄日なのだろうか。コンビニに寄る気分にもなれずに、冷凍している食料に何かあったかなと頭の中で計算する。こうやって全然別のことを考えて現実逃避すれば、あんな現実味の無い出来事など忘れてしまえるだろう。……そう、現実味が無さ過ぎる。一体何なんだ、あの黒い仮面の男は!
気が付けば住んでいるアパートの前まで来ていた。セキュリティを解除して、エレベーターに乗って……やっと部屋まで辿りつく。
扉をカチャリと開けて、「ただいまぁ」……とつぶやく。1人暮らしだが、ついついただいまと言ってしまうのは優月のクセだ。
「うむ。ご苦労であった」
しかし返答がないはずの部屋からは、なぜか、どことなく鷹揚でいやらしい中低音の声が応じ、暗いはずの部屋に電気が付いていた。見るとボーナスで奮発して買ったお気に入りのソファに、ダークグレーのスーツを憎らしいほど着こなした逞しい体躯の男が、どっかりと座っている。
「遅かったな」
「な……な……」
「ところで、酒などは出ぬのかここは」
優月は入り口近くに置いてあった、動物の絵が描かれてある仕事用の分厚い技術書を手に取った。思い切り振りかぶり、渾身の力を込めて男に向かって投げ付ける。
「出てけーーーーーーーーーー! この不法侵入の変態がーーーーーーーーーーーーーー!!」
だが、男は涼しい顔で本を受け止めて、腹が立つくらい悠然と笑った。カバーが外れた本を丁寧に整えるその手つきと笑顔が、これまた渋くてカッコいいのが本当に腹が立つ。
「何を叫んでおるのだ。近所迷惑であろう」
「うるさい、迷惑なのはあなたでしょう!」
「まあ、こちらへ座れ女」
「だいたいね、あなた何者なのよ! どうやって入ったのよ! 警察呼ぶわよ!?」
「警察など余には役に立たぬと先ほど学ばなかったか?」
「な……」
「余は惑星ヴァルキュイウルスの帝王。アクノテイオーン、ウォルフだ」
おっと、アクノテイオーン。聞いたことあるぞ。