022.思いがけぬ人

山科とともに彩乃の実家に出向いてから、正確に言うと、山科の家に泊まってから、彩乃と山科の距離はグッと近づいた。二人きりでいる時、触れる手と行為に遠慮がなくなり、そして、一層優しくなった。それに山科を名前で呼ぶことに迷いやためらいがなくなり、寄り添うことが自然のことのように思える。

週末に会うときは山科の家か彩乃の家に泊まり、一緒に過ごす時間が長くなった。彩乃の家にも枕が二つ置かれるようになり、当たり前のように互いの日用品が互いの家に置かれる。

泊まった時、朝、山科の腕がしっかりと彩乃を抱き締めてくれているのが心地よくて、この匂いの中にずっといたいと思ってしまう。その「ずっと」というのは、まどろみをもう一時間……などという部類ではなく、もっと未来のことを考えるような、そんな感情だ。もっとも愛しみが募って山科の身体に甘えてみると、決まって、再び覆い被さられるのだが。

しばらくして美乃梨から連絡があり、隼人から眼鏡が返却されたという知らせが入った。あの時は、なくした眼鏡と中学の時の出来事が重なって気落ちしていたが、今はそれほど心は波立たない。そして、その知らせともう一つ、問われたことがあった。もし彰や彰の家族が謝罪を申し入れたいと言ったら話だけでも聞くかとの問いだった。

「……それは、もう私たちもいい大人だから、彰君のしたことでご両親が謝ることではないと思う。それから、彰君にはやっぱり会えない」

彰の家族のことは嫌いではない。むしろ姉の義理の両親として申し分のない人達であることを彩乃は知っているし、子供の時から、彰のことで煩わせているということも理解していた。隼人のこともそうだ。だから、彰の謝罪は受け入れられないが、彰の両親は良き隣人として、隼人とは良き義兄として、これからもやっていきたいと伝えておいた。

結局、彰本人が湯木家の方に謝罪に来たのか、隼人とあれから何か話し合ったのか、彰からの謝罪を断った彩乃には何も聞かされなかった。

こうして、静かに彰との問題は収束した。

彰の気持ちは彩乃には分からない。そこを問いただして、解決せねばならないか、というのもまた、違うように思う。されたことの不愉快さも恐怖も消えないが、あの日の山科との記憶の方が強いおかげで、辛く思い出すようなことにはならなかった。姉が彼氏と一緒にいなさいと言ったことの意味がよく分かる。

小さな花を飾る習慣ももちろん、続いている。どちらかの家に泊まった時の翌日は、二人で一緒に早い時間に出社するのも心地がいい。無論、仲睦まじくなればなるほど、公私の分別をつけるようにお互い気を引き締めたが、定時外に一緒に花を飾りながらコーヒーを飲むくらいならば、許されるだろう。

ある日、そんな二人の時間にちょっとした訪問者が、やって来た。

****

いつものように朝早く出社した日だ。週末はあまり花を変えないのだが、その日はちょうど部屋の花を買い換えてしまったので、会社の花も変えてしまおうと思ったのだ。山科も朝早く来てくれたので、いつものように一緒にコーヒーを買った。休憩室で山科がニュースサイトをチェックしている間に、彩乃は用意した花を花瓶に活ける。

調整するために切った小さな枝葉を捨てていると、人の気配がした。

驚いて息を詰めると、ひょこんと給湯室を綺麗な顔が覗く。彩乃はその顔に見覚えがあった。

「お姉さん?」

「璃子よ! 彩乃ちゃんね、お久しぶり」

「お久しぶりです」

一度会ったことのある璃子の姿に少しだけホッとして、花瓶を持って出迎える。璃子が身を引いて一緒に休憩室へと足を運ぶと、今度はそこに山科ではない人……見覚えのない人がいるのに気がついた。

山科と同じくらい背の高い人で、山科よりは少し細身だ。思わず動きを止めると、山科が彩乃に気がつき手招きした。彩乃の隣には璃子がいる。思わずそちらを見ると、にこりと笑って肩をすくめた。

山科の視線に気がついたのか、男の人が振り返る。

「璃子、それに、えーっと、確か彩乃ちゃんだ?」

「おい、名前を呼ぶな兄貴」

「えっ」

ペチンと頭を叩かれたにも関わらず、山科の隣に並んでいる男の人はニコニコ顔を崩さない。その優しそうな顔は、山科によく似ていた。

「初めまして。薫の兄の、山科忍です」

「おにい、さん?」

彩乃が思わず聞き返すと、山科の兄……忍がパアっと笑った。

「璃子! おにいさん! だって! おにいさん!」

「はいはい。よかったわね」

「おにいさん! 妹か!? 呼ばれると想像以上に可愛いな!」

おにいさん、であるにも関わらず、山科と違ってテンションが高く親しげだ。「妹」と呼ばれて顔を赤くした彩乃の隣に、山科がやれやれと息を吐いて並んだ。

「テンションが高くてすまん」

「いえ……あの?」

璃子にも呆れた風な顔をされながら、忍は楽しそうに笑っている。山科のお兄さんとは分からないほど表情のくるくると変わる人に思えたが、不意に彩乃を見る優しい眼差しは、山科にそっくりだった。

「ごめんなさいね、朝から二人の時間の邪魔をしてしまって」

「え! いえ、そんなことは」

もちろん、邪魔などということはない。基本的に会社にいるときは、定時外であっても二人きりの時間ではないと思って行動している。ただ、まだ社員もあまり出てきていない朝早い時間なのに、社員ではない二人がいて驚いたのだ。

問うと、璃子が説明してくれた。

「ん。披露宴の時にね、仲人に常務夫妻をご招待しているんだけど」

「常務を?」

「ええ」

璃子が忍と顔を見合わせて笑う。

近々、忍と璃子の披露宴があるという話は彩乃も聞いている。籍は入れたものの、いろいろな事情があって今まで披露宴を設けることができなかったが、ようやく開くことができる、との話だ。その時に思い出の花瓶を置きたいと忍が言って、璃子と彩乃は一度会ったことがある。

その披露宴に常務夫妻が出席してくれるのだそうだ。そのお礼と挨拶に伺いたいと申し出ると、朝早起きしたら山科くん達に会えますよ、と常務が言ったのだという。

「常務が? かお、えっと、山科さん、達、に?」

しかし、もちろんそのために朝早く社に来たわけではない。忍が出張に行っていたとかで、この時間にちょうど帰ってきたのだという。それでついでに寄るのだという話を璃子にすると、それなら夫婦で一緒に、ということになったのだそうだ。

彩乃は首をひねった。

「常務は……いつもこの時間にいらっしゃるんですか?」

ふと疑問に思って山科を見上げると頷いた。そういえば、朝一緒にコーヒーを飲んでいると、山科は必ず「常務が来たからそろそろ行く」といって別れていた。常務より先に出社しなくて大丈夫なのかな、と思っていたが、誰よりも早く来ているならば、それに合わせるのは普通は難しいだろう。

「常務は結構早く来るのが日課なの」

「そうなんですか?」

「ええ。それで私と忍の仲を取り持ってくれたり、ね」

彩乃の質問は璃子が引き取り、忍と一緒に顔を見合わせて小さく笑った。この二人もきっと仲が良いのだろう。ほんの少しの時間だが、それがよくわかるほど忍は柔らかな顔で璃子を見ている。

山科が端末を見る。いつもの引き締まった顔をした。

「常務がお出ましのようだ。行ってくる」

「あ、はい、いってらっしゃい。お二人も?」

「ええ。今日はこれからご挨拶にお伺いするの。またね彩乃ちゃん」

璃子に続いて忍も「また会おうね! すぐにでも!」と言って、山科に鬱陶しそうに頭を叩かれていた。

山科が「また後で連絡する」と言って二人を連れて休憩室を出るのを見送りながら、彩乃は首をひねる。

「常務は朝早く来るのが日課……」

朝早いな……とは思っていたが、山科や彩乃よりは遅く来ていたと思っていた。朝早く来た時、いつも常務からのメールか何かで山科は秘書課に向かっていたからだ。

でも、璃子と忍の仲を取り持ってくれた、とも言っていた。

常務って何者なのだろう。彩乃は首をひねりながら、自分も経理の席へと戻って行った。

****

昼休みに山科からメッセージが入っていて、見ると「仕事が終わった後、常務と兄貴夫妻が食事に行くらしいが、彩乃もどうか」というお誘いだ。

秘書課との付き合いで常務とはよく食事にも行くし、璃子や忍夫婦にも会ってお話をしてみたいとは思う。だが、常務は二人の仲人とも聞いているので、軽々しく行ってもいいのかどうか少し悩んだ。

ただ、常務が朝早く来るのが日課……というところが気になっていたし、山科が行くのであれば一緒に行きたいとも思う。

ここはお誘いに甘えて出かけることにした。「お邪魔でなければご一緒したい」との旨、返事を出すと、常務も嬉しそうだとの返信が返ってきて、ホッと胸を撫で下ろす。

「常務とお出かけですって?」

給湯室から珈琲を入れて戻って来た水戸が彩乃にこっそり耳打ちする。どうして知っているのか、彩乃がきょとんとしていると、水戸が噴き出すように笑った。

「さっき城谷に会ったのよ。そっち経由で聞いたわ」

「山科さん、城谷さんにそんなことも話したんですか?」

「違う違う、山科が話したんじゃなくて、常務が話したみたいよ。可愛い女性二人と食事に行くんですよ、いいでしょーって」

「か、可愛いって」

「璃子さんが来ていたんでしょう? 確か山科のお兄さんと」

「璃子さんのこと、ご存知なんですね」

「うん。山科のお兄さんと……っていうのは、さっき聞いたから初耳で驚いたんだけどね。璃子さんのことは知ってるよ」

「秘書課の」

「そうそう」

水戸がいた時にもすでに璃子はいたらしく、秘書課の課長と並ぶ美女として有名だったそうだ。年齢は水戸や山科より三つ上で、その美貌から社内でも様々な噂は絶えなかったが、彩乃が入社して半年ほどで退職したらしい。

その退職の理由が結婚ということだったから、当時涙を飲んだ男性社員は数多くいたとか。

「私、知らなかったです」

「ゆきちゃんは、そういう噂興味なかったし、私も璃子さんのことは……まあ、よく知らなかったから、話したことなかったものね」

少しだけ水戸が考え深げな顔をしたが、すぐに明るい顔に戻る。

「じゃあ、城谷さんも璃子さんのことはご存知なんですね」

同じ秘書課だから、むしろ先輩と後輩の仲のはずだ。そういうと、「あー、そりゃそうね」と、珍しく歯切れの悪い返答をした。

「ま、それはともかくとして、私も璃子さんの旦那さんのことを聞いて驚いたわよ」

「山科さんのお兄さん」

「うん。ゆきちゃんは会ったことあるの?」

会ったことあるというか、今朝一度、お見かけしただけだ。「チラっと見かけてご挨拶しただけなら」と答えると、水戸はふむふむと頷いた。

「それなら今夜のお食事会が、実質初めてってところなのかしら」

「緊張します……」

「そうね……、でも常務も山科も一緒なら心配いらないんじゃない」

彩乃は神妙に頷いた。

水戸が元気に腕まくりする。

「さあ、今日の分ちゃっちゃとやっつけちゃいましょ。定時脱出目指すんでしょ?」

「あ、はい!」

「私も定時に脱出して、買い物いこっかな」

「頑張ります」

彩乃と水戸はウンウンと頷いて、目の前の処理に神経を向けた。今は繁忙期というほどではない。いつものように、……いつもよりも少し張り切って仕事をすれば、定時までには全ての処理を終えることができるはずだ。