023.私たちも、次へ

「深夜作業で撃沈しかかってた時、朝日の中、小さな花に触れている天使を見たんだ。その瞬間、俺の妻はこの人だ!って」

「忍、天使はやめようね」

忍の熱心な言説を璃子がにこやかに、そして冷静に一刀両断した。怒られたにもかかわらず、忍は璃子の隣でニコニコしている。

彩乃は今、常務と璃子・忍夫妻、そして山科とともに、静かな個室がある創作和風料理のお店に来ていた。週末だからということで、お酒も一緒の食事会だ。そこで忍と璃子の馴れ初めの話を聞かせてもらっていたのだ。

忍は彩乃が勤めている社内システムのマイグレーションを、遠隔と現地で行った時の、現地のリーダーだったそうだ。停止するほどの大きなトラブルはなかったが、やはり細かな問題はいろいろあったらしい。それらに対して、内外に指示を出し、翌日の業務稼働には定刻通り、間に合った。

作業に当たった社員は帰社させたが、責任者の忍は残って作業報告をする予定だった。ただ、報告する相手……システム課と、そして秘書課が出社するまでの間、少し休憩しようと思ったのだそうだ。

「秘書課と、お付き合いがあったのですか?」

「こちらの常務とうちの部長が昔から親しくしてもらってて、今回は大きなマイグレだったから、挨拶をしておくように言われたんだよ」

ただ、一晩の作業を終えた後だったので、秘書課の課長クラスに報告をして、常務には後日改めて……と思っていた。

「そこで璃子を見かけたんだよ」

花を生けている璃子を見かけて目を奪われた忍は、当然話しかけたのだが、体良くあしらわれて終わってしまった。名前すら聞けなかった。あれが誰か今聞かないと一生後悔する……そう思っていた忍に、機会はすぐに訪れる。その日、朝早く出社していた常務に声をかけられたのだ。

もちろん忍も、常務にストレートに聞いたら答えてくれるとは思っていない。こんなところに小さな花が活けてあるなんて素敵ですね、誰がやっているのでしょう、そんな風にジリジリと問い合わせた。

常務も我が社の社員だから……ということで、もちろん簡単には名前を教えなかったが、「朝早い(この)時間に小さな花瓶に花を生けている社員」が誰か、ということは把握していたようだ。ノラリクラリと交わしながら、しかし最終的には、もし璃子が良ければ……という条件付きで、二人の仲を取り持った。

「だから常務が仲人なんですね」

「今時仲人なんて流行らないよって言ったんだけどねえ」

言いながらも常務は嬉しそうだ。常務は普通に招待してくれたのでいいよと言ったそうだが、忍と璃子が是非お願いしたいということで、結納の席や披露宴の席に仲人を設けたのだそうだ。

流行らないからこそ、形式を重んじて二人の仲を末長いものにしたい、皆に報告したいと……二人は思ったのだという。仲人なんて敬遠されがちだと思っていたが、素敵な理由だ。

「僕らが結婚できるのは、璃子と常務が朝早く来てくれていたおかげなんだよ」

嬉しそうに笑う忍に頷きながら、彩乃は「ん?」と首を傾げる。

「そういえば、常務は今も朝早く出社されているですか?」

その質問に、常務がにこやかに答えた。

「もちろん、私はどの社員よりも朝早く来るのが日課ですからね」

穏やかに笑う老紳士に彩乃が目を丸くして、山科に思わず視線を移す。山科は素知らぬ顔を貫こうとしていたが、物言いたげな彩乃の瞳に早々に根をあげた。

「常務は最初からご存知だ、彩乃のことを」

「……え」

「また休憩室の花が復活しましたね……と、わざわざ俺に言いに来た」

少しばかり気まずげに山科が彩乃から視線を逸らす。常務が、ふふふと笑って焼酎のロックを一口舐めた。

「お兄さんとは違って、私がからかった時はすでに彩乃さんのことを知っていましたよ」

えー……という顔をしたのは、彩乃だけではなく忍も同じだ。二つの視線に見つめられた山科は、恨めしげに常務に視線を傾ける。

「俺は、自分で彩乃にたどり着きましたよ」

「そのようですね」

その言葉に忍がかなりムッとした表情を見せたが、璃子に思い切り太ももを叩かれた瞬間デレデレとした顔に戻った。

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「まさか常務に知られてるとは思いませんでした……」

手をつなぎ指を絡めて山科の家に向かいながら、彩乃がようやくため息を吐いた。さすがに常務の前で「誰にもバレていないと思っていた」とは言えず、山科と二人きりになってから、やっとそのように言ったのだ。

「常務も言ってくれたらよかったのに」

ちょっとだけ拗ねた風に言ってみると、山科の大きな掌が彩乃の頭を包み込むように撫でる。見上げるといつもの優しい眼差しで、ホッとすると同時に胸がキュ、と縮まるような甘い緊張感に捉われる。

「本当は声をかけたかったそうだが、逃げられるかも……と思っていたらしい」

確かに彩乃は他の社員に見られたくなくて、朝の早い時間を選んでいた。基本的に会社の経費を使わずに、自分で勝手に持ってきた花を生けているから、という理由もあるし、単に人見知りだからという理由もあった。常務はわざわざ誰にも知られないような時間を選んでいるということは、知られたくない理由があるのだろうと思っていたそうだ。

常務から彩乃のことを聞いたのは、山科が彩乃の名前を知ってからだった。山科と彩乃が仲良くしているらしいという情報を城谷から聞いていた常務は、ついつい楽しくて聞いてしまったのだという。

「だがこれからは、飾る花も協力したいと言っていた」

「飾る花?」

誰にも言わずにそっと花の手入れをしていた彩乃を常務は好ましく思っていたが、花はどうやって手に入れているのかが気になったらしい。璃子の時は常務と社長に断りを入れて、基本的には社内で融通していた花を分けてもらったりしていたそうだが、彩乃からはもちろんそのような話は聞いていなかった。大企業というわけではないし、個人の楽しみの範囲であればうるさく言うこともないが、知ってしまったからには協力をしたいと考えていたそうだ。

「来客があるときは花を頼んでいるんだが、その花を少し持っていくといい、と言っていた」

「わあ、助かります!」

「よかった。常務も喜ぶ」

そのあとはしばらく沈黙して歩いた。静かな空気はつないでいる掌の感触だけを意識させて、そこから伝わるわずかな力の加減や温度の変化も感じ取れる。ぎゅ、と少し力を込めると、山科もまた同じようにぎゅっと力を込めてくれる。

「そういえば、お姉さんたちの結婚式は、いつなんですか?」

「一ヶ月後だそうだ」

「きっとすぐですね」

「ああ」

仲人は立てるものの、披露宴も式自体も大きなものにはしないそうだ。親しい人だけを招待して、静かな式と美味しい料理を用意するだけのものにするのだという。その話と、璃子と忍の幸せそうな顔を思い出して、彩乃もまた幸せをおすそ分けしてもらったような気持ちになって笑った。

「あのお二人、とても素敵だから、素敵な夫婦になりそう」

「そうだな。兄貴が素敵だというのは納得できないが、二人が仲がいいのは俺もそう思う。まあ、もう入籍してるから夫婦だけどな」

「あ。そうか」

「彩乃」

ぎゅっと手が強く握られて、足が止まる。山科の顔を見上げると、いつもの、彩乃が大好きな、優しく真面目な眼差しがそこにあった。

「俺たちも結婚するか」

「はい」

すんなりと彩乃が答えると、山科が目を見張る。直後、顔を真っ赤にして片方の手で口元を押さえた。

「薫さん?」

「……悪い、思わず……こういうのはもっと、……雰囲気の、あるところで言えばよかった」

彩乃は小さく笑って手を握り返し、そうっと腕に寄り添った。その動きに山科がつないでいた手を離して、腰を抱き寄せる。

頭の上に重みが乗って、山科が頭を乗せたのだと知った。

「嬉しいな、彩乃」

「はい……」

「明日指輪を買いに行こう」

「えっ?」

「ダメか?」

「ダメじゃないです、けど、急で、驚いて……あの、指輪というのは」

「婚約……指輪のつもりだが、悪い、もしかして俺はまた、気が急いたか?」

そんな風な幸せそうな恋人同士の会話が、夜の道に消えていく。

結局、この幸せそうな二人は翌日指輪を買いに行ったのだった。