悪の帝王

007.戦いの終幕

「待ち合わせって……なんなのよ、もう」

休日は余に付き合え……と言われたのだが、その日は午前中に会社に寄らねばならない用事があり、それならば帰りに駅前で待っておれ……との言葉を受けて、優月はおとなしく待っていた。お気に入りのコーヒースターンドで持ち帰りの抹茶ラテを頼み、外の椅子に座る。

そういえば、本当に腹立たしいことではあるが、なぜかウォルフがいる生活を受け入れて2ヶ月ほど経った。休日は優月に予定が無い限りウォルフと一緒だったが、外で待ち合わせなど初めてのことだ。

ウォルフと一緒なんてとんでもない……という態度を一応貫き通している優月だったが、ほんの少し……だけ、待ち合わせという行為に浮かれている自分もいる。

しかし。

「あれー、優月ちゃんじゃね?」

浮かれた心に突然冷水を浴びせられた気がした。

触っていた端末から顔を上げると、いかにも軽薄そうな笑みを口の端に浮かべた男が一人、立っている。その顔に優月は表情を消した。

「……えっと、あー、えっと、三田くん?」

「ひっでーな、矢野だよ矢野」

全然違ってた。

「ってか、ひっさしぶりー、何? 家この辺だっけ?」

馴れ馴れしくも優月の前の椅子を勝手に引いて勝手に座ったこの男……矢野は、確か1年位前に参加した異業種交流会という名のコンパで声をかけられた男の一人だ。不覚にも電話番号を交換し、一度だけ食事をした。……が、それだけ。その1度の食事の時にホテルに誘われたので、丁重にお断りしてメールも無視してそれっきりになった人だ。楽しい思い出はなくて、だからこそなんとなく、覚えていた。

……端末を触っているフリをして電話帳を検索してみると確かに「矢野くん」と入っていた。多分これだろう。消すのを忘れていた。

「なあ、今一人? もし暇なら飲みにでも行こうぜ」

「暇じゃないわ、待ち合わせ」

「男?」

「関係ないでしょ?」

いかにも手慣れてる風に声をかけてくるのは、いかにも手慣れているのだろう。だけど、矢野の場合もっとあけすけだ。丁寧に順を追って、なんてことはない。手慣れているからこそ、使い分けているのだ。純粋な女性を丁寧に落とすのとは違って、優月ならば適当に声をかけてもいいと思っている態度だった。

「えー、今男いないんだったらいいじゃん」

「知り合いか? 優月」

舌打ちと同時に聞こえた矢野の文句に、優月がさすがにムッとして言い返そうとした瞬間、背後に気配を感じた。

威圧感は全くなく、むしろ柔らかく包み込むような、それでいて重く有無を言わせない低音が頭の上から聞こえる。見上げると、ウォルフが優月のことを見下ろしていた。

思わずガタンと席を立つと、当たり前のように腰に腕が回って引き寄せられる。

答えのない優月に、ウォルフが男に視線を傾けた。視線のみで「お前は優月の知り合いか」と問う。そんなはずないのに、周囲の人達のざわめきが一瞬静まり返ったようだ。注視された男はブルブルと首を振って、言葉を失う。何か恐ろしいものを見たかのような表情だった。

何か恐ろしいもの?

はて……? と、優月がウォルフをもう一度見上げると、いつもの包容力のある紳士的な表情でこちらを見下ろしている。もう一度、今度は男に視線を向けると、男はウォルフを見ながら顔を青くしていた。

「優月と知り合いか?」

答えぬ男に焦れたようにウォルフの声のトーンが下がる。

「……いや、あの、しりあいっていうか……」

「そうか。知り合いではないのか。……ならば、なぜその端末に優月の情報が入っている?」

なぜ見もせずにそんなことが分かるのか。男がぎょっとして手に持っている端末の画面を見る。慌てて操作しようとしている男に、追い打ちの声がかかった。

「覚えておけ。優月は伴侶だ。これからその証に指輪を買いにいく」

「えっなにそ」

その言葉に反論しようとしたのはもちろん優月だ。しかし、優月の言葉を遮るようにウォルフは腰を抱く腕に力を込め、もう片方の手の指先でテーブルをトントンと鳴らした。

「その端末に優月の情報が入っているのだな?」

「……あ」

「消せ」

ドン……と、今度は大きくテーブルを叩いて、ウォルフははっきりと「命じた」。男が慌てて端末の画面を操作するのを確認すると、ウォルフの身体が優月の身体を押して、無理やり方向転換させられる。

「ま、ちょっと、私の抹茶ラテ!」

「飲み終わっているではないか」

テーブルに置きっぱなしの抹茶ラテのカップを振り向くと、ウォルフの手がそれを取った。途中、ダストボックスの中に放り込み、そのまま悠然と歩き始める。

いつの間にか優月の心から、男に出会った訳の分からぬ不安も、嫌な気分も消えていた。

****

しかし、納得できないことはいろいろある。

「ちょっと」

「あの男はお前の以前の男か?」

「え!? 違う!」

腰を抱いていた腕はそのまま優月の腕に絡みつかれ、手のひらを重ねて繋がれた。解こうと思って力を入れても、まるで蛇がくるりと絡みついたように腕が密着し、なぜか離れない。

駅前から少し歩き、大通りから一つ道を入る。そこには有名ではないが明らかに上質と分かる店が並んでいた。質素で落ち着いた佇まい、ささやかなウィンドウに映る美しい品物に、優月は言い争いを忘れて目を奪われる。一般人にはとても入ることのできない世界だ。大通りに面した立地にあるブランド力を売りにするような店も悪くはないが、それとは格段に世界が違う。

急に別世界に迷い込んだような気持ちになってキョロキョロしていると、不機嫌なウォルフの声が聞こえた。

「以前の男ではないのであれば、なぜあれは優月の連絡先を知っている」

「それはっ、たまたま……連絡先を交換しただけで……一回だけ食事を」

「したのか」

「食事だけだし!」

「食事だけか」

言葉だけを聞けば責められているようにも思えただろう。けれど……責めるような口調ではなく、優月の自惚れでなければ、まるで優月を心配するような優しい声だった。だから、思わず言ってしまった。

「食事……だけよ。それ以外も、誘われたけど、そういう軽いのは嫌いだから、行かなかった」

「そうか」

ウォルフは大きく息を吸って、長い息を吐いた。絡み合う指に力を込めて、チッ……と大きく舌打ちする。その舌打ちに驚いて、優月が言い訳をするように顔を上げた。

「な、何よ、気が合わなかったから、それっきりよ。別にあなたには関係な」

「知っている。関係はないが、ただ、腹が立つ」

「は、腹が立つ?」

「余の優月を軽薄に扱うあの男に、だ。痛い目にあわせておけばよかった」

「な……」

それは本当に心底、先ほどの男に立腹しているとしか言いようのない声だった。恐ろしいけれど、心のどこかが確かに喜びでうずうずとくすぐられた。しかしその気持ちに、今は蓋をする。

「お前も後であの男の連絡先を消しておけ」

「わ、わかってるわよ」

腕と指を絡ませたまま、ウォルフにエスコートされ……これは、エスコートと言うのだろうか……、しかし、無理やりという割にはおとなしく優月は1件の店に案内された。

そこは、幾つかの美しい装飾品アクセサリーを取り扱っている店のようだった。

「ちょっと、ウォルフ」

「なんだ」

「ここ、」

「いらっしゃいませ、ウルス様、お待ちしておりました」

「ウルスって誰よ!」

店主らしき人の言葉に思わず突っ込んでしまったが、ウォルフは平然としている。お待ちしておりましたって何? ウルスって誰? ここはどこ? なんでこんな高級な店に?

様々な優月の疑問符は完全に無視されたまま、ウォルフはカウンターの前へと進みでる。その動きに合わせて店主が指輪を一つ、トレイの上に取り出す。

「お品物が出来上がりました。こちらになります」

「うむ。優月、手を貸せ」

ウォルフが頷いて、優月の手を持ち上げた。ぐ……と力を入れて、逃さないという明確な意思を持って、優月の手首を掴んでいるのが分かる。店主が用意した指輪を取り上げると、優月の指先をなぞってそこに嵌めた。

優月が驚く暇もなければ、抗う隙もなかった。

曲線に置かれた小粒の石と、プラチナに包み込まれるように大粒のダイヤモンド。大粒のダイヤモンドはそれだけで派手になりそうだが決してそんなことはなく、アシンメトリーな形と優美な曲線が全体的な雰囲気を抑えていた。すごく、どう見ても……優月好みのデザインだ。

しかも、その指輪は恐ろしく優月の指にぴったりで、着けたところもこれまた、非常になんというか、自分で言うのもなんだけれど、よく似合った。

ウォルフは満足げに頷く。

「見立て通りだ。よく似合う」

「ええ、本当に。よくお似合いでございます」

店主も共に頷いていて、優月は一人おいてけぼりだ。

「ちょ、ちょっと待ってよ、ウォルフ。これ、どういうことよ」

「どうもこうもない。言っただろう。余の伴侶の証だ」

「はあ!?」

小さく上質な店内に思ったよりも優月の声が大きく響いて、思わず身体を縮こめる。ウォルフはそんな優月の肩を抱き寄せ、空いた片方の手でもう一度優月の指輪をした方の手を持ち上げた。優しい、うっとりとした甘い口調でもう一度、確認するように言う。

「ああ。似合うな」

「ウォルフ、ねえ聞いてる?」

「言いたいことは分かっているが、話は後だ。……店主、これは貰っていく。ご苦労だった」

支払いの話などもうすでに終えているのだろう。無粋な話には全くならず、ただ優月の手に美しい指輪を嵌めただけでウォルフは店を出た。店の中で争う気には到底なれず、そもそもそんな雰囲気でもない。派手やかなブランドの店ではなく、名も無い職人の小さな店は、ウォルフという男になぜか似合った。そんな秘密めいた場所に連れて行かれては、いつものコンビニでの買い物みたいにうるさくすることなんてできるはずないではないか。

そういうわけだから、店から出た優月は深呼吸を一つすると、腕を引くウォルフに抗って強引に足を停めた。

分かっていたのだろう。ウォルフの足も大人しく止まる。

「ウォルフ、ねえどういうこと?」

「なにがだ」

「この指輪! いくらなんでも、その……もらえない」

珍しく気弱げな優月の声に、ウォルフが驚いたように少し目を丸くする。

いつもの適当に受け流すような言葉ではなく、優月は真面目にウォルフを見上げた。ウォルフもまた、常の食えない笑みではなく、真面目で静かに優月を見下ろしている。

ああ、こんな風に、真面目に、誠実に、この男と向き合ったのは初めてだ。

いつもはふざけた茶番だと軽くとらえて相手にしていなかった。目を逸らしてスルーしていた。だってそうではないか。彼の存在自身が、現実的ではないし、別世界だ。

それなのにこの男はこの別世界で現実的でない出で立ちで存在し、そのくせ、優月と一緒におでんを食べ、コンビニのチーズケーキを食べ、ビールを飲む。強引なくせに紳士的だし、優月に何も……期待しない。

優月はその華やかな……派手な容姿から、男からは勘違いされることが多かった。男は優月をセックスの上手い女、あるいは大人の取引が出来る女を求めてくる。願望が叶わなければお高くとまった女、ブランド品とか持ってそうな女だと揶揄されるし、願望が叶えば現実とは異なる優月の「普通」ぶりに、何か違う……と離れてしまう。

優月は別段セックスが上手くもないし、口だって達者な方ではない。コンビニですらおつとめ品とかを率先して買ってしまうし、ブランド品は……それなりに好きだけれど、1年に1回、自分へのご褒美に買う程度のレベルだ。よくギャップ萌えなんて言うが、そんな扱いされたこともない。派手な女性が好きな男にとって、優月の普通の性格は、ただ単に物足りないのだろう。挙句「簡単にヤらせてもらえると思ったのに」なんてヒソヒソされて、それきりだ。

優月自身もまた、恋愛に……男とそういう関係になる、という行為に積極的な方ではない。要するに、見た目に反して恋愛に対しては内気なのだ。だからこそ、そういう自分ではよくないかも……と気まぐれに参加した異業種交流会では、変な男に引っかかる。もちろん自分にだって原因はあるのだろう、そんなことは分かっている。でも何をどうやって直せばいいのか、分からない。

だが、ウォルフはほかの男とは違う。当たり前だが、違う。上流の女しか受け入れなさそうな男のくせに、優月のどれも、受け入れた。

確かに経済力に物を言わせて強引なことはしてくるが、その経済力といえば、怪人ロボットを開発するとか壁を超越する扉をつけるとか、そういった、もはや経済力など関係ないようなファンタジックなものばかりだ。そんな何でも出来る男なのに、コンビニのプレミアムにくまんやプレミアムビールを、優月と一緒に喜んでくれる。

だから、だから……多分、優月は、ウォルフに心惹かれているのだ。この、ウォルフにしかない包容力と、そんな包容力を持っている人にしか許されない、強烈な強引さに。

この人の眼差しが自分に向いているたった今、この瞬間を、嬉しいものだと感じてしまう。

だが、あまりに現実味がなさすぎて受け入れるのが怖いし、そもそも。

「だって、私べつに、ウォルフの恋人でもなんでもないし。……愛人とかなら他所でやって」

「そうだな」

肯定にも思えた言葉に優月が思わず顔を上げる。しかし優月が勘違いをする前に、ウォルフが至極真面目な顔のまま、優月の頬に手を触れた。

「愛人ではなく伴侶……とあの男に言ったのを聞いていなかったのか?」

「え?」

「できれば地球こちらでいう『恋人』という段取りを経てお前を余の伴侶としたかったが、そろそろ真面目に働かねばならぬ時が来たようでな」

「……なに」

「本当はお前が余を選ぶまで待とうと思っていた。余にはその自信があったからな。しかしお前が男に声を掛けられている様子を見て、余は焦った」

「あせ、った?」

「ああ、焦った。そんな悠長なことをしていては、お前が余以外の男のものになる可能性がある、ということに」

冷静に言われたものの、その言葉の意味に優月がじわじわと驚きに目を丸くし、同時に頬が熱を持つ。その熱を受け取るように、ウォルフの手のひらがそっと優月の頬を撫でる。少し硬い、大人の男の手のひらだった。

この時ばかりは、ウォルフは少し顔をしかめた。わずかに不機嫌そうな、どちらかというと苦しそうな表情を見せて、優月の耳元に唇を寄せる。

「いいか、よく聞け。お前に余以外の伴侶は許さぬ。1ヶ月と少ししたら、余はお前を迎えに来るぞ」

通りには人がおらず、ウォルフは静かに優月の身体を抱き寄せる。優月はウォルフの腕の中に納まり、そのあまりの居心地の良さに動くことができなかった。

****

それからのウォルフは普段と変わらず、しかし時折、優月の左手を取り、薬指の指輪を撫でながら、隣の部屋で暮らしている。仕事の送り迎えも、一緒に食べる夕食も今までと変わらず、少しずつ甘くなっていく。

優月はウォルフの「お前を迎えに来る」という言葉の謎を解かず、何の返事もしていない。だが、ウォルフも決して無理強いはしなかった。

けれどもう絡め取られたも同然で、何かほんの少しのきっかけさえあれば、まるで表面張力ギリギリの水のように、溢れて一気に進みそうな気配もしていた。

そしてその機会は、一週間後にやってくる。

「優月」

「何よ」

夕食は何にしようかと頭の中で考えながら、ウォルフと共に公園を横切っていた時のことだった。呼ばれて見上げると、ウォルフのやわらかな視線が優月を見下ろしている。つないでいない方の手を持ち上げて優月の顎に触れて、顔を傾けた。

急に近づいた距離に息が止まりそうになって、足を止める。

「な、何?」

「お前にたった今、口付けたい」

「は」

はあ!? ガタイのいい声でそう言って、ウォルフの顔を押しやった。

「突然何言い出すのよ」

「突然でなければいいのか」

「そうじゃなくて……」

赤くなった顔を隠すように俯いた時、ウォルフが強く手を引いた。やや強引に腕を引かれて足を進める。急に忙しなくなった雰囲気になぜか不安になり、よろめくようについていく。いつもは優月の歩調が乱れぬように歩くウォルフが、こんな風に強引に、優月が早足になってしまうほど腕を引く、などありえないことだ。

「ウォルフ?」

なぜか、不安になる。

そうして今度は、不安でウォルフを見上げた時だ。ウォルフの顔はそこにはなく、漆黒の仮面と鎧に身を包んだアクノテイオーンがいた。

アクノテイオーンは優月のことを見ておらず、まっすぐに正面を見ている。優月がつられて視線を向けると、そこには愛らしい少女を連れた若い男が一人いて、こう、言った。

「……アクノテイオーン……」

そう、何かほんのわずかなきっかけがあれば、水は溢れるはずだった。そのきっかけになるはずだった。

しかし

****

ヴァルキュイウルスの帝王アクノテイオーンと、エルデュルスのキラキラマンとのその戦いは、いずれの勝利に終わったのか記録には残っていない。

実際の戦いは、アクノテイオーンの有利に進んでいたという。キラキラマンもエルデュルス随一の戦士ではあったが、経験によって積み重ねられた実力差は圧倒的だった。まるで赤子の腕をひねるように、キラキラマンの身体はアクノテイオーンによって地面に叩きつけられる。

しかし、エルデュルスの戦士は宇宙に派遣される際、一つの技を伝授されていた。

その必殺の技により、二人の姿はこの地球から……青の宝石地球の上から消滅した。

戦いを見届けたのは、一人の少女と、一人の女性、二人だけだったという。