「起こしてくれたらよかったのに」
「起こしただろうが、飯だぞって」
「だって、仲居さんが来た音で目が覚めるなんて」
恨めしげに見上げられても全く怖くないので、八丈は口元を緩めながら水希の頭を撫でた。
水希と八丈は、豪華な夕食を部屋でゆっくりといただいた後、旅館の自慢の大浴場へと足を運んでいた。
結局、部屋の内湯で身体をつなげた後、寝台に潜り込んでまた抱いて、夕食の時間まで寝室でゴロゴロすることになってしまったのだった。いい加減水希の身体が動かなくなる限界ギリギリまで八丈はその身体を離さず、水希を休ませるために腕の中で甘やかしていたために、起こしたのは夕食を知らせる仲居の気配に気がついてからだった。
やって来た仲居の相手をしたのは先に浴衣をきっちりと着こなした八丈で、食事の支度をしている間に水希は慌てて浴衣に袖を通していた。
仲居たちはもちろん、心得ているらしく「奥様はどちらに?」などとは聞かない。準備をしている間に、寝室から顔をのぞかせた「奥様」に、ごく自然にこちらへどうぞと席を促し、二人の時間を邪魔しないように心地のよい速さで給仕をする。夕食は蛇神の八丈も唸らせるような美味なものばかりで、少しだけ……と頼んだ地元の酒もいい味だった。
何よりも畳の上で二人向き合い、浴衣姿でほくほくと食事をしている水希を見るのは楽しく、アパートの部屋で二人で食事をするのとはまた違った趣があった。
そうして食事を楽しみ、ひとときのんびりする暇もなく、水希に誘われて旅館の自慢だという風呂を見に出て来たのだった。八丈としては、本当は部屋で水希を堪能したかったが、せっかく来たのだから入らないともったいないという水希の主張を優先した、というわけだ。
せっかく来たのだからという水希の言い分も分からなくはないし、八丈も地から湧き出す水が嫌いなわけではない。家族風呂とやらにも興味があって、パンフレットを懸命に眺めている水希に並んで、覗き込む。
「大浴場だって、八丈さん」
「大浴場?」
「うん、すごく綺麗な露天風呂があるみたい」
「露天ねえ」
八丈を顎を撫でながら、つまらなさそうに聞き流した。露天風呂がいくら広くて豪華といえど、男湯と女湯で分かれるのならば面白くもなんともないではないか。
「じゃあ、一時間くらいでいい?」
「長ぇな。もっと早く出てこい」
「えー、じゃあ五十分くらい」
「俺は十分くらいで出て来るぞ」
「早いよ! せめて四十分」
「……二十分」
水希の長風呂は分かっているが、一応、八丈は盛大に抗議しておいた。家なら遅ければ一緒に入るぞと雪崩れ込めるが、旅館の露天となるとそうもいかない。細かく時間を区切るが、最終的には三十分で落ち着いた。
泉質は非常に良いものだ。美しい水を八丈は嫌いではないし、成分も悪くは無い。人間に効く温泉は、肉体を持っているものならば、妖怪でも精霊でも神であっても心地がいいし、効果がある。露天風呂は確かに広々としていて、空を見上げる開放感は気持ちがいいが、やはり隣に水希がいないのは物足りなかった。
星も月も美しい夜の空を見上げていると、顔にポツリと雨粒が落ちた。周囲で風呂を楽しんでいる男どもが、晴れているのに雨だとざわついている。慌てて風呂から上がる者もあるようだが、まだ三十分に余裕のある八丈はそのまま入っていた。
この雨はすぐ止む。
シトシトと柔らかい、霧のような雨だ。どこぞの誰かが、蛇神のご機嫌を取ろうと思って降らせているのかもしれない。しかし、八丈一人であれば風邪など引かぬが、露天風呂に入っているであろう水希はどうだろうか。
「あんまり降らせてくれるな。嫁が湯冷めするだろう」
独り言のようにそう言って、風呂の縁に置いてあった手ぬぐいで顔を拭くと、すぐに雨粒は消える。雨のおかげで人が減り居心地は良くなったが、八丈はそろそろ出ようと湯から上がった。
****
水希が湯から上がると、八丈はすでに待っているようだった。出て来た水希を見て八丈はなぜか顔を顰め、持っていたバスタオルを頭からばさりと掛けてくる。
「うわ」
「まだ濡れてる」
「え?」
「髪が。風邪引くぞ」
しっかり乾かしたと思っていたが、まだ少し湿っていたらしい。休憩所の椅子のようなところに座らされると、頭にかけたバスタオルをポンポンと叩かれ、さらに首筋の汗を拭かれた。
バスタオルを甘んじて受けながら、水希は少し小さくなった。約束の時間に遅くなった自覚はある。
「八丈さん、ごめんなさい、少し遅くなっちゃった」
「構わねえよ、湯冷めしてないか?」
首筋を拭う大きな手がくすぐったくて思わず身体をすくめると、緊張をほぐすように腰が抱き寄せられて曲線をなぞられた。この温泉のロビーは気が利いていて、冷たいほうじ茶が自由に飲めるように置かれている。八丈は一度水希から手を離すと、それを注いで持って来てくれた。
いつのまにか人気がなくなっていて、水希は少しだけなら……と、八丈の身体に体重を乗せる。八丈も身を寄せてくれて、前髪に吐息を感じた。湯に浸かった後の疲労感を八丈の逞しい身体に任せてほうじ茶を一口飲むと、気だるい身体にキリッと冷たい温度が喉に心地いい。
ふと、八丈が身じろぎをした。
視線を持ち上げてみると、旅館の子供用浴衣を着た愛らしい子供がチラチラとこちらを伺っている。誰だろう、こんなところに子供? そう思ったが、旅館なのだから家族連れがいたっておかしくはないか。だが、周囲には水希と八丈しかいない。
「こんな夜に、子供が一人? 迷子かしら」
「おい、水希」
迂闊に声をかけるなと八丈が舌打ちしたが、それが何のことだろうと認識する前に、子供と水希の目があった。途端に子供がパッと笑って、タタタと駆け寄って来る。思わず小さく笑ってしまって、水希は声をかけた。
「こんばんは」
水希に答えるように、子供がニコリと笑う。黒くてツヤツヤした髪をおかっぱにした子供の顔はとても整っていて、くるくると大きな瞳が愛らしい。ニコニコ笑っている子供だったが、しかし、一向に何も話そうとしなかった。
ニコニコしているだけで答えない子供に、水希は首をかしげる。
「あなたは、一人? お父さんととか、お母さんは?」
水希が首をかしげたのを真似するように、子供も首をかしげた。
しばらくの間、水希と子供は交互に首をかしげるだけで、不思議な沈黙が続いた。そうしていると、やがて子供が水希の持っている湯カゴに興味を持ったふうに中を覗き込んだ。
「おい、ガキ」
「ちょっと、八丈さん」
何してやがると八丈が顔をしかめ、そのドスの聞いた声に子供が恐がりやしないかと水希が慌てる。しかし子供は怖がる様子もなく、相変わらず湯カゴに興味を持っている。湯カゴには特に何も入れていない。水希は子供によく見えるように、湯カゴを傾けてやった。
「あ」と初めて子供が声をあげる。
子供がぱあっと顔を輝かせて、水希を見上げた。水希もまた、思い当たって、「ああ」と声をあげる。
「これ、食べてみる?」
思い当たったそれは、部屋に置いてあった「お湯まんじゅう」だった。部屋に案内された時に食べたものとは別に、小さな小さなお土産のように紐で結わえて、綺麗な包み紙で包んで部屋に置いてあったものだ。
「何でそんなもん持ってんだよ」
呆れたような八丈に、水希はいたずらを見つかったような気持ちになって、「えっと……」と言い淀む。
実は、お風呂に行く荷物を作っている時に、ふとお茶菓子の説明書きがされている和紙が目に入ったのだ。そこには「お風呂上がりにどうぞ」と添えられていて、普通の包み紙とは別に、紐でぶら下げて持つような形の可愛い包みが置いてあった。それで思わず持って来たのだ。お風呂上がりに食べると美味しいのかなって、思って。
説明をしていると、八丈が大きくため息を吐いた。その視線が子供に向くと、子供は期待に満ちた目で水希とおまんじゅうと、そして八丈を交互に見つめている。
「食べてえのか?」
八丈が先ほどとは打って変わって、低く優しい声で子供に問うと、おかっぱにした髪を揺らして頷いた。水希が包み紙を解くと、部屋で食べたもの同じ菓子が二つ、ちょこんと並んで出てくる。水希がそれを差し出すと、子供が一つをつまんで口に放り込んだ。
「おいしい?」
水希が問うと、子供が大きく頷いた。それを見て、水希も「ね、おいしいよね」と頷く。一個はあっという間に子供の腹に収まり、もう一個、包み紙の上に乗ったそれを、子供が物欲しそうな瞳で見つめている。
菓子を頬張ったまま目を丸くする子供の顔に思わず顔をほころばせると、隣の八丈も噴き出した。
「もう一個も欲しいのかよ」
「持って帰る?」
子供がうんうんと頷いたので、水希は元のお土産のような形になるように、丁寧に包み直してやった。植物か何の蔓で結び直すが、そこは上手くできずに蝶々結びにする。
小さな小さなまんじゅう一個分のお土産を、子供がまるで水をすくうように両手でお椀の形を作って待ち焦がれていた。水希がそれを子供の両手にそっと載せると、「わあ」と、子供が声を上げる。
「ほら、もう満足しただろ、行けよ」
大人気ない八丈の言い分だったが、声は変わらず優しかった。……のだが、子供が突然ぎゅっと水希の足に抱きついて、太ももに顔を乗せてスリスリと頬ズリした途端、一気に不機嫌になる。
「おい、てめえ!」
「あ、ちょっと」
威嚇するような唸り声を含ませて、八丈が子供の着ている帯をつかんだ。そのまま引き剥がすように後ろに下がらせる。そうして、子供に向けているとは思えないほど剣呑な顔で、……いや、むしろ子供同士の喧嘩のような顔で、「あっちへ行け」と顎をしゃくった。
子供は「いー」という顔をして、お土産を持ったままどこかへ走って行ってしまった。
****
「もう、八丈さんったら大人気ないんだから」
「……お前がホイホイ菓子なんぞあげるからだ」
なんで持ってたんだよ、と問うと、おまんじゅうの説明書きの紙に「お風呂上がりにどうぞ」と書かれていたから、などという。だからと言って持ってきてしまって、あの様な者に与えてしまうのが水希という女なのかもしれない。
「どうしてあんなに不機嫌だったの」
その様に問うからといって怒っているわけではないらしい。ただし呆れられたままというのも面白くないので、さて、どの様に説明してやろうかと思っていると、どうやら目的地に着いた様だ。
「あれ」
目的地というのは、家族風呂が点在している離れだった。広い庭の一部に小さな個室が何棟かあって、それぞれ家族風呂になっているらしい。空いていれば自由に入ってよく、内側から鍵をかければ誰にも邪魔されないという仕組みだ。混んでいても1つくらいは空いているという話ではあったが、あいにく全室利用されていた。
「残念だな」
「うん……今日は遅いし、明日の朝なら空いてるかな」
「朝早く起きられるか?」
「起きられるよ」
朝早く起きられるようにしてやれるかどうか、八丈はいたって自信がなかったが、それなら朝早く来てみるかと頷いておいた。しかし残念と言えば残念だ。内湯でも二人きりになれるが、いろいろな意趣が凝らされた家族風呂はパンフレットを見てみても趣深かった。
それなら部屋に帰ってゆっくりするかと踵を返した時だった。
渡り廊下の柱から、先ほど菓子をやった子供がチラチラとこちらを覗いている。
八丈は訝しげに瞳を細めたが、今度は止めなかった。子供は水希の足元まで駆け寄ってくると、ぎゅっと手を握って引っ張る。
どこかに連れて行こうとしているようだった。
「あれ、君、お部屋に戻ったんじゃなかったの?」
水希が首を傾げて尋ねるが、子供は腕を引っ張りばかりである。どこかに連れて行こうとしている様子だったが、水希は訳が分からず、困ったように八丈と子供を交互に見ていた。
八丈は、じっと子供を見ていたが、やがて子供のそばにしゃがみ込み、低く唸るような声で問うた。
「俺らを、どこに連れて行くつもりだ」
水希が首を傾げたのは、今度は八丈に対してだろう。低い声だったが、脅すような響きは不思議と感じられない。子供は八丈の声を聞いて、再び水希の腕を引いた。
「八丈さん?」
「ああ」
八丈が頷くと、水希は子供に「どこに行くの?」と問う。子供はパッと顔を輝かせて、水希の手を引いたまま歩き始めた。八丈ももちろん、後を追う。
よく磨かれた木製の渡り廊下を進むと、中庭に降りる場所があった。下駄が三組揃えて置かれていて、各々それに履き替えるようだ。
「庭に下りられるのね」
中庭かと思っていたが、先ほど家族風呂があった離れの庭よりは広いようだ。夜の暗さはあったが、そこそこに置かれている小さなランプのおかげで足元はよく見える。
「広いな。旅館の裏か?」
「裏?」
「ああ、面から見える中庭はこんなに広くなかっただろう」
「入っちゃっていいのかな……?」
「下駄が置かれていたんだから、いいんじゃねえか」
緑と秋の香りが清々しい林の中を、カラコロと愛らしい音を立てながら、情緒のある石畳に沿って歩く。しばらくそうして歩いていくと、小さな庵が見えた。庵の向こうからは湯けむりが上がっていて、かすかに湯の匂いが香る。
「こんなところに家族風呂?」
それは確かに家族風呂のようだった。先ほど見た家族風呂と同じように木札がかかっていて、裏を返すと「利用中」と文字がある。家族風呂を使うときはこの札を返してかけておき、脱衣場に鍵をかける仕組みなのだ。その仕組みに則っているので、確かに家族風呂なのだろう。それにしては、先ほどの離れから随分遠い。
「使ってもいいの?」
水希が困ったように八丈を見上げる。八丈は顎をさすると、足元を見た。
子供はもう、そこにはいない。
「あ、あれ? あの子は?」
「行っちまったみてえだな」
「行っちゃったって……もう夜なのに大丈夫? 追いかけないと」
「いい、いい、ここまで案内して来たんだ、帰れるだろう」
「でも……」
「いいから」
八丈は木札をひっくり返すと、後ろを振り返る水希の腕を引いて脱衣場の中へと入った。灯りをつけると、二人でいっぱいになるほどの狭い部屋に、着物を入れるカゴが二つ置かれている。
八丈は水希の腕を引いたまま、湯につながる引き戸を開けた。
「見ろ、水希」
「え、……わあ」
視界一杯のほのほのとした湯けむりは、小さな個室に広がるものではない。そこはまごうことなき広々とした露天風呂だった。ゴツゴツとした岩で作られた湯船はゆうに十人は入れるだろう。いい湯とはいえ、先ほどの大浴場では少なからず感じられていた人工的な成分の香りもなく、八丈の鼻には生々しい源泉の香りだけが感じられた。
「よさそうだ」
「八丈さん? これ、……家族風呂、なのかな?」
「さっき木札がかかってたのを見ると、そうだろう」
「だ、けど、すごく広いよ、さっき入った露天風呂よりも広い……入っちゃダメなお風呂なんじゃ……」
「それは大丈夫だ。早速入ってみるぞ」
「え、ちょっと!」
八丈の鱗に好ましい天然の水気だ。八丈がさっさと浴衣を脱ぐと、水希が顔を赤くした。その様子を見て、小さく笑ってやる。
「何を今更」
「いや、そうだけど……」
「ほら、お前も脱ぐんだよ」
「わ、分かってる、先に入っててよ」
「ダメだ、今脱げ」
水希の浴衣の帯に手をかけて解き、肩からストンと滑り落とす。ブラとやらの紐にも手をかけようとすると、水希は八丈を後ろに向かせて、ぐいぐいと押した。
「先に! 先に入ってて、すぐに行くから!」
「ちゃんと来いよ?」
「分かってる!」
「足を滑らせて転ぶなよ」
「分かってるってば!」
さすがに下着を脱ぐ姿を見られるのは恥ずかしいのか、水希は八丈に背中を向けた。八丈も全て脱いで、早速露天に足を踏み入れる。木の板を湯船まで渡してあり、岩に足を傷つけないようになっている。湯船に身体を浸すと、そのまま座って丁度いい高さだ。湯の心地よさに大きく息を吐くと、後ろから水希の気配がした。
八丈の隣に水希の身体が滑り込む。
すかさず抱き寄せて、伸ばした足の上に乗せた。
「重くない?」
「お前は重くない。羽根みたいだ」
「だから、そんなことないって。……旅館のご飯美味しくて……」
「食べ過ぎたか?」
ふっと笑って、水希の腹をヤワヤワと撫でる。普段より少し柔らかく感じるが、夕食からしばらく経っているから、温泉に入って緊張が緩んでいるだけなのかもしれない。何にしろ、いい手触りだ。
「ちょっと、あんまり撫でないで」
「柔らかくて気持ちがいいんだよ」
「柔らかいって言わないで!」
慌てて振り向く水希の頬に口付けて、八丈は大きく笑った。恨めしそうに見上げる水希の唇にもう一度啄ばむように口付けると、視線がふっと八丈の腕に落ちた。
水希の指先が、そうっと八丈の腕を撫でる。
黒い鱗が浮き出ているのだ。
先ほど内湯で戯れた時にも触れていたが、八丈は、水希に宝物か何かのようにそうっと鱗を撫でられるのが好きだった。
他の誰が触れても気分が悪いものだが、水希に触れさせるのは許すことができる。腹、首筋、腕、興奮すると……あるいは気持ちが緩まると浮き出る蛇の本性は、真に大切な番にしか触れさせることはない。
「さっき雨が降っていたでしょう」
「ああ、霧雨みたいだったな。すぐ止んだが」
「あれ、雨がお湯の上に降りてて、夜で……すごく綺麗だった」
「綺麗?」
「ん、波が、八丈さんの鱗みたいだなって思って」
「俺の鱗か」
心地の良い霧雨の波紋を番の鱗に例えるなどと……。
八丈の鱗が騒ぐ。誘っているとしか思えない。
互いに何も身につけぬまま、湯の中で愛しい身体を抱いている。水を多く含んだ湯けむりは、水と、水に乗せた水希の肌の香りを八丈に運んだ。
八丈にとって、千年待った希有な水。強く希んだ水希。水希と名前を呼ぶたびに、焦がれるように愛しくなる。強く抱いて、腕の中に閉じ込めてしまいたい。
「いい匂いだな」
髪をあげた水希の首筋に鼻を突っ込むと、ビクッと身体が震えるのを感じる。
「お湯の匂い? カルキの匂いもしないし、すごく気持ちいいよね」
「湯の匂いも悪かないが、いいのはお前の肌の匂いだよ」
言って、少しばかり噛み付いてやった。そのまま歯で首筋をなぞり、耳まで上がって舌でなぶる。そのまま耳朶をチロチロと舌で舐めていると、咎めるように水希の手が八丈の手に重なった。
「ん……八丈さん、ダメだよ、こんなとこで」
「ダメじゃねえよ」
「でも、ここ、部屋じゃない」
「知ってる。あのガキ……いや、あの『旦那』が案内したんだから、分かってるだろ、向こうも」
「……旦那?」
官能に浸っていた水希が我に返ったように身体を起こして、八丈を見た。その瞳を覗き込みながら、やっぱり分かっちゃいなかったなと苦笑する。
「気付かなかったか? あいつは多分、この宿を仕切ってる座敷童子だぞ」
「え? 座敷童子!?」
「童と言っても、あんなナリで四百年は生きているだろう妖気を感じた、つまりいい『旦那』だ」
「お、女の子じゃないの……?」
「そこかよ」
水希は気がついていなかったが、最初の露天風呂から出て来た時から物語は始まっていた。風呂には何人か人間がいたはずなのに、休憩室に戻った時には誰もいなかったのがその証だ。
「お前、あの旦那に菓子をやってただろう。お前は気に入られたんだよ」
妖怪が周囲にいる環境だから水希はなんとも思っていないようだが、妖怪を見て普通に交流できる能力は、本来は希有なものだ。水希は妖怪に気に入られる気があるらしい。もちろん隣に八丈がいるというのも要因の一つではあるだろう。妖怪は黒蛇の神に媚を売ったのかもしれない。
何れにしても、この宿を仕切っているらしい妖怪がわざわざ案内した温泉だ。蛇神とその嫁が多少楽しんだとて、それは向こうのもてなしの範疇のはず。
「じゃあ、ここは……」
「さてな、化かされているのかもしれん」
「ええ!?」
「大丈夫だよ、俺がついてる」
話は終わりだ、と言わんばかりに、八丈は浮いた水希の腰を自分の腹に引き寄せた。腕を絡みつかせて、足を引っ掛ける。パシャンと水音がして、水希の背中がピタリと八丈の胸板に沿うた。
後ろから、腕を絡めるように水希の身体を抱き寄せる。柔らかい胸に指先を沈め、わざと探るように動かした。触れたいものがどこにあるかは分かっているが、焦らすようにそこを掠める。
ゆっくりと胸の膨らみを楽しんでいると、水希の吐息が少し荒くなる。は、と喘ぐように喉を鳴らすのを聞くと、身体の奥底がゾワリと騒ぐ。
膨らみの先端をクニクニと弄っていると、指先を捉えるように硬く立ち上がって来る。胸の柔らかみとは異なる弾力を弾くと、水希の足がモゾモゾと動いた。八丈の身体の中心が、熱を持って、こちらもまた、勃ち上がる。
「我慢できねえな……」
もちろん少しは湯を楽しみたかったし、水希の身体の柔さを堪能する予定ではあった。しかし触れているとどうしても、この身体にある愉悦を引きずり出したくなってくる。あえかな水希の声はそれだけで八丈を楽しませ、上質な湯の香りと水希の肌の香りが混ざると、蛇である八丈の五感を否が応でも刺激するのだ。
湯の中で水希の足と足の間を探ってみる。淡い茂みの感触を指先に覚えながら、襞の凹凸に沿ってそこを探る。湯とは違う滑りを感じて、あまり深みに嵌らないように優しくそこをなぞった。滑りは途切れることなく溢れ、水希の吐息が甘くなる。
ゆっくりと指を沈めた。
「は……う……」
水希が息を詰める。八丈もまた、水希の表情を見て興奮を抑えきれず、息を荒くした。指が奥まで入ると、水希が目を閉じて息を吐き、指を曲げてくすぐると、薄く瞳を開いてうっとりと八丈を見つめる。
たまらない。
琥珀の瞳を覗くのは水希だと思っていたが、たった今、水希の濡れた濃い茶色の瞳を覗くのは八丈だ。その瞳を濡らす涙を舐め取りたい。
指先は水希の胎内に収めたまま、八丈が唇を下ろすと、水希がぎゅっと瞼を閉じる。潤んだ瞳から溢れた涙が眦に滲み、長い舌でそれを掬い取った。そのまま、睫毛を濡らすように舌を這わせる。ちゅ、ちゅ、と音を立てながら瞼の薄い皮膚にそっと舌を触れさせると、パシャンと水音がして、水希が八丈の太い腕を掴んだ。
キュ、と指が締め付けられて、水希の息を感じる。烟るように静かで濃密な触れ合いは、小さな水音と八丈が水希の肌を啄ばむ音だけが彩った。
「っく」
不意に、強い愉悦を感じて呻き声をあげる。水希が硬くそそり立った八丈のものに触れたのだ。熱い芯に恐る恐る指を這わせ、そのまま下に降りて二つの膨らみを撫でる。水希と身体をかわすとき、時々見せる、八丈を求める仕草。もっと大胆に触れても構わないのに、どこか羞恥が残り、羞恥があるのにも関わらず、触れて求めずにはいられない水希の葛藤が愛らしくて、わざと焦らしてしまうのだが、今日は違う。
「欲しいのか」
八丈の声も荒い。急くような余裕のない声になってしまった自覚もある。水希から「欲しい」という声が上がる前に、八丈は水希の身体を抱いて湯から上がった。
「あ……!」
後ろを向かせて覆いかぶさる。傾いだ水希が両手をつき、まるで獣がするように、八丈は後ろから貫いた。その衝撃に水希が息を飲んだのが分かる。八丈も挿入した瞬間、持っていかれそうになるのを堪えた。
「……は、締まるな」
両手をつく水希の身体に巻きつくと、重みで揺れる胸の膨らみが手の中に収まる。ふっくらと柔らかいそれは、いつも上から揉むのとは違う心地だ。ツンと立ち上がった頂を指に挟み、手のひらいっぱいに掬い取ったやわい手触りをやわやわと揉めば、その度に膣奥が脈動する。
堪らず、動かす。
大きく引いて、突き上げるように奥へとねじ込む。粘膜の柔らかさと膣の締め付けが、八丈のものを吸い上げようと蠢いているのを感じた。
肌の打つ音と、溢れる蜜液をかき混ぜる音。さほど大きなものではないのに、それらがやけに淫美に耳をつく。それに重なり合うように、水希の声が上がり、八丈の息が荒くなった。
「は、……あっ、水希……水希」
己の声が必死で、すがるようなものになるのを認識する。だがどうしても、この瞬間だけは水希にすがりついてしまう。千年を生きる誇り高い蛇神が、ただの娘でしかないはずの水希に……類稀なる己の妻の身体に、必死に巻き付くのだ。二度と離さぬように。
強く目を閉じると、繋がり合う部分の心地よさが、より鮮明になる。
動かせば動かすほど、締め付ける水希の胎内が、八丈を飲み込もうとするのを感じた。
瞬間、抱きしめる。
「あ……っ、ああ!! 八丈さ、ん、もうっ……!」
「ああ、俺もだ、俺も……飲み込めよ、水希っ」
吐息が混ざりあったようなあえかな嬌声を上げて水希の身体がビクビクと震える。とくりと脈動し、収縮を繰り返す膣内に八丈も白濁を吐いた。それは水希の子宮の奥に消え、受け止められ、飲み込まれていくだろう。
八丈は水希の腰を抱きしめたまま、暫くの間吐精の感覚を楽しんだ。抱いている腕の中で、徐々に水希の身体から力が抜けていく。
愛しい水希。
「まだまだ」
蛇の長い交わりはこれからだ。
****
まだ足と足の間に何か挟まってる気がする……。
チェックアウトの時間をいっぱいに伸ばしてもらって休み、ようやく動けないほどの気だるさからは抜けたけれども、まだ股の違和感が残っている。水希と八丈は結局あれから寝台でつながりあったまま一晩を過ごした。水希の記憶は家族風呂から一旦途切れたが、部屋に戻ってからはかなり鮮明に記憶があるのがいっそ憎い。あんなに恥ずかしい一晩を過ごしたのは初めてだった。何回もしつこくされることはあるけれど、抜かずのなんとかがあんなに持続したことはなかった。
いや、あんなに持続するものなのか普通……。もちろん、八丈が普通ではないこと……蛇の神様であることは知っているけれども。そして一番の問題は、あんなにも求められて嬉しいと思ってしまう自分なのだ。
「大丈夫か?」
「……大丈夫じゃない」
気遣うように八丈が水希の顔を覗き込んだが、いたたまれなくて視線を逸らす。八丈はつれない態度の水希にも気を悪くすることなく、むしろ楽しげに笑って腰を抱き寄せた。
「明日も休みだから丁度いいだろ」
「丁度いいって何が?」
「俺はまだやり足りねえ」
「ちょっと!」
旅館のロビーはチェックアウトの人が多く、見送りの仲居さんも何人か出てきている。あられもない話を聞かれないように慌てて八丈の口を塞ぐ。しかし今度はその手を八丈が取って、自分の腰に回そうとするからそれはそれで顔を赤くした。
なんだかんだと戯れながらロビーに隣接するおみやげ屋さんで、昨日部屋でもらった例のおまんじゅうを買っていると、見送りの仲居さんの中に、ひときわ美しい着物を着た女性がいて、こちらを見ていた。
旅館の女将さんかな、と八丈に声をかけようとすると、八丈もまた、女性の方を見ている。不安に思うわけではないが、なんとなく面白くなくて、八丈の袖をぎゅっと掴んだ。
「八丈さん?」
「ん?」
すぐに八丈が水希に視線を落とし、掴んでいる袖を離させて、離させた手を大きな手で包み込むように握った。そうして再び視線を上げると、先ほどの女性がすぐそばまで来ていた。
季節の柄が描かれた付け下げがよく似合う女性は、四十代半ばというところだろうか。とはいえ、年齢を感じさせない不思議な美しさがある。
女性は、旅館の女将だと名乗って挨拶をした。
「昨晩はゆっくりお休みいただけましたか?」
「ああ」
「お料理もお風呂も、とてもよかったです」
八丈が頷き、水希も心を込めて一礼する。二人の様子に女将も嬉しそうに頷いて、唇を笑みにかたどった。
「それはよかった、ぜひまたいらしてくださいね」
「……そうだな」
女将さんから挨拶をしてもらえるなんて、……と水希は小市民よろしく胸がそわそわしたが、八丈は慣れた風に鷹揚に頷き、水希を引き寄せる。
ふと、昨日の座敷童子のことが気になった。八丈はあの座敷童子の男の子……?のことを、この温泉を仕切る「旦那」と言っていたが、それをこの女将さんは知っているのだろうか。
まるで水希のそうした疑問を読んだように、八丈が「そうだ」と笑みの混ざった声をあげた。
「そうだ、女将」
「なんでございましょう」
「あんたの旦那、もうちょっと躾けておけよ」
「あら、うちの旦那が、何か粗相でもございましたか?」
女将が首をかしげる。
「八丈さん?」
一体何を言い出したのかと水希が八丈を見上げると、八丈は琥珀色の瞳で水希と女将を交互に見ながら肩をすくめた。
「あんたのとこの旦那が、うちの嫁の太ももに抱き付きやがってなあ」
「ま」
「しかも菓子まで取っていったぞ」
「八丈さん、あれは!」
水希が慌ててフォローしようとしたが、その声に重ねるように女将がコロコロと笑った。
「あらあら、それは失礼いたしました」
まるで日本人形のような瓜実顔に、一重の切れ長の瞳。淑やかで、しっとりとした……昨日降った霧雨のような柔らかな雰囲気の女性だったが、大きく笑うと途端に日向の光のようになる。
「でも、お湯は十分堪能されたのでしょう?」
十分、というところに十分、含みを持たせて女将が笑った。それには八丈も苦笑する。
「まあな」
「またいらしてくださいまし。なんなら、他のご兄弟のご夫婦とも一緒に」
今度は水希が目を丸くする。しかし八丈は気にしていない様子だ。ただ肩をすくめて笑っているだけだ。
「あんた商売上手だな」
「そりゃあ、あのようなものを旦那にしていますとね」
それで話は終わったようだ。水希は首をひねるばかりだったが、どうやら女将と八丈は昨日見かけた座敷童子の話をしているらしい。
「あの、あの座敷童子の男の子は、女将さんの……?」
「ええ、私の旦那ですのよ」
「えっと、女将さんは……」
「あら、私は人間ですわ。いつも妖怪みたいって言われますけど」
ほほ、と笑う女将さんに水希は目を丸くする。
好奇心には勝てず、つい聞いてしまった問いへの答えは、想像通りのものだった。妖怪たちがすっかり身近な存在になっていた水希だったが、それでも妖怪の妻だという「人間」には驚きもあり、そして妙な仲間意識のようなものを抱いてしまう。
それに同調するように女将が優しい眼差しを水希に向ける。
「今度は、奥様とゆっくりお話ししたいわ」
「はい……ぜひ……!」
あまり他の妖怪の現に首をつっこむのはルール違反。水希はもっと話したい気持ちをこらえて頷いた。八丈も女将も、お互いそれ以上語る必要はないと言わんばかりに礼を取る。
「行くぞ」
そう言って八丈が水希の背中を押したのを合図に、二人は旅館の玄関へと向った。
色々な人間が旅館との別れを惜しむ中、粋な和装の紳士の後ろ姿がちらりと見えた。紳士というよりも、どこか放蕩な遊び人が歳を重ねたという雰囲気で、フラフラとご機嫌な様子で渡り廊下を渡って行く。
あ、と思った次の瞬間には庭に降りてしまったのか、姿が見えなくなった。
八丈を見上げると、「見えたか」と問われる。
水希は頷くと、八丈の手をしっかり握った。八丈が顔を下ろして水希の耳元に囁く。
「また、連れて来てやるよ」
「うん!」
遠くで雷が鳴っている。
みんなにどんな風にお土産話をしようか。恥ずかしいところはとりあえず飛ばして、お部屋とお風呂とお料理の素晴らしさをぜひとも伝えたい。
妖怪のみんなに配ることを楽しみにしながら、水希はおまんじゅうの箱をしっかりと抱えた。