彩乃がシャワーを浴びている間に、山科がコーヒーを淹れてくれていた。
「いい匂い」
「飲むか」
「いただきます」
「……俺もシャワー浴びてくる」
彩乃がマグカップを受け取ると、入れ替わるように山科がシャワーへ向かった。その背中を見ていると、昨晩のことが思い出されてしまう。触れ合っていた時はそんなことを感じる余裕もなかったが、朝、起きた時に見た山科の身体にはしっかりと筋肉が付いていて、触れた時の堅い肌触りを思い出して顔が熱くなってしまう。
身体はそれほど痛くはなかったが、初めての痛みよりも、むしろ足の付け根の関節が筋肉痛のように痛む方が気になる。なぜそうなったかは明らかで、今までしたことのないような格好で揺さぶられたからだ。
「朝飯はどうする。どこかに寄るか」
「うわ!」
昨晩のことを考えていると山科から声をかけられて思わず飛び上がる。「どうした?」と問われたが、シャワー上がりでまだ薄着の山科は、身体のラインもくっきりと見え、否が応でもいろいろ思い出す。顔を赤くしながら答えに窮していると、山科もソファの隣に座った。
マグが取り上げられ、やんわりと抱き寄せられる。
シャワーを浴びた直後の肌は、昨日の晩と同じのはずなのに、どこか違う香りと感触だ。ぎゅ、としがみついてみると、山科の手がゆっくりと髪を撫でてくれる。好きな人というのはすごい。何も話さないのに、ずっとこうしていられる。
「時間がすぐに経ってしまいそうだな」
「あの、昨日買ったビスケット、食べますか?」
「ああ」
その言葉には、暗に、早くしないと準備が遅れる……というお互いへの警告も含んでいるのに、しかし、なかなか離れがたく、山科は彩乃の提案を受け入れてくれた。
結局、身支度をして間に合うギリギリの時間まで二人でこうしてソファで身を寄せ合って、ポツポツと色々な話をしながら、ビスケットをつまむだけの朝食を済ませたのだった。
****
正午過ぎに到着するように部屋を出て、山科は彩乃と共に、彩乃の実家を訪ねた。
空けておいてくれたという車庫をありがたく使わせていただいて、玄関へ向かう時、彩乃の視線がちらりと隣家に向けられ、思わず手を握る。
「大丈夫」
にっこりと笑うその顔を見て、山科は静かに頷いた。本当は大丈夫ではないのかもしれない。いくら山科が彩乃を強く抱いたとて、彰という男の間にあったことが、無かったことになるわけではないのだ。だが、少なくとも今は、彩乃の心は落ち着いているように見えたし、事実、彩乃自身不思議なほど落ち着いていた。
玄関を開けると、彩乃の母親と、そして姉が出迎えてくれた。
「彩乃!!」
入るなり、彩乃の姉らしき人が飛び出してくる。思わず前に出た彩乃が、ぎゅっと抱きしめられ、イイコイイコと頭を撫でられた。
「お、お姉ちゃん」
「彩乃ー!! おかえり!」
「ん、ただいま」
彩乃が姉からの熱烈な歓迎を受けている間、彩乃の母が瞳を輝かせて山科を見ている。視線があって、山科は丁寧に一礼をした。
「山科薫といいます」
「まあ……!! 山科さん! 彩乃がお世話になってます」
「いえ、とんでもありません」
「彩乃ちゃんがお付き合いしている人を連れてくるなんていうから、楽しみにしてたの。どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
テンションは姉の美乃梨に似ているようだ。ただ、こじんまりとした小動物的な愛らしさは彩乃に似ている。彩乃に勧められた洋菓子店で買ったケーキを渡すと、彩乃の母はいまだに姉妹で仲良くくっつきあっている美乃梨の背中をばちんと叩いた。
「 美乃梨ちゃん!、ご挨拶しなさいな」
美乃梨がハッと気付いたように背筋を伸ばす。
「あ、ごめんなさい、ご挨拶が遅れてしまって。……彩乃の姉の、美乃梨です」
「山科です」
そう言ってこちらにも軽く会釈すると、パッと花が咲くように笑う。美乃梨は彩乃よりも背が高く、顔立ちはどちらかというとはっきりしているようだ。しっかり者のいかにも姉という雰囲気だった。
彩乃から聞いた話によれば、美乃梨は彩乃が山科と一緒に居る事情を知っている。彩乃と母親が先にリビングに入った後、山科を案内しながら、美乃梨が先ほどまでのからりとした笑顔を収め、静かに笑んだ。
「彩乃のこと、ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方です。わがままを聞いてもらいました」
「本当に気にしないで。私がお願いしたのだから」
そう言って小さく笑う。真面目そうな優しい笑顔は彩乃によく似ていた。
「彩乃さんに」
「ん?」
「似ていますね。やはり」
そのようにいうと、少し目を丸くして、今度は明るい笑顔で楽しげに頷いた。「あまり言われないからすごく嬉しいわ」という一言を添えられる。仲が良い姉妹なのだろう。
リビングに招き入れられると、父親と……そして山科と同じくらいの男性……彰の兄、隼人が立ち上がった。
「よく来てくれたね、山科くん。彩乃が世話になったようだ」
「いえ、こちらこそ。ご家族の時間をお邪魔してしまい申し訳ありません」
「邪魔などとんでもないよ。彩乃のことを考えてくれてありがとう」
彩乃の父親は、山科ほど背が高いわけではないが、体格のいい穏やかそうな人だ。彩乃の落ち着きのある雰囲気は、父親に似たのだろう。静かで落ち着きのある父親と、天真爛漫な母親、しかしどちらもなるほど、彩乃の両親だという気がした。家の中も整然としているが、程よく心地がいいのが一目で分かる。
そしてもう一人の男に視線を移した。
視線で促されるように、会釈しながらソファの隣に座る。美乃梨の夫だという隼人は、無口な男性だと聞いている。しかしそれだけではない緊張感があった。その緊張感の正体を山科は知っている。彰が彩乃にした行為、隼人はそれを知っていて、そして隼人は彰の兄なのだ。山科に恨まれても仕方がない。たとえそれが本人ではなかったとしても。
しかし、もちろんそれが見当違いの思いであることも山科は理解している。彰の弟であると同時に、彩乃の恩人だ。あの時隼人が帰ってこなければ、彩乃はどうなっていたか分からない。
そう思うと、山科の心の奥底が、ざりざりとやすりで削られるような感触がして、思わず強くこぶしを握った。
それをどうとらえたのか、隼人が一層神妙な顔つきになった。慌てて拳を解き、出来る限りフラットな表情を心がける。隼人もまた、わずかながら緊張を解いた。
「美乃梨の夫の一宮……隼人だ」
「山科薫です」
何度目かの自己紹介をすると、隼人が頷く。何かを言いかけたが、結局は沈黙した。ただ、今はその方が助かった。台所へ連れて行かれた彩乃に視線を向けると、心配そうにこちらを見ている。ここで彰のことを話題に出すのは場違いだろうし、何より今日は、そんなことのためにここに来たわけではないのだ。
話の主導権は彩乃の父親が握り、上手い具合に、勤めている会社の話や、仕事の話を交換する。女性陣は女性陣で、昼食の用意をしているようだった。山科の家は男兄弟ばかりだったし、両親は共働きで出来合いの夕食が多く、手の込んだ料理が出ることも作ることも少ない家庭だった。女性が三人も並んで台所に立っている様子を見るのは新鮮だ。
「やっぱりちらし寿司だったでしょう?」
「ああ、彩乃が言っていた通り、とても美味しい」
「あら! やっぱりってなあに? いいじゃない、得意料理なんだから!」
「彩乃さんが言っていました。本当に美味しいですね」
出てきたのは大きな寿司桶に作られたちらし寿司で、かなり豪華な見た目のように思ったが、特別贅沢な具は何も入っていないのだという。だが、普通のちらし寿司よりも酢飯の味がまろやかで食べやすい。勧められるままにおかわりをいただきながら、彩乃とともに素直な味の感想を述べると、彩乃の母がはしゃいだ風に笑顔になった。
「うふふ、若い男の子はやっぱりたくさん食べてくれて嬉しいわ! ちらし寿司はこうしてたくさん作ったほうが美味しいの」
「家内のこれは、美味いだろう。彩乃にも作ってもらうといい」
彩乃の父に話を聞くと、ちらし寿司……寿司飯の作り方は、美乃梨と彩乃の二人に何度も教えたのだという。
「作れるのか?」
「えっと、教えてもらったけど……一人暮らしだから作ったことはない、です」
「美乃梨も得意だな」
今まであまり話していなかった隼人がわずかに口元を緩めてそのように言い添えると、美乃梨が少し頬を染めて「まあね」と肩をすくめた。彩乃の両親も、そして姉夫妻も、何のてらいもなく妻を褒める夫の姿は微笑ましく、清々しい。
心地の良い食事会だった。
食事が終わり、女性陣達が後片付けに立つ中、山科は彩乃の父に呼び止められた。
「山科くん」
飲みかけていたコーヒーを置いて、背筋を伸ばす。
「彩乃のことをよろしく頼む……というと、月並みだが」
「はい」
「父親としては、それしか言うことがない。彩乃は姉とも仲が良かったし、おとなしい子だったからずっと家にいると思ったのに、真っ先に出て行ったんだよ。案外押しが強くて、頑固だろう」
「そうですね。自分の意見があって、真面目ないい子だと思います」
「ありがとう。……家族は、彩乃が、なぜ早々に家を出たがったのか、その根本にある原因を知っている。今まで男性と付き合いらしい付き合いをしていない……出来ていない理由も」
彩乃が家族とも仲が良かったのに家を出たがった理由。それはひとえに、隣人の彰の存在だろう。話の場にもいた隼人にもちらりと視線を向けてみたが、眉間に皺を刻んだまま、黙って彩乃の父の……彼にとっては義父にあたる人の話を聞いている。
「家族では出来ないこともある。……これからもいい付き合いをしてやってくれ」
****
山科が持ってきたケーキを食後のデザートに食べた後、当初の彩乃の予定通り、美乃梨・隼人夫妻と共に買い物に出かけることになった。以前彩乃と花瓶を買いに行ったショッピングモールだ。
美乃梨と彩乃が二人で買い物を始めると、やはり女同士だからか長いのだという。まだお腹が目立っていない美乃梨は、ベビー服もそこそこに、彩乃の洋服を見に専門店へ入っていった。楽しげな二人を待つ間、山科は隼人と二人で話す機会に恵まれる。
「弟が……迷惑をかけた。すまない……謝って済むことではないと分かっているが、本当に申し訳なかった」
「いえ、隼人さんが謝ることではないでしょう。それに、謝罪する相手は彩乃の方だ」
「ああ」
無論、隼人も分かっているのだろう。それでも謝らずにはいられない。気持ちは痛いほど分かる。しかし、彩乃でない山科には許すことは出来ないし、彩乃の恋人としても許すことはできなかった。ただ、それは隼人に対しての感情ではない。一宮彰に対してだ。
隼人は山科の一つ上で二十八歳、彰は彩乃と同じ二十四歳だという。
「それならば、もう分別がついているはずです。自分のやったことを分かっているはずだ」
「もちろん分かっている。分かっていたんだろうに……本当に、どうしようもない弟だ」
「……彼は、」
「ああ」
「彩乃にだけ、ああなんですか?」
「彩乃ちゃんにだけ、ああだな」
隼人が長い溜息を吐く。どのように言えばいいのか悩んでいる風で、一つ一つの言葉を丁寧に選びながら、話し始めた。