021.過去が重なる、今

一宮家の隣に湯木一家が引っ越してきたのは、彰が幼稚園の時、隼人は小学生の時だった。彰は賢く顔も整っていて、誰からも好かれる一方で、なぜか彩乃にだけは嫌われた。

「多分、最初が悪かったんだ。彰は俺や美乃梨にするような強気ないたずらを、彩乃にしでかした」

それは相手によっては軽くあしらわれるような悪戯だったのだろう。おもちゃを取り上げるとか、虫を投げるとか、そういう類のものだ。美乃梨は気が強く、隼人はおおらかで、いい意味でも悪い意味でも彰のやることに動じなかったし、彰がそういう真似をすれば構ってやっていた。だから彰も、いつもの通りやれば彩乃の気が引けると思ったのだ。

しかし彩乃は違った。これは親に聞いた話だが、砂の中に虫が隠されている団子を渡されたとき、彩乃は大泣きしたらしい。

よくある、些細な出来事だ。

それだけを聞いたらあまりにもかわいらしく、あまりにも幼い光景だった。だから、お互いの両親は最初は気にも留めなかった。彩乃に怪我をさせるようなことをすれば別だったかもしれないが、幸いなことに彰はそのようなことはしなかった。

彩乃の両親は隣人を避けるわけにもいかなかったし、彰達の両親も、その時は叱るものの、どこかほほえましいものを見るような雰囲気が漂っていた。多分、二人は仲良くやっていると思っていたはずだ。

だが彩乃にとっては違っていた。それはそうだろう。幼稚園児だったとしても恐怖で大泣きしたのだから、それを忘れるはずがない。彩乃は彰に多大な警戒心を覚え、彰に近づかなくなった。逆に彰は、彩乃の気を引くために、どんどんやることをエスカレートさせていった。

美乃梨が妹を連れてくると、隼人は彰を連れて行けない。彩乃をいじめると美乃梨が彰を怒るからだ。逆に、彰がついて来ると美乃梨が妹に気を使う。一緒に遊ぶときは子供心に相当緊張したという。彩乃はそういう空気感を早々に気がついたのか、美乃梨や隼人を遠巻きに眺めるようになり、彰の気配を感じると一人で遊ぶようになった。

彰は彰で、彩乃に避けられれば避けられるほど、意固地に追いかけ回した。

その関係を変える機会はあったはずだ。一言、彰が彩乃に謝っていれば、一度でも彰が彩乃に優しくしていれば、もしかしたら彩乃は彰の方を振り向いたかもしれない。しかし幼い彰にはそれが出来なかった。

「幼稚園、小学生、中学生、ずっと変わらなかったよ。彰は彩乃ちゃんをいじめ、彩乃ちゃんは一貫して彰を避けた。まあ、当然だろうな。言葉を交わせばきついことを言われ、大人に訴えても聞いてもらえない。……俺は、恥ずかしながらその頃から、美乃梨のことばかり追いかけていて、彰にかまってやれなかった」

美乃梨と隼人がうまくやっていることも、彰をそうさせた要因の一つだったと今なら分かる。兄は幼馴染と仲が良くて楽しそうなのに、自分は彩乃とうまくいかない。そして、彰はどんな人とも仲良くなれたが、あの当時、彩乃だけが彰に見向きもしなかった。

小学校の低学年くらいになるまで、子供のことだから……と互いの両親が楽観視していたこともある。しかし、ある程度分別がつくようになってからも、まだ彰が彩乃のことを追いかけ回すのを見て、両親もかなりきつく彰を注意した。

隣人と、隣人の子供達。

両親は彼らを仲良くさせることを諦められなかった。美乃梨と隼人のようにとは言わない。ただ、よき隣人として穏やかにやっていける程度の分別をつけて欲しいと願った。

「だが彰の方は……彩乃ちゃんとどう接すればいいのか、分からなくなってきたのかもしれない。中学生になってもあいつはまだ同じようなことをしていて、それで……」

彩乃の眼鏡を割ってしまった。

その話を聞いたことのある山科は静かに頷く。

あの時、あの出来事で、彰と彩乃の決裂は決定的なものになった。両親は彰を連れて彩乃に謝罪を申し入れたが、本人には受け入れられなかった。非常に姑息な言い方ではあるが、両親を連れて行けば、優しく内向的な彩乃は彰の謝罪を受け入れるだろうという大人の打算もあった。しかし、受け入れられなかった。これはかなり、双方の家族に衝撃を与えた。

なぜか彰は彩乃を目の敵のように扱っている。それがどのような感情なのか家族には明確に出来ず、それがもし……もし、彩乃への好意から来ているとしたら、彩乃のためにも、それを応援することは出来ない。

家族は二人の仲を修復しようとするのは諦めざるを得なかった。一宮家で彩乃の話題が出ることはなくなり、湯木家で彰の話題が出ることはなくなった。両家には不思議な緊張感が漂い、高校生になれば彰と彩乃が会うことはほぼ無くなった。

「彩乃ちゃんは大学進学と同時に家を出た。彰には言わなかったが、うちの両親はかなりショックを受けてたよ。……通えない距離ではないのに一人暮らしを始めたと聞いたし、彩乃ちゃんは家族と仲が良かったから、まさか家を出るとは思わなかった」

それが自分たちの息子のせいかもしれないと思うといたたまれなかっただろうし、さらに言えば、隼人が美乃梨と結婚するということも、また、どことなく複雑な感情を伴ったに違いなかった。決して悪いことをしているわけではないのに。

結婚をすれば両家が顔を合わせることもある。ただ、そういう時は常に家族がいるから、二人きりになることは無い。彩乃は強い意志で彰を無視していたし、彰は時折彩乃に射るような視線を送るものの、何かを口出しするということはなかった。彰もそれだけ分別がついたのだ、と……そう、誰もが思っていた。

実際そうだったのだろう。彩乃が一人暮らしを始めてから六年が経っている。

そう思っていた矢先の、出来事だった。

「彩乃が、何をされたかはご存知ですか」

「知っている。……玄関を開けた時に、重なっていたから」

隼人が苦渋を滲ませた声を吐いた時、山科もまた、ギリギリと拳を握った。直後に頬を張る音が聞こえ、一瞬殴るのが遅れた。彰が離れ、まだ生意気な口を叩こうとしていたのを見て、隼人も頭に血が昇る。

手加減を忘れて、殴り飛ばした。

「彩乃ちゃんが忘れていった眼鏡は、届けておいた」

「……そうですか。彰は何て?」

「なぜ、今になって」

「今に、なって?」

「ああ。なぜ、今になって、あの男……君の、薫くんのことを言う時だけ、俺の方を向くんだ、と」

今になって。

そのように言われて、山科は、彰とショッピングモールですれ違った時のことを思い出す。あの時、彩乃は嫌悪感や困惑の表情を見せていたものの、彰のことを無視せずに応対していたような気がする。別れる時に、ぺこりと一礼までしたのだ。ただ、気になったこともある。彰は彩乃が正面を向いた時、明らかに不機嫌な顔をした。

最初は彩乃の隣に山科がいるからだと思っていた。しかし、それだけではなかったのかもしれない。

山科がその出来事を話すと、隼人は深いため息を吐いた。

「彰がまともに彩乃ちゃんと話すのは、多分六年以上ぶりだったろうな」

彩乃が家を出てから、少なくとも二人きりで彰と接触したことはない。彩乃が初めて振り向いた時、彩乃の隣には山科が居た。ずっとくすぶっていた何らかの想いが、プツンと切れたのかもしれなかった。

だが全ては憶測だ。どちらにしても、彰はやってはいけないことをした。どんな理由があれ、許すつもりは毛頭無い。

そう口に出したわけでは無いが、隼人が静かに続ける。

「許してもらいたくて、話したわけじゃない」

「ええ」

「彩乃ちゃんを」

買い物をしている美乃梨と彩乃に視線を傾ける。

「俺がこんなことを言うのはおこがましいかもしれないが、義妹いもうとを、大事に守ってやってほしい」

彩乃が異性を苦手にしているという話に、彰や彰の家族が責任を感じるなどと傲慢なことかもしれない。他所から見れば、たかが幼馴染と仲違いしているだけで大げさではないかと言われても仕方がない。それでも、彩乃が掴みかけた幸せを、壊すような真似はさせたくないし、したくない。

隼人にとっても、また、彩乃は可愛い幼馴染の女の子に違いないのだ。

「彼は、……彩乃に謝りたいと思っているんでしょうか」

「それは分からない……ただ、あの後もう一発、抵抗せず、黙って殴られてた」

いつもはたとえ己が悪くても、なかなかその非を認めようとしない我儘な彰だったが、隼人に殴られた後はやけに素直で、おとなしかった。社会人になってからも軽薄で遊び好きなところのあった彰だが、昨晩はおとなしく、どことなく静かな眼差しになっていた。

いずれ腹を割って話すつもりだと隼人は言う。

一宮家と湯木家、隼人と美乃梨、彼らは確かに仲のいい隣人だったはずで、彰と彩乃もそうなることが出来るはずだった。それだけに、今の状況の複雑さを思うと色々と割り切れないものもあるだろう。山科は許すわけではなく、ただ、隼人の心情に頷いた。

「隼人さんは悪くありません。……何度も言いますが、悪いのは彰だ。いくら小さい頃にかまってもらえなかったからといって、今はもう、いい大人で、やっていいことと悪いことの判断が付かないような子供じゃない」

「その通りだ」

「それに彰がもし、彩乃に謝りたいと思っているなら」

長い息を吐き、山科は床に視線を落とした。もし、彰が彩乃に謝罪したいと思っているのであれば、それが叶わないのが一番の、罰だろう。

「彼に、彩乃に謝る機会を与えたくない」

これが正しい判断かどうかは分からない。だが、彰はおそらく何度かあっただろう謝罪の機会を全て逃し、挙句、嫌がる彩乃に最悪な形で触れたのだ。彰が彩乃を好きかどうかは関係ない。だが、山科はショッピングモールで彰と会った時の、はっきりとこちらを敵視していたような表情も忘れてはいない。

もし穏やかに彩乃に会いたいと思っているのであれば、たとえ、山科の心が狭いと言われたとしても、そんな機会は与えてやれない。

「分かった」

隼人は頷いて、視線を上げた。つられて山科も視線を上げると、買い物した紙袋を持った彼らの愛する姉妹がこちらにやってくる。ちらりと隼人の横顔を伺うと、こちらが赤くなるほど甘く蕩けた顔をして、美乃梨を見ていた。

自分もあんな顔になっているのだろうかと、口元を押さえ、立ち上がって彩乃を出迎える。

「長くなってごめんなさい」

「いや、大丈夫だ。何か買ったのか」

「すごくかわいいワンピースがありました」

「今度見せてくれ」

そう言うと、彩乃が頬を染めて笑顔で頷く。隣では美乃梨の話を穏やかに聞いている隼人がいた。そうした幼馴染の恋を成就させた二人を見ていると、ありもしない妄想が心にわだかまる。

もし、彰が優しい隣人であったなら、彩乃は彰と何か別の関係になっていただろうか。

彩乃が言っていた。隣に住んでいる男の子、意地悪されても、仲良くなっても、なぜかそれを人は「幼馴染」と呼ぶ。そして「幼馴染」と呼ばれるだけで、人はそこに淡い恋心を連想してしまう。彩乃の愛情を真実、信じている山科ですら、彩乃と彰のそうした可能性が小さな小さな棘のように心のどこかに刺さったのだ。この話を彩乃から聞かされた時、「そんな風に言われるのは本当に嫌」とうんざりしていたのを思い出す。

山科は片手を上げて、彩乃の頬を手の甲でそっと撫でた。くすぐったそうに瞳を細める彩乃を見ながら、彰がしたことは許し難いが、彰の存在もまた、彩乃が山科の恋人になってくれたきっかけの一つであるのかもしれないと考える。

多くの偶然が重なって今の必然があるなら、過去の「もしかしたら」を想像するのは愚かなことだ。

「晩御飯はお父さんと二人で外に食べに行っちゃうって。相変わらず仲良いんだから。私たちはどうする?」

両親と連絡していたらしい美乃梨が、手をつなぐ彩乃と山科を振り向く。山科は彩乃を見下ろして、「どうする?」と首を傾げた。仲の良い二人を微笑ましく見ていた美乃梨が、全員の答えを聞く前に先制した。

「四人でどこかに食べに行っちゃいましょうか。ね、隼人」

「そうだな」

どこのお店がいいかな? と美乃梨が隼人と店の物色を始める。仲のいい美乃梨と隼人夫妻についていきながら、山科は彩乃にこっそり耳打ちした。

「仲のいい、いいお姉さんと旦那さんだな」

そういうと、我が事を褒められたように彩乃が笑う。

その笑顔に、山科は彩乃との未来を見たような気がした。