リュチアーノ王国王都シキを見下ろす広い高台に建てられている美しい建物が王城シンドゥナ。その王城を守るように、また、王城に勤める人間たちが滞りなく仕事を遂行できるように、実に様々な施設がその周囲を囲っている。
リュチアーノの優秀な魔法使い達が日々魔法の研究を行っている施設、魔法研究棟もその一つで、薬草棟や魔法生物棟など、種々怪しげな研究施設の中央に、それはあった。魔法の効能や管理上の問題で実質的な場所が異なるものも多くあったが、それらも全て、特殊な術で安全に問題なきよう集約されている。魔法の研究に国家的に従事する者には、実に恵まれた環境であるといえよう。
そうしたリュチアーノの魔法研究の全てを統括しているのが、主席魔法使いのグルレイスシュレデルゲート・ウェーバーという。ジーノ……ジノヴィヴァロージャワシリー・フルメルの師匠であり、彼の恋人ユイナ・マツザカの正式な後見人だ。余談だが、先日、ユイナ・マツザカにリュチアーノ国籍を与える書類は正式に提出され、正式に受理された。
その主席魔法使いグレイの執務室にて、ジーノは何冊かの本を借り受けるために書棚を見繕っていた。
目的の品目は、主として「召喚における目標物の制御」「転移と空間の関係性」などの系統だ。無論、昔からある典型的な魔法の系統であり、一般的な書物から非常に深く掘り下げたものまで、書物庫に行けば目を通すことが可能だ。グレイには及ばぬものの、次席魔法使いのジーノは王の信頼も厚く、魔法研究に関わるあらゆる資材と資料を手にすることができる地位にある。
だが、ジーノは時に正論ではなく異論を参考にすることがあった。そうした異論、もしくは新説などは、国の施設への正式な入荷が遅れることがある。内外の情報に耳を澄ましていても、全ての情報を集めるのはジーノとて不可能だ。
しかし、グレイの部屋には良い意味でも悪い意味でもありとあらゆる情報が集まる。リュチアーノの主席魔法使の元には、グレイに認められたい若く優秀な魔法使いたちが送ってくる新説から、伝統を重んじる古い血統の魔法使いたちが送ってくる深い正論まで、ジーノが手に入れられないような瑣末な書簡や、果たして発表されるかどうかもわからない個人誌が集められているのだ。
グレイという男がまたこうした正統・異端にこだわりを持たぬ柔軟な魔法使いであるということも大いに関係している。宮廷で振舞うその姿は、昔も今も遊び上手な熟年紳士という印象しか与えないし、事実その通りの男ではあるのだが、いざ魔法という分野にその手腕を発揮すれば、この大陸に伝わるほぼ全ての系統の魔法について、グレイは熟知し、操ることができる。ジーノですら配合を決めるために何日も研究を重ねる魔法であっても、グレイが本気を出せば、ほんのわずかの時間でそれを決め、正しく組み上げることが可能なのだ。
もっともグレイが本気を出せば、の話であるが。
ただし、グレイが本気を出すことは滅多になく、仕事で本気を出すことは滅多にない。今もジーノの目の前の書棚の前には、男性視線で描かれた官能小説と、制御と転移の関係性の新しい閾値を計算した論文と、王宮勤めの女性職員が選ぶ美味しい店の紹介本と、召喚に関する空間省略の省略側からによる可能性の模索を行った魔法使いグループの発刊誌が、全て1カ所に突っ込まれていた。おそらく、先日グレイの元に届けられたばかりの書物だろう。グレイが本気を出していないため、整理整頓されないまま置かれているのだ。
ジーノは長年グレイの元で弟子を務めているがゆえの勘でもって、だいたいどのくらいの時期にどのような系統の本が届けられ、それが整頓される前にどのあたりに積まれるかを把握している。その勘にしたがって、目の前から2冊の書物を手に取った。
「師匠」
「んー?」
「こちらの冊子をお借りしてもよろしいでしょうか」
「いいけど。お前、召喚と空間の制御なんて興味あったっけ?」
何やら小さな紙に魔法陣と魔法語を書き付けながら、こちらに視線を向けないままグレイが問う。ジーノは眼鏡の奥から灰色の瞳をわずかにグレイに向け、再び冊子の上にそれを戻した。
いつもはどうやって仕事をサボるかしか考えていないように見えるグレイだが、たとえ本気を出していなくても、どこに何の冊子があるかを一応把握し、そして手元に届いた本には目を通しているのだ。ジーノが何の本を手にしたのか、気配と場所からほぼ察知したのだろう。
「少し研究せねばならないことがありまして」
「ふーん。貸してもいいが、条件が二つあるぞ」
「なんでしょうか」
ジーノが振り向く。
グレイは書き上げた魔法陣を満足そうに箱に置くと、ジーノに初めて顔を向け、宮廷の淑女たちの心を捉えて離さない、渋みの奥にまるで少年のような無邪気さを垣間見せる快活な笑顔でこう言った。
「東農地の土壌活性魔方陣の魔力効率化計画を明日中に出せ。あとユイナちゃんとご飯食べたい」
「東農地の土壌活性魔方陣の魔力効率化計画については既に提出可能です」
「え、はっや」
どっちみち自分に任せられると予測していたため、昨日済ませておいた案件だった。取引材料に使うため、グレイには黙っていたが。
ジーノは冊子を2冊小脇に抱えたまま、自身の机に戻って魔方陣をしたためた計画書を手に取る。書類を持った手でわずかに眼鏡を押し上げると、グレイの執務机に書類を数枚置いた。
「お、確かにグレイらしい計画書だな。上出来上出来」
「恐れ入ります。では、この本はお借りします」
「待て待て」
「もう本日分の私の仕事は終わりましたが」
「今日はいいだろ今日は。どうせユイナちゃん来ない日だろ? で、俺、ご飯食べたい」
「食べればよいのではないでしょうか」
「ユイナちゃんとご飯食べたい」
「……」
物事は即断即決するジーノが、珍しく逡巡した。なんの表情も浮かべない顔でしばらくの間、にへらと笑ったグレイを見下ろしている。
たっぷり5つ数える間、グレイの熟年紳士な笑顔を無表情で見つめていたジーノは、長い指先で眼鏡を押し上げた。
****
久しぶり……と言っても、一つ前の召喚の時に抱いていないだけだが、それでもジーノをしつこくさせるには十分だった。毎日触れられるわけではなく、五日も空けなければならないのだ。会える時に時機が悪く抱けないのは仕方がないが、その分、次に会った時に回すのは当然だ。前回の召喚の時は結菜は風邪をひいていて、翌日に熱も喉の痛みも引いたものの、さすがに体調を考えてゆっくり過ごすに留めたのだ。
反して昨日は、前の召喚の時に触れられなかった分を取り戻すような触れ方をした。
家主のマアムにも根回しをしておいて、朝も昼も不要だと言っておいた。そうして、ほとんど確信犯的に結菜を抱いて離さなかったというわけである。さすがに自分の体力もそれほど残っておらず、しかしそれはそれで、結菜を物理的に抱き寄せて、気だるい身体のまま眠るのは非常に心地がいい。
日もだいぶ高くなっており、さすがに起きねばならないかと思うが、どうにも活動する気分にもなれないのは結菜の体温があるからだろうか。一人寝のときに寝台の中でゴロゴロするなど、非効率以外の何物でもないと思っていた。しかし結菜がいると事情は逆転する。結菜と一時でも離れるなど、非効率だ。
そんな風に己に言い訳をしながら、ふと窓の外を見る。
見覚えのある魔法の紙が、そこに挟まっていた。
魔法使いがよく使う連絡方法で、相手の魔力を目指して転移する小さな魔法が掛かっている。小さな魔法だが難易度は高く、高位の魔法使いしか使えないものだ。もっともジーノに届くのは、例えば仕事で急な用件が入った場合の呼び出しや、あとは師匠からの下らぬ今日の一言くらい程度だったが。
見て見ぬふりをするわけにもいかず、ジーノは渋々身体を起こして眼鏡を掛けた。
手を伸ばして手紙を取り上げ確認してみる。
「師匠……」
やはりというべきか、ジーノの師匠であり主席魔法使いグレイの印章が貼られてあった。封を切るには、送り主から教えてもらっている呪文を唱える必要がある。いつもの呪文を唱えると、シュウ……と小さな音がして封が開いた。そこには小さな紙が一枚入っていて、このように書かれていた。
今日なら俺も休みだしいつ出かけても大丈夫だぞ。
というわけで、いい店を見つけたので一緒に行かね?
ユイナちゃんの後見についても、ほら!話しておかないといけないしな!!
後見は不備なく受理されたものの、グレイとあまり対面させたくなくて、ユイナへの詳しい説明を後回しにしていたことは否めない。というより、グレイとは1度会っているし、別段用がなければ会わせなくてもいいかとすら思っていた。しかし、グレイには借りがある。すなわち、ユイナの後見人になってもらったという借り、そして、先日2冊の冊子を拝借したという借り。そして、先日、会いたいというグレイを振り払うため、「日程が合えば」と言ってしまっていたのだ。
ジーノが休暇を取っている日に結菜がやってきていることを、確かにグレイは知っている。しかし、貴重な時間なのだからほんの少しも邪魔をして欲しくないジーノにとって、全く「日程は合っていない」
ジーノは静かに寝台から下りてローブを羽織り、寝ている結菜の身体に毛布を掛け直す。もぞもぞと動いた結菜の前髪を一撫でしてから机に向かった。ペンをとって魔法の紙に何かを書き付ける。何か……といっても、もちろん断りの用件だ。日を改めて結菜の許可を得てから席を設けたい旨、実にもっともらしく書き付けて、封をする。
師匠の名前を添えて転移魔法を唱えると、手紙がフッと消えた。
同時に、リーン……と呼び鈴が鳴る。
「んんー……」
寝台の中で結菜の目が覚めたようだ。ジーノは額を押さえてため息を吐く。誰にも見られていなかったが、もし誰かに見られていたとしたら、ジーノの眉間に深く不機嫌な皺が刻まれていることを確認できただろう。
****
ジーノの支度は湯を使う程度でそれほど時間はかからないが、起き抜けの結菜の支度はかなりかかる。女性は化粧をするのだから仕方のないことだ。
グレイの来訪を知らせると、起き抜けの結菜は顔を赤くしたり青くしたりしていた。女性にとって、身支度の時間を想定した予定というのは重要な要素の一つらしいので当然だろう。ジーノがそれほど身支度に時間がかかる方ではないので、見積もりを甘くしていたら怒られたことがあった。それ以来、女性……結菜というのはある程度身支度に時間がかかるものだと認識している。
それについてはジーノは特に短気な方ではないのでかまわないのだが、待ち時間の間じゅう師匠の相手をするのが億劫だ。
「いやあ、急だから断られるかと思ったぞ」
「断りましたが」
「あれ? そうだっけ? でも前に、日程が合えば、って言ってただろ」
「日程は合っていません」
「あれ? そうだっけ?」
グレイがソファに座って何か封筒のようなものをひらひらさせながら、非常にわざとらしくきょとんとした。その手に持っている封筒がおそらくジーノが転送させた書簡だろうが、そんなことを言っても無駄だろう。
ジーノにはグレイを追い出す権利も勿論あるが、結菜が「せっかく来たんだから待っててもらって」と言ったのだから仕方がない。
「なあ、ところでジーノ」
「はい」
「その箱なに?」
グレイが指差すのは、居間のテーブルの片隅に置いてあった結菜からもらったチョコレーとやらの箱だ。ジーノはさりげなく箱を取り上げてガラス棚にしまうと「なんでもありません」と答えておいた。
「なんでもないってなんだよー、あやしーなー」
「師匠には関係のないものですよ」
「ユイナちゃんからもらったとか?」
「そうですが何か?」
そして、相変わらず慌てふためくこともなくあっさりと白状したジーノに、グレイがガタっと席を立った。
「なんだと!」
「なんですか」
「お前が、女性からものをもらうなどとあっていいのか!?」
「あって悪いのでしょうか」
「なあなあ、なにもらったんだ」
グレイのこの質問は、弟子からかいたさ半分と純粋な好奇心が半分だろうか。ジーノという男が恋人から何をもらうのか、興味津々の様子だ。
しかしジーノがそれに答える前に、身支度の終わった結菜がやってきた。
「こんにちは。グレイさん、お待たせしてしまってすみません」
それまでダラダラとソファに座っていたグレイがシャキンと立ち上がり、襟元を正すと完璧な作法で魔法使いの礼をとった。それに対して結菜もぺこりと頭をさげる。結菜の世界とこちらの世界、礼の方法が似ているのはなかなか興味深いことだった。
「ユイナ、気にしなくてもよいので……」
「やあ、ユイナ! こちらこそ、急に来てしまって申し訳なかったね」
さっとグレイが寄ってきたので、ジーノがさりげなく隣に並び、手を取ろうとするのを警戒する。紳士が淑女の手の甲に敬愛を込めた口付けをするのは当然だろう、というのはグレイ談。しかしジーノとしては面白くないことこの上ない。もちろん、グレイが中年であるにもかかわらず、無類の女性好きだからだ。しかもよくないことに、グレイはほぼどんな女性にモテる。
心配しているわけではないが、目の前でグレイに対して頬を染めている様子を見るのは愉快な話ではない。
とはいえ、結菜も作法の分からぬ女性ではなく、ジーノからもグレイからも少し距離を取って改めて挨拶をした。
「二人で過ごしているところをお邪魔したね」
「とんでもないです。今日はグレイさんもお休みですか?」
「そうなんだよ。せっかくユイナが来てるなら、美味しいお酒でもどうかなと思ってね」
「お酒、ですか」
「苦手かな?」
結菜が「いいえ、人並み程度なら」答える。グレイが無言を貫くジーノの無表情を見遣って、ニヤリと笑った。