昼にしては少し遅く、夕食にしては少し早い。しかし、食事をしていなかった二人にはちょうどいい頃合いだ。グレイが案内してくれたのは、ジーノの住まう住宅街から少し歩いたところにある小さな品のいい料理屋だった。
カウンターに近いテーブル席に、ジーノと隣り合わせに座り、グレイは向かいの席に着く。
リュチアーノの料理も結菜の住んでいる世界と同じように、前菜のような軽くあっさりとした料理が出され、その後メインとなるような重量感のある料理、その合間にスープや、ほっこりとした味の芋や小麦粉のようなものを使った飽きのこない主食が出される。食後は甘いものとお茶……という流れも概ね同じだ。よく考えたら食文化も違うはずなのだが、散々食べた後にメインディッシュが出たり、仕上げに野菜サラダが出されたりするとちょっと驚くと思うので、違和感がなくて良かったと思う。
ただし今日連れてきてもらった料理屋は、そうした料理の順番にこだわるようなお店というわけでもないらしい。こうした店に来た時、いつもはジーノが全て頼んでくれているのだが、今日はレディファーストだからか結菜に一番にメニューが渡された。
だが読めない。
しまった。
好きなものを注文していいよとニコニコしているグレイに結菜は愛想笑いを浮かべて、ちらりとジーノを見上げた。心得たようにジーノは結菜に顔を近づけて、メニューを覗き込んでくれる。
「ユイナの好きなダッカスやキウリナの料理がありますよ」
「どれ?」
「これなら、あまり味付けは濃くなさそうですね。こちらにしますか?」
指を指されたところに何かの文字と絵が描かれているが、どういうものかはよく分からない。とりあえず頷いて、ジーノに任せる。ちなみにダッカスというのはにんじんによく似た根菜で、キウリナというのは豚肉に似た味と色合いの肉だ(だが魚らしい)。ジーノは結菜があまり味の濃いものを好まないのを知っている。マアムと一緒に食事を作る時、いつも薄味にしてしまうからだ。だから、味の濃いものを避けてくれるのだろう。日本人の結菜は普通に普通の日本食が好きである。
ジーノに任せると他にいくつか頼んでくれた。グレイに視線を寄こすと、心得たようにグレイもおすすめの料理を注文してくれる。この辺り、グレイは本当にスマートだと結菜は感心する。
店主が持ってきた酒をグレイは「トカナ」と呼んでいた。ラシュテアという隣国で生産されたもので、王と王妃の婚姻の記念に作られた、まだ「若い」ものだそうだ。
「若いって、どれくらいですか?」
「一年くらいだね」
グレイが答えて、結菜はほほうと頷く。結菜は酒には別段詳しくないが、すごーく古いものが珍重されていたり、何年もの、みたいな区別で値段が変わったり、それくらいの知識ならある。というか、つまりその程度の知識だが、一つ分かったことは、リュチアーノ……ジーノのいるこの世界でも、この手のお酒に若い・若くないという味の好みや仕分けがある、ということだ。
デカンタのような入れ物に入れられた琥珀色の液体を、小さなグラスに注いでもらって香りを嗅いでみると、驚いたことにやはりワインのような香りがした。
飲んでみると、少し甘くて飲みやすい、渋みの少ないフルーツのような味わいだ。
「うわあ、おいしいですね、飲みやすくて」
「それはよかった」
グレイがグラスを軽く持ち上げて片目を瞑る。お茶目な紳士のウインクの仕草は、他の人がやると全く冴えないものになりそうなのに、グレイがやると本当に様になっていた。ちょっと見惚れる。しかもこの紳士の素敵なところは、大人の色気も円熟味もあるのに、女性に対して生々しい危機感を持たせないところだ。つまり安心してエスコートを楽しめる。
軽い雑談を交わしていると料理が運ばれてきた。クリームチーズのようなものや、歯ごたえのある海老のような魚介のフライ、酸味のきいた野菜(これは炒めている気がするが脂っぽくはない)など、味付けはどれも小洒落た居酒屋で食べるような雰囲気のもので、どれもクセがなく食べやすい。グレイと料理について話しながら気がついたことだが、異国人の結菜を気遣って、食べやすい味のものを選んでくれたようだ。
「あ、いい香り。おいしそう」
多分だが、いわゆるメインになるような大きな料理が来たようだ。ソースは添えておらず、そのかわりに良い香りのするスパイスがかかっている。その香りというのが、たとえて言うとお好み焼きのソースをあっさりさせたような香りで、ちょうどいい具合に食欲をそそった。
ウキウキした気分で運ばれてくる料理を見送っていると、はたとグレイと目があう。
グレイはやけに愉快そうに笑っていた。
「すみません、あんまりおいしそうな香りだったから」
「いやいや、楽しそうな表情の女性を見るのは大好きだよ」
おいしそうな料理を見て顔が緩んでしまった自覚はあるので結菜は思わず赤面する。顔が熱くなったので赤面したなと思った瞬間、その頬を冷やすように冷たい指先が触れた。
え、と思って指の主を見ると当然ジーノである。
そしてジーノの顔を見ると、切れ長の瞳がほんの少し鋭くなっていた。
「顔が赤いですね、ユイナ」
「そんなことないよ?」
「そうですか、酔いましたか?」
酔っているかどうかと問われると、先ほどから少しずつ飲んでいるトカナは、普通にいつも飲んでいる甘いカクテルのようなものに比べてアルコール度数は高い気がする。しかし酔っているほどではないと思う。
「酔ってない」
「そうですか?」
言いながら、ジーノが料理を取り分けてくれた。見ると、パスタのような炭水化物っぽいものと一緒に肉と野菜が混ざっている。例えていえば、焼きそばを四角く固めてたっぷりのオイルでこんがり焼いた感じのもの。予想通り香ばしい味がして、塩加減と旨味が程よく食べやすいし、お酒にも合う。
「ユイナ、飲みすぎてはいけませんよ」
ジーノがフラットな声でたしなめる。もちろんジーノもグラスに口をつけていた。そういえばジーノは食事の時は、必ず結菜と同じものを飲んだり食べたりしているのだが、酒を飲んだことはなかった。ジーノも酔ったりすることがあるのだろうか。ちょっと想像がつかない。
「ジーノもお酒飲むんだね」
「おやジーノ、お前、せっかくこんなに可愛いユイナちゃんと一緒に酒をたしなんだりしないのか?」
結菜の言葉に答えたのはグレイだ。肝心のジーノはちらりと視線を持ち上げる。全くペースを崩すことなく、一口琥珀に口をつけると、グラスを置いた。
「せっかくユイナが来ているのに、酩酊するのはもったいないでしょう、普通の状態でユイナの姿を見なければ」
ブシュー、とグレイが飲みかけていた酒精を吹き出す。所作の美しい老紳士がコントのように飲み物を吹き出す絵面を初めて見たなと思う暇なく、結菜は赤面した。
「ちょ、ちょっと、ジーノ」
慌てて呼びかけてみたが、だがなんと言っていいのかもよく分からない。しかもジーノは真顔で(常に真顔だが)隣に座った結菜に視線を傾け、なぜ咎められたのか全く心当たりのないように頷いた。
「はい」
「は、はいじゃなくて」
「ユイナ、どうしました? 何かおかしなことが?」
ジーノが首を傾げたが、それに反応したのはグレイだ。
「もしかしてジーノ、お前酔ってるだろう?」
瞳を期待に輝かせたグレイに視線をやり、ジーノがわずかに眉間に皺を寄せた。眼鏡の位置を直す仕草も常のように淡々とした様子だったが、結菜とグレイにはジーノがほんの少し、不機嫌な風にも見えた。
「何を言っているのですか? 先ほども言いましたが、私はユイナが来ている間は酩酊しません」
「だが飲んでるだろう。少しは酔っているのではないか?」
「この程度では酔いません。師匠は私と何度かこうして飲んだことがあるからご存知でしょう」
そう言われてグレイは顎を撫でた。確かにジーノの上司という職業柄、ジーノを伴って酒の席に着いたことはある。グレイは主席、ジーノは次席の魔法使いなのだ。貴族や商人、騎士団長や宰相、果ては国王や王太子のような身分の者とも食事をすることがあるし、食事をすれば酒も出る。もっとも女ならともかく、男がどの程度飲んだら酩酊するかなど興味もないから注意したことなどないが、それでも記憶を辿れば、この程度の酒精で酔った言動をしたことはないはずだ。
しかし、言動だけで言えば今もジーノの言動は変化があるわけではなく、そもそもこの無表情で酔ったとしても分からないのではないか? ジーノの顔色も目の色も、酔った男のそれではないし、外からの見た目では分からない。
「ユイナちゃん、ジーノは酔っているだろう? そう思わないか?」
「えっ?」
最後の頼みの綱である結菜に同意を求めてみたが、これもまた微妙な顔をした。隣に座っているジーノを覗き込んだり、じーっと見つめたりしているが、いまいちよく分からないようだ。
「ジーノ、酔ってる?」
「ユイナまで。私が酔っているように見えますか?」
「うーん」
結菜の目にジーノはいつもの通りに見える。
……と言った結菜のセリフにグレイは思わず「ああ、あれで?」とガラの悪い巻き舌になってしまった。いつも通りというのはそれはそれで聞き捨てならない。酔っていないのにアレ、無表情の変人が酔っていないのにあの言動。確かに表情は変わっていないが、むしろ表情が変わっていないのが酔っている証だろうか、いやむしろジーノだからこそ酔っていても表情が変わらないのか、普段からああなのか。
くそう、混乱する。
「これでいつも通りなのか! ジーノが?」
「えっと、まあ、はい」
少し赤面し、瞳を泳がせながら結菜が頷く。どうやら結菜にはジーノが通常営業に見えるらしい。つまりああしたセリフを無表情で発言するのが常であるということだ。グレイはジーノが結菜に対して甘い顔でかすかに笑みを浮かべるところを見たし、そうした表情の崩れるところをからかい半分で見てみたいと思っていたが、それよりももっと破壊力の高いものがあった。
……それはすなわち、ジーノの女……ユイナを口説く言動だ。
「おい、ジーノ、ユイナちゃんを褒めてみろ」
「は? 褒める? どのようにですか」
「どのようにでもいいんだよ、いつも褒めてるようにだ」
結菜が明らかにウゲゲという顔をした。変なことを言わないで、とでも言おうとしたのだろうか、わずかに口を開きかけたが、そうした言葉を遮るようにジーノが真顔で言った。
「……ユイナ、いつも言っていますがあなたは愛らしい、黒い髪も、瞳も、はだ」
「やめてくれ!」
「師匠が褒めろと言ったのでしょう」
ジーノが表情を変えずに眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。
確かに褒めろと言ったのはグレイである。しかし想像以上に聞くに堪えなかった。主に甘すぎて胸焼けを起こしたのだ。今はまだ酒と旨い料理が並んでおり、デザートには早すぎる。
なんということだ。ジーノは無表情だから女に対しては不器用な朴念仁なのだとばかり思っていた。だからこそ、あのジーノがどのように女を口説いたのか、普段はどのように結菜と接しているのか興味があったのだ。だがよくわからない方向に目論みが外れた。グレイの記憶にある限り、ジーノが女を褒めたことは一度とてない。例えば夜会などで女性を紹介するものの常に無言であるから、業を煮やして何か言えと言っても「特にありません」などという、いっそ言わないほうがマシな言葉しか言わなかったジーノが……。
もう一度、結菜に聞いてみる。
「なあユイナちゃん、ジーノは酔っていると思わないか?」
「えっ……」
ジーノの言葉に頬を染めて挙動不審になっていた結菜は、瞳を瞬かせて再びジーノをまじまじと見つめた。
「えっと……ジーノ、酔って、る?」
「酔っているように見えますか?」
「やっぱりちょっと分からないかな……」
先ほどと全く変わらぬ不毛な会話をして終わった。
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デザートはココナツミルクのような甘いスープに、白いムースのようなものが浮いている一品だった。これがまた美味しくて、これが沙也加あたりと来ていたら「うわあうわあ」とはしゃいでいたに違いない。しかし今はジーノだけならともかくグレイも一緒だ。いい歳してデザートにはしゃぐのもどうかと思ったので、一口一口大事に食べて、感動に打ち震えるだけに留めた。スープもムースも甘いのに後口がさっぱりとしていていくらでも食べられそうだ。結局感動に打ち震えているのがバレて、ジーノの分も半分もらった。
ジーノからの恥ずかしい発言はあったものの、思いの外食事を楽しんで帰路に着くと、その道すがらグレイに話しかけられた。
「本当は君の国の話や、こちらの文化の話などをしようと思っていたのだが、仲のいいところを見せてもらっただけに終わってしまったな」
「す、すみません」
「いや、ユイナちゃんは悪くないよ。私が悪い」
中年紳士の余裕の笑みで、グレイが肩を竦める。そうして結菜の顔のそばに自分の顔を寄せると、内緒話でもするかのようにヒソヒソと言った。
「前にも言ったがあの無表情がどのようにユイナちゃんと話しているのか、あいつを見ていたらどうもからかいたくなってしまってね」
そう言って「すまないね」と謝罪の言葉を口にしたグレイに、結菜は慌てて首を振った。
「そんな、すごく楽しかったですよ! 料理も美味しかったですし、グレイさんやジーノとお酒を飲めたのも楽しかったです」
「そうそう、それだ。こんな可愛らしい恋人がいるのに酒の一つにも誘わないなど、けしからんやつだな」
グレイは「こんな可愛らしい」という部分で両手を挙げ、結菜の肩を抱き寄せるような真似事をする。もちろん本当に触れるわけではなく、素敵な紳士が女性を護衛しながらエスコートするような仕草だ。少し斜め後ろから覗き込まれるように微笑まれると、これは結菜でなくても女性ならば誰でも頬を染めてしまうだろう。
「ジーノを飲ませたかったらまた言っておくれ。いい店を探して……」
結菜とのおしゃべりは、グエェという前にも聞いたような奇怪な声になって終わった。ジーノがグレイの背後に回って服の襟を掴んだのだ。ジーノはすぐに襟を放すと、結菜とグレイの間に割り込む。
「よい店を紹介していただきありがとうございました師匠」
本当に感謝しているのかしていないのか全く分からない平坦な口調でジーノがグレイに視線を向けた。恋は男の頭を悪くするものだと知っているが、あのジーノもこうなってしまうのだから、確かにこの弟子も真っ当な男だったというわけだ。ご婦人の素晴らしさを布教する必要はなかった。
「え、いやなんかお前に感謝されると怖いんだけど。でもまたユイナちゃんの話を聞かせて欲しいな」
もう少しからかいたい気もするが、後見人として多少真面目に仕事をしてやるのも悪くはない。前半はジーノに、後半は結菜に言葉を返しながら、だがまた嫉妬を買うかと思っていたら、ジーノはしばらくの間グレイに視線を向け、何事かを一考して言った。
「そうですね。よしくお願いします」
「お」
おう。
何を思ったのか、あれだけ結菜に触るな結菜に話すなという顔をしていた(顔は無表情なので正直分からないが)ジーノが、案外あっさり頷いたことに虚を突かれ、その日は解散となった。
結局ジーノが酔っていたかどうかは分からなかった。