からくれないに

ああ、恐ろしい恐ろしい。
妖怪あやかしがその眼に見えるなど。
お前は仲間に違いない。妖怪の仲間に違いない。

さあ、お往き。

妖怪にその身を捧げて、食われておしまい。
巫女装束は死装束。
妖怪が気にいる紅の袴。
妖怪が気にいる金銀の心葉。

ああ、美しい美しい。
これでお前は妖怪に、その身を食われてしまうだろう。

これで100年、村は安泰。

妖怪たちに、食われておしまい。

****

「描けぬ。」

神社の神殿で筵を広げ、そこに横倒しにした屏風を睨みながら男は酒を煽った。貝と木板に絵の具を散らし、絵筆が乱雑に散らかっている。それほど立派な誂えではない様子の着物はすっかり着崩れ、片足を行儀悪く立てているものだから、さらに前が寛ぐ。気にした風でもなく片足に腕をかけ、片方の手で大きな徳利を掴み、直接酒を流し込む。

機嫌の悪い面の、男の名は銀砂という。

六尺を数える大男で、鍛えられた身体は絵師とは思えぬ見事なものだ。髪は結わずにざんぎりで、絵を描き始めると刃を入れなくなる顎には、すでに無精髭が生えていた。

銀砂はかつては都で名の売れた絵師であった。特に妖怪絵が得意で、まるで本物がそこにいるかのような迫力で描く。大きな屋敷では魔除けに妖怪絵を飾るというが、銀砂の描く絵は売れに売れ、男は名声を得、酒を得、女を得た。しかしその栄誉もすぐに落ちる。その腕を妬んだ別の絵師に汚名を着せられ都を追放されたのだ。あれほどまでの妖怪を描けるなど、あの男も妖怪に違いない。そのような噂がまことしやかに流れ、ちょうどそのころ、都に流行っていた幼子や女を狙った神隠しを、銀砂と妖怪の責にされた。

一度は手にした絵師としての名声だったが、銀砂はあっさりと捨てた。

今では都から遠く離れた故郷に戻り、空いている酒蔵を借り、町衆の依頼で絵を描いて酒を飲んで暮らしている。

そして今は、馴染みの神社の神主に頼まれ、奉納する屏風絵を描いていたところだ。絵の大半は出来上がっている。百鬼夜行のごとく妖怪たちが開く酒宴の真ん中、中心がぽっかりと空いている。巫女姫の舞姿を描くようにとの依頼だったが、その巫女姫だけが決まらなかった。

多くの神楽女を呼び舞を舞わせたが、どれも銀砂を満足させない。何か思いつくことでもあろうかと門前町に降り、幾人もの女を抱いたが、どの女も銀砂が望むような女ではなかった。

現の女を描こうと思うから描けぬのか。

銀砂の筆は早い。描こうと決まったものがあれば、何本もの筆を抱えて一気に描く。
独自の朱を用いて描く妖しい絵図は、神秘的であり俗世的であり退廃的であり現し世と夢の狭間のようでもあった。

その銀砂の筆致が、ここ2週間止まっている。

現の女も描けぬ。
夢に女など見ぬ。

「酒が足りん。」

一升もの徳利の酒が無くなり、銀砂は眉をしかめた。

神社の小僧を呼ぶか。
気晴らしに門前にでも降りるか。

そう思って立ち上がった。

キキ。

キキキ。

歯軋りをするような不愉快な音が響き、カタカタと筆と絵の具入れが揺れ始める。ヒャッヒャとしわがれた笑い声が響き、キャー!と幼い子供の悲鳴が上がった。ペタペタと裸足で床を這い回る音、箱やら楽器やらを打ち据える音。そしてとうとう、徳利がごろごろと転がす音が聞こえたとき、銀砂は、チッ…と大きく舌打ちした。

目を据えて振り返ると、屏風の周りで屏風から出てきたのかと見まごうほどの妖怪達が、徳利に酒が無いと文句を言っているところだった。

動物も人の姿のものも鬼の姿のものも、小さな者も巨大な者も、よくもこの小屋に入ったことよと思うほど、多くの妖怪達が遊び酔っていた。ギャッギャッと喚きながら屏風絵を取り囲み、自分がいないと文句を言ったりする者もある。

やがてその一匹が、立ち上がった銀砂の足元にやってきて着物の裾を引っ張った。

カケ。
カケ。

「描けぬ。」

ミコヒメ。
イナイ。

「描けんのだ。」

ミコヒメ。
タリナイ。

「黙れ!」

銀砂が一喝すると、妖怪達の騒ぎが収まった。全員が目を丸くして、男をじいっと見つめている。

「女が足りぬなら連れて来い。」

銀砂が妖怪達を睨み付けると、すう…と妖怪達が消えた。

銀砂という絵師は、妖怪の見える男だった。幼いころからこうした類の化け物が見え、化け物の声が聞こえ、それらに触れて過ごしてきた。元来の絵の才能もあったが、その目に映る妖怪をそのまま描いた妖怪絵が生々しいのは当然だ。それを知っているのは神社の神主だけであり、だからこそ、護り屏風として妖怪絵を描け…と依頼されるのだったが。

本来、現し世で妖怪達と人間はほとんど交わることが無い。だが、時折「見える」人間もいる。神主のような神通力を持った人間や、銀砂のように生まれつき見えるものなどがそれだ。

そのような者の「見える」能力は、特別な力として敬われるか、疎まれるかのどちらかである。だが、大体疎まれて過ごすことになるのだ。

銀砂も例外ではなかった。小さな頃から化け物の見える子と罵られ、元々の粗暴な性格もあいまって、あれは本当は化け物の子なのではないかと言われるほどだった。ただ、幸運なことに彼の父親は銀砂の絵の才能を見抜いていた。父は銀砂に絵筆を持たせ、都の絵師に弟子入りさせた。歳を経れば、世の中の立ち回りも理解する。妖怪についてはだんまりを決め込み、言いがかりを付けてくる輩には力で黙らせた。こうして、妖怪絵を描くことにその力を利用して強かに生きていたのだ。絵師でありながら暴れる妖怪達の荒事に首を突っ込んでは睨みを利かせ、その荒事の様子を絵にしてそれを売る。そのような、絵師だった。

描く妖怪が真に迫るのも当然のことだが、その妖怪達があまりに生々しいため、合わせて描く巫女姫の釣り合いが取れぬのも無理からぬことであった。

銀砂の恫喝で消えた妖怪達に鼻を鳴らし、無造作に刀を掴んで背を向ける。そのとき、再び音がした。

ガタン。カシャン。

今度は、何かが背後で転がったような音と、鈴が落ちたような音が重なった。銀砂は掴んだ刀の鯉口を切って振り向く。

「…女?」

そこには白地に同じ白糸で見事な刺繍の施された巫女装束の女が、うつ伏せに倒れていた。黒い髪は背中の真ん中に届く程度に長く、後ろでゆるく結わえられている。傍らには桃の花をあしらった金銀の心葉が転がっていて、どうやら鈴のような音を立てたのはその髪飾りらしい。

銀砂は鋭い眼をさらに鋭くさせて、巫女装束の女に近づいた。

「死んでいるのか?」

傍らに膝をつき女の肩を揺らしてみたが動かない。銀砂はごろりと女を転がした。

女の身体が仰向けになる。それを見た銀砂は、掛けようとした声を殺した。

黒い髪が縁取るその顔は蒼白で、瞳は固く閉ざされている。長い睫は扇を下に向けたように綺麗な弧を描いていた。仰向けになった反動で身体の上に投げ出された腕は細く、行き場を失っている。晒された首は細く、むき出しになった鎖骨は儚げで、それなのに吸い付きたくなるような妖しい色気があった。

銀砂は女の首に手を伸ばした。刀も筆も操る彼の大きな猛々しい手にかければ、その首はほんの少しの力で折れてしまいそうだ。指の裏でそっと血の通う場所へと触れると、そこはとくとくと温かく脈打っており、この女が生きていることをその手に伝えた。

その指は女の首を辿り、頬を撫ぜ、そして…唇へと触れる。
その唇に触れると、銀砂の指に女の付けていたらしい紅の色が移った。

「……。」

銀砂はその指をぺろりと舐めた。口元が笑みの形に歪む。

****

なんて気味の悪い子だろう。そらを見てしゃべるんだよ。

ときどき何もないところをなでるのよ、不気味だったらありゃあしない。

あの子がいると妖怪あやかしが村に来てしまうよ。

しゃべるでないよ、妖怪が来てしまう。

流行り病は妖怪が憑いたからに決まってる。

あの娘が女になったから妖怪が差し出せと怒っているのさ。

ならあ、あの娘を妖怪に食べさせりゃあいい。

―――――― おっかさん、でも妖怪は私を食べやしないの。

黙れ、しゃべるな!

―――――― でも、

しゃべるなと言ってるだろ、聞こえないのかい!

―――――― でも、妖怪のせいじゃな…

こっちを見るんじゃあないよ、けがらわしい!

―――――― こんなんじゃあ、村の病は治らないってお狐さんが…

おやめ! そんなものいやしないんだよ!
そんな眼でこっちを見るんじゃあないよ!

ほんとうに、オマエは。
おまえは。
おまえという娘は。

言うことは聞かないし、気味が悪いし、

おまえなんて、生んですぐに捨てればよかった!

酒と絵の具の匂いが充満した神殿の中、暗い夜闇に燭台に置かれた蝋燭の灯火だけが揺らめいている。誰にも気付かれず、巫女装束の娘の瞳がそっと開いた。娘の頭の下には薄い座布団が敷かれてあり、身体の上には内掛けが掛けられている。硬い床の上に寝かされていた身体は軋むのか、少し眉根を寄せて不快そうな表情をしたが、その視線は明かりを求めるように蝋燭のほうへと向けられた。

そこには一双の屏風絵が倒して置かれていた。ゆらゆらと揺らめく蝋燭に照らされて、奇妙に引き立つのは朱の色だ。妖しい朱が、血の色のように異様に目立つ。よくよく見ると、その朱は絵の中央で舞を舞っている風の巫女姫の袴のようだ。その巫女姫は、酒宴を開く百鬼夜行の妖怪達に囲まれて舞を披露しているようだった。勺も持たない指先は細く宙に投げ出され、仰け反る喉は滑らかで白い。流れる黒髪は川の様にうねり、肌が見えている部分はそこだけであるのに、妖怪に今にも身体を開こうとしているかのように妖艶だ。

ただ、違和感があるのは顔だった。その巫女姫には顔が無いのだ。

だからだろうか。あれほど妖艶な巫女姫の身体であるのに生気が無く、酒宴というよりは死に逝く様のようにも見えた。

いつのまにか屏風絵の前に擦り寄り、娘が首を傾げる。不思議なものを見るようにしばらく瞳を瞬かせていたが、不意に下を向く。娘の袖口に、腰巻だけをした小さな小鬼がいて懸命に袖を引っ張っているのだ。

娘の周りには小鬼達が集まって、ゆらゆらと踊っていた。青白い明かりが灯ったと思ったら、鬼火を纏った骸骨がカタカタと娘の手を引きその場に立たせた。

鬼火と骸骨と小鬼に促されて、娘の身体がふわりと回った。小鬼がするように手を伸ばし、仰け反った身体を骸骨が支えてくるりと回す。巫女装束が翻り、黒い髪がゆらりと流れた。娘の舞に合わせて炎もゆれ、それに照らされる屏風絵の朱も揺れる。月の明かりも手伝って、それはまるで屏風から妖怪と巫女姫が生きて出てきたかのようだった。キャッキャと妖怪達が甲高い声で騒ぎ始め、娘の衣擦れの音が掻き消える。

「騒がしいぞ、てめえら!」

ガラッ…!

唐突に太い男の怒号と木戸を開く音が重なった。キャア!と妖怪達が声を上げて散り散りに部屋の隅へと駆けて行く。娘は驚いたように身を固くしてその場にしゃがみこみ、袖で己の顔を隠してしまった。

扉を開けたのは、片方の手に刀を持った着流し姿の大男だった。頭も結わず髭も剃らない粗野な風貌をしている。先ほど大声を張り上げたのはこの男だったが、その声の内容とは全く逆の、驚愕したような表情で部屋にしゃがみこんでいる娘を見つめている。

逃げ遅れた小鬼が娘の袴を掴んで、おどおどと覗き込んでいると、ぬ…と近付いた大男の身体で娘が翳った。

「おい、娘。」

びくりと肩が震えた。

「おい娘、こちらを向け。」

だが男が声を掛ければ掛けるほど、娘は怯えて顔を隠してしまう。とうとう焦れた男が刀を脇に置き、娘の両腕を掴んでこちらを向かせた。

「…っ!」

娘の両腕を取って拘束しても、なお顔を背けて、ぎゅ…と眼を瞑っている。キャーキャーと小鬼が懸命に男の手を止めようとするがそんなものは全く効かぬ風で、背けられた顔に男が不機嫌そうな表情でため息を吐き、娘のすぐ側に膝を付いた。

「こちらを向け。何もせんから。」

男が片方の手を外して、娘の顎にそっと触れた。その無骨な手に似合わない丁寧な動きで、撫でるように細い顎を手に取る。その手に引かれるように娘が恐る恐る男に顔を向け、黒い睫がそっと上を向いた。照らすものは蝋燭の光だけであるのに、娘の顔かたちははっきりと分かる。濡れた黒い瞳が、男を見上げて怯えたように身を竦めた。

「名前はなんという。」

「…。」

娘はおどおどと身を竦めたまま答えようとしない。苛立った男が、少し声を張り娘との距離をつめた。

「聞こえぬのか。しゃべれぬのか。」

「…しゃ、しゃべるな…って…」

「ああ?」

「…あ、あ、妖怪あやかし…が、来るから…っ」

ぶたれるとでも思っているのか、懸命に身を小さくさせながら、決して男と目を合わせないようにたどたどしく娘が話す。娘の足元には既に小さな鬼がうろうろと歩き回っていて、着物を着た猫やら三味線を持った骨やら腹から血を出した武士やらが、めいめい心配そうに娘を覗きこんでいる。その様子に男は片方の眉を動かして、く…と喉を鳴らした。

「もう来てるだろうが。いまさら。」

笑みを含んだ声に、娘がそっと男の顔を伺う。男の手のすぐ上にある柔らかな唇の紅は少しばかり取れかけている。男は感触を確かめるように、開きかけた娘の唇をゆっくりと親指で押した。そして、もう一度問う。

「名は。」

「…お、おまえ。」

「あん?」

「…『おまえ』…って呼ばれて…。」

それは名前じゃねえ…と言いかけて、男は口を噤んだ。しばらく娘の顔を眺めていたが、やがて静かに手を離す。のそりと立ち上がると、床に散在している貝殻のひとつを取り上げた。ぼんやりと座っている娘の元に戻って膝を付き、再び娘の顎を取る。貝殻の中身を指に取ると、娘の唇に押し付けた。すう…と娘の唇に紅が引かれ、暗がりだというのにたちまち娘の顔が艶めく。

男は満足げに口角を上げると、立て膝に腕を掛けて娘に顔を近づけた。

酒精の香を含んだ吐息がかかるほど、互いの顔が近い。

「さっきの舞を舞ってくれやしねえか。」

キイキイと妖怪達が騒ぎ始めた。ベイン…と三味線の音が響いて、カタカタと骨の音が鳴る。天井には手足も舌も長い鬼がぶら下がり、大も小も賑やかに、妖怪達が姿を現す。大きな坊主が娘の肩に巫女内掛けを掛けて、いくつもの鬼火が娘を立ち上がらせて、くるりと娘の身体を回し始めた。

ゆらゆら揺れる蝋燭の灯火はなぜか消えることもなく、翻る巫女装束とうねる黒髪を男はじいっと見つめている。

最初は戸惑っていた娘も、やがて楽しげな表情に緩まった。

妖怪達と遊ぶように、くるりくるりと娘が舞う。

****

妖怪達に「女を連れて来い」…と言って、本当に連れてきたのがつい二刻ほど前のことだ。銀砂の前に落ちてきた少女とも女とも付かぬ白い肌の巫女装束は、妖怪が人間にでも化けているのかと見紛う危うさだった。

人間と妖怪の狭間。女と少女の狭間。夢と現の狭間。
この絵の中心に据える舞姫にふさわしいと直感した。

それからは早かった。娘を仰向けに寝かせてひとしきりその身体つきを検分すると、屏風に戻って一心不乱に描き始める。幾本の筆を抱えて躍動感のある身体の表情を描き上げたが、その貌を入れるときに愕然とした。娘の目は開いておらず、果たしてどんな表情がふさわしいのかが分からない。

銀砂にとって筆が止まるのはきわめて不愉快なことだ。
その筆に迷いがあると、苛立つ。
まして今の絵は二度も筆が止まっている。

娘が目を開けさえすれば…と思ったが、一向目覚める気配がない。しかたがなく、銀砂は小屋を出た。

銀砂が厠に立って、ついでに井戸の水で身体を洗って小屋に戻ろうとしたときに、聞き覚えのある妖怪達の声が洩れ聞こえた。銀砂の周りで騒ぐ妖怪達が絵を損なう真似をしたことはないが、それでも仕事の側で騒がれるのは気分が悪い。あまつさえ、あいつらは人の酒を勝手に舐めていきやがる。銀砂は乱暴に小屋の木戸を開けて恫喝したが、その瞬間、殺しにも女にも妖怪にも心揺らさぬ銀砂が眼を見張る。

娘が一人、妖怪達の中心で舞っていた。

それは間違いなく、あの落ちてきた娘だった。

だが、銀砂の声に怯えてしまったか、その舞いを眼に焼き付ける前に娘は小さく蹲ってしまった。手に入りそうなのに失ったもどかしさで、つい苛立った声を掛けてしまう。ますます娘は怯えて口を閉ざし、その怯えた様子にまた苛立つ。悪循環だと己を戒め、娘をよくよく見ると、やはり女というよりは少女というほうがふさわしいほどの小さな娘だった。

どのようにここまで来たのやら、しかし、どうやら娘は、誰かから「しゃべるな」と言われているらしい。名乗るべき名前も無い様子で、「おまえ」と呼ばれていたのだという。その意味を一瞬考えて哀れさを覚えたが、…だが、銀砂は娘に舞を舞ってくれるようにと頼む。

****

朝日が娘の顔を照らして、眩しげに瞼を強く結んだ。そうしてゆっくりと、開く。舞を舞っていると、いつのまにか男は筆を持って屏風に噛り付くように絵を描き始めた。すとん…と娘が舞を止めて床に座りこんでも気付く気配がなく、しばらくの間娘はずっと男が絵を描く様子を眺めていたが、やがて眠ってしまったのだった。

きょろ…と部屋を見渡すと、大きないびきが聞こえてくる。先ほどまで絵を描いていた男が床に大の字になって眠っていた。娘が少し首を傾げて、這うように男の側にやってくる。ふい…と屏風を見渡した。

「…絵。…あやかしの。」

アヤカシ。
オマエ。

キャアキャアと一瞬妖怪達の姿が見え、そうしてふっと消え去った。だが、それに驚くこともなく娘がじっと屏風の絵を見ている。

それは見事な絵だった。

妖怪達はおどろおどろしいものであるのに愛嬌がある。巫女装束の舞姿は身体が現す動きも表情も描き直されていた。どこから見ても処女おとめであるのに唇の色だけが紅で、そこだけが少女を女に見せている。着物の袷は閉ざされているのに、手が滑り込めそうな隙も感じた。黒い髪と首筋の境目に、後れ毛が張り付いていて、真っ白であるのに触れれば脈打っていそうなほどの躍動感がある。

しかし娘にその絵の迫力は分からぬようで…、ただ、妖怪達の遊ぶ絵柄に僅かに口元が綻んだようだった。

振り向くと、眠っている男がすぐ側だった。

珍しい生き物を見るように、娘がそっと近づく。酒と汗と絵の具と紙の香が混じり、それはこの男そのもののようだったが、娘は首を傾げて男のざんぎり頭と無精髭を眺めただけだ。娘は先ほど男にされたように、男の唇に手を伸ばす。

「…きゃっ…!」

突然男に手を掴まれ、抱き寄せられて胸の上に乗せられる。そのまま娘の身体は男の逞しい身体に押し付けられ、きつく拘束されたまま…男はまだ眠っていた。

娘は身体を起こすことも暴れることも出来ず、どうしていいのか分からない風だ。ただ目を見開いて男の胸に手を当てている。

とくとくと心臓の音が鳴っている。
規則的なその音と男の心地よい体温が、娘を再び眠りに誘った。

****

妙に柔らかくて心地よい塊を抱いている。女の身体か…と思って、自然にその腰を撫で回し、曲線を楽しもうとしたところで気が付いた。銀砂が好んで抱く女にしては妙に細い。

「んああ…?」

銀砂が身体を起こすと、何かがころりと肌蹴た腿の上に転がる。それが昨日の娘だ…ということに気付いたのと、小屋の扉が開いたのは同時だった。

「おい、銀砂。…この匂い…飲みすぎですよまったく。」

「うるせえな、似非神主が。」

「酒臭い絵師に言われたくはありませんね。…銀砂。」

「なんだ。」

「私は酒は持ち込んでもかまわないとは言いましたが、女を連れ込めとは言っていませんよ。」

「連れこんでねえだろう。」

「ではそれはなんですか。随分きわどいところに乗せていますが。」

「知るか、勝手に乗ってんだ。」

扉を開けたのは銀砂に屏風の依頼をした神社の神主だった。銀砂とは同い年で、幼馴染である。銀砂が都に上ってからは会っていなかったが、都を下り故郷に戻ってきたところでまた世話になっているのだ。銀砂と異なり、涼やかな面差しの男である。神主は、ちょうど太腿にもたれて股を枕にでもしているかのような格好で寝ている娘を見やり、やれやれと頭を振った。

「随分歳若い娘のようですが、一体どこから?…絵は描けたのですか。」

「ああ、そら。」

銀砂が後ろを顎で指す。

神主が入ってきて、銀砂の後ろを覗き込んだ。

「ほう、これはまた。よい出来栄えではありませんか。」

「ああ。てめえにやりたかねえ程だなあ。」

「そういうわけには参りませんよ。神社うちが依頼したのですから。それにしても…最後まで巫女姫が決まらぬと言っていたようですが、…よもやこの娘を?」

神主が銀砂と娘の側にやってきて、娘を覗き込む。その問いには答えなかったが、見れば分かるだろう。答える代わりに銀砂が大きな節ばった手で、そろりと娘の髪をなでてやった。長い息を吐くように、この娘が落ちてきたときの様子を話す。

神主もまた、神通力で妖怪の見える男だ。銀砂の説明にふうむと頷いて、何かを考え込む。

「妖怪が持ってきた巫女は、名前は無くて、口も利くなと命じられていた…と。」

立ち上がった神主は、側に落ちてあった銀細工の心葉を拾い上げる。それを手の中で遊ばせながらしばらく何かを考えていたが、やがてぽつりと言った。

「ここから少し上流にある村で、流行病があったのを覚えていますか?」

「ああ?」

「村人が多く亡くなったので、祓いをしてくれないかと依頼が来ましてね。」

そこで村の女が、「あれ」に巫女装束を着せて山に捨ててきたのに逃げられた…と話していたのを聞いたのだ。田舎の村ではまだ男を知らぬ少女を、妖怪の妻として捧げる話はよくあることだ。病や天変地異を妖怪や神の仕業と考え、それを鎮めるためには巫女が舞を舞ったりするのは婚儀と見立てるためだが、そのような巫女を持たない小さな村では、単に巫女装束を着せた見目のよい娘を山や川に捨てる。あの娘は妖怪が見えるという。人身御供としてはうってつけだったのだろう。小さいころから妖怪が見えると疎まれていたのならば、名前も呼ばれぬ仕打ちを受けていたのもありえる話かもしれなかった。

銀砂は苦虫を噛み潰したような顔で眠っている娘を見下ろした。

「どうします。預かりましょうか?」

妖怪が見える娘であっても、神社ならば静かに過ごすことができるだろう。そのような提案だったが、銀砂は答えず…じっと娘を見下ろしている。

「いや…。てめえのところに世話ぁなるかもしれねえが、娘は俺が預かる。」

「絵に描くためですか。」

「……。」

銀砂は恨みつらみで鬼に化した女や心中する女は描けるが、妖怪に捧げられるような処女おとめや、男女の情を知らない初心な娘は描けない。そんな娘を側に寄せ付けたことが無いから描けないのだ。だが、この娘ならばどうだろう。仕込めば身の回りの世話くらいはできるようになるだろうし、妖怪に慕われているのは好都合だ。銀砂に妖怪が見えたとて、それを不審に思うことなどはないだろう。

神主は伺うように銀砂を見つめていたが、やがてやれやれと首を振った。

「仕方ありませんね…こんな細い娘を貴方がかどわかすとも思えませんし。」

「うるせぇな。」

神主の協力が得られれば、男が娘を育てるのに不得手なところは頼ることができるだろう。銀砂はニヤリと笑って、再び娘の髪をなでてやった。

「名前を付けてあげなければなりませんね。」

「名前だあ?」

「いくらなんでも、『お前』…では不便でしょう。」

言われて、銀砂は娘をなでる手を止め、ふうむ…と娘を見つめた。娘の着る巫女装束に触れ、ふと、視線を移す。

千早ちはや

「ちはや?」

神主が反芻し、なるほどそれはいい響きだ…という前に、銀砂の視線を目で追った。そこには巫女装束の上に羽織っていたらしい衣装が、今は脱いで置かれてあった。その衣装の名前は「千早」という。よもやここから取ったのか。呆れたようにぽかんと口を開けたが、銀砂がさも愛しいものであるかのように、娘を「千早」と呼んでまた頭をなで始めた姿を見て、文句を付けるのを止めた。

銀砂は今の自分の顔に気付いているのだろうか。この男のこれほど凪いだ顔は見たことが無いと、神主は思った。妖怪を見、鬼気迫る絵を描き、荒事に首を突っ込み、酒を煽って女を抱く。そのような男が、これほど穏やかな顔をするとは…。

神主は苦笑した。

「銀砂のそんな顔は、なんとも気味が悪い。」

「ああ? なんか言ったか?」

「別に何も。…まあ、いいでしょう。」

「ん…」

銀砂の膝の上で娘…いや、千早が目を覚まそうとしていた。目をきゅ…とつぶって、ごしごしと手で顔を擦る様子は子供のようで、それでいて女のようだ。こうした娘が村の流行病の責を押し付けられ、妖怪達にくれるという名目で、山に放っておかれたのだ。哀れに思うのと同時に、それを拾ったのがよりにもよって絵師の銀砂というのがなんとも、因縁めいたものを感じるではないか。

「ちはやぶる…とも言いますし。」

神主が見守っていると、銀砂が目覚めようとする千早の顔を覗きこんだ。

「おい、千早、起きろ。」

「ち、はや?」

「そうだ、千早だ。お前ぇの名前だ。」

千早が起き上がり、不思議そうに銀砂を見ている。
いつのまにやら、3人と1枚の絵の周りに、多くの妖怪達が楽しげに戯れていた。

銀砂という絵師は表舞台に立つことはなかったが、この男の描いた妖怪絵は多く庶民に慕われた。恐ろしい妖怪の絵はこの男が描けば生々しく、生々しいのになぜか愛嬌があって憎めなかった。そして時折、愛らしい少女とも女ともつかない者が描かれることもあった。独自の朱を用いた紅い妖しいその者は、うつつの女のようでもあり、妖怪の種であるようにも見え、そのどちらともつかない雰囲気が、またその者から目を離せぬ魅力を放っていたという。

現のものしか描けない銀砂の絵の、その女は銀砂の養女とも妻とも伝えられているが…さて。


千早ちはやぶる 神代かみよもきかず 龍田川たつたがわ からくれないに 水くくるとは
(在原業平朝臣)

本文中の絵師銀砂は、江戸時代末期の浮世絵師、土佐の赤岡にて「絵金」の愛称で親しまれた弘瀬金蔵ひろせきんぞうに影響を受けています。絵師、独特の朱、屏風の描き方、酒蔵で描いていた、筆致が速い、大男、大酒のみ、そして都の絵師だったが追放された…そう言ったエピソードを参考にしています。

参考:『絵金』(絵金蔵 監修)